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2016/11/01

グーザ(カンムリブダイ)漁の呪術

 野本寛一は、ブダイのなかでもビッグサイズのカンムリブダイ漁について書いている(「ヒルギとグーザ」)。

 ブダイのなかでも、ひときわ大きいのが体重六十キロにもおよぶカンムリブダイで、西表島ではそれはグーザと呼ばれている。グーといえば、鯨はグー、グージャーなどと呼ばれるので、グーザとは「鯨魚」を意味するのだろう。そのうえ西表島の祖納では、グーザは「神魚」とも呼ばれるのだが、浜辺に打ち上げられた鯨は、巨大な「寄り物」と言っていいので、鯨にちなむ名を持つグーザが「神魚」と呼ばれるのにも容易に頷くことができる。

 野本が紹介しているのはグーザ漁でみられる所作はとても興味深い。三艘の舟でイノーにやってくるグーザの群れを見つけると、ただちに蒲葵傘を脱ぐ。それはグーザに対する儀礼だと言われている。そこから網でグーザの群れを囲むが、囲んだところですぐにグーザを追い込むわけではない。それから一人の漁師が、船頭と見張り役の乗った舟に乗り移り、その舟で横になり絶対に動かないようにする。動いたらグーザの色が変わるとまで言われている。それを約二時間も続けるというのだから、大変な役目だ。実際にこの時間は潮が引くのを待つ時間でもあり、網を巻くころには干瀬の潮は膝ほどになっているので、グーザは泳ぐことができなくなる。

 つまり、人間は手をかけずにグーザを捕るのだ。二時間も寝た姿勢を強いられるのだから、手をかけないということが手間を惜しんでいるのではなく、ここにもグーザに対する敬意のようなものが感じられる。

 それにしても二時間も横になり動かないでいるのは何を意味しているのか。ぼくにはこれは、海の主である蛇と一体化し、蛇になる呪術のように見える。そして、海の主の力を借りてグーザは捕る必要があると、そう考えられたのではないだろうか。「神魚」とい呼ばれることになる魚だから、蒲葵傘を脱ぐというだけではない尊重がそこには込められている。サンゴ礁は「呪術不要の海」とはいえ、海の精霊との関係は忘れられたわけではなかったのだ。そしてそうだとすると、グーザは鯨魚とはいっても、その向こうには、蛇が思い起こされていたことになる。それが、「神」に折りたたまれた意味なのだろう。

 野本はもうひとつ、竹富島の「カタツムリのムヌン」も紹介している。それはカタツムリの害が甚だしいときに行なわれる。女達は石垣島がよくみえるミシャシ(岬)の浜に弁当持参で行くと、オン(御嶽)に祈ったあと、浜辺の野原に集まり、みんなでハマオモトの根を掘り、その白い薄皮をはぐ。そしてめいめいそれを口に当てて張り、口をふさいだような状態で、全員が一定時間横になる。ある女性は、「カタツムリの口をしめる呪いだ」と語っている。
 
 これも海の主の蛇の力を借りる呪術だと思う。カタツムリは、ナメクジに類するから、虫拳で言われるように蛇に勝つ力を持っている。相応の呪術が要請されたのだろう。


『生態民俗学序説』

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