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2016/09/30

他界の遠隔化による境界部の移動

 マンガイア島の死霊は、夏至と冬至の日に二つの地点に集まる。

 島の南半分の大多数の死霊は、夏至の太陽が昇る「赤洞(赤い朝陽を受ける)」に、冬至は「小さき歓迎」と呼ばれる冬至の朝陽に面する地点。

 マンガイア島のかつての「あの世」は、「アレマウクという西の海に張り出した崖」を入口としていたが、他界が遠隔化されると、上記の「赤洞」と「小さき歓迎」に境界部は転移している。

 他界が遠隔化されると境界部も移動する例だと言える。「岬」はだから、遠隔以降の境界部でありうるわけだ。

 「みみらく(みいらく)」は、その音韻からいえば、かつての「あの世」そのものを指していた。遠隔化とともに、みみらくの埼と境界部の名称として残存したということになる。

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2016/09/29

「八重山歌謡に見える植物」(山里純一)

 アダンの新芽からは豊年祭のときにはスナイ(みそあえ)を拵えて神前に供える。八重山の開闢伝説では、アダンの林のなかから男女が地上に現われて、アダンの実を食べて命をつなぐ。このときに人間に先だったものは、ヤシガニでもあったのだろう。

 八重山には、死体化生を歌ったジラバがある。船の材料になる材木に化生している。詳しく調べてみよう。

 「かねーら・かにん」。ハマゴウのこと。これは、方名が気になる。

 「くにぶん」。実が小粒のときに採って乾燥させて糸を貫いて首にかける玉をつくる。であれば、シークヮーサーも神聖な植物だったのだ。

 「ぴんにき」。オヒルギ、アカバナヒルギ。マングローブ林に生える常緑の高木。

 西表島祖納の「井戸ぬ端ぬあぶだーまユングトゥ」。

 ぶし木に下らぬ      ぶし木の下に棲息している
 きぞがま          きぞがま(シジミの一種)が
 ぴーに下り ぎらなるけ 珊瑚礁に下りて シャコ貝になるまで
 我がけーらぬ生命    私たちの命も
 島とぅとぅみ あらしょうり 島とともにあらしめてください。

 ここでの「ぶし木」もヒルギのことだという。シジミもシャコ貝になる。貝たちがシャコ貝の子とされているのがよく分かる。

 「ゆな(ゆうな)」は、「意外なことに古謡で謳われることはあまりな」い。

 「ぶー(苧麻)」。苧麻が栽培されるまでは、山野に自生するオンカラムシを利用していた。繊維のこともブーと呼ぶ。

 山里のこの資料は、植物について視野を広げてくれて、ありがたい。cf.「八重山歌謡に見える植物」(山里純一)」

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2016/09/28

奄美大島前腕部の針突き文様

 奄美大島の前腕部の針突き文様を見てみる。鎌倉芳太郎は、こんな風にデッサンしたものだ。

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 小原一夫は下のように抽出した。

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 このそれぞれについて、図形を分解してみる。

 1.左腕の文様について、曲線を使った左側と、三角の連なる右側を分解する。
 2.右腕についても同様。

 そのうえで、左右の三角のつらなりは縦に並べる。その他は、横のまま配置する。

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 これは、蝶形骨器の翅の8つの変化点を強調したデザインに見える。

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 編成したデザインの変化点をカウントすると左は8、右は7になる。

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 前腕部の針突きのデザインも「蝶」だ。そしてそのデザインは、蝶形骨器をモチーフにしている。奄美大島で蝶形骨器が発掘されてもおかしくないのだと思う。

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2016/09/27

『平田篤胤 交響する死者・生者・神々』(吉田麻子)

 「皇国史観の元祖」であり「狂信的国粋主義」者であるという平田篤胤像を、この本は等身大のものに差し戻している。著者の吉田麻子がイデオロギーでそうしているのではなく、ありのままに平田に向き合うことでそれはなされている。

 「皇国史観の元祖」、「狂信的国粋主義」者という平田篤胤像も、戦後のトラウマがつくりあげたものだ。考えてみれば、明治以前の平田が太平洋戦争を支える思想を用意できるはずもなかった。もっと手前で言っても、平田は明治維新を起こす原動力となる渦中にいたのでもなかった。実際、朱子学を旨とする江戸幕府にとって、国学は危険視され、平田篤胤も出版を禁止され、晩年は故郷秋田への隠棲を強いられて没している。

 ただ、平田がそれをかすかにでも共有していなかったわけではないのは、彼の探究が、ロシアの接近の情報を得たいたからこそ生まれたと見なせば、尊王攘夷の旗印になることは、偶然ではなかったとも言える。1843年、平田は江戸への復帰をかなわぬまま没しているが、それから沖縄を経由してペリーが浦賀へやってくるのはわずか10年後である。

 吉本隆明は、国学がなぜ明治の革命原理になりえたのか長いこと分からなかったが、中国からの借り物ではなく、自前の思想だったがゆえに革命原理になりえたことに気づいたと、晩年に何度か述懐しているが、平田の探究の動機から言うと、自前の必要は時代の趨勢を感じた危機意識がもたらしたものだということを本書は教えている。

 本書を通してみると、平田篤胤が狂信的国粋主義者と見なされるのは、日本が世界のもとになった国と主張したことに依るのかもしれない。今からみれば、荒唐無稽なのだが、しかし、そう平田に考えさせたのは、『古事記』『日本書紀』あるいは、それすら元の形をなしていないとして、周辺の文献や伝承からもとの形は復元できると平田に考えさせた資産があったからだとも言える。中国の圧倒的な文明を意識して、『古事記』『日本書紀』が編まれたとすれば、平田らがやったのは、西洋の接近を意識した『古事記』『日本書紀』の祖形の復元であり、そういう意味では時代の反復を意味している。

