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2016/11/30

「南島歌謡に謡われたサンゴ礁の地形と海洋生物」(渡久地健)

 これは、わくわくしながら読んだ。こんな研究がもっと進んでほしいと思う(「南島歌謡に謡われたサンゴ礁の地形と海洋生物」(渡久地健))。

 渡久地は、八重山の「ペンガントゥレー節」での漁撈のさまを分析して、「女性―サンゴ礁の内側―底棲生物(ベントス)/男性―サンゴ礁の外側―魚類(ネクトン)」という関係がみられるとしている。

 面白いのは、これが生き物の性とも対応しているように見えることだ。

 女性

 タマミナ(小巻貝):ニシキアマオブネ 
 ギシクン(貝):リュウキュウヒバリガイ、ヘリトリアオガイ
 シンナマ(ミナミキビナゴあるいはアミアイゴの稚魚)
 ペンガン(オオギカノコガニ
 ミーガク(海藻):センナリヅタ
 シンダミ(オキナワウスカワマイマイ

 貝は「女性」だと了解しやすい。シンナマがアイゴの稚魚であれば、ティダハニと同じ位相にある。マイマイは、「蛇」系のようにも感じるが、殻をつけているから「女性」になる。「蟹」も「女性」になっている。

 男性

 イラブニ(エラブウミヘビ
 イラブチィ(ブダイ
 ボーダ(ブダイ科)
 フクルベー(モンガラカワハギ科。与論ではプクルビ)
 フフムチ(ノコギリダイ
 マクガン(ヤシガニ

 ブダイ系が「蛇」系なのは分かる。カワハギやフフムチもそう見なされることになる。

 渡久地は、ヤシガニの捕獲がなぜ、男性なのかと問うている。男性に分類される「魚類」ではないし、女性でも十分に捕獲できるのに。

 ヤシガニと男性の結びつきを解く鍵は、多良間島の聞き書きが教えてくれるとして、渡久地は書いている。

「ヤシガニ獲りを男女で行って、そのまま夫婦になることもあった。ヤシガニ獲りを女性から男性に頼むのは、愛の告白と捉えることもあった。そのため男性はヤシガニのよく獲れる場所を知っておく必要があった。各自のヤシガニを獲るための「なわばり」(よく獲れる場所)があった」。

 これはこういうことだと思う。ヤシガニが「男性」であれば、女性は「貝」だから、両者が合わさると、アマン(ヤドカリ)になる。この「愛の告白」に隠されているのは、トーテムとしてのアマンだ。


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2016/11/29

「サンゴ礁の民俗分類の比較」(渡久地健)

 渡久地健は、サンゴ礁は渚から外海側へ広がる「一連の自然」であるとしてその民俗語彙を整理している(「サンゴ礁の民俗分類の比較」)。

 1.海岸 ハマ系とヘタ系
 2.礁池 イノ/エノ/イノナ/イナウ
 3.礁嶺 セ/スィ系からヒシ/ピシ系
 4.礁斜面 セ/ヒシ/ピシ/ピー
 5.ビーチロック イタビシ
 6.「一定のまとまりをもった海底の地形的高まり」 スニ
 7.「干潮時にも海水を湛えている礁嶺上の浅い溝状の凹地部」 ウンジュムイ/ピシミ/ワンルー
 
 ここでやってみたいのは、ユナがイノーなどヘメタモルフォーゼをするのであれば、それをサンゴ礁でどこまで広げたかということだ。

 yuna > yu:na ユウナ
 yuna > iuna > inau > ino: イノー(礁池)
 yuna > iuna > inau > nu: ヌー(澪)
 yuna > duna > zuna > suni スニ
 yuna > iuba > iura > ura > uru ウル(サンゴ)

 韮(ニラ)が、韮(ビラ)になる。(「トグルダキデラバ」与那国島)
 尻(シリ)が、尻(チビ)になる。(与那国島)

 yuna > yuba > yura > yuda > yato ヤトゥ(サンゴ)
 
 目いっぱいひろげると、こうなるだろうか。

 
 

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2016/11/28

バガ島ユングトゥ

 バガ島ユングトゥ(『八重山古謡』下)

 バガ島ヌ    我が西表島の
 西表ヌ前ナガ 前方に
 島ガマヌ    小さな島が
 フンガマヌ   可愛い国が
 ナリルンチョ  生まれているそうだ

 近クユシ    確かめるために
 マンカユシ   近く寄って真正面から
 見アギリバ  じっと見たところ
 島ガマヤ   小島ではない
 フンガマヤ  小さな国でもない
 アラヌンチョ  島や国ではなくて(後略)

 後に続くのは「米」と「粟」があったという話だ。

 しかし、この古謡の前段は、身近なニライカナイが遠隔化されて、文化の発祥に生まれ変わる際の様が描かれている。ニライカナイは変形されるが、しかし身近なニライカナイが生命の源泉であった面影をよく伝えている。

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2016/11/27

イジャンハジメ(出し初めの式)のトーテム揃い

 金久正の『奄美に生きる日本古代文化』でみた蟹儀礼について、より鮮明に捉える記述を見つけた。

 大島郡龍郷村では、きまった日に名前はつけなかったが、いまでは七日のイジャンハジメ(出し初めの式)の前までにつける。イジャンのことを明り拝ましともいう。家の前庭で、男の子は桑の木でつくった弓を、女の子は鋏と針を高盆に御飯と一緒にのせ、マヨガラ(苧)という草をとってきて庭に植え、川から小がにを三匹取ってきて椀に入れておき、これを一匹ずつ赤子の頭の上にはわす。そして「イシグジマやカネクジマ(ともに貝の名)のように無事でありますように」ととなえる。かにがみつからないときは白い小石を用いる。そして、赤子を外に出して太陽を拝ませた。

 桑、盆、苧、蟹、貝、太陽。何から何まで揃っている。「盆」はおそらく「貝」が宿っているのではないだろうか。


『日本の民俗〈46〉鹿児島』

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2016/11/26

「太陽を生みだした母なる子宮」(名護博)

 『赤椀の世直し』のなかで名護博は書いている。

 ゴホウラに太陽の縁由のある名がつけられたのは、太陽が海底をも照らすからであろうと考えたがそれよりは海底の巻き貝類が(ウミニナ)が太陽を生みだした母なる子宮であると古代人たちが考えたから、とすべきと思う。そのように考えたほうが「テダノスウ」にも意味を与えやすい。「テダノスウ」は太陽の巣、または太陽の主といった意味であった可能性が考えられる。いずれにしても太陽の大本、すなわち太陽の母なる子宮になり、谷川氏自身が熱心に追い求めた「テダが穴(太陽の穴)」の原形であった可能性が浮かび上がってくる。太陽がそこから生まれ、夕暮れどきにはそこに沈んで隠れるという『おもろさうし』に頻繁に出てくる「テダが穴」は、もともとは深い海の底の巻き貝のことであった、とした方が古代人の心に近いと思う。

 これはその通りだ。ただ、太陽の母の貝は、巻き貝に限らない。シャコ貝こそはもっともそれにふさわしい貝だ。琉球弧の島々では、それぞれのサンゴ礁の海で、太陽の主に当たる貝たちを見つけていったのだと思える。

 久高島の漁師たちから聞いたマガキガイの沖縄名は「ティララ」であった。男たちの説明によれば、「ティララ」はティラ(太陽)が照る時だけに底から上がってくるのでその名があるという。

 ティララ(マガキガイ)については、底から上がってきて太陽を生むのである。素敵な見立てだ。
 

『邪馬台国総合説 赤椀の世直し―沖縄・奄美は原初ヤマトの生みの母胎であった』

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2016/11/25

スニとヌー

 『地名を歩く―奄美・沖縄の人・神・自然』のなかで、渡久地健は「スニ」地名について、4つのタイプに整理している。

 1.外海に位置し、干潮時に干出する。
 2.干出しない暗礁
 3.干瀬の外側に位置する。
 4.水深が深く底が見えない。

 これらの多様性を持つので、「スニとは、ある一つのまとまりをもった海底の地形的な高まりである。好漁場となることが多い」というゆるやかな説明がふさわしいと、渡久地は考えている。

 これはユナ系地名のひとつではないかと思う。(yuna > yuni > duni > zuni > suni) として、転訛にも無理がない。「八重山の石垣でサンゴ礁をスニという」こととも合致する。ただし、「海のみならず、関東地方や中国地方では陸上の嶺もソネと呼ばれている」ことはすぐには説明できない。

 同様にいえば、ヌー(澪)もユナ系地名だと思う。

 yuna > iuna > inau > inu: > nu:

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2016/11/24

「蝶」が霊魂の化身である根拠

 ぼくたちは「蝶形骨器(ちょうがたこっき)」は、蝶をモデルにしていると考えてきた。(参照:「沖縄縄文時代の蝶形骨製品」(金子浩昌)

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(図1.蝶形骨器、真志喜安座原第1遺跡)

 それは「蝶」に似ているからということに加えて、琉球弧では、蝶が「死者」や「霊魂」の化身と言われていることも、この理解を促してきた。

 なぜ、蝶が「死者」の化身なのか。それは、初期の家屋内あるいは周辺で死者を葬り、殯を行なったとき、死体に群がった蝶を、死者が蝶に姿を変えたものとして見なしたからだと考えられる。

 では、なぜ蝶は「霊魂」の化身でもあるのか。ぼくはこの点は、「死者」の延長で捉えたものと見なしてきたが、実はもっと深い根拠はあったのかもしれない。頭部の真ん中にある「蝶形骨(ちょうけいこつ)」だ。

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(図2.蝶形骨

 これもまた蝶に似ているし、蝶形骨器にも似ている。

 島人が「人間の内部にいる人間」(フレイザー)として「霊魂」の概念を持ったのは、この頭蓋骨内部の「蝶」を媒介にしたのではないだろうか。それは、「人間の霊が骨、特に頭蓋骨に留まるという信仰」(松山光秀『徳之島の民俗〈1〉』)とも見事に符合している。

 洗骨の過程で、頭のなかの「蝶」を見出した時、「蝶」は死者の化身であるだけではなく、霊魂の化身でもある根拠が見出されたのだ。

 また、ぼくたちはまた「蝶形骨器」は、シャーマンが後頭部に装着したと見なしてきたが、そこは「蝶形骨」の位置し具合からみても、とても自然なことも分かる。

 付け加えれば、霊魂が鼻や口、後頭部の首筋から抜けると言われてきたことも、子供の背守りが襟首につけられるのも、とても自然な考えだ。これらのことは、身体内部の「蝶」が霊魂の発生を媒介したことを意味しているのではないだろうか。





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2016/11/23

「井戸ヌパタヌ子蛙誦言」の化身の法則

 西表島の「井戸ヌパタヌ子蛙誦言」に見られる化身について、何が思考されているか、整理してみる。

1.井戸ヌパタヌ
 アブダーマ
 パニバムイ
 トゥブケー
 バガケラヌ生命(イヌチイ)
 島トゥトゥミ
 アラショウリ

2.家(ヤー)ヌマアルヌ
 プチィメーマ
 スーナウリ
 魚(イオ)ナルケ
 バガケラヌ生命(イヌチイ)
 島トゥトゥミ
 アラショウリ

3.ヤドゥサンヌ
 フダチィメマ
 ウブドゥウレー
 サバナルケー
 バガゲラーヌ生命
 島トゥトゥミ
 アラショウリ

4.森々ヌ
 山亀メマ
 ウブドゥ下(ウ)リ
 海亀ナルケ
 バガゲラヌ生命
 島トゥトゥミ
 アラショウリ

5.プシ木ヌ      紅樹林の
 下ラヌ       下の泥土に棲息する
 キゾガマ      二枚貝(シレナシジミ)が
 ピーニ下り    サンゴ礁上に下りて
 ギラナルケ    シャコ貝にあんるまで
 バガケラヌ生命 吾が島中の人々の命は 
 島トゥトゥミ    島のあらん限り
 アラショウリ    永久にあらしめ給え(『八重山古謡(下)』


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2016/11/22

「イヤの初」(金久正『奄美に生きる日本の古代文化』)

 金久正は、奄美大島では「そうなる宿命だよ」というとき、「そんなイャンハツだよ」という表現を使うとしている。与論なら、ヌサリというところだろうか。

 金久はこれを「い矢の初(はつ)が挿される」と解している。「そうなるように、い矢の初(はつ)を挿されているのだ」という予祝として捉えているわけだ。

 この「宿名観」を表わしたものが、「この島の片田舎」にはまだ行なわれているかもしれない。

 妊婦が御産の床につき、赤子が生まれて、やがて「オギャー」と、うぶ声を発するとまったく同時に、誰か家の者が表戸口の所へけたたましく走って行って、「イャンハツヤ、吾(ワ)ガサチャド」(い矢の初は、わたしがさしたぞ)と、大きな荒々しい声で叫びながら、先の尖った棒切れを表戸口の上の軒に挿すのである。この棒切れのことを喜界島では「ヤギ」(矢木)といっている。棒切れの代わりに台所の包丁を用いる所もある。

 金久は、「い矢」は、「射(い)」にも見えるが、「斎(い)」または「忌(い)」の意味だろうとしている。

 谷川健一はこれをそのまま踏襲して書いている。

 イヤは斎矢であり、忌矢である。最初の斎(忌)矢がイヤンハツで、赤子の産声を聞きつけた邪神がこれをさすと、赤子は悪い運命の下で人生を送るようになるということで、ウブガミがその機先を制するのである。

 イヤが、宿命というほどの意味を持つのであれば、それは「斎(忌)矢」ではなく、「胞衣」から来ているものだろう。この「島の片田舎」の胞衣埋めことは書かれていないので分からないが、竈の後の軒下が原型にあるものとすれば、ここでは対象的な仕草が見られる。

 胞衣埋め 竈の下 胞衣を埋める
 イヤの初 表戸口 軒に挿す

 この反転は、胞衣埋めが、赤子と胞衣の関係に向けて行なわれるのに対して、「イヤの初」を挿すのは、赤子と「悪霊」に向けて行なわれている。こうした対照もまた、イヤが胞衣由来であることを暗示していると思える。

