『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子)
この本は何をなしたということになるのだろうか。本の帯には「比類ない愛の神話を壊し、そして創り直した評伝の極北」という川村湊の言葉が寄せられているが、「比類ない愛の神話を壊し」たことになるのだろうか。しかし、それだとしたら神話の内側にいない者にとってはそこに大きな意味はないことになる。
たとえば、『ザ・ビートルズ レコーディング・セッションズ』という本があって、そこにはビートルズがレコーディングした日付け通りに並べられ、何をどのようにレコーディングし、そこでどんなやりとりや出来事があったかが、それこそ『狂うひと』が依拠している日記のように、詳細に記録されている。ビートルズの曲に親しんだ者にとっては、その他の評伝は不要と言いたくなるほどに、そこからビートルズ像を浮かび上がらせることができる素材で、読んでいて尽きない井戸のように気づきを促してくれる。
しかし、島尾敏雄とミホの作品と日記とエピソードが、想像するに何巻にも及ぶ膨大な資料として目の前にあったとしても、それをつぶさに追う契機と時間をぼくは持てないだろう。そういう多くの人にとって、『狂うひと』の事実の前後関係の記載や関係者の証言は、新しい知見と気づきをもたらしてくれるにちがいない。
ただこの本は島尾敏雄とミホの日記集ではなく、著者によって時系列と引用箇所は編集され、問いかけと判断が織り交ぜられたひとつの作品だ。しかし、そのように受け取ろうとすると、島尾を断罪したいのか、ミホを称賛しつくしたいのか、それとも別の何かに対する洞察を込めたのかというところに物足りなさが終始つきまとって、これでは謎が勘ぐりの域を出ないことになってしまうような気さえすることがあった。
『死の棘』を追う箇所は、書くほうもそうだろうが、読むほうもしんどく、しばしば、『死の棘』や島尾ミホがその後も行った敏雄への追求に、不足を感じた手を緩めない追っ手のように見えてうんざりしかけるところもある。それはぼくが男性だから、まるで自分が責められているような気がしてくることからもやってくるのだろう。そのように、最初は、第二のミホになって新たな糾弾をしたいのだろうかといぶかった。
しかし後半になり、島尾ミホの作品や敏雄没後の姿を追う段になると、ミホを称賛しきるでもなく、女性として仇を打つでもなく、ミホのわからなさの方が浮上してくる。そこにいたっては、著者は島尾敏雄の立場とは言わないけれど、島尾の側にいる。
著者の梯(かけはし)が、「これまでのミホ像」に異を唱えるために引いているうち、吉本隆明のものはぼくも読んできた。梯が引いているところを挙げてみる。
妻は夫が奄美の加計呂麻島に、特攻基地の隊長であったときの島の少女だった。その位相はニライ神をむかえる少女のようだ。また島に君臨する最高支配者をむかえる島の上層の巫女のようだった。(「島尾敏雄<家族>」)。「島の守護者である武人として、奄美・加計呂麻島へ渡った島尾さん」(「島尾敏雄-遠近法」)
梯は、当時二五才のミホは「少女」ではなく、司祭者であるノロの系譜を継ぐ家系であったとしてもミホは「巫女」ではなく、そう育てられたわけでもない。また、島尾も「島の守護者」ではなく、捨て石とされた奄美に赴任し、守るものがあったとすれば本土日本のことだったと指摘している。
梯が壊したいのは固定化したミホ巫女像で、その発端のひとつとして吉本のこうした文章も挙げられている。ぼくはこの箇所を違和感なく読んできたと思う。それはどうしてだったか、振り返ってみると吉本は「巫女のようだ」と比喩的に書いていて巫女と規定しているわけではない。また、戦中派の吉本が実際は、「島の守護者」として島尾がいるわけではないことは知らないわけがない。しかし、そのように島人に見えただろうことは疑えないし、そういう位相で吉本も書いていると思う。
「少女」には誤認があるのかもしれない。けれど、これも違和感なく読んだのは、まるで「少女」と言ってもおかしくない天真爛漫さを島の女性が発揮することがあるからだ。ぼくは、自分の母のそういうところに、半ば呆れ、「少女」と呼んでは母に嫌がられたが、いま思うと、「少女」という形容は、吉本のこの文章から思いついたのかもしれない。吉本の意図や根拠は別にしても、「少女」という表現には、大いに納得できるところがあった。
