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2016/11/07

『南海漂泊―土方久功伝』(岡谷公二)

 1929(昭和4)年、パラオを訪れた土方は、公学校で木工を教える仕事についた。

 彼は、まず公学校に行って、子供たちを集め、道具を渡し、近くの森に材料の木を伐りにゆかせ、主に浮彫をやらせた。私がその後に合った教え子たち--といっても、大方はもう七十すぎの老人だったが--の言によると、彼はいつもアバイの絵をお手本にするように言ったという。彼はこうすることで、単に手本を与えただけでなく、子供たちがアバイの芸術い誇りを持つことを教えたのである。
 南洋庁の狙いは、土地特有の物産品を島民に作らせることにあった。この狙いは、土方の努力と相まって、今に至ってみごとに実を結んだ。というのも、パラオの神話伝説を刻んだ横長の木のレリーフは、土方の教え子たちの手によって作られているからである。

 アバイはもともとは男子結社の集会所だっただろう。そこには神話や伝説にもとづく絵模様が描かれている。土方が手本にするようにと指示したのは、正しかった。そしてその前に、土方自身が「絵模様」に心打たれたのは素晴らしかった。それを作るということが、島人のアイデンティティを刻むことになるのだから、ストーリーボードは幸運な生い立ちをしている。

 著者の岡谷公二は、「南の問題とは、文明のありようの問題」であり、「戦前の日本において、真に南の問題を生きたのは、土方久功ただ一人だけだったのである」と評価している。当時の「日本の社会の鮮やかな陰画」とも。

 
[南海漂泊―土方久功伝』

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