 

『復刻 奄美に生きる日本古代文化』

『日本の神々』

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2016/11/21

『消えゆく沖縄 移住生活20年の光と影』(仲村清司)

 本を取り寄せたら帯に「遺言」とあって驚いた。冒頭も生い立ちから始められている。ぼくより少し年長の著者なので、仲村さん、そんなに老け込む年じゃないよと気になって読み進めると、仙人にして野人ともいうべき心からの友人が沖縄を去り、他界したエピソードが語られ、こちらも胸が締めつけられてくる。その喪失感は耐え難いものがあるだろう。

 変貌した那覇によるべなさを覚え、沖縄の民意が通らぬことに失望し、そこに聖域も失われていく喪失感も加わる。エピローグを書く段で「土人」発言に遭遇して、沖縄と本土の関係が「いちばん怖れていた段階に入った」ことに危惧し、「出口が見えないまま」の場所に佇んで、本書は終わる。

 なんというか、読むほうが本の紹介をしたり、批評をするというのではなく、仲村さん大丈夫ですか?と声をかけたくなる内容だ。

 島人のよい資質でもあるのだが、沖縄島の「重さ」を身体化させてしまっている。いちど、自分と島を切り離してみたらどうでしょう。島を去るということではなく、自分と島を考えの上で切り離すということ。きっと、生まれ育った大阪では、こうまで住んでいる場所を身体と同じもののように見なさなかったろうから、それはできることなのではないでしょうか。

 英国がEUを離脱し、トランプが大統領になり、世界の潮目は明らかに変わったようにみえる。それは国民国家の再建へと向かうのかもしれないが、困ったことに偏狭なナショナリズムも併走している。そのなかで差別の固定化が生まれやすいとするなら、現政権への沖縄への冷淡さも「土人」発言が生まれる土壌もその現れに見えてくる。

 島人には、基地問題という以外にも、ふたたび生きにくい時代がやってきているのかもしれない。ここで島人もまた、偏狭なナショナリズムに陥らないようにすることが重要なのでしょう。

 思うに、奄美を含めて琉球弧に必要なのは、自分たちの手で行う「近代化」ではないだろうか。島人は、琉球処分として、鹿児島県大隅郡として日本に組み入れられて以降、極端な日本化、本土化を進めてきた。その反省の眼差しはあって、最近では若い世代はむしろ島(シマ)に誇りを持つようになってきているし、挫折や両親の面倒というのとは違う、意欲的な帰島組も生み出すようになっている。

 けれど、日本化、本土化のトレンドは止んでいないのが、仲村さんが心を痛める那覇の変貌に象徴されているとしたら、そして、基地に対する沖縄の正当なメッセージが伝わらず、またここが重要だと思うのだが、仲村さんが書いている通り、沖縄が基地経済の依存度を小さくしているなら、「基地はいらない」というメッセージを「振興策はいらない」というメッセージに変えたらどうでしょう。これは、沖縄に対して言うというより、仲村さんの主張の幅への提案として書くのですが、そこまで言えたら、少し重荷が取れないでしょうか。

 「振興策はいらない」が極端なら、奄美並みという言い方だってある。奄美はなんとかなってますよと言いたいわけではなく、わが与論を見ても、板子一枚はがせば恐ろしいありさまであるに違いないのだが、どうもぼくたち島人は、日本化、本土化の過程で、捨てなくていいものまで同化してしまいがちが傾向があるのは間違いないのだから、現在もっとも「同化」の太いパイプになっている振興策について、削減を主張の視野に入れるのは必要なのかもしれない。

 それを言いたいのも、「反復帰論」を越えた「未来構想」という仲村さんの言及があったからで、ぼくもそこで考えたいと思っているからだ。 

 なんだか、独り言なのか、仲村さんへのメッセージなのか、分からない文章になってしまったが、書物がというより、ご本人が気がかりになる内容だったので、このままにしておく。


『消えゆく沖縄 移住生活20年の光と影』
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2016/11/20

アイヌの口唇文身モチーフは鮭ではないだろうか。

 ばくぜんと「熊」だと思ってきたが、そうではなく、アイヌの口唇文身のモチーフは、「鮭」なのではないだろうか。

 そう思ったのは、北アメリカのハイダ族のカジカを表した顔面彩画を見てのことだ。

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(フランツ・ボズ『プリミテヴアート』)

 カジカという魚は釣り針や、すねあての毛織物のモチーフになり、トーテムポールにも描かれるからハイダ族のトーテムのひとつと見なしていいだろう。

 カジカは、人間の顔面に彩画で描かれる場合、[彩画を施される人の]唇の直上に描かれる二本の棘で示されるのが一般的である。(フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』)

 実際、カジカには鰓蓋上に棘がある。その棘を口元にはっきりと表現しているわけだ。ハイダ族の場合、文身ではなくペインティングだが、これはアイヌの口唇文身に似ている。

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(児玉作左衛門、伊藤昌一「アイヌの文身」『人類学・先史学講座. 第3部』)

 少なくとも魚トーテムを描く場合、口元に着目する例があるのは参考になる。そしてハイダ族のカジカは、アイヌにとっては鮭(サケ)だ。

 ここで、もうひとつ連想を呼び起こすことがある。

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(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』)

 琉球弧の文身の場合、沖縄島では、年齢階梯ごとに文様の場所を増やし、あるいは大きくしていった。上図は、糸満の場合だが、老人の域に達した最後の「針突き」では、文様を一気に広げている。左手の甲の拡張形は「扇」と呼ばれ、那覇ではこれが円形で「ティナー」と呼ばれた。右手甲は、糸満では「丸」と記されているが、これは「ティナー」と同じ意味だ。

 「扇」は、(女性器=貝)の象徴であり、「ティナー・丸」は、(太陽=貝)の象徴である。これは貝トーテムを意味しているから、文様を拡張することは、貝としての精霊(カミ)に近づく、あるいは半分、精霊(カミ)になることを意味していた。実際、琉球弧では、古老は神(カミ)として敬われてきた。

 琉球弧の例を踏まえると、アイヌの口唇文身が、徐々に文様を広げることにも視点を持つことができる。これは鮭トーテムに近づくことを意味していたのではないだろうか。

 アイヌの口唇文身の場合、最初、上唇の溝を埋めるように文身が施されている。これは鮭の幼魚に見られる斑点(パーマーク)を象徴化したものに見える。あるいは、幼魚には口上にも実際に斑点が付いているのかもしれない。

 そして長ずるにつれて、厚い唇に見える鮭の口の特徴が描かれていくことになる。上に剃りあがる曲線は、鼻曲がり鮭に特徴的な鮭の口の曲線を意識しているようにも見える。

 アイヌの口唇文身が「鮭」をモチーフにしているとしたら、琉球弧の文身と同様に、文身拡張は「鮭」トーテムへの変態を意味していると考えられるのだ。

 これはまだ詰めが甘いが、ひとつの仮説として書き留めておきたい。


『プリミティヴアート』








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2016/11/19

琉球弧の「針突き(tattoo)」デザイン

1.主要部位の文様

 ここまできてぼくたちは、琉球弧の針突きデザインについて概観することができる。下表は、主要な部位について、各島でより古層の思考を感じさせることに視点を置いて、典型例を挙げている。

 左手。

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(図1:左手主要部位の文様)

 これまで、指の背については取り上げて来なかったが、ここは後ほど書くように、「蝶」の胴体部の「山」型のデザインから構成されていると見なしてきたからだ。そして、針突きがトーテムを表すものであれば、ここには「蝶」の他に、「蛇」も重ねられているように見える。久米島ではここを「百足」と呼ぶのはそのことを示唆しているだろう。また、宮古では「蝶」は出現しないとしたら、丸みを帯びた矢を持つ文様は、「蛇」と、蛇の次にトーテムになった「トカゲ」が重ねられているのかもしれない。

 右手。

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(図2:右手主要部位の文様)

 こうして概観してみると、「トーテムと霊魂」の座と見なしてきた尺骨頭部は、小さくて施術の難易度も高そうな箇所であるにもかかわらず、細やかにデザインが決められているのが分かる。やはり、この部位は琉球弧の針突きにおいて核心をなすのだ。

 しかし同時に、沖縄島や八重山で失われているので気づきにくいが、「あの世で先祖に見せる」という謂れからすれば、そして針突きをするのに「最も痛かった」(三宅宗悦「南島婦人の入墨」)ことも合せると、手首内側の「ウマレバン-後生の門」文様も重視されていた。ということは、尺骨頭部を含めて手首、今でいえばブレスレットの位置がことのほか重要だったのではないだろうか。

 下の与路島の針突きは、手の平と甲では違う女性のものだが、ほぼひとつながりになっているのが分かる。採取した三宅宗悦は、「手首外側では途切れず寧ろ内側の橈骨側で切れてゐる」(「南島婦人の入墨」)と書いている。

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(図3:与路島の針突き)

2.小原図解の再編

 次に小原一夫が『南嶋入墨考』で図解した、尺骨頭部の展開についても再編しておきたい。

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(図4:尺骨頭部の文様)

 同書には恩恵を受けてきたわけだが、しかし細部を確かめるまではこの図解に束縛されてもきたので、イメージを更新しておきたい。その最大の理由は、上図下段の左手の文様はともかく、上段の右手の文様において、尺骨頭部に例外的にしか出現しない斜め十字「×」を終点に置き、かつ文様を「十字」で象徴させ、「魔除け」の意味に収斂させてしまったことだ。これはいささか強引だったと言わなければならない。

 ぼくたちはすでにこれを「トーテムと霊魂」の座の「貝と蝶」として見る眼を持っているので、違う展開を持つことができる。

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(図5:尺骨頭部の文様展開)

 四角で囲ったものは、尺骨頭部以外から抽出したものだ。

 こうしてみれば、十字「+」は、「蝶(霊魂)」文様からも「貝(トーテム)」文様からもたどり着けることが分かる。しかし、十字「+」は右手尺骨頭部の典型や象徴ではなく、その手前の宮古島の「タカゼン」に収斂していることも了解されてくる。

 また、気づかされるのは、いわゆる「五つ星(蝶)」からは四角形(長方形)が析出されていないことだ。四角形(長方形)は、貝からの析出が優位だったのだ。このことは、「蝶」の形態が、背守りとしても、祝女の髪飾りや胴衣としても「三角形」で引き継がれていることからも頷ける。

 「貝」は円や螺旋、四角形として、「蝶」は三角形として析出されたのである。言い換えれば、島人は、円や四角形に「貝」を見るし、三角形には「蝶」や「霊魂」の形態を見るのである。

 また、これらの展開を見れば、徳之島の基本図形以外は、尺骨頭部のデザインが起点になって、他の部位の文様デザインが析出されているのも分かる。

 ただ、「十字」が「貝」からも「蝶」からも析出されるように、デザインの変形には融合する側面を持っている。それはちょうど、霊力思考と霊魂思考が織物として編まれていくのに対応している。そこで、起点となる徳之島の基本図形と終点に位置する八重山の手の甲文様は似たもの同士として出会うことにもなるのだ。

3.霊力思考と霊魂思考

 ここで霊力思考と霊魂思考の表現として、針突きのデザインを追ってみよう。

 「トーテム」由来の文様は霊力思考の表現であり、「霊魂」由来の表現は霊魂思考と見なせるが、明確にするためにいくつかの前提を設けておく。(霊力思考は「黒」、霊魂思考は「白」で表した)。

 ・指の背は、霊力思考(蛇)と霊魂思考(蝶)が重ねられていると見なしたが、簡略化のため「蝶」表現を優先して捉える。
 ・喜界島は採取数が少なく、塗りつぶされる前の文様が不確かなので、不明としてグレー表現にする。
 ・図1を見ると、斜め十字は、「花」名称の文様が多い。そこで、「+」十字は、霊魂思考、「×」は霊力思考と見なした。
 ・宮古、八重山の右手尺骨頭部は、もうひとつの霊力表現と見なしてきたが、ここでは霊魂の座であることを優先して「白」で表す。

 上記から下図が得られる。

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(図6:霊力思考と霊魂思考の展開)

 この図は、いくつかの前提を設けた結果なので前提を変えれば結果も変わることになる。しかし、どちらにしてもひとつの傾向は浮かび上がってくるだろう。それは、琉球弧を南に行くにつれ霊力思考が際立つことだ。もともと琉球弧では霊力思考が優位であることを踏まえれば、これは逆に言い換えてもいい。北へ行くにつれ霊魂思考に進展がみられる、と。

(※各島ごとのデザイン詳細は次頁参照。喜界島奄美大島徳之島沖永良部島与論島沖縄諸島宮古諸島1宮古諸島2八重山

4.徳之島と宮古島

 これを象徴するのは徳之島と宮古島である。

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(図7:徳之島の文様例)

 徳之島では、左端の図形が最も重視され、それに他の形態を組み合わせることによって文様が構成されていた。そのバリエーションも多い。

 これに対して宮古島の文様は発想が異なっている。ひとつのイメージからふたつの異なる文様を生んでいた三つの例に象徴させてみる(ツガと鋏、握り飯と箸、カシギとフツンケヤ)。

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(図8:宮古島の文様例)

 これらは、左端のようにひとつの文様を変形させて別の文様にしたり、ひとつの図形から異なる部分を抽出したりすることで得られる。これらが、左右の手に対で表現される傾向があることも、ひとつのものから生み出されていることを示唆している。ここには、異なるものに同じものを見出す霊力思考の働きを見ることができる。

 徳之島では、基本図形を元に文様を、いわば組み立てている。要するに頭を使っている。同じように言えば、宮古島のは心を使った文様だ。

 徳之島の文様を見ていると、島人が針突きのデザインを開発していた頃、別の分野でも徳之島には発達した技術が存在したのではないかという考えが浮かんでくる。あるいはそれは統一化され様式化される前の沖縄島の文様があったことを想定すれば、徳之島に限ったことではないのかもしれない。なにしろ、沖縄島は「蝶形骨器」を生み出しているのだから。しかし、それにしても複雑な組み合わせにおいて、徳之島の針突きは突出して見える。これはなにごとかを物語るはずである。

