沖縄諸島の「針突き(tattoo)」デザイン
沖縄島になると資料はぐっと増える。そしてそれに反比例するかのようにデザインのバリエーションは減る。小原一夫の挙げたたった4例でほぼ網羅できるほどだ。
上図では首里の二例で示唆されているが、那覇、糸満では、奄美大島や喜界島で見られたように段階がある。
これまた見事な拡張だ。ことに右手尺骨頭部の「五つ星」は、大小ふたつの文様を矛盾なく共存させている。手の甲の拡張された文様は、左手が「ウージ(扇)」、右手が「丸」と呼ばれている。「扇」は貝-女性器のシンボライズであり、「丸」も同様のトーテムを示している。
下段の手の甲と尺骨頭部が同じになるのは、「特例なり」と、鎌倉は書いているが、ぼくたちの考えでも例外だと見なせる。
段階はいえば、最初が20才の頃、次は孫ができた時とあって、その年齢が40才頃となっている。ということはそのまま延長すれば4世代になるのは珍しくない。孫ができた時点で、トーテムへの半身の変態は完了するのだから、これ以降は、なかばカミ(精霊)様だということになる。小原は糸満の「扇」を「末広がりにしあわせがあるように」という意図を書き留めている。また、沖縄島での拡張の年齢を61才、首里では31才とも聞き取りしている。
小原の聞き取りで重要なのは、この拡張を「ティナー」としていることだ。これは、「太陽になる」という意味だと考えられる。
調査の深化を示すのが下図だ。
(図3:『北谷町の針突 調査報告書』)
見えないかもしれないが、各文様の位置と大きさがセンチメートル単位で記入されている。奄美からみれば羨ましい限りだ。それに、新たに入れたくなる人に向けての設計図のようにも見えて面白い。
これ以外のバリエーションについて、市川重治は、伊平屋島では、左手の指のつけ根で上部の食い込みが消える例を挙げている。
このケースは、鎌倉も糸満の例でバリエーションのひとつに挙げていた(図2)。また、読谷では腕の針突きも挙げられている。
鎌倉は、右腕の文様が、糸満の男性に見られることを書き留めている。これは、かつては刺青が手に集中していたわけではないこと、そして男性も刺青をしていたことを示唆している。
また、他の文様もあったことを三宅宗悦は挙げている。
市川重治は、この文様を久米島で確認できなかったとしているが、鎌倉の資料を見れば、これが実際にあったことがわかる。
市川が気にしている手の甲の文様は、徳之島の右手尺骨頭部に現れる文様と似ている。徳之島では、山の内側に曲線を食い込ませているが、久米島では三角形と言っていい形態を保っている。
また、トーテムの座の左手尺骨頭部は、与論島のそれと似ている。
与論でアマンと呼ばれた文様を、「菊形」と鎌倉は書き留めている。
まだ挙げれば、上段右(Ⅲ)の手の甲の文様について、鎌倉は宮古島の文様との類似を指摘しているが、同一と考えられる文様が、徳之島の右手尺骨頭部に見られた。
さらにある。下段(Ⅱ)の右手の甲の文様は、奄美大島の左手尺骨頭部と似ている。
手の甲:徳之島の右手尺骨頭部(類似)
右手の甲:徳之島の右手尺骨頭部(同一)
右手の甲:奄美大島の左手尺骨頭部(同一)
左手尺骨頭部:与論島の同位置(同一)
久米島と奄美各島との文様の類似と同一が示唆するのは、統一化と様式化が進んでいる沖縄島の文様について、それ以前のバリエーションを示唆していることだ。言い換えれば、沖縄島でかつて多様であったはずの文様について、奄美や久米島の文様がその痕跡を見せていることになる。
久米島のユニーク性も挙げれば、なんといっても右手尺骨頭部のいわゆる「五つ星」が、五つの円で表されていることだ。
これもありえた文様のひとつである。
◇◆◇
さて、市川重治の『南島針突紀行』で興味深いのは、各部位の呼称だ。煩雑になるが列記してみると、
指のつけ根:ウミヌホウミボシ(海の女陰星)(那覇)
左手の指のつけ根:ウミヌグジュマ(ひざら貝)(名護)、ホーミ(女陰)(国頭)、弓のグワ(阿嘉島)
右手の指のつけ根:グジュマ(ひざら貝)(国頭)、握り飯(阿嘉島)
左手甲:サンカクナー、月(名護)、オオジガタ(扇形)(久米島)
右手甲:ティナー(読谷)、三日月(名護)
左手尺骨頭部:朝日(名護)
指の背:アマンム(久米島)、ムカジ(百足)(久米島)
上記のようになる。
指のつけ根の類長方形や類楕円は、貝名称で呼ばれるほか、那覇では、女性器そのものの名称で呼ばれている。また、名護では、トーテムの座の左手尺骨頭部が、「朝日」と呼ばれ、手の甲は左が「月」、右が「三日月」とされている。この各名称が示唆することは大きい。
手の甲が「ティナー(太陽)」と呼ばれることも合わせれば、ここには、「貝-女性器-太陽(月)」という象徴の結びつきが見事に示されている。その太陽も昇りはじめの「若太陽」が重要であることも「朝日」には含意されている。与論島で、長方形が「月」の意味を妨げていなかったのは、「貝」を媒介にしているから矛盾を起こさないとみなせるわけだ。
その他の証言で気に留めたのは、阿嘉島で、6回施術した女性は「文様は骨まで染まっているはずだと自慢していた」ことだ。同様のことは北谷でも聞かれて、「昔の人は、何回突いたら骨まで染まるといって、回数が多いほど自慢だった」(『北谷町の針突 調査報告書』)という。
また、沖永良部島ではトーテムの座である左手の尺骨頭部は「アマム骨」と呼ばれていた(三宅宗悦「南島婦人の入墨」)。
これらの証言は、針突き(刺青)と骨とのかかわりを雄弁に物語るが、おそらくこれは再生につながっている。トーテム名称を持つ骨があり、骨が、針突き、言い換えれば「トーテムと霊魂」に染まるということは、骨を根拠にして再び命を得ることを暗示している、もともと再生の時を意味したのだと思える。
◇◆◇
沖縄島の針突きデザインは、統一化と単純化が進み、様式化している。ここまできて言えるのは、沖縄島でのデザインの統一化と様式化は、1609年以降のものだと考えられることだ。そしてそうであるなら、沖縄島とその周辺の島では、この様式化の過程で、手首内側の文様が消滅したことになる。
しかしそれでも、文様の名称と拡張の過程に古層の思考を保存したのが沖縄島だ。
那覇で撮影された針突きの模様の写真(昭和7年)を挙げておこう。ただし、これは模擬である。少女のお澄まし顔がそのことをよく伝えている。
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