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2016/11/21

『消えゆく沖縄 移住生活20年の光と影』(仲村清司)

 本を取り寄せたら帯に「遺言」とあって驚いた。冒頭も生い立ちから始められている。ぼくより少し年長の著者なので、仲村さん、そんなに老け込む年じゃないよと気になって読み進めると、仙人にして野人ともいうべき心からの友人が沖縄を去り、他界したエピソードが語られ、こちらも胸が締めつけられてくる。その喪失感は耐え難いものがあるだろう。

 変貌した那覇によるべなさを覚え、沖縄の民意が通らぬことに失望し、そこに聖域も失われていく喪失感も加わる。エピローグを書く段で「土人」発言に遭遇して、沖縄と本土の関係が「いちばん怖れていた段階に入った」ことに危惧し、「出口が見えないまま」の場所に佇んで、本書は終わる。

 なんというか、読むほうが本の紹介をしたり、批評をするというのではなく、仲村さん大丈夫ですか?と声をかけたくなる内容だ。

 島人のよい資質でもあるのだが、沖縄島の「重さ」を身体化させてしまっている。いちど、自分と島を切り離してみたらどうでしょう。島を去るということではなく、自分と島を考えの上で切り離すということ。きっと、生まれ育った大阪では、こうまで住んでいる場所を身体と同じもののように見なさなかったろうから、それはできることなのではないでしょうか。

 英国がEUを離脱し、トランプが大統領になり、世界の潮目は明らかに変わったようにみえる。それは国民国家の再建へと向かうのかもしれないが、困ったことに偏狭なナショナリズムも併走している。そのなかで差別の固定化が生まれやすいとするなら、現政権への沖縄への冷淡さも「土人」発言が生まれる土壌もその現れに見えてくる。

 島人には、基地問題という以外にも、ふたたび生きにくい時代がやってきているのかもしれない。ここで島人もまた、偏狭なナショナリズムに陥らないようにすることが重要なのでしょう。

 思うに、奄美を含めて琉球弧に必要なのは、自分たちの手で行う「近代化」ではないだろうか。島人は、琉球処分として、鹿児島県大隅郡として日本に組み入れられて以降、極端な日本化、本土化を進めてきた。その反省の眼差しはあって、最近では若い世代はむしろ島(シマ)に誇りを持つようになってきているし、挫折や両親の面倒というのとは違う、意欲的な帰島組も生み出すようになっている。

 けれど、日本化、本土化のトレンドは止んでいないのが、仲村さんが心を痛める那覇の変貌に象徴されているとしたら、そして、基地に対する沖縄の正当なメッセージが伝わらず、またここが重要だと思うのだが、仲村さんが書いている通り、沖縄が基地経済の依存度を小さくしているなら、「基地はいらない」というメッセージを「振興策はいらない」というメッセージに変えたらどうでしょう。これは、沖縄に対して言うというより、仲村さんの主張の幅への提案として書くのですが、そこまで言えたら、少し重荷が取れないでしょうか。

 「振興策はいらない」が極端なら、奄美並みという言い方だってある。奄美はなんとかなってますよと言いたいわけではなく、わが与論を見ても、板子一枚はがせば恐ろしいありさまであるに違いないのだが、どうもぼくたち島人は、日本化、本土化の過程で、捨てなくていいものまで同化してしまいがちが傾向があるのは間違いないのだから、現在もっとも「同化」の太いパイプになっている振興策について、削減を主張の視野に入れるのは必要なのかもしれない。

 それを言いたいのも、「反復帰論」を越えた「未来構想」という仲村さんの言及があったからで、ぼくもそこで考えたいと思っているからだ。 

 なんだか、独り言なのか、仲村さんへのメッセージなのか、分からない文章になってしまったが、書物がというより、ご本人が気がかりになる内容だったので、このままにしておく。


『消えゆく沖縄 移住生活20年の光と影』
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