5.南太平洋との類似

 いわゆるトライバル・タトゥー(tribal tattoo)のなかで見ると、琉球弧の針突きに類似しているのは、インドネシアの文様だ。

Map
(図9:Roti, Moluccas, Ryukyu、『Tribal Tattoo Design』)

 たとえば、Rotiの文様は、徳之島の右手尺骨頭部の文様のひとつと同じものが出現する。また、右上の文様は、喜界島の手首内側の文様とも似ている。

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(図10:Lesser Sunda Islands、『Tribal Tattoo Design』)

 ただ、徳之島と同じ文様はインディアでもエジプトでも見出せるので、これは人類的な普遍性があるのかもしれない。同じことは二重に十字を重ねた宮古島の「トゥヌピサ(鳥の足)」についても言える。

 しかし一方、Rtoiでは音符のような曲線美の文様も創造していて、直線的な文様だけではない広がりが見られる。

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(図11:Lesser Sunda Islands、『Tribal Tattoo Design』)

 もうひとつ類縁を感じさせるのは、Moluccas だ。

Moluccas2
(図12:Moluccas、『Tribal Tattoo Design』)

 この点と線の構成は、宮古の島々のデザインを思い出させる。

 また、ミンダナオの文様もそうだ。似ているというのではないが、池間島や水納島のデザインを思い出させる。

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(図13:Mindanao、『Tribal Tattoo Design』)

 このミンダナオの島人も飽かず腕を眺め、また異性を魅入らせたにちがいない。

 近しさを感じさせるトライバル・タトゥー(tribal tattoo)と比べてもすぐに分かるのは、琉球弧の針突き文様は、連続化させることもなければ、デザインを洗練化させることもなく、アルカイックの域を出ないことだ。これは、針突きが女性の手を中心にした箇所にしか残されなかったことと関連していて、どこかの段階で男性や他の身体からは消失し、針突きのデザイン開発を止めてしまったことに依ると思える。

 しかし、これは言い換えれば、連続文様や洗練化などのデザイン開発は、現在の島人に委ねられているということだ。

6.霊魂のファッション

 琉球弧の針突きデザインのもうひとつの特徴は、それが「トーテムと霊魂」の表現に終始していることだ。「握り飯」や「重箱」のように日常的な道具の名称を持つ場合でも、それはトーテムの変形であり、神話上の人物が登場したり、人間自体が表現されたりするわけではない。これも人間が自然に対して優位に立ち、神が出現したときには、針突きのデザイン開発の時代は過ぎていたことを意味すると思える。

 言い換えれば、琉球弧の針突きは、刺青の初期のあり方を、アルカイック・デザインとともに保存したのだ。それは別の側面からも言える。

 人類学がマナと呼んできたように、もともと自然や人間の源になっているのは、流動的なエネルギーとしてとらえられる「霊力」だ。そこに「霊魂」の概念が生まれると、霊力も個別身体化されて、もうひとつの霊魂とみなされる。だから、初期の霊魂は、「ふたつの霊魂」が基本になる。しかし、その後には、二つの霊魂のままに保存されることもあれば、マブイとして霊魂優位に統一されたり、数を増やしたり、二つの霊魂の意味内容が組み替えられたりと、再編されていく。この点からいえば、「トーテムと霊魂」が際立って抽出される琉球弧の針突きは、霊魂発生の初期形を初々しい形で保存しているということだ。それは、針突きのデザイン開発が止まってしまった代わりに残された特徴であり資産だ。

 ぼくたちはその時期も想定できる。約4000年前だ。

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(図14.蝶形骨器、真志喜安座原第1遺跡)

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(図15.蝶形骨器、吹出原遺跡、金子浩昌「沖縄縄文時代の蝶形骨製品-その素材と形態について-」)

 「霊魂」が発生すると身体は霊魂を表すものとして見出されることになる。だから、仮面をつければ仮面が表す精霊(カミ)になり、シャーマンが衣装をつければ、その衣装が表す精霊(カミ)になることを意味した。約4000年前から沖縄島を中心に作られ始めた「蝶形骨器」は、琉球弧における霊魂の発生を物語っていると考えられる。

 考古学で「蝶形骨器」と呼ばれるこの造形物が、その名の通り「蝶」であることは、考古学者の金子浩昌によって確かめられているし、ぼくもその通りだと思う(cf.「沖縄縄文時代の蝶形骨製品」)。ここでは詳述できないが、これはシャーマンが装着したと考えられる。死者や霊魂の化身である「蝶」を装着したとき、シャーマンは精霊(カミ)として出現することができた。

 しかし、仮面や装飾以上に、霊魂を表現するのは身体である。だから、「蝶形骨器」の出現は、針突き(tattoo)の発生が根拠を持つことになったことも示しているのだ。

 琉球弧の針突きが、霊魂発生時の「ふたつの霊魂」を初々しい形で保存しているとすれば、「針突き」も約4000年前以降に発生した可能性を持つ。少なくともそのとき「針突き」は出現の根拠を持っている。約4000年前といえば、琉球弧でサンゴ礁環境が整い、「貝」が新たなトーテムとして見出される段階に入っている。それは「針突き」の表現が、「貝と蝶」を基本モチーフにしていることも符合している。

 この「蝶」の胴体部を見てほしい。上部が「山」型であり、それに連なるように同様の「山」が刻まれているのがわかる。このモチーフが指の背として展開されたのであり、「蝶形骨器」のデザインが右手尺骨頭部の、いわゆる「五つ星」として、奄美大島と徳之島では、手首内側の文様としてアレンジされたのである。これを見れば、手首内側のダイナミックな文様は、奄美大島と徳之島の島人が「蝶形骨器」を知ったうえで造形しているのもよくわかるだろう(参照:「奄美大島前腕部の針突き文様」)。

 ぼくたちにとってファッションは身体の衣装だ。ここでは衣装を変えることによって、その衣装が表す雰囲気をまとう。しかし、ずっとスーツを着ける人がいるわけではなく、ドレスで通す人がいるわけでもないように、それは一時的なものに過ぎないし、その本体には身体があるのを知っている。

 しかし、針突きは身体のファッションではなく、霊魂のファッションだ。だから、霊魂の姿である「蝶」を記すことになるし、祖先である「貝」を刻むことになる。この段階の祖先とは、現在の人間の系譜でとらえられる祖先ではなく、「トーテム-人」というイメージを持つ融合体がもともとの形だと思える。針突きに「貝」を刻み、またそれを拡張するとき、それは「貝-人」への化身そのものを意味したのだ。それを通じて、島人は、死へ移行と再生という円環のなかに自分たちがいることを確認することができただろう。

 針突きをすることによって、自分が何者であることかを表現する点では、現在のファッションと変わりないが、それは常に意味を持つ霊魂のファッションであり、針突きを媒介に動植物たちのトーテムの関係を結ぶ神話空間のなかに入ることを意味するのだから、いまのぼくたちには想像できないほどの喜びがそこにはあったはずである。針突きとは霊魂のファッションであり、それは脱皮(スデル)を通じた化身を意味していた。

 19世紀の文身禁止令以降、針突きをした最後の女性たちは、自らを卑下するように生きざるを得なかった。しかし、ここまで来てぼくたちは、いま針突きの野生の美と価値を受け取りなおすことができる。ここにはサンゴ礁とともに生きた島人の精神性や美意識が息づいている。

 ときはめぐって日本でも「土人」発言が出てくるように、ふたたび島人には生きにくい時代に入ったのかもしれない。かつて近代に入って、島では「日本人」になることに躍起になり、本土に出た島人が採ったのは「なりすまし作戦」だったと思う。これは揶揄としていうのではなく、あからさまな差別に晒されないためのやむをえない選択だった。しかし、いまやぼくたちは「なりすまし作戦」をふたたび採るのではなく、島人の野生の美と価値をめぐる思考を掘り下げ、新しい表現として創造する段階に入っていると思える。誤解を恐れずに書けば、「土人」を深化させるのだ。

 「針突き」に対しては意外に冷淡だった柳田國男は、それでも、「ひとりこのまさに消えんとする針突の文字なき記録のみが、我々を喚(よ)びとめてこれを語ろうとしているのである」(『海南小記』)と書いた。ぼくたちもここで立ち止まり、「針突き」が語ろうとするものに耳を澄ましてきた。すると、この文字なき記録はその意味を明かすだけではない。それは、「ここで躍れ」と、そう言っているのではないだろうか。






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2016/11/18

八重山の「針突き(tattoo)」デザイン

 小原一夫が『南嶋入墨考』で挙げている八重山のデザインは、石垣島の一例のみだ。しかし、これは調査が行き届かなかったというだけではないのかもしれない。1975年に調査した市川重治も、石垣島で完全な文様を持つ人とは、たった一人しか出会えなかったと書いている(『南島針突行』)。

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(図:石垣島、小原・同前)

 そこで、三宅宗悦が採取した八重山、与那国島の例は貴重なものになる。 

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(図2:上段左から、黒島、与那国島、波照間島、竹富島「南島婦人の入墨」)

 ぼくたちはここで、八重山のデザインが、宮古仕様ではなく、沖縄仕様で元に戻った印象を受ける。幸い、三宅は名称も聞き取っている。

 つけ根(右手):ジバゴー(石垣島)、ズバク(黒島)(重箱)。黒島では「フクラビ」とも。
 つけ根(左手):マンダナ(糸繰り器)。

 甲(右手):ツキンガナス(月・石垣島)、ウブツキ(黒島)。
 甲(左手):マンダナ(糸繰り器)。

 尺骨頭部(右手):クデマ(石垣島)、マンダナ(黒島)
 尺骨頭部(左手):八つマンダナ、アマン(石垣島)、ムリブシ(黒島)。

 まず、もっとも目を引くのは、右手尺骨頭部の、いわゆる「五つ星」が、黒島で「マンダナ(糸繰り器)」と呼ばれていることだ。三宅は、もうひとつの「クデマ」(石垣島)について説明していないが、これは奄美、沖縄で「クジマ」と呼ばれる「ひざら貝」ではないかと思える。「ひざら貝」はトーテムになった貝のひとつである(参照:ヒザラガイ「市場魚介類図鑑」)。

 宮古島の例を踏まえれば、「糸繰り器(マンダナ)」は「貝-苧麻(ブー)」由来のものと見なせるが、また「貝」そのものとしても呼ばれている。不思議なことに形態は、「蝶」由来の「五つ星」でも、名称は「貝苧麻(ブー)」を指すのだ。

 これは、琉球王府による支配の影響を物語るものではないだろうか。つまり、もともとここには別の文様があったのではないだろうか。

 その文様もある程度、推測は可能で、左手の甲とつけ根の「マンダナ」を見ればいい。手の甲の文様は、尺骨頭部の延長で描かれることを思えば、それは同じ名称のマンダナ由来のデザインであったと考えられる。

 これは重要なことを示唆していると思えるか。一見、与那国を含めた八重山の文様は、宮古島とは似ていないように見える。しかし、宮古島で仮説したように、右手の尺骨頭部が、霊力としての霊魂として左手尺骨頭部と同じ文様が描かれた点について、八重山と同じだということになるのだ。それは、八重山で「霊魂込め」を「タマスアビャー(霊魂浴び)」と、霊力表現で呼ばれることに符合している。

 すると、もうひとつ重要なことが分かる。

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(図3:徳之島の基本図形)

 徳之島のなかで、もっとも重視されていた上図の文様と、左手甲の「マンダナ」は酷似している。しかし、両者は由来を異にしていると考えなければならない。「マンダナ」が「貝-苧麻(ブー)」の由来を持つのに対して、徳之島の場合は、「蝶」の胴体部の図形を再配置して構成されていたことだ。その違いは、徳之島の場合、三角の曲線が強くなっているとに示されていると捉えることができる。

 手の甲に着目すれば、左のマンダナに対して、右が「月」名称と呼ばれるのは、与論島の手首内側の文様で、左手の「後生の門」に対して、右が「月」と呼ばれたことに呼応している。これまで見てきたように、「後生の門」は「貝」だから、左手の「貝」に対して、右手には「貝」が生み出す「月」が描かれていて、左右でひとつの世界観を表現していることになる。また、これが「太陽」でないのは、「太陽」より「月」が主役だった時代の痕跡なのかもしれない。

 そうということは、八重山の文様は、沖縄仕様に塗り替えられてしまっているが、呼称を通じてより古層の思考を残したのだと言える。見かけにだまされないように。八重山の針突きデザインはそう言っているのではないだろうか。






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2016/11/17

宮古諸島の「針突き(tattoo)」デザイン2

 宮古島の針突きについては、まだ言うべきことが残されている。手の甲の他にも、手首から下の腕に頻出する文様もあるのだ。

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(図1:左・ユクズ-・ウマレバン(小原一夫『南嶋入墨考』、中央・イツクズー(五つ握り飯)宮古仲宗根所蔵本「文身研究」、右・握り飯)

 左端は、「インヌプサ(犬の足)」とも言われ、犬祖伝承を思い出させるが、ウマレバン系の名称でも呼ばれている。真ん中と右端は、ごちらも「握り飯」名称だ。つまり、これらは「貝-太陽」系にもともとの由来を持つということだ。

 市川は、五つの点の「握り飯」について、中心点は「星」で、それを囲む四つの点が「光彩」を示すと聞き取りしているが、六つの点の「握り飯」が、「貝-太陽・月」を示すのであれば、この島人の説明は間違っているわけではないと思える。ちなみに、この話者は「この感じを上布に織り出すのに大変苦労をした」と語っている。

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(図2:右から、カザマーラ、アズファカザマーラ(小原・同前)、スーカザマーラ、ヤティ・カザマーラ(宮古仲宗根所蔵本・同前))

 これらはどれも「風車」名称で呼ばれている。「タカゼン」との類縁でいえば、これも「貝-太陽」に由来していると見なせる。つまり、「ウマレバン」「握り飯」「風車」の系列は、どれも「貝-太陽」デザインのバリエーションだ。

 そして、ぜひとも取り上げたいのは、「蟹」である。

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(図3:カン(ガン)小原・同前、市川重治『南島針突行』)

