「古代人の魂について」(谷川健一)
島尻や大神島では、旧暦十一月を「フー月」と呼ぶ。これは「寒い季節になってきて、息をふうふうと手にj吹きかけてあたためるからだと説明される。フーが人間の息と関連のあることはこれで知られる」。(「国文学 解釈と教材の研究」1975、20巻1号)。
谷川健一が、「フーは息のこと」という理解はこの辺に端を発しているようだ。
フーはまだ魂そのものをあらわすのではなくて、魂の活動力を指すものである。それにたいしてタマスとかマブイとかいう語は、魂の一般的で、しかも静的な表現である。
フーとは霊力のことで、タマスは霊魂のことだと思えばいい。特徴的なのは、宮古では霊力をもとに霊魂が発想されていることだ。
宮古島では「魂を釣り上げる儀礼がある」。海の彼方の島で人が死んだ場合。カンカカリヤは釣竿を作り、その糸のさきに小石を結ぶ。そうして釣竿を三回海におろし、また三度引き上げる。そうして小石を肌着に包むと自宅に持ってかえり、この小石は仏壇の香炉や位牌のそばに、花米や麻糸と一緒に紙に包んでおく。この行事を「たましいを浮かべる」という。
つまり、マブイグミである、「タマスうかび」という言葉はここから来ている。
「おなり神」が「うなり神」となり「ぶなり神」と転訛するように、「苧」をあらわす「を」が「う」となり「ぶー」となり「ぷー」となっていく過程は自然に考えられる。
この連想は面白いが、なぜ「を」を起点に置いたのかと考えると、「玉の緒」との関連をつけたかったのかもしれない。
大神島ではタマスは七つあると信じられている。そこで、タマスの数だけ麻糸に七つの結び目を作り、それを子供の首にかけてやる。
麻糸の結び目として霊魂があるということが、霊魂の位相をよく物語っている。霊力の塊のように霊魂が発想されているわけだ。
もう一度、「息」のことに戻れば、
「フー」というのは息を吹きかけることがそもそものはじめであって、それが魂ともみなされるようになったと私は思う。
こういう仮定があって、「息のことをフーと呼ぶ」という断言が用意されたことになるのだろう。
ぐったりとした子供の頭の頂点の毛の渦巻き、すなわち「つむじ」に向かってフーと息を吹きかけることもする。
これは、「子どもや死者の顔に向かってタマヨバイ、マブイグミをなす呪法は、息をふきかけることである」(岡本恵昭『平良市史第7巻』)によって確かめられる。
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