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2016/09/16

『沖縄戦後民衆史』(森宣雄)

 書名からすると古そうに見えるかもしれないが、これは今年発刊された新しい本だ。そして今までに読んだことのない読後感を残すとともに、こういうものが読みたかったという手応えも与えてくれる。それは「沖縄の民衆」を主人公に据えることからもたらされている。すると、どんな民衆像を手にすることになるだろう。

 たとえば、森は沖縄の日本復帰をこう説明している。

日本が沖縄の「祖国」だというのは、日本政府が(沖縄住民の主権性)を米統治下に潜在化させ住民を無権利状態でゆだねる資格をもつことを、「祖国」の父祖性・家父長権において正当化するためにつくられた政治的神話であった。

 「神話」というのは、もちろん国家側のものだ。沖縄住民の無権利状態で米国に委ね、日本政府が主権を潜在化させるというのは米国の意図にも依っている。

この残余主権は将来の沖縄返還を準備するねらいで確認されたのではない。もし沖縄の主権を住民にたいして認めれば「住民は国連をバックに米国を追い出す権利を主張する」などの混乱が起こるのをダレスは予想し、人民自決の論理にもとづく沖縄の日本復帰、独立、他国との合邦、そして連合国や国連の沖縄統治への介入といった事態を封じ込める目的で、潜在主権というトリックは考案された。

 米国は国連への訴えかけで沖縄の人民自決が顕在化するのを恐れ、沖縄住民を無権利に置くとともに、潜在的な主権を日本政府に置く。日本政府は、その潜在主権によって「祖国」という政治的神話を持った。

 これに沖縄住民はどう対したのか。

米占領支配から自力で自治権を獲得し、設定された擬制にしたがって「祖国復帰」をはたし、日本の肢体内に入った。そのあと第二段階として、国内の民主制度と社会運動によって家父長的支配を無効化し、米軍の長期駐留の呪縛も解く、武装解除と自立の道を進めている。

 これは「祖国」に覚めた場所から、戦後を掬いとるように糸を張った理解だと思える。「擬制にしたがって「祖国復帰」をはたし」と言えるのも、ここで「反復帰論」などの資産を手がかりにしたものだ。

 ただ、民衆の情念は、奄美にしてもそうだったように、近代以降の「日本人になる」ことが圧倒的に強かったと思える。復帰後13年の時点で、「沖縄の心」とはと聞かれた県知事が、「それは大和人(ヤマトンチュー)になりたくて、なりきれない心だろう」と答えたところにもよく現われている。

 覚めた目でみれば、そもそも沖縄(琉球)人は大和人になれるわけではないし、なる必要もない。しかしこの「大和人」には「日本人」という含みも持っている。「日本人」になるということが、「日本国民」のことだとしたら、すでになっているのだから、「なる」という運動をする必要はない。けれど、「日本人」が国籍というだけでなく、民族性を含むものとして捉えたら、「日本人」になるということは、「沖縄(琉球)人」を否定することと同義だった。復帰後13年も経って知事が、「大和人(ヤマトンチュー)になりたくて、なりきれない」と言明するのは、「大和人」や「日本人」を、「沖縄(琉球)人」を否定して実現すべきものとして捉えられていることを示している。

 これは沖縄、奄美の人以外にはわかりにくい感じ方なのではないだろうか。

 森は古くからの格言、「物呉ゆすど我御主」(物やゆたかさをもたらす者こそ主人・国王だ)について書いている。

 「それは奴隷のことばだと、思われるかもしれない」。しかし、そこには、「ときの権勢は日没と日の出のように盛衰をくり返し、そのなかで社会も刷新され、生命力をえて循環的に歴史が進んでいくという見方」があり、それは「琉球の原始古代からの政治思想、歴史観である」。

 これをぼくの言い方でいえば、力の源泉が自然(珊瑚礁)にあり、自分たちのなかにあるのではないという思考が色濃く投影されている。そしてそのうえでその自然と一体化するのだ。

 それはこういうところにも顔を出しているのだろう。

 〈沖縄〉は米軍「異民族支配」には対峙したが日本の国権に対抗する主権的主体には発展しなかった。

 それはなぜか。そう問うて、森は「沖縄の主権的主体化、それはないのかもしれない」。「沖縄の民族意識と団結は防衛的なものであり、「力を組織して」主権を構成する道には進みにくい」と書くが、ここにも力の源泉が人間のなかにあるのではないという思考が現われている。そして他なる力の源泉に自分たちを溶けいらせるように合体しようとする。

 森は続けて、「国家を相対化する民衆史観、異文化・普遍性への越境などの精神文化は、権力(たとえ自生的なものでも)の集中をはばむ。組織化をこばむ野生性の精神だ」と書いている。

 力の源泉を自分たちのなかに持たないということに強い意味を見い出そうとすれば、「国家を相対化する」ことになるだろうし、「組織化をこばむ」ことにもなる。しかし、それは内側から強く主張されることはない。そういう理念のもとに取り出された思考ではないし、それが野生ということの意味だからだ。

 この本の話題に戻ろう。森は、沖縄の文化の固有性と普遍性を挙げている。
 
沖縄の固有性

 民族的同胞意識
 国家史を相対化する民衆史観固有の民俗文化の復興
 女性の(精神的優位性の)復権
 団結・自衛の伝統

普遍性

 人の情けを重んじる価値観
 自然を大事にする価値観
 いのちを大事にする価値観
 異文化・普遍性への越境
 超党派的な連帯への献身

 これらがどんな風に編まれているか。

同胞意識と団結・自衛の伝統が結合した、沖縄の民族的団結・主体化のエネルギー、つぎに異文化や普遍性に越境し超越的な連帯にひらかれようとする渇望、さいごに国家や権力の変遷を突き放してとらえる歴史(社会)観。この三つの潮流がせめぎ合い何らかの調和をとげるなかで、歴史を動かすダイナミズムがうみだされてきたようにみえる。そのほかの、人の情け、自然の偉大さ、いのちを重んじる価値観、民俗文化、女性の精神的優位性は、三つの潮流のいずれにも根源的な生命力をおくる基盤的な精神文化といえるだろう。

 これらの指標が民衆史を解きほぐすうえで親切なガイドを果たしている。

二〇世紀の戦争遺産から手をはなさない日米同盟に軍縮と理性的行動をもとめるパートナーをアジアにもとめていくには、なにが必要だろう。なによりも大きな交渉力、ソフト・パワーの土台となるのは(あらかじめ沖縄にたいする支配権の名乗りあいを防いでおくためにも)歴史と文化に即した自己像を明確に打ち出すことではないか。

 この自己像が切実だ。それが必要だという想いでぼくも『珊瑚礁の思考』を書いた。

 森の挙げる固有性と普遍性が「歴史を動かすダイナミズム」としてどこまで行けるのかということと、琉球独立論が「主権を構成する」ところまで行けるのかということが、併走して問われるところに現在は至っている。

 

『沖縄戦後民衆史―ガマから辺野古まで』

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