 奄美大島では、巻貝の渦巻きが具象性豊かに描かれていたが、こちらはデフォルメされているが本物の「蟹」を彷彿とさせる点、素晴らしい造形だ。この「蟹」もトーテムで、左手尺骨頭部のトーテムに呼応するように、左手の腕を中心に記されている。

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(図4:左・ミズヌパナ、右・右手尺骨頭部(小原・同前))

 左の文様は、右のタカゼン系列の文様の矢の向きを反転させて得られるものだ。面白いことに左の文様は、徳之島の右手尺骨頭部と同じである。右手尺骨頭部の「タカゼン」は、「蝶」由来と「貝」由来のふたつの可能性があった。しかし、左の文様が「ミズヌパナ(水の花)」と呼ばれていることからすると、「貝」由来だと見なせることになり、文様は同じでも徳之島とは出所を異にしている。

 こうして手の甲から腕にかけてたくさんの文様を散りばめているのが宮古島の針突きデザインの特徴だ。機織りの生産と文様の数が対応しているのであれば、奄美、沖縄での拡張と宮古の多数化が対応していると考えられる。拡張して塗りつぶす代わりに、文様の数を増やしていったのである。それが年齢階梯的に行われていたものが、機織りの生産という労働に置き換わっていったとすれば、宮古では針突きが社会階層のなかに組み込まれていったことを示唆している。

 さて、他の島を見ていこう。

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(図5:池間島、小原・同前)

 宮古島と同様に点と線で構成されていることは同じだが、なんというか星雲の流れのように刻まれていて美しい。 

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(図6:多良間島、小原・同前)

 多良間島は少し趣を異にして、尺骨頭部や手首の内側は、沖永良部島と似ている。

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(図7:多良間島、左と中央・アマン(小原・同前)、右・奄美大島・ゴロマキ(山下文武『奄美の針突』)

 左と中央の文様は「アマン」と呼ばれる。ただ、多良間島では「アマン」は、「蟹」で「ヤドカリ」ではない。ぼくたちはすでに、これを「貝」の文様の痕跡を持つものとして理解することができる。中央の文様は、奄美大島の「ゴロマキ(右)」と類縁を持つものだ。

 手首内側は、「トーテム」か「蝶」であったこれまでの例を踏まえると、「貝」由来に見えるが、サンプルが少なく、判断できない。

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(図8:水納島(小原・同前))

 水納島のデザインも美しい。水納ビューティと呼びたいくらいだ。帯をなす星雲のような池間島とはちがい、星座を示すように、ひとつひとつの文様を大事にしている印象を受ける。昼は針突きを見、夜は星を見るというように、貝に発する神話空間を見つめてきたのではないだろうか。

 宮古の島々の針突きデザインを見ていると、島影ではなくて星座を頼りに航海する島人を想像させる。実際、多良間島には「星見様」が残っている。点と線は針突きは施術の古法を保存したのかもしれず、また植物トーテムを重視したのは間違いないにしても、星空との一体感も感じさせるのが宮古デザインだ。

 ※参照:「宮古諸島の「針突き(tattoo)」デザイン1」





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2016/11/16

宮古諸島の「針突き(tattoo)」デザイン1

 他の島々が塗りつぶす面を必ず持つのに対して点と線だけで針突きを構成しているのが宮古の島々だ。しかし、針突きが「点」と「線」に始まり「面」を持つのだとすれば、これは簡素化、省略化ではなくて、初源の方法を保存しているのかもしれなかった。

 尺骨頭部と並んで重視されている「ウマレバン」から入ってみる。「ウマレバン」は手首内側の真ん中に記される点「・」で、「富貴の印であり、後生に行けば先祖が神様に見せなければならない文様であって、これがないと神様から素手で牛の糞をつかまされた」(市川重治『南島針突行』)と言われている。

 「ウマレバン」が、後生で先祖に見せなければならないという謂れは、与論島の「後生の門」と同じだ。ここで、与論の「後生の門」と宮古の「ウマレバン」を並記してみる。

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(図1:左2つ・「後生の門」、右「ウマレバン」)

 こうしてみれば、真ん中の「後生の門」の黒と白を反転させれば、「ウマレバン」になることが分かる。つまり、「後生の門」と「ウマレバン」は同位相にある。ぼくたちは与論の「後生の門」を、貝の口だと見なしたが、そこには「太陽」の意味も込められることになるから、「ウマレバン」は「貝-太陽」であると言っていい。これは、本土のお宮参りに相当する琉球弧の「太陽拝み」で、額につける墨と同じ意味を持っている。

 ぼくたちはここで、宮古の場合、点や線を面としても見るべきであるという示唆を受け取ることができる。

 そこで、「ウマレバン」とともに重要な尺骨頭部の文様に入っていこう。宮古の針突きを象徴するとも言っていい文様は「タカゼン(高膳)」と呼ばれている。

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(図2:タカゼン、小原一夫『南嶋入墨考』)

 左手の尺骨頭部として見た場合、もっともよく使われたこの文様は、小原に少し遅れて調査した三宅宗悦が採取した「盥(たらい)」にその前身の姿を求めることができると思える。

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(図3:「盥(たらい)」、三宅宗悦「南島婦人の入墨」)

 推移としてみても、想定しやすい。

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(図4:盥とタカゼン)

 さて、「盥」に現れる「十字」について、ふつう「+」「×」は、「禁忌」を意味するが、多良間島ではそれを「アデマ」と呼ばれていることに、市川は立ち止まっている。アデマは「豆腐を製造するとき豆をする石臼をたらいに支える支柱のこと」だ。

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(図5:アデマ、市川重治『南島針突行』)

 すると、十字は「禁忌」を表わすだけではなくて「豊かさの象徴」でもあるのではないかと市川は考えている。上図の「盥」は木製だが、実際に臼の上部にも同じく十字の支柱は設けられる。「臼」は女性器の象徴だから、ぼくたちは「臼」を「貝」に差し戻すことができる。実際、「タカゼン(高膳)」も、大きなお椀と見なせば、それを原形にさかのぼると、シャコ貝などの大きな二枚貝の殻にたどり着く。

 そこで、トーテムの座である左手の尺骨頭部の「タカゼン」は、「貝」を表現していると見なすことができる。

 ところで不思議なことに、宮古島では、右手の尺骨頭部も「タカゼン」で表現される。これはどう考えればいいだろう。

 尺骨頭部の左手と右手とでは、「トーテムの座」と「霊魂の座」という違いが認められる。それは琉球弧に共通しているのだから、右手は左手とは意味が違うと仮定できる。

 ぼくたちはすでに喜界島の例で、「蝶」の表現である、いわゆる「五つ星」から、「タカゼン」と同じ文様が出現する推移を見てきている(参照:「喜界島の「針突き(tattoo)」デザイン」)。

 実際、宮古島の尺骨頭部以外の文様では、下記の十字が矢になった文様も見い出せるから、喜界島と同様の抽象化が思考されたと見なすことはできるだろう。

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(図6:十字に矢、小原・同前)

 これで、ひと通りの意味では、左手の「タカゼン」は「貝」であり、右手の「タカゼン」は「蝶」と見なすことができる。右手の場合、「五つ星」という以上には名称の由来が不明になっているのと同様に、「タカゼン」も元の名称を失ったと考えられる。

 しかし、ここはもうひとつの視点で見る必要もあると思える。それというのは、トーテムである苧麻(ブー)のことだ。琉球弧の他の島々では、トーテムとしての苧麻(ブー)の表現は明瞭に現れないが、宮古では、宮古上布の文様と針突きの文様が呼応しているのだ。市川も、機織りの生産の多寡と針突きの文様の多寡が対応すると聞き取りしている(同前)。

 宮古の針突き文様は、織物の文様と呼応している。言い換えれば、身体を織物と見なしている。それは奇異なことではなくて、苧麻(ブー)という植物がトーテムであるということは、身体を植物として見なすことだから自然なことだ。宮古の針突きが、点と線で構成されるのは、それ自体が「苧麻(ブー)」を表現したものであることを示唆している。

 鎌倉芳太郎の『沖縄文化の遺宝』には、彼が収集した資料のうち、「宮古仲宗根所蔵本」の「文身研究」が載せられている。これは、1910(明治43)年のもので、文身禁止令から11年しか経過していない時点の資料であり、小原、三宅の調査より古い顔を覗かせてくれる可能性を持っている。そしてそこには、「タカゼン」の他に「ツンギ(紡ぎ)ヤマ」として、下記の文様が載っているのだ。

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(図7:ツンギヤマ)

 ツンギヤマは糸車に見えるではないか。これも、「タカゼン」の前身の文様であっても不思議はない。「タカゼン」の十字を囲む折れ線が、直角というより、どこか丸みを帯びているのも頷ける(「貝」であっても同様だが)。

 だから、左手尺骨頭部の文様は、「苧麻(ブー)」表現である可能性があるのだ。

 この場合、右手はどう見なせばいいだろう。

 ここでも考えられることはある。それは、宮古、八重山の霊魂観だ。奄美、沖縄では、霊魂が抜けたときに戻す儀礼を「霊魂込め(マブイグミ)」と呼ぶ。それを宮古では「タマスウカビ(霊魂浮かべ)」と言う。「浮かぶ」という言葉からは分かりにくいが、植物片が水に浮かんでくっつくことが霊魂が戻ったことと見なすことから来ている。「霊魂」は「込める」のではなく、「つく」のである。これは八重山で「タマスヅケ」や「アマスアビャー」と呼ばれることにより明瞭で、霊魂は「つける」「浴びる」のである。

 詳述する暇がないが、これは宮古、八重山では、霊魂が、「霊力」として捉えられていることを意味する。宮古では、奄美、沖縄で「セジ」と呼ばれる「霊力」に近いものとして「霊魂」が捉えられているのだ。この場合、霊魂は「もうひとつの霊力」として捉えられることになるから、左手のトーテム表現がそのまま、右手に移行することになる。それが、左右の尺骨頭部が同じ文様になる理由かもしれないのだ。

 宮古、八重山では霊魂の発生を「蝶」としてではなく、「苧麻(ブー)」を媒介にして捉えたとしたら、こちらの方が可能性は高いのかもしれない。そうだとしたら、左手は「貝と苧麻(ブー)」であり、右手は「苧麻(ブー)」ということになるだろう。

◇◆◇

 さて、宮古で手の甲を代表するのは、「トゥヌピサ(鳥の足)」と呼ばれる下記の文様だ(どちらかといえば、左手に多く出現し、左右共通の場合も多い)。

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(図8:トゥヌピサ)

 宮古では、面が点や線として表現されることを踏まえれば、これは与論島の左手尺骨頭部の延長で捉えると考えやすい。

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(図9:左・与論島左手尺骨頭部、右・トゥヌピサ)

 要するに、これも「貝-太陽」だ。これが右手により多く出現するのは、シントメリーを志向したものだと見なせる。

 興味深いことに、手の甲は「トゥヌピサ(鳥の足)」で終わらない。所狭しと、他の文様が出現するのが宮古の特徴だ。

 最も多く出現するのが、右手の「鋏(ハサミ)」で、それに呼応しているのが左手の「トゲヤ(ツガ)」である。

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(図10:トゲヤとハサミ)

 この文様は、左手の「トゲヤ(ツガ)」を元にしていると考えればいい。それは、指の背の文様をひっくり返したものに他ならない。そして、「トゲヤ(ツガ)」をひと筆書きにして、直線を曲線にすれば「鋏」は得られる。つまり、一方は他方の変形と見なせばいい。

 それと似たことは、「鋏」に次いでよく出現する「握り飯」と「ウミス(箸)」についても言える。

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(図11:握り飯と箸)

 これはひとつの長方形を思い出せばいい。

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(図12:握り飯と箸の構成)

 こう下敷きを敷けば、点で線で面を表わす宮古表現のひとつであることが分かる。阿嘉島で、右手の指のつけ根の類楕円が「握り飯」と呼ばれていたことを思い出してもいい。これも「貝」表現のバリエーションなのだ。

 「鋏」、「握り飯」に比べると、頻度は劣るが、手の甲の文様として挙げる必要があるのは、「カシギ(桛)」と「フツンケヤ」である。「カシギ(桛)」が左に出現することが多いのに対して、「フツンケヤ」は右に出現することが多いが、左手の「カシギ(桛)」と並ぶこともあり、左右の手の対という配置はやや失われている。

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(図13:カシギとフツンケヤ)

 カシギは、カセ(桛)で、紡いだ糸を巻き取る機織りの工具のひとつだ。「フツンケヤ」は、「人と人が対し合うこと、口むかうさま」と聞き取りされている(市川・同前)。

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(図14:カシギ(桛)、市川・同前)

 これも下敷きを敷いてみる。やはり長方形だと思えるが、ここで実際にあった例を元にすれば、沖永良部島で由来が分からなかった、手首内側の文様が思い浮かぶ(参照:「沖永良部島の針突き(tattoo)デザイン」)。これを元にすれば、やはり線の辿り方で、「カジキ」も「フツンケヤ」もひとつのイメージを元に生まれているのが分かる。

 同時に、由来が不明だった沖永良部島の手首内側の文様も「貝」と見なせるのに気づかされることになる。

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(図15:カシギとフツンケヤ構成)

 「鋏とトゲヤ」、「握り飯と箸」も、「カシギ(桛)とフツンケヤ」にしても、ひとつのものの違う表現型なのだ。だから、これらは対として出現することが多いのである。

 こうしてようやく宮古島の針突きデザインの典型例を抽出することができる。左が、「ウマレバン」はあるが、「フツンケヤ」を欠くもの、右は「ウマレバン」を欠くが、「フツンケヤ」も入っているものだ。

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(図16:宮古島の典型例)

(続く)





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2016/11/15

沖縄諸島の「針突き(tattoo)」デザイン

 沖縄島になると資料はぐっと増える。そしてそれに反比例するかのようにデザインのバリエーションは減る。小原一夫の挙げたたった4例でほぼ網羅できるほどだ。

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(図1:沖縄島の針突き:小原一夫『南嶋入墨考』)