このところは、梯も立場を明確にしている。
島尾とミホの恋愛は、このように『古事記』と『万葉集』から引用した言葉に彩られているのだが、これはミホが「古代的」な女性であるからでも巫女の血筋だからでもない。恵まれた教育環境で文学的教養とセンスを身につけ、言葉の力をもって恋愛の昂揚と陶酔をもたらす力能を持っていたからだ。
多くの資料に接し、奄美の親族にも取材した現在の私は、いまだにミホの紹介文に用いられることのある「巫女の後継者として育てられる」という記述が誤りであることを知っており、彼女を「南島の巫女」と規定して霊能者のように扱うことをよしとしない立場をとる。
これはどう言ったらいいのだろう。梯が吉本の他に挙げている奥野健男の言い方をみると確かに類型的で浪漫化している印象を受ける。それを機に「南島の巫女」というミホ像がどれほど固定化されているのか知らない。だからそれがどれほど壊されなければならないものかは分からないが、ミホは、「恵まれた教育環境で文学的教養とセンスを身につけ、言葉の力をもって恋愛の昂揚と陶酔をもたらす力能を持っていた」だけではない。
梯の言葉を借りれば、ミホには古代性があり、巫性もあった。むしろ、全身を包むようなその資質とセンスを基盤にして、当時の島では考えられないほどの「恵まれた教育環境」と島尾敏雄という文学環境を糧に、日本語で表現する術を身につけたとき、ミホの作品は開花したと思える。ぼくは、「南島の巫女」像をそのまま肯うわけでもなければ、神秘化したいわけでもない。けれど、古代性や巫性は、ミホにずば抜けた資質があったとしても、彼女ひとりのものではなく、島のなかでは、島人にとっては日常だからだ。
たとえば梯は、島尾の遺骨との対面を記したミホのノートを引きながら、
呆然として目まいがするようだとしながらも、頭蓋骨にあいた耳の穴のことまで記述している。肉親や配偶者の遺骨をこのように見つめ、描写した文章を、私はほかに読んだことがない。
と書いている。島人には洗骨を思い出させるが、記述されたことはないかもしれない、けれど、こうしたことはかつて日常で、梯が驚いているところで、島人は驚いている梯に驚くのではないだろうか。
だから、『狂うひと』がどのように読まれていくのかは分からないけれど、ミホの作品や島雄敏雄とミホの道行きが、こういうのが妥当な表現かわからないが、近代的な文脈でのみ回収されていくのは、「巫女ミホ」像の否定にはなっても、ミホ像にはならないと思う。
現実と夢のどちらにも行き来しながらどちらにも確かな手応えを突き詰められないような島尾と、現実と夢はどちらもリアルであるミホは、二人してどこからどこまでが敏雄でどこからどこまではミホの手になるのか区別がつかないような作品世界を築きあげていったように見える。そのいたるところに見つかる謎に向かって、それを謎というなら、もっと切り込み、抉り出してほしかったという感想を持つ。けれど、その肉迫の仕方が結局は、この世界に接近する角度ではないかもしれない。そういう意味では、『狂うひと』という膨大な取材作品は、島尾敏雄とミホに翻弄されたもうひとりの足跡なのかもしれない。
本書は、足跡を追いつ追われつしているうちに、ミホの目で島尾を追い詰め、また、批判していたはずの島尾になってミホの性質に驚嘆し、異論の起点になった吉本になって作品や人物を切開していっているところがあると思う。そのどれでもいい、単眼でもいい、ひとつの視点で貫き通したものを読みたかった気がしてくる。
そして譲れないこともある。ミホ巫女の固定像は破壊されるのか、そのことにぼくの関心はないけれど、その人物像や作品世界が近代的な文脈によってのみ回収されることは、島人のひとりとして、拒みたいと思う。
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コメント
ありがとあございます。出版されたばかりの島尾ミホさんと敏雄さんに関する本の評伝、大変参考になりました。早速購入して読んで見ます。
投稿: 伊東啓二 | 2016/11/14 18:29
伊東さま
コメントありがとうございます。参考になりましたら嬉しいです。ご感想もぜひ、お聞かせください。
投稿: 喜山 | 2016/11/15 11:32