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2016/10/03

『「日本人」の心の深みへ 「縄文的なもの」と「弥生的なもの」を巡る旅』(松本憲郎)

 「空気を読め」というような同調圧力にどう対していけばよいのか。それは一方的に否定すれば「絆」を失うし、一方的に肯定すれば「和」のなかで窒息死してしまいかねない。

 脱出の手がかりとして、松本憲郎が着目しているのが、「縄文時代にルーツを持つアイヌ民族および南西諸島の昔話にあらわれた日本人の心が、弥生時代にこうむった変化をみてゆくことによって、日本人の心の重層構造を明らかにできるのではないか」ということだった。その題材として松本が選択しているのが異類婚姻譚ということになる。

 まず、異類婚姻譚の中身に入る前に、アイヌの捉え方から見ていきたい。

 『珊瑚礁の思考』を書きながら、琉球弧に比べてアイヌは霊魂思考を発達させているということだった。たとえば、「カムイの魂を“送る”ためには「衣装」を脱いでもらう必要があります。それが、動物においては殺し解体することであり、器物においては「壊す」ことなのです」と、松本は書いているが、霊魂が自由になるためにそれを宿す身体の破壊が条件になるところにもそれは現れている。だから、これは「縄文的」なものとはいえても、一類型にとどめておく必要があると思える。

 松本は、「アイヌ民族の心」イコール「縄文人の心」と捉えているわけではない。「アイヌ民族の心」の特徴は、

 1.「日常の意識」と「深層の意識」のあいだには壁がない。
 2.「日常の意識」と「深層の意識」が、“送り”を介して出会いと別離を繰り返している。
 3.「日常の意識」と「深層の意識」が別の場所として意識されており、それを前提に出会いと別離を繰り返している。

 これが「縄文人の心」そのものでないと松本が考えるのは、「日常の意識」と「深層の意識」との“距離”が「アイヌ民族の心」よりも近いとしていることだ。なぜそう捉えるのか。アイヌの伝承によれば、「あの世」へ行くためには「入口」を通っていかなければならないからだ。ということは松本は、「この世」と「あの世」が同居していた段階を「縄文人の心」として捉えていることになる。

 松本はこの距離をこう理解している。

狩猟漁労採集の目的が「交易」のためサケ漁に大きくシフトしたことにより、森の中にあって、送り場と墓地と住居が一体となった集落構造をもつ生活空間=「縄文ランドスケープ」の中で暮らしていいた縄文人は、その生活形態を変え、川筋に住居をうつし、「平坦清爽な草原」である「アイヌ・ランドスケープ」の中で暮らすようになったということです。

 ここに「この世」と「あの世」の区別の契機を見出したということだ。しかし、森の中にすでに「送り場」があったのであれば、すでに「あの世」へ行くためには「入口」は森の中の生活で設けられていたと思える。

 確認はここまでで、ちょっと急ぎ足になるが、異類婚姻譚の構造をみると、

 アイヌ 「来訪-変身-結婚-出産-別離-結婚-出産-子孫繁栄-別離(死)-結婚」
 日本本土 「来訪-結婚-正体露見-殺害」

 「日本」の異類婚姻譚は、「動物の夫なり女房への強い拒否」があり、「配偶者が異類であることがわかってしまえばその結婚はもはや存続しえない」特徴がある。これが「弥生的」なところだが、西洋で「魔法」が必要とされるのとは違い、「変身」は自然に行われるところは、「縄文的」である。

 そこを糸口として松本は、

「縄文的なもの」こそは、「個人」として生きようとする「日本人」にとって、西洋における近代的な自我意識とは違う可能性をさし示しているのです。

 と主張することになる。ここはとても共感するところだ。

 松本は続けて書いている。

 そしてその「答え」とは(中略)、個々の主体を明確に区別しつつ、「日常の意識」と「深層の意識」の間で自由に視点を移しながら、「現実」を多面的にとらえて生きているアイヌの人々の意識に学び、自らの心の深みに、その「縄文的なもの」を「再発見」することなのです。

 これは具体的にどうすることなのか、問いは先へと進むのだけれど、琉球弧を探求する者として、島の異類婚姻譚へと旋回したい。

 琉球弧の異類婚姻譚のバリエーションも多いが、「魚女房」を取り上げてみる。

 採集-変身-結婚-喧嘩-別離-変身

 驚くことに琉球弧の場合、「来訪」が発端にはならずに、男がきれいな魚を釣るというような捕獲、採集から始まる。魚はきれいな女に変身するが、それは男にとって障害にはならずに、ふたりは結婚し子供を持つ。ところが唐突に喧嘩になり、女は名残り惜し気に海に帰る。そしてそれに終わらず残された男は嘆きの果てに鳥になってしまう。ここには「日本」の異類婚姻譚が持つような、異類の露呈が別離にならないばかりではなく、回帰構造もなく、人間もいなくなってしまう。

 ある意味では、アイヌより露骨に縄文的だともいえる。また、アイヌのように主体意識は明確ではなく、また、唐突に喧嘩してしまうように理由も定かではない。別離に終わるというところは「日本」の異類婚姻譚と同じであるものの、結局のところどちらも未練を残していて、なんというか別離しきれていない。

 まだ、深層まで読み解けないが、アイヌが人間と異類のあいだの話になっているのに対して、琉球弧の場合、異類同士のはなしになっているところが面白い。トーテムがリアルなのだ。

 ともかく、とても刺激を受ける本だ。
 

『「日本人」の心の深みへ: 「縄文的なもの」と「弥生的なもの」を巡る旅』

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