 上図では首里の二例で示唆されているが、那覇、糸満では、奄美大島や喜界島で見られたように段階がある。

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(図2:糸満の針突き:鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』)

 これまた見事な拡張だ。ことに右手尺骨頭部の「五つ星」は、大小ふたつの文様を矛盾なく共存させている。手の甲の拡張された文様は、左手が「ウージ(扇)」、右手が「丸」と呼ばれている。「扇」は貝-女性器のシンボライズであり、「丸」も同様のトーテムを示している。

 下段の手の甲と尺骨頭部が同じになるのは、「特例なり」と、鎌倉は書いているが、ぼくたちの考えでも例外だと見なせる。

 段階はいえば、最初が20才の頃、次は孫ができた時とあって、その年齢が40才頃となっている。ということはそのまま延長すれば4世代になるのは珍しくない。孫ができた時点で、トーテムへの半身の変態は完了するのだから、これ以降は、なかばカミ(精霊)様だということになる。小原は糸満の「扇」を「末広がりにしあわせがあるように」という意図を書き留めている。また、沖縄島での拡張の年齢を61才、首里では31才とも聞き取りしている。

 小原の聞き取りで重要なのは、この拡張を「ティナー」としていることだ。これは、「太陽になる」という意味だと考えられる。

 調査の深化を示すのが下図だ。
 
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(図3:『北谷町の針突  調査報告書』)

 見えないかもしれないが、各文様の位置と大きさがセンチメートル単位で記入されている。奄美からみれば羨ましい限りだ。それに、新たに入れたくなる人に向けての設計図のようにも見えて面白い。

 これ以外のバリエーションについて、市川重治は、伊平屋島では、左手の指のつけ根で上部の食い込みが消える例を挙げている。

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(図4:市川重治『南島針突紀行』)

 このケースは、鎌倉も糸満の例でバリエーションのひとつに挙げていた(図2)。また、読谷では腕の針突きも挙げられている。

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(図5:市川重治『南島針突紀行』)

 鎌倉は、右腕の文様が、糸満の男性に見られることを書き留めている。これは、かつては刺青が手に集中していたわけではないこと、そして男性も刺青をしていたことを示唆している。

 また、他の文様もあったことを三宅宗悦は挙げている。

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(図6:三宅宗悦「南島婦人の入墨」)

 市川重治は、この文様を久米島で確認できなかったとしているが、鎌倉の資料を見れば、これが実際にあったことがわかる。

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(図7:鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』)

 市川が気にしている手の甲の文様は、徳之島の右手尺骨頭部に現れる文様と似ている。徳之島では、山の内側に曲線を食い込ませているが、久米島では三角形と言っていい形態を保っている。

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(図8:左・久米島の手の甲、右・徳之島の右手尺骨頭部)

 また、トーテムの座の左手尺骨頭部は、与論島のそれと似ている。

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(図9:与論島の右手尺骨頭部)

 与論でアマンと呼ばれた文様を、「菊形」と鎌倉は書き留めている。

 まだ挙げれば、上段右(Ⅲ)の手の甲の文様について、鎌倉は宮古島の文様との類似を指摘しているが、同一と考えられる文様が、徳之島の右手尺骨頭部に見られた。

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(図10:徳之島の右手尺骨頭部、小原一夫・同前)

 さらにある。下段(Ⅱ)の右手の甲の文様は、奄美大島の左手尺骨頭部と似ている。

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(図11:左手尺骨頭部、小原・前掲)

 手の甲:徳之島の右手尺骨頭部(類似)
 右手の甲:徳之島の右手尺骨頭部(同一)
 右手の甲:奄美大島の左手尺骨頭部(同一)
 左手尺骨頭部:与論島の同位置(同一)
 
 久米島と奄美各島との文様の類似と同一が示唆するのは、統一化と様式化が進んでいる沖縄島の文様について、それ以前のバリエーションを示唆していることだ。言い換えれば、沖縄島でかつて多様であったはずの文様について、奄美や久米島の文様がその痕跡を見せていることになる。

 久米島のユニーク性も挙げれば、なんといっても右手尺骨頭部のいわゆる「五つ星」が、五つの円で表されていることだ。

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(図12:久米島の右手尺骨頭部、三宅・同前)

 これもありえた文様のひとつである。

◇◆◇

 さて、市川重治の『南島針突紀行』で興味深いのは、各部位の呼称だ。煩雑になるが列記してみると、

 指のつけ根:ウミヌホウミボシ(海の女陰星)(那覇)
 左手の指のつけ根:ウミヌグジュマ(ひざら貝)(名護)、ホーミ(女陰)(国頭)、弓のグワ(阿嘉島)
 右手の指のつけ根:グジュマ(ひざら貝)(国頭)、握り飯(阿嘉島)

 左手甲:サンカクナー、月(名護)、オオジガタ(扇形)(久米島)
 右手甲:ティナー(読谷)、三日月(名護)

 左手尺骨頭部:朝日(名護)

 指の背:アマンム(久米島)、ムカジ(百足)(久米島)

 上記のようになる。

 指のつけ根の類長方形や類楕円は、貝名称で呼ばれるほか、那覇では、女性器そのものの名称で呼ばれている。また、名護では、トーテムの座の左手尺骨頭部が、「朝日」と呼ばれ、手の甲は左が「月」、右が「三日月」とされている。この各名称が示唆することは大きい。

 手の甲が「ティナー(太陽)」と呼ばれることも合わせれば、ここには、「貝-女性器-太陽(月)」という象徴の結びつきが見事に示されている。その太陽も昇りはじめの「若太陽」が重要であることも「朝日」には含意されている。与論島で、長方形が「月」の意味を妨げていなかったのは、「貝」を媒介にしているから矛盾を起こさないとみなせるわけだ。

 その他の証言で気に留めたのは、阿嘉島で、6回施術した女性は「文様は骨まで染まっているはずだと自慢していた」ことだ。同様のことは北谷でも聞かれて、「昔の人は、何回突いたら骨まで染まるといって、回数が多いほど自慢だった」(『北谷町の針突 調査報告書』)という。

 また、沖永良部島ではトーテムの座である左手の尺骨頭部は「アマム骨」と呼ばれていた(三宅宗悦「南島婦人の入墨」)。

 これらの証言は、針突き(刺青)と骨とのかかわりを雄弁に物語るが、おそらくこれは再生につながっている。トーテム名称を持つ骨があり、骨が、針突き、言い換えれば「トーテムと霊魂」に染まるということは、骨を根拠にして再び命を得ることを暗示している、もともと再生の時を意味したのだと思える。

◇◆◇

 沖縄島の針突きデザインは、統一化と単純化が進み、様式化している。ここまできて言えるのは、沖縄島でのデザインの統一化と様式化は、1609年以降のものだと考えられることだ。そしてそうであるなら、沖縄島とその周辺の島では、この様式化の過程で、手首内側の文様が消滅したことになる。

 しかしそれでも、文様の名称と拡張の過程に古層の思考を保存したのが沖縄島だ。

 那覇で撮影された針突きの模様の写真(昭和7年)を挙げておこう。ただし、これは模擬である。少女のお澄まし顔がそのことをよく伝えている。

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(図13:小原一夫・同前)

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(図14:小原一夫・同前)






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2016/11/14

与論島の「針突き(tattoo)」デザイン

 与論島になるとさらに採取数は少なくなる。典型例は下になる。

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(図1:与論島、小原一夫『南嶋入墨考』)

 しかし、採取数は少なくても示唆することがないわけではない。

 まず、トーテムの座である左手尺骨頭部は、昔の砂糖キャンディ(名前が思い出せない)のような星型だ。

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(図2:左手尺骨頭部、小原・同前)

 これはアマンと呼ばれているが、同じくそう呼ばれた沖永良部島の同位置の文様と並べてみれば、「貝」に由来しているのが分かる。

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(図3:沖永良部島、左手尺骨頭部、小原・同前)

 与論の場合は、貝-太陽を意識していると言える。

 霊魂の座の右手尺骨頭部は、2タイプ見られる。

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(図4:与論島、右手尺骨頭部、小原・同前)

 これを見ると、十字を得たことで、三角形の配置に自由度が生まれているように見える。


 与論で示唆を提供してくれるのは、手首内側の文様だ。左手には次の4パターンが見られる。

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(図5:与論島、左手首内側、小原・同前)

 四つ目のパターンは、塗りつぶされた四角「■」である。興味深いのは、これが「後生の門(仏の道)」と呼ばれたことだ。その意味は、ここを祖先に調べられたこの印のある者は後生に入れられるとされた。サンゴ礁の思考の神話空間では、「あの世への門」とは、貝の口のことだ。この文様の場合、真ん中に空けられた円や、素肌を残した四角形の対角線としてそれは示されている。つまり、「貝」は四角形で表現されることもあり得るのである。

 しかも、右手首の内側は、「■」「●」の両方があるが、この「■」が「月」と呼ばれているのだ。ここでも四角形であることは「月」の意味を損なっていない。そして、左手の「後生の門」が「貝」なら、右手の「月」は、貝から生み出されている太陽や月を表現していることになる。手首内側では、左右を一対として、地味ながら島人の世界観を反映させている。

 これは与論島の針突きの特徴として特筆すべきことだと思う。そして特筆といえばもうひとつ、右手尺骨頭部の「五つ星」文様が「蝶」であるという記録は与論島に残されていたものだった。この記録は、琉球弧全体に寄与できるものだ。






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2016/11/13

沖永良部島の「針突き(tattoo)」デザイン

 まず、典型例から挙げてみよう。

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(図1:小原一夫『南嶋入墨考』)

 なんとうか、これまで押し寄せるようなデザインを目の当たりにしてきたので、沖永良部島になって、いきなり小さくて簡素なデザインになりギャップを感じる。記録も少ない。島の大きさは島人の無意識の自信と通底するのではないかと、ときに思うのだが、その証のように、沖永良部島の針突きデザインは大人しくなる。けれど、喜界島の文様のことを思えば、これが思い過ごしに過ぎないことも分かる。

 大人しいとはいえ、細部のアレンジは興味深い。たとえば、奄美大島は手の甲のデザインが凝りの対象で、尺骨頭部は忘れられさせすることもあったが、沖永良部島では、手の甲は「●」「■」がほぼ共通しているのに対して、尺骨頭部でバリエーションを増やす。

 まず、挙げられるのは左手のアマン文様だ。

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(図2:アマン、小原一夫・同前)

 小原の『南嶋入墨考』でも、取りあげられ、ある意味ではよく知られた文様だ。ぼくたちもこれまでアマンと見なしてきた。しかし、こういう例もある。

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(図3:アマン、小原一夫・同前)

 これはアマンというよりは、貝に見える。これは貝トーテムの段階の具象性を失っていない。だから、これまで見慣れてきたアマン文様は、アマンへのトーテム更新の際に、線を細くすることでしつらえた新しい文様なのかもしれない。

 右手についても興味深いことが分かる。

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(図4:右手尺骨頭部の展開、小原・同前)

 こう配置すると、いわゆる「五つ星」を、頂点を上にした四角形として置くと、そこから十字に笠をかぶせた宮古島の「タカゼン」の文様が析出されてくるのが分かる。

 もうひとつ沖永良部島の特徴として言えるのは、シントメリーへの志向だ。

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(図5:針突き例、三宅宗悦「南島婦人の入墨」)

 この例の左手指の付け根の文様は、斜め十字ではない。

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(図6:左手指の付け根、三宅宗悦「南島婦人の入墨」)

 こんな風に楕円に近い形が斜め同士で交差していて、「ミヂクサバナ」(水草花)と呼ばれている。これは、十字から派生したというより、「貝」の変形としての「花」からもたらされていると思える。

 すると、左右の配置として言えば、

 左 T 右 S (つけ根)
 左 S 右 T (手の甲)
 左 T 右 S (尺骨頭部)
 ※T(トーテム)、S(霊魂)

 こういう配置になって、シントメリーを志向しているのが分かる。

 この三宅の例の場合、トーテムも霊魂も丸みを帯びた特徴を持っていることも付記しておく。全体的に丸みを帯びていて、今日的な感覚からいえばかわいらしい。

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(図7:尺骨頭部、三宅宗悦「南島婦人の入墨」)

 沖永良部島で難しいのは、手首内側の文様の由来だ。

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(図8:手首内側、小原・同前)

 三宅によれば、これはただ「ウデ」と呼ばれている。奄美大島と徳之島ではこの箇所のモチーフは明瞭に「蝶」だった(参照:奄美大島徳之島)。喜界島では、左右の尺骨頭部のモチーフがそれぞれ変形されていた(参照:喜界島)。

 この文様は、右手の甲の塗りつぶされた長方形と似ていることからすれば、「蝶」モチーフなのかもしれない。しかし、与論島では似た文様が「月」と呼ばれていることからすれば、「貝」モチーフの可能性もある。この点、いまのところ判断できない。





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2016/11/12

奄美大島の「針突き(tattoo)」デザイン

 奄美大島の針突きについて言うべきことは多いが、思考の内容は明瞭だ。

 山下文武は『奄美の針突』で、大島の基本的な文様をたくさん挙げている。

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(図1:基本文様、山下文武・同前)

 これに先立ち、三宅宗悦は、基本模様として1(マキ、ゴロマキ)、2(亀首、カメンクビ)、3(アズバン)を挙げていた(「南島婦人の入墨」)。

 ぼくたちはここで、トーテムと霊魂という針突きの思考を受けて、渦巻きの1(マキ)と十字の3(アズバン)の二つに絞ることができる。

 この基本形がどのように展開されていくのか。それはゴージャスだと言っていいたのだが、鎌倉芳太郎が取材した「ハナハヅキ」と呼ばれる一群の例を挙げてみよう。

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(図2「ハナハヅキ例。1、2、3、5(小原一夫『南嶋入墨考』)、4、6、7(三宅宗悦「南島婦人の入墨」)、8(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』))

