「針突き」消滅の時期
もっと詳細な調査はあるのかもしれないが、手元の『南嶋入墨考』(小原一夫)から、「針突き」の消滅時期を推測してみる。
調査年度は、昭和5~7年とまたがっているので、ここでは昭和5年の値を採ってみる。
各島の被調査者の平均年齢と最少年齢(括弧内)は下記の通り。
喜界島 77(72)
奄美大島 76(68)
徳之島 65(56)
沖永良部島 74(65)
与論島 68(59)
沖縄本島 66(58)
宮古島 63(40)
宮古離島 56(30)
このうち沖縄本島は年齢の取れているサンプルが2だから当てにならないし、既存の記録でももっと若いことは確認できる。
奄美の文身禁止令が1876(明治9)年、沖縄は1899(明治32)年。ここに23年の差があるのだが、施術者の年齢幅をみると、ひと通りにはこの差を反映してはいる。
ただ、奄美を見ると、1930(昭和5)年の調査時点で、喜界島と奄美大島、沖永良部島の平均年齢が70代なのに対して、徳之島と与論島は60代と若い。これは、後者では禁止令への対応はゆるやかだったことを示している。上記で未調査の島には加計呂麻島があるが、ヨーゼフ・クライナーが1962年に調査した写真集『加計呂麻島』でも、同島の古老に「針突き」は確認できないから、加計呂麻島も奄美大島と同様だったろう。
山下文武が、1948年から1953年にかけて奄美を調査したのはラストチャンスだったということだ(『奄美の針突』)。
概観して言えるのは、喜界島と奄美大島、沖永良部島は奄美の日本復帰後に、徳之島と与論島は沖縄の日本復帰後に、沖縄は80年代後半から90年代にかけて消滅したことになる(『与論町誌』では、1983年と記録されている)。
単純化して、禁止令の90年後に消滅するとすれば、奄美は1966年、沖縄は1989年になる。各島ごとの年齢が採れている奄美をサンプルにすると、大島、喜界島、沖永良部島は1966年前、徳之島、与論島はその後になる。この幅は、主島と離島の差に一定程度は還元できるのだろう。
しかし、驚くべきことに、上記で水納島(宮古離島)の最少年齢は30才なのだ。この方が百才までご存命だったら、2000年になる。世紀をまたいだ可能性だってある。
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