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2016/12/01

『シャイニング・ガール 凛と輪廻と幻獣龍』(吉行ギズモ)

 先日、知人に「わたしは現実的な人間だから、『君の名は』とか観ても、こんなのあるわけないと思っちゃうんですよ」と言われ、あるわけなくもないということを説明するのは難しいかなと思った。でも、「ひとりで妄想するのは好きなんですけどね。それはあくまで妄想だから」と、続けるのを聞いて、意外に接点はあるぞと思い返した。

 時間は直線的に一方向に進むという考え方と、反復するという感じ方がある。一方向に進むととらえれば、自分は生誕から今まで生きてきて、死に向かっていることになる。そして生んでくれた母や自分の子供は別の時間軸の過去と未来をたどっている。でも反復と捉えれば、亡くなった、たとえば祖母のいくぶんかはぼくのなかで生きているし、また、これから生まれる誰かの生を生きていることにもなる。

 時間が一方向に進むというとき、覚醒が重視され、睡眠はその断絶あるいは休止として軽視されている。せいぜい、無意識の発露として分析の対象になるくらいだ。でも、反復する時のなかでは、夢はもうひとつの現実としてリアルだ。

 夢のなかでは、覚醒している現実のなかでは荒唐無稽な出来事も平気で進行していく。まるで物語みたいに。しかし、それもリアルとみなせば、現実と夢は相互に浸透しあって、物語と現実はメビウスの帯のように、いつの間にか入れ替わったりする。

 いまは一方向に流れる時間のとらえ方が圧倒的に強いから実感が湧きにくいが、反復する時に権利を与えれば、それが支配的だった文字なき時代の思考のなかへ入ってくことができる。そこでは、反復を繰り返して、自分をさかのぼれば、祖先崇拝でいう「先祖」にたどり着くのではなく、人間を成り立たせていると考えられた精霊に行き着く。

 だから、この作品のタイトルの「輪廻」も「幻獣龍」も、反復する時間のなかではリアルなのだ。ふつうファンタジーと呼ばれている作品は、ふだん感じられなくなっている反復する時間の流れのなかにいることを生き生きと感じさせてくれるジャンルだということなのかもしれない。

 それは、非現実的でありながら、どこか思い当たる節がある、リアルだという感触としてやってきて、そしてほんのちょっと現実を見る目が優しくなったり、別の見方を促されたりするようになる。この作品もそうだ。でも、この作品は徹頭徹尾フィクションとして描かれているのではなく、あくまで日常の延長にファンタジーが接続されているところが、返って反復する時間を生きることをよく伝えているのではないかと思えた。言い換えれば、著者はファンタジーはただの空想世界ではないと言っているのだと思う。

 これで件の人を納得してもらう自信はないけれど、時間を反復と感じることがあるのは誰でもそうなのだから、そのことだよと言えば、この作品の入り口まで連れていくことはできるかもしれない。

 この作品はシナリオとして書かれている。ぼくは「脚本」というものを見たことがなかったので興味深かったし、スラスラ読めるのも心地よかった。中身の魅力は、「シャイニング・ガール: 凛と輪廻と幻獣龍」過去と未来を行き来する巫女」で紹介されている。


『シャイニング・ガール 凛と輪廻と幻獣龍』








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