 見事ではないだろうか。ここで基本形に還元すれば、3、4が十字(アズバン)でそれ以外は渦巻き(マキ)になる。1は、渦巻きが明瞭で、喜界島で「貝の蓋」と呼ばれたように、これは貝トーテムを示している。、あた、2の中心や5、6は「貝-太陽」のモチーフが展開されたものだ。その延長に7が生まれていると考えられる。8は、「牡丹の花」と呼ばれているが、祝女の神扇や来間島の伝承が示すように、「牡丹の花」は「貝」が変形されたものだ。

 1、2の例では、曲線で囲みを作り、その内部を全面的に使って文様を展開させている。ここには世界観が凝縮されていて刺青した女性たちの弾む心まで感じられてくる。まるでネイル・アートだ。いやこれは、プレ・ネイルアートと呼ぶべきだろう。

 あるいはこう言ってもいい。この囲いはサンゴ礁だ。そしてそれは貝でもあり、特に例2はそこから太陽も生まれている。これは、サンゴ礁が生まれて以降の島人の神話空間を見事に写し取っている。そしてそうなら、島人はここに胞衣や女性器も見ていたはずである。

 興味深いのは、ふつう十字は直線のみが強調されるが、3,、4では曲線が取り入れられ、柔らかい印象を残すことだ。十字ではあるが、太陽をほのかに思い出させるデザインになっている。これは、直線の強い徳之島とは対照的に霊力思考の強さを示唆しているのかもしれない。

 この一群を「ハナハヅキ(花刺青)」と聴取したとき、鎌倉芳太郎は、これが段階名であることを示している。

 フシハズキ(節刺青):12,3才頃に入れる。指のみ。
 ハナハズキ(花刺青):17才の頃に入れる。
 テビラハズキ(手背刺青):結婚を機に入れる。結婚、出産と分けて片手、両手に入れることもある。
 ウデハヅキ(腕刺青):ハナハヅキのときに入れる場合もあれば、遅れて入れる場合もある。その子の好みによると鎌倉か書いている。

 指の背から始まり、17才になると「ハナハズキ」をし、結婚や出産で塗りつぶすという過程を経るわけだ。沖縄島では、人生階梯の最後に拡張することが重視されているが、奄美大島と喜界島では、結婚や出産の機に塗りつぶすことが重視されている。

 そこで大島の典型例を挙げるとすれば、鎌倉のメモつきだが、これがもっとも相応しいと思える。

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(図3:大島典型)

 鎌倉はここで、「ハナハヅキ」は、「手背が花文を黥するに因りてこの名あり。美の象徴として黥す」とメモしている。アヤハヅキ(彩刺青)は、針突きの美称で、「タマハヅキ」「ハナハヅキ」と同意とも添えている。

 ところで、針突きの核になる尺骨頭部の文様は、次のようになる。

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(図4:尺骨頭部、左(アマングヮ)、右(サスカ:刳舟の腰掛))

 ハナハヅキに比べると簡素なので目立たないが、トーテムと蝶のモチーフは、琉球弧で共通のモチーフがしっかり息づいている。これを見ると、左手は「小アマン」と言われているが、「太陽」のようでもあり、「貝」の段階から変更が加わっていないのかもしれない。右は、「蝶」の意味が途切れている。

 山下文武は、尺骨頭部の文様は、下の手首内側と並んで、「入墨師に対する謝礼の丁重な人たちに多い」(同前)としているが、大島の場合、ハナハヅキの華麗さと引き換えに、尺骨頭部の重要さも忘れられていったと考えられる。また、「秀でた模様」は笠利、龍郷、三方、住用などの北部であるとしている。

◇◆◇

 さて、奄美大島の針突きデザインで、ぜひとも言及したいのは、尺骨頭部と並んでウデハヅキと呼ばれる手首内側の文様だ。

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(図5:ウデハヅキ)

 これは本人が両手を広げればこう見えていたことになる。

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(図6:手首内側:三宅宗悦・同前)

 これは部位によって、「亀の口」「魚の尾」「鳥の羽」「カマ」「ハサミ」「川エビ」などさまざに呼称されている。しかし、何度か書いてきたように、これは「蝶」をモチーフにしている。しかも、沖縄島周辺で出土している「蝶形骨器」の構成を元にしていると思える。(cf.「奄美大島前腕部の針突き文様」

 不思議に思えるのは、蝶形骨器の出土する沖縄島において、このウデハヅキの文様は現れないが、蝶形骨器の出土していない奄美大島と徳之島でこの文様が現れることだ。ここにはふたつの可能性が考えられる。

 1.もともと蝶形骨器を作っていたが、使用しなくなった代わりに、腕にこの文様を記すことになった。沖縄島では、この文様は消滅した。

 2.素材に使用されるジュゴンが沖縄島ほど多く出没しないなどの理由で、もともと蝶形骨器は作られておらず、その代わりにこの文様を記した。

 いまのところ、これを確定することはできない。1の場合であれば、徳之島や奄美大島でも蝶形骨器は出土を待っていることになる。どちらの場合でも、出土しない奄美大島や徳之島でも、蝶形骨器のデザインは知られていたことは重要だと思える。

 ここまでのところでいえば、貝(太陽)と蝶というトーテムと霊魂の具体的な表現がもっとも豊かなのが奄美大島だ。ハナハヅキの例2など、針突きデザイン最高の作品ではないだろうか。

 笠利で採取されたこの作品の持ち主の針突きを挙げておこう。 Photo
(図7:針突き、小原・同前)

◇◆◇

 さて、小原一夫も未調査で、その他の調査者によっても採取数が少ない加計呂麻島と与路島の例を挙げておく。

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(図8:加計呂麻島、三宅宗悦・同前)

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(図9:与路島、三宅宗悦・同前)

 加計呂麻島の場合、大島のデザインをやや簡素にした印象だ。与路島の手首内側は曲線を伴うのが印象的で、完全にブレスレット化していて美しい。これも蝶をモチーフにしていると予想できるが、その他の例などの詳細を知れないのは残念だ。小島は古層の思考を見事に保存していることがあるからだ。

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2016/11/11

喜界島の「針突き(tattoo)」デザイン

 喜界島の「針突き」デザインは、なんといってもアマン図形が際立っている。

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(図1:アマン、小原一夫『南嶋入墨考』)

 「アママー」(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』)と読んだ文様は、意外にすばしこいヤドカリの姿を彷彿とさせる。アマン文様は琉球弧でもポピュラ-だが、生き生きとした動きを捉えたものとしては喜界島が屈指だ。

 右手尺骨頭部の「蝶」の文様も興味深い。

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(図2:蝶、小原一夫『南嶋入墨考』)

 三角形と四角形の組み合わせのなかでも、上下左右に三角形を向けているのが特徴的だ。こう配置したことで、喜界島の文様は、展開を生んでいる。

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(図3:「蝶」モチーフの展開、小原一夫『南嶋入墨考』、2番目は、鎌倉芳太郎・同前)

 こう並べてみると、起点の「蝶」を皮切りに、「トンヤ(魚を突くもの)」(鎌倉芳太郎、同前)を間において、右端の文様(小原一夫『南嶋入墨考』)への移行が想定できる。(三宅宗悦は、真ん中の文様を、「トゥギャ(トンニャ)」と聴取している。「南島婦人の入墨」)。

 この右端の文様は、宮古島で頻出する「タカゼン」と同じものと見なせる。これは、宮古島の「タカゼン」が、「蝶」由来の可能性を否定しないことになる。(cf.「アマム図形」

 「アマン」と「蝶」の要素を組み込んだ喜界島の典型を挙げてみる。

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(図4:典型例、小原一夫・同前)

 しかし、この例には注釈が必要だ。手の甲は、大島や沖縄本島に見られるように塗りつぶされたものであり、これ以前のデザインを持っているのだ(喜界島の場合、19才のときとある。鎌倉芳太郎、同前)。

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(図5:喜界島例1、鎌倉芳太郎、同前)

 上記の場合、渦巻きを並べたダイナミックな文様に上塗りされるわけだ。「貝の蓋」という出自もしっかり記録されている。この例もそうだが、片方だけ残すことがあるのが分かる。その場合、見えなくなった箇所の文様は、残された方を見ればわかるということだ。

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(図6:喜界島例2、小原一夫・同前)

 この段階は、三宅宗悦(「南島婦人の入墨」)によれば、初回が10~12、3才、次が15才くらいと早い。この点、那覇や糸満で人生階梯の最後に行うのとは考えが異なり、あくまで成女儀礼の意味が強いと言える。

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(図7:二段階、三宅宗悦・同前)

 上手の例では、二段階目には指の付け根(ニタマ)にも入れられている。

 この塗りつぶされた最終形のなかでもひときわ印象を残すデザインも挙げよう。

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(図8:喜界島例3、三宅宗悦・同前)

 最上段の例など、唸ってしまう。

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(図9:喜界島例4、小原一夫・同前)

 また、この例にも見られるように、ときに、手の甲から指の背まで一体化する志向性が喜界島にはある。これは、琉球弧のなかでも特異な位置を占めるものだ。塗りつぶすことにかけては、糸満に次ぐ。

 もうひとつ、喜界島の特徴として挙げるべきことがある。手首の内側の文様だ。

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(図10:手首内側、小原一夫・同前)

 奄美大島や徳之島のこの位置は、「蝶」をモチーフにしているが、喜界島はそれとは異なる。

 ここは「フナミチ(舟路)」と呼ばれ、「入墨中最も痛かったものと総て婦人が述懐している」(三宅宗悦「南島婦人の入墨」)箇所だが、デザインのモチーフは、もちろん「船の道」ではない。これは、尺骨頭部の文様と比較してみれば、それを分解したものだということが分かる。喜界島の手首内側は、もうひとつのトーテムと霊魂の表現なのだ。





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2016/11/10

徳之島の「針突き(tattoo)」デザイン

 規則性を持ちつつ個人差も激しい傾向では、琉球弧のなかで極北にある徳之島の「針突き」デザインの典型例を抽出しようと試みる。小原一夫の『南嶋入墨考』がもっとも事例を提供しているが、なにしろ46例から、「手の背」について32例の文様が抽出できるのだから、バリエーションが極めて豊富だ。たしかめてないが、ひとつとして同じものはないと言っていい。頭が熱くなる。

 それでも特徴を言うことができる。

 まず、徳之島の「針突き」が最も重視している文様の要素は、四つの山が頂上を中心に向けたような下図だ。

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(図1:四つ山型、左手甲)

 このモチーフは至るところに出てくるが、最も多い展開例は、山を二重に重ねた下図になる。

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(図2:二重四つ山型、左右手甲)

 この文様は、手の背の王と言ってよく、最も使用された文様だ(左手17、右手22)。

 この「四つ山型」は、尺骨頭部の文様とも呼応していると思える。

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(図3:枝つき十字形:右手尺骨頭部)

 これも基本形と言ってよく、数が多いのは点を付加した下図の文様だ。

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(図4:点・枝つき十字形:右手尺骨頭部)

 この二つの「枝つき十字形」は、上記の「四つ山型」(図1)と対応しているのが分かるだろう。

 さて、「四つ山型」系列の次に多い手の背の文様は、次になる。

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(図5:四つ山+四角形)

 これは、四つ山型に四角形を重ねたものだということが分かる。

 これでひと通りの役者は揃い、これらの要素を盛り込んだ典型例を挙げるとすれば、下記になるだろう。

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(図6:典型例)

◇◆◇

 ところでぼくたちの関心事で言うと典型例の他に、より古層に位置づけられるものを探ることになる。関心の深さで言えば、こちらの方が気になる。

 まず、「四つ山型」系列と「四つ山+四角形」型に交じって見られるのは、四角形をベースにしたものだ(下図)。

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(図7:四角形+四つ山)

 これにしても、四角形に例の四つの山が付加されている。そり屋根というか、映画『インセプション』のトーテム風というか、いかに「山」型の文様要素が重視されているかが分かる。

 ただ、これがそのまま使われているのではなく、ここに様々な要素が付加されて一群を形成している。それぞれは一例しかないものも多く、これを基本形にして多様なアレンジが施されている。

 この図形(図7)を、四つ山型の派生形と見なさなかったのは、四角形を独立したものと見なしたいからである。

 ぼくたちは、「山」やその連なりを、蝶形骨器の「蝶」の胴体部に淵源を持ち、針突きでは腕に手首にも展開されている山の重畳から採られたデザインだと考えている(cf.「奄美大島前腕部の針突き文様」)。これらは「蝶」モチーフなのだ。

 「蝶」は「霊魂」に該当するが、針突きのもうひとつの重要なモチーフは、「トーテム」である。だから、図7を四つ山型の派生形と見なせばトーテム系列の文様が見い出せなくなる。そこで、四角形を「蝶」とは別のものとして取り出したいのだ。

 トーテムとして見た場合、この四角形は「アマン」と見なすことはできないから、それより古い「貝」を示すものだと思える。

 この推論が正しいとして、より古層の痕跡を残し、かつ四つ山系の特徴も保持しているものとして二例、挙げることができる。

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(図8:古層の痕跡が見られる例)

 この二つの左手甲は似ているが、点の付き方が異なっている。このわずかな違いでもバリエーションを増やしているわけだ。

 注意していいのは、トーテムの座である左手の尺骨頭部は、これらの例で四角形で表現されていることだ。右手の場合、手の甲の文様の簡略形として尺骨頭部の文様ができているように見える。これに対して左手の場合、図7の「四角形+四つ山」を基本形にしていると言っても、尺骨頭部では「山」は省略されている。そしてそれはスペース上の問題ではなく、もともとトーテムの座として四角形が重視された結果だと考えられる。

 ところで、より古層の痕跡が認められるものとして図8を挙げたが、実は数の上からいえば、針突きデザインでお馴染みの「●」「■」が勝っている。これらを古層として採用しないのは、手の甲にあっても尺骨頭部に採用されることは少ないことや、これまで見た手の甲の文様の複雑さからいえば異系列と見なせると判断したためだ。これはあるいは沖縄文様の模倣か、ある時期以降の沖縄からの移住者の系譜にある島人の文様なのかもしれない。

 徳之島の「針突き」デザインの特徴は何だろう。それはまず、「蝶」の胴体部の「山」への特化で、「翅」を省略していることだと思える。これが何を意味するかは分からないが、胴体部の構成要素である曲線を交えた三角が、手の甲の主要素として取り入れられてる。それは簡略化されて右手尺骨頭部の文様も決めていっている。

 ぼくたちが「貝」モチーフと見なした四角形にも「山」は付加されていて、「蝶」要素は両手に進出している。それに押される形で、図5の「四つ山+四角形」では、実は四角形は辺が途切れるまでになっている。これは「蝶」の思考の強度を物語るだろうか。

 琉球弧全域でみれば、霊力思考の優位が共通しているが、差異をつけるとしたら、宮古、八重山で霊力思考はさらに強度を増す。その比較でいえば、霊魂思考の強度がある奄美の特徴を、徳之島はもっとも強く持っていると言えるかもしれない。

 またここまでの推論が正しいとすれば、徳之島の「針突き」デザインの特徴は、アマン・モチーフが出現しないことである。これは、アマンをトーテムとしなかったということではなく、「貝」モチーフの文様を保持し続けたことによる。こうした例は他にないわけではなく、宮古島でもアマン・モチーフは現れず、おそらくは「貝」と「蟹」が並記されている。だから、トーテムからみれば宮古島よりも古い段階で、針突きデザインの基本モチーフを変更していない。その分、文様のバリエーションへ志向性を持ち、あるいは「蝶」モチーフを浸透させたのが徳之島なのかもしれない。





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2016/11/09

「針突き」消滅の時期

 もっと詳細な調査はあるのかもしれないが、手元の『南嶋入墨考』(小原一夫)から、「針突き」の消滅時期を推測してみる。

 調査年度は、昭和5~7年とまたがっているので、ここでは昭和5年の値を採ってみる。

 各島の被調査者の平均年齢と最少年齢(括弧内)は下記の通り。

 喜界島 77(72)
 奄美大島 76(68)
 徳之島 65(56)
 沖永良部島 74(65)
 与論島 68(59)
 沖縄本島 66(58)
 宮古島 63(40)
 宮古離島 56(30)

 このうち沖縄本島は年齢の取れているサンプルが2だから当てにならないし、既存の記録でももっと若いことは確認できる。

 奄美の文身禁止令が1876(明治9)年、沖縄は1899(明治32)年。ここに23年の差があるのだが、施術者の年齢幅をみると、ひと通りにはこの差を反映してはいる。

 ただ、奄美を見ると、1930(昭和5)年の調査時点で、喜界島と奄美大島、沖永良部島の平均年齢が70代なのに対して、徳之島と与論島は60代と若い。これは、後者では禁止令への対応はゆるやかだったことを示している。上記で未調査の島には加計呂麻島があるが、ヨーゼフ・クライナーが1962年に調査した写真集『加計呂麻島』でも、同島の古老に「針突き」は確認できないから、加計呂麻島も奄美大島と同様だったろう。

 山下文武が、1948年から1953年にかけて奄美を調査したのはラストチャンスだったということだ(『奄美の針突』)。

 概観して言えるのは、喜界島と奄美大島、沖永良部島は奄美の日本復帰後に、徳之島と与論島は沖縄の日本復帰後に、沖縄は80年代後半から90年代にかけて消滅したことになる(『与論町誌』では、1983年と記録されている)。

 単純化して、禁止令の90年後に消滅するとすれば、奄美は1966年、沖縄は1989年になる。各島ごとの年齢が採れている奄美をサンプルにすると、大島、喜界島、沖永良部島は1966年前、徳之島、与論島はその後になる。この幅は、主島と離島の差に一定程度は還元できるのだろう。

 しかし、驚くべきことに、上記で水納島(宮古離島)の最少年齢は30才なのだ。この方が百才までご存命だったら、2000年になる。世紀をまたいだ可能性だってある。

 
『奄美の針突―消えた入墨習俗』

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2016/11/08

16年後の伝播-琉球弧の針突き

 タトゥ・アーティストの大島さんに、こんど沖縄のハジチを入れる方がいるのでいかがですか?と声をかけてもらった。もちろんとばかりに、ご自身の映画(cf.『日曜日、すずは口笛を吹いた』(古勝敦監督))でも、主人公の少女の手にハジチを浮かび上がらせた古勝監督をお誘いして、7日の日曜にスタジオにお邪魔したのだった。

 最初の一時間が意思の確認と下絵。そして次の一時間が施術だった。施術は思ったより短時間であっという間に左手の文様が描き終わっていた。これは現在の工具では、そのくらいで仕上がるということではなく、大島さんの手さばきのなせる技だと思う。施術中、大島さんに彫りを入れている方の足元に注意を促されて、見ると刺繍のようなエレガントな文様だった。カリンマンタンの女性のトラディショナル・デザインだという。

 どうりでと思った。事前には、大島さんに奄美大島のデザインと聞いていたので、首里デザインと聞いて、なぜ?と不思議に感じていた。というのも、大島の文様といえば、ご覧の通りダイナミックでワイルドなものだ。

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(小原一夫『南嶋入墨考』)

 一方、首里はといえば、王府のあったところに似つかわしく、琉球弧のなかでもおとなしめなので、大島と比べると対極的なデザインなのだ。

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(小原一夫『南嶋入墨考』)

 どうりでと思ったのは、足元だけではなく、言われてみれば、既に施されている腕も、左右両腕のシントメリーを意識したエレガントなものだった。それなら、手も首里仕様がマッチしていると納得させられた。

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(施術直後)

 ぼくは左手の尺骨頭部(とがったところ)の文様がアマン(オカヤドカリ)であることと、それがぼくたち島人のトーテム(祖先)であることを伝えさせてもらった。せっかくしてくれるのだから、意味もきちんとお伝えしたかったのだ。

 打ち上げに向かいがてら、古勝さんに「何気なく見てましたけど、すごいことが起きてるんですよね」と言われまったく同感だった。これは歴史的な瞬間なのではないだろうか。

 ここには不思議なやりとりが行われている。琉球弧の針突きがいつ消滅したのかは正確にはわからない。でも禁止令後も隠れて針突きをした女性たちは多く、彼女たちが長寿なことを思えば、それに遅く見積もりたいという願望も込めて、2000年だとしてみよう。そうだとしたらその16年後のことになる。場所は東京で、かつ施術を受けたのはジェンダー・アイデンティティが女性の方だった。

 複雑だけれど、20世紀末に消滅した琉球弧の針突き(ハジチ)が、16年後に東京で若いジェンダー・アイデンティティ女性の手に復活したことになる。

 首里のデザインが琉球弧外の人に受け入れられたのだ。彼女は、強いられたわけではなく、奄美大島のデザインと比べて悩んだうえで選択している。うかがえば、手にタトゥをすることに抵抗がなかったわけではない。なにしろ、どう服を着ても隠れる場所ではないから。その壁を越えて決心したときに、手には、腕にも脚にも入れていない日本のデザインを入れたかったのだという。そのとき、アイヌと並んで琉球弧の針突き(ハジチ)が選択肢になり、首里のデザインは受け入れてもらえたのだ。

 これが文化の伝播ということなのか。自分が目撃しているものの価値が後からあとから押し寄せる波のように、じわじわとやってきた。

 こう言えば歴史的な瞬間ということが少し分かってもらえるだろうか。

 施術を知らずに、もし街中で彼女とすれ違うことがあったら、ぼくは強い衝撃を受けて、呼び止めずにはいられなかっただろう。どうしてそのタトゥをしているのか、それが何を意味しているのか知っているのか、つぶさに聞かずにはいられなかっただろう。そしてすれ違うこともなければ、知ることもなかったわけだ。

 だから、その瞬間に立ち会わせてくれた大島さんにも、首里デザインを選んでくれた彼女にも感謝せずにいられない。文身禁止令から約120~140年(奄美と沖縄では時間差があるので)、誤解を恐れずに言えば、「土人」の文化には、どっこいしぶとい生命力があってポジティブに蘇るという、素敵な兆候と受け止めたい。

 あとはやはり、刺青をした琉球弧の最後の女性たちが、卑下するように隠すように生きざるをえなかったのをねぎらい、野生美としての価値を復興させたい。入れる入れないは本人の選択だけれど、少なくとも、かつてあった針突きの価値を受け取り直すのは島人としてすべきことだと思っているからだ。

 cf.大島さんのサイト [Tribal Tattoo APOCARIPT]

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2016/11/07

『南海漂泊―土方久功伝』(岡谷公二)

 1929(昭和4)年、パラオを訪れた土方は、公学校で木工を教える仕事についた。

 彼は、まず公学校に行って、子供たちを集め、道具を渡し、近くの森に材料の木を伐りにゆかせ、主に浮彫をやらせた。私がその後に合った教え子たち--といっても、大方はもう七十すぎの老人だったが--の言によると、彼はいつもアバイの絵をお手本にするように言ったという。彼はこうすることで、単に手本を与えただけでなく、子供たちがアバイの芸術い誇りを持つことを教えたのである。
 南洋庁の狙いは、土地特有の物産品を島民に作らせることにあった。この狙いは、土方の努力と相まって、今に至ってみごとに実を結んだ。というのも、パラオの神話伝説を刻んだ横長の木のレリーフは、土方の教え子たちの手によって作られているからである。

 アバイはもともとは男子結社の集会所だっただろう。そこには神話や伝説にもとづく絵模様が描かれている。土方が手本にするようにと指示したのは、正しかった。そしてその前に、土方自身が「絵模様」に心打たれたのは素晴らしかった。それを作るということが、島人のアイデンティティを刻むことになるのだから、ストーリーボードは幸運な生い立ちをしている。

 著者の岡谷公二は、「南の問題とは、文明のありようの問題」であり、「戦前の日本において、真に南の問題を生きたのは、土方久功ただ一人だけだったのである」と評価している。当時の「日本の社会の鮮やかな陰画」とも。

 
[南海漂泊―土方久功伝』

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2016/11/06

メンタワイ族の他界観

 トライバル・タトゥのある部族として、メンタワイ族を知ったので、彼らの死生観を見てみる(cf.「メンタワイトライバルタトゥー」)。

 メンタワイでは、「死者は三日間墓辺をさまよってからあの世へ行く」。「あの世」は場がい島西岸の沖合いにあり、「大きな村」と呼ばれる。「あの世」での生活は「この世」とあまり変わらない。「漁撈や耕作をなすが、狩猟は行わない」。

 「夢や病気の時に身体を去る霊魂」、simagere
 「死ぬ時に身体を去る霊魂」、ketsat

 ボルネオとは異なり、相当「呪術が発達している」。

例えば、人を病気にするために、目標とする人の持物を沼に沈めてその品物の朽ちるごとく所有者を病気にしたり、また品物を木の上にかけ、それが陽に焼けるにつれて熱病にかからせる方法も取る。共に死霊の力を借りて行うけれども、元来これらの方法による病気は霊魂の喪失によるものとは観念系統を異にしているから、この種の病気になった者は毒物(tae)を抽出して治してもらわねばならない。(棚瀬襄爾『他界観念の原始形態』)

 これを見る限り、メンタワイ族は霊力思考が強く、病因が霊力に依るものとされていて、治療法を呪物を取り除くことに力点を置いている。

 にもかかわらず、霊魂の観念は発生しているので、霊魂の離脱とその捕捉という病因と治療も存在している。はっきりは分からないが他界はすでに遠隔化しているかもしれない。

 霊力思考を強く残すメンタワイ族も、霊魂の観念は発生しているので、それが刺青の根拠になっていると考えられる。棚瀬の資料には、トーテムの記述はないので、刺青デザインの意味は分からない。

メンタワイトライバルタトゥーのデザインにはわずかな個人的偏差はあるものの、基本的には誰もが同じパターンで、男のデザインと女のデザインの2種類のみです。スケールとしては顔面と指先をも含む総身彫りで、構成要素は点と線による表現を主体としています。(Mentawai

 この記述からすると、取材でまだ分かることはあるかもしれない。メンタワイ族の霊魂観からすれば、彼らの刺青は初々しいのではなかと思える。


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2016/11/05

『母ぬ島 - Mother Islands』(仲程長治)

 仲程長治の写真に出会ってから、自分の眼で島を見るのを止めた。もういっそそう言ってしまいたくなるのが彼の写真だ。

 それは、彼が石垣島という特権的な場所を持っているからという意味ではない。彼が撮るのはありふれた光景だと言ってもいい。仲程自身が、帰省するたびに人工化されてゆくのを島を目の当たりにして、何も撮りたくないと思う。それを思い直して、撮り始めたのは島人には見慣れた光景だった。でもそこには、見たこともないようなふんだんな野生にあふれている。

 どうしてそうなるのだろう。仲程と一緒に歩けば、こちらがすたすたと何も感じずに前へ進むところで、彼は立ち止まり、カメラを向けているはずだ。気づいていないだけなのだ。ぼくの身体と目は当てにならない。

 そしてここには、島の野生の美があるというだけではない。色や香り、風や光と翳の織り成すゆらめき。ページをめくるうちに、ああ人工物に覆われていなかったころ、島人には、島はこう見えていたんだなあという嬉しさが湧き上がってくる。

 『母ぬ島』には、仲程の母光子の詩も引かれている。

母親に紡たぼれる スクイぬ苧麻
(ウヤヌウミタボオーレール スクイヌブー)
唾ぬかざぬんどゥ 肝に思い染り
(ツィツィヌカザンドゥ キィムニウムイスマリ)
 がさつに訳せばこうなるだろうか。

 母が紡いでくださった籠の苧麻
 唾の匂いこそ心に染み入る

 素朴だけれど、母の想いだけではなく島の生命観までが充分に折り畳まれている。苧麻(ブー)は、トーテム(祖先)だった。それは母の身体であれば、子の身体を生み出したものでもある。それだからこそ、苧麻は自分の身体でもあるように内臓に染みわたる。唾という霊力も媒介している。感じるべきことを感じ表現することができるのは、どうやら仲程のトーテム系譜の力でもあるようだ。あまり神話のまといを着せるものではないだろうが、母の名も太陽の子として途切れずに継がれたものがあることを教えている。

 仲程にとって、苧麻(ブー)とこの一片の詩があれば、もう充分、母というか母系のつながりを感じることができるのではないだろうか。すばらしいし、うらやましい。

 この本は、「写真集」としてではなく「コンセプト・ブック」として提示されているのがいい。そう、ぼくたちは『母ぬ島』を味わうだけではなく、ここから考えていくことができる。これを元に島の表現を生み出していくことができる。『母ぬ島』は大事に取っておきたい作品でもあれば、使いこなしたい素材でもあると思う。

『母ぬ島(写真集)』

Hahanushimafix


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2016/11/04

『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子)

 この本は何をなしたということになるのだろうか。本の帯には「比類ない愛の神話を壊し、そして創り直した評伝の極北」という川村湊の言葉が寄せられているが、「比類ない愛の神話を壊し」たことになるのだろうか。しかし、それだとしたら神話の内側にいない者にとってはそこに大きな意味はないことになる。

 たとえば、『ザ・ビートルズ レコーディング・セッションズ』という本があって、そこにはビートルズがレコーディングした日付け通りに並べられ、何をどのようにレコーディングし、そこでどんなやりとりや出来事があったかが、それこそ『狂うひと』が依拠している日記のように、詳細に記録されている。ビートルズの曲に親しんだ者にとっては、その他の評伝は不要と言いたくなるほどに、そこからビートルズ像を浮かび上がらせることができる素材で、読んでいて尽きない井戸のように気づきを促してくれる。

 しかし、島尾敏雄とミホの作品と日記とエピソードが、想像するに何巻にも及ぶ膨大な資料として目の前にあったとしても、それをつぶさに追う契機と時間をぼくは持てないだろう。そういう多くの人にとって、『狂うひと』の事実の前後関係の記載や関係者の証言は、新しい知見と気づきをもたらしてくれるにちがいない。

 ただこの本は島尾敏雄とミホの日記集ではなく、著者によって時系列と引用箇所は編集され、問いかけと判断が織り交ぜられたひとつの作品だ。しかし、そのように受け取ろうとすると、島尾を断罪したいのか、ミホを称賛しつくしたいのか、それとも別の何かに対する洞察を込めたのかというところに物足りなさが終始つきまとって、これでは謎が勘ぐりの域を出ないことになってしまうような気さえすることがあった。

 『死の棘』を追う箇所は、書くほうもそうだろうが、読むほうもしんどく、しばしば、『死の棘』や島尾ミホがその後も行った敏雄への追求に、不足を感じた手を緩めない追っ手のように見えてうんざりしかけるところもある。それはぼくが男性だから、まるで自分が責められているような気がしてくることからもやってくるのだろう。そのように、最初は、第二のミホになって新たな糾弾をしたいのだろうかといぶかった。

 しかし後半になり、島尾ミホの作品や敏雄没後の姿を追う段になると、ミホを称賛しきるでもなく、女性として仇を打つでもなく、ミホのわからなさの方が浮上してくる。そこにいたっては、著者は島尾敏雄の立場とは言わないけれど、島尾の側にいる。

 著者の梯(かけはし)が、「これまでのミホ像」に異を唱えるために引いているうち、吉本隆明のものはぼくも読んできた。梯が引いているところを挙げてみる。

妻は夫が奄美の加計呂麻島に、特攻基地の隊長であったときの島の少女だった。その位相はニライ神をむかえる少女のようだ。また島に君臨する最高支配者をむかえる島の上層の巫女のようだった。(「島尾敏雄<家族>」)。

「島の守護者である武人として、奄美・加計呂麻島へ渡った島尾さん」(「島尾敏雄-遠近法」)

 梯は、当時二五才のミホは「少女」ではなく、司祭者であるノロの系譜を継ぐ家系であったとしてもミホは「巫女」ではなく、そう育てられたわけでもない。また、島尾も「島の守護者」ではなく、捨て石とされた奄美に赴任し、守るものがあったとすれば本土日本のことだったと指摘している。

 梯が壊したいのは固定化したミホ巫女像で、その発端のひとつとして吉本のこうした文章も挙げられている。ぼくはこの箇所を違和感なく読んできたと思う。それはどうしてだったか、振り返ってみると吉本は「巫女のようだ」と比喩的に書いていて巫女と規定しているわけではない。また、戦中派の吉本が実際は、「島の守護者」として島尾がいるわけではないことは知らないわけがない。しかし、そのように島人に見えただろうことは疑えないし、そういう位相で吉本も書いていると思う。

 「少女」には誤認があるのかもしれない。けれど、これも違和感なく読んだのは、まるで「少女」と言ってもおかしくない天真爛漫さを島の女性が発揮することがあるからだ。ぼくは、自分の母のそういうところに、半ば呆れ、「少女」と呼んでは母に嫌がられたが、いま思うと、「少女」という形容は、吉本のこの文章から思いついたのかもしれない。吉本の意図や根拠は別にしても、「少女」という表現には、大いに納得できるところがあった。

 このところは、梯も立場を明確にしている。

 島尾とミホの恋愛は、このように『古事記』と『万葉集』から引用した言葉に彩られているのだが、これはミホが「古代的」な女性であるからでも巫女の血筋だからでもない。恵まれた教育環境で文学的教養とセンスを身につけ、言葉の力をもって恋愛の昂揚と陶酔をもたらす力能を持っていたからだ。
多くの資料に接し、奄美の親族にも取材した現在の私は、いまだにミホの紹介文に用いられることのある「巫女の後継者として育てられる」という記述が誤りであることを知っており、彼女を「南島の巫女」と規定して霊能者のように扱うことをよしとしない立場をとる。

 これはどう言ったらいいのだろう。梯が吉本の他に挙げている奥野健男の言い方をみると確かに類型的で浪漫化している印象を受ける。それを機に「南島の巫女」というミホ像がどれほど固定化されているのか知らない。だからそれがどれほど壊されなければならないものかは分からないが、ミホは、「恵まれた教育環境で文学的教養とセンスを身につけ、言葉の力をもって恋愛の昂揚と陶酔をもたらす力能を持っていた」だけではない。

 梯の言葉を借りれば、ミホには古代性があり、巫性もあった。むしろ、全身を包むようなその資質とセンスを基盤にして、当時の島では考えられないほどの「恵まれた教育環境」と島尾敏雄という文学環境を糧に、日本語で表現する術を身につけたとき、ミホの作品は開花したと思える。ぼくは、「南島の巫女」像をそのまま肯うわけでもなければ、神秘化したいわけでもない。けれど、古代性や巫性は、ミホにずば抜けた資質があったとしても、彼女ひとりのものではなく、島のなかでは、島人にとっては日常だからだ。

 たとえば梯は、島尾の遺骨との対面を記したミホのノートを引きながら、

 呆然として目まいがするようだとしながらも、頭蓋骨にあいた耳の穴のことまで記述している。肉親や配偶者の遺骨をこのように見つめ、描写した文章を、私はほかに読んだことがない。

 と書いている。島人には洗骨を思い出させるが、記述されたことはないかもしれない、けれど、こうしたことはかつて日常で、梯が驚いているところで、島人は驚いている梯に驚くのではないだろうか。

 だから、『狂うひと』がどのように読まれていくのかは分からないけれど、ミホの作品や島雄敏雄とミホの道行きが、こういうのが妥当な表現かわからないが、近代的な文脈でのみ回収されていくのは、「巫女ミホ」像の否定にはなっても、ミホ像にはならないと思う。

 現実と夢のどちらにも行き来しながらどちらにも確かな手応えを突き詰められないような島尾と、現実と夢はどちらもリアルであるミホは、二人してどこからどこまでが敏雄でどこからどこまではミホの手になるのか区別がつかないような作品世界を築きあげていったように見える。そのいたるところに見つかる謎に向かって、それを謎というなら、もっと切り込み、抉り出してほしかったという感想を持つ。けれど、その肉迫の仕方が結局は、この世界に接近する角度ではないかもしれない。そういう意味では、『狂うひと』という膨大な取材作品は、島尾敏雄とミホに翻弄されたもうひとりの足跡なのかもしれない。

 本書は、足跡を追いつ追われつしているうちに、ミホの目で島尾を追い詰め、また、批判していたはずの島尾になってミホの性質に驚嘆し、異論の起点になった吉本になって作品や人物を切開していっているところがあると思う。そのどれでもいい、単眼でもいい、ひとつの視点で貫き通したものを読みたかった気がしてくる。

 そして譲れないこともある。ミホ巫女の固定像は破壊されるのか、そのことにぼくの関心はないけれど、その人物像や作品世界が近代的な文脈によってのみ回収されることは、島人のひとりとして、拒みたいと思う。

 

『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』






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2016/11/03

「「森神」にみる死霊観」(徳丸亞木)

 「森」を必ずしも祖霊信仰と関連しない死霊の祭場とする事例は広範に見られる。その死霊は開墾によって拓かれた土地の地霊的な性格も帯びる。そして地霊や水神が動物の姿で表象され、「森神」として祭祀されている例がある。

 山口県の美祢郡秋芳町の江原集落。

 ヤムシノモリサマ(蛇のモリサマ)とヒキノモリサマ(蛙のモリサマ)。神体は、それぞれ神木と石灰岩柱。モリサマには、守護神伝承と祟り神伝承が併存する。

 ここには、開墾した土地の地霊を祭祀する観念が存在するものと思われる。また、開拓始祖祭祀をする場合も、

開墾に際し、その土地を占有していた地霊そのものを動物霊として表象し、直接「森神」の祭神として慰撫・祭祀する動物霊祭祀の「森神」に対して、開拓始祖祭祀の「森神」では、地霊を鎮圧した開拓始祖の祭祀を通じて間接的に地霊の祭祀を行っているのではないかと思われる。

 「死霊の祖霊化儀礼」。

 徳丸の文章は、琉球弧のカミヤマ、モリヤマに対しても示唆が多い。


『「森神信仰」の歴史民俗学的研究』

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2016/11/02

落ちた太陽(カニク)

 「言葉をたずねて」のなかで、中本正智は、砂地をカニクというときの、ニは土で、クは処なのはすぐに気づくが「カ」が分からないとしている。

 トカラの宝島にもカノク(砂地)がある。また、「草木をやきはらって開墾した畑」という日本列島の「カノ」という言葉がある。

 つまり、堆積してできた海岸べりの原野を開墾し、畑にした砂地がカノコ(開墾した処)だったのではないか。

 琉球にのカニク(兼久、金久、兼古)もその由来ではないかと考えられている。

 でも、カニク地名は、畑以外にもあるし、畑以外の方がふつうである。というか、畑のカニクをぼくは知らない。中本は、ニライカナイの語源を追求するなかで、カナイを「日の屋」と解している。「カ」が太陽を指すことがあるのは、間違いのないことなのだから、カニクというのは、太陽が大地に化身したところなのではないだろうか。

 カニク地名の特徴は、砂が大き目であることだ。太陽が化身した土でできた地形、落ちた太陽のかけらたちでできたのがカニクだ。

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2016/11/01

グーザ(カンムリブダイ)漁の呪術

 野本寛一は、ブダイのなかでもビッグサイズのカンムリブダイ漁について書いている(「ヒルギとグーザ」)。

 ブダイのなかでも、ひときわ大きいのが体重六十キロにもおよぶカンムリブダイで、西表島ではそれはグーザと呼ばれている。グーといえば、鯨はグー、グージャーなどと呼ばれるので、グーザとは「鯨魚」を意味するのだろう。そのうえ西表島の祖納では、グーザは「神魚」とも呼ばれるのだが、浜辺に打ち上げられた鯨は、巨大な「寄り物」と言っていいので、鯨にちなむ名を持つグーザが「神魚」と呼ばれるのにも容易に頷くことができる。

 野本が紹介しているのはグーザ漁でみられる所作はとても興味深い。三艘の舟でイノーにやってくるグーザの群れを見つけると、ただちに蒲葵傘を脱ぐ。それはグーザに対する儀礼だと言われている。そこから網でグーザの群れを囲むが、囲んだところですぐにグーザを追い込むわけではない。それから一人の漁師が、船頭と見張り役の乗った舟に乗り移り、その舟で横になり絶対に動かないようにする。動いたらグーザの色が変わるとまで言われている。それを約二時間も続けるというのだから、大変な役目だ。実際にこの時間は潮が引くのを待つ時間でもあり、網を巻くころには干瀬の潮は膝ほどになっているので、グーザは泳ぐことができなくなる。

 つまり、人間は手をかけずにグーザを捕るのだ。二時間も寝た姿勢を強いられるのだから、手をかけないということが手間を惜しんでいるのではなく、ここにもグーザに対する敬意のようなものが感じられる。

 それにしても二時間も横になり動かないでいるのは何を意味しているのか。ぼくにはこれは、海の主である蛇と一体化し、蛇になる呪術のように見える。そして、海の主の力を借りてグーザは捕る必要があると、そう考えられたのではないだろうか。「神魚」とい呼ばれることになる魚だから、蒲葵傘を脱ぐというだけではない尊重がそこには込められている。サンゴ礁は「呪術不要の海」とはいえ、海の精霊との関係は忘れられたわけではなかったのだ。そしてそうだとすると、グーザは鯨魚とはいっても、その向こうには、蛇が思い起こされていたことになる。それが、「神」に折りたたまれた意味なのだろう。

 野本はもうひとつ、竹富島の「カタツムリのムヌン」も紹介している。それはカタツムリの害が甚だしいときに行なわれる。女達は石垣島がよくみえるミシャシ(岬)の浜に弁当持参で行くと、オン(御嶽)に祈ったあと、浜辺の野原に集まり、みんなでハマオモトの根を掘り、その白い薄皮をはぐ。そしてめいめいそれを口に当てて張り、口をふさいだような状態で、全員が一定時間横になる。ある女性は、「カタツムリの口をしめる呪いだ」と語っている。
 
 これも海の主の蛇の力を借りる呪術だと思う。カタツムリは、ナメクジに類するから、虫拳で言われるように蛇に勝つ力を持っている。相応の呪術が要請されたのだろう。


『生態民俗学序説』

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