 『古事記』や『日本書紀』などの資産がたぶん特異なのは、神話時代のことが文字として豊富に記述されていることに依るのだと思える。

 そこで、吉田のガイドに添って平田の世界観を覗いてみることにすると、死後の世界である「幽冥界」は、

人間の世界から遠く離れたところにはない。この地球上の、われわれの日常に隣り合わせるように、重なるようにして存在している。
「すぐそばにある死者の世界」に包み込まれるようにして、あるいは死者や神々と一体となって、われわれは生きつづけている。
 私たちを包み込むように、そして現世に重なるようにして存在する幽冥界。そこは死んでしまった親しい人々の霊ばかりでなく、天狗をはじめとするさまざまな妖怪のいる場所でもあった。また、亡くなった人の霊魂は幽冥界で神となる。そして天(太陽)とのあいだを往来しながら、人間の住む現世にもときどき姿を現し、不思議なことを起こすという。

 こう考えられている。「霊魂」は、「永遠に尽きることなく、消えることもなく、墓でも祭り屋でも、祭る場所に必ずいる」とも語られる。

 これは「夜見の国」に他界をみる本居宣長より、はるかに前の段階を見たものだ。言ってみれば、他界が「夜見の国」として分離される以前、しかも他界を生者の空間と区別しなかった共存の段階にまで遡る。異なるのは、平田の思考の段階で、直線的に伸びる時間の観念は無限化しているので、霊魂は不滅ということになっている。

 死者との共存の段階では、死者の霊はそれを記憶する生者の生存の期間に限定されるから、平田の他界観は、死者との共存の段階を、直線的に伸びる時間が無限化したところで捉えられたものだ。そこで祖霊も、記憶にない世代まで遡られてオヤとして捉えられることになる。時間が無限に遡及できるものになった分、オヤも顔が思い浮かべられる範囲を逸脱して、得体のしれない巨大なものになることが想像できる。

 平田の世界観が古代以前に遡行していると思えるのは「心」観にもあって、当時あるべき姿を「曇りのない鏡」として捉えられていた「心」を、平田は「凝る」ものとして温度や動きを加えた。

 さて、そのように萌え出し、寄り集まって凝固するものをそのまま「ココロ」と名付けたのだが、心や思いが萌え出るのは、そのまま身体に固有している火によるのであるから、「燃える心」「焼ける思い」などという言葉は、その状態によく適っている。(『玉襷』七之巻)

 「曇りのない鏡」がいわば霊魂的な「心」の捉え方であるのに対して、「萌え出し、寄り集まって凝固する」「心」は霊力的であり、「心」の原義に近しいものだ。琉球弧の野生の思考に照らせば、「身体に固有している火」は、トーテムとしての貝であり、太陽を生む貝がもたらすものと理解されたのかもしれない。そしてそれは身体に貝を宿す女性に強いとも。

 『古事記』や『日本書紀』を世界記まで拡張したのは、イザナギ、イザナミによる国生みを根拠にしているように見える。イザナギ、イザナミは淡路島を胎盤として大八島を生む。そして「外国の国土は神が産んだのではなく、潮の沫が集まって成立したとされる」という。いまさら驚くことでもないが、国生みの平田理解によっても、琉球弧は外国という理解になるわけだ。

 また、平田はイザナギとイザナミの国生みの男女の交わりを重視して、それはムスビノカミにまで拡張されている。これも特徴だと思える。

 吉田麻子のガイドによる平田篤胤像は、現代なら宗教学者にして民俗学者ともいうべきもので、好奇心にあふれ、俗っぽさを手放さず、夢中になって「霊妙不可思議」を追い求めていった探究者として浮かび上がってくる。


『平田篤胤: 交響する死者・生者・神々』

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2016/09/26

ブー・フー・プス

 谷川健一は、八重山の「マブイごめ」について書いている。

 身内の誰かが、麻の紐を持ち出し、子供の年齢の数だけの結び目を拵えて輪をつくり、その輪の中に魚を追い込む動作をする。「それは外に出てしまった子供の魂を輪の中に入れる仕草なのです」。それが終わると輪になった麻糸を子供の首にかける。「それは魂が子供の身体にもどって、納まったことを意味する」。

 結び目を持つ麻糸の輪を首にかけることによって、魂を身体に鎮めることが可能となるというのが首飾りの原型であると私は考えています。

 宮古島では、運気(フー)が衰えたことを「フー下がり」という。フーを元に戻すには麻糸(苧)をまるめで縛り、フーの下がった人間の頭上に置く。また、臍の緒を煎じて飲ませることもある。「へそお」というのは輪に巻いた麻糸のこと。それを「へそお」と呼ぶのは、輪に巻いた麻糸が「へその緒」の格好をしているから。

 宮古島では、つむじは「ピス」という。へそはプス。ピスもプスも生命の息(フー)を体内に吹き込む所と考えられている。「そこで、このピスとプスはまぎれもなく親縁の関係を持つ言葉と考えられます」。

 谷川はここで重要なことを指摘している。そして、ことは「ピス」と「プス」だけではない。「フー」も「ブー」もそうなのだ。

 どの言葉が起点かは分からない。フーかもしれない。「フー」は息として運気として、もうひとつの霊魂を指す言葉になる。ブー(苧麻)はその思考のもとに見い出されたトーテムだ。おそらく、臍の緒と似ているというだけではない、苧麻から採れる糸のつらなり、息などを霊力の表現として捉えたのだ。苧麻がトーテムになるのは、自然の現われ方から自身の姿を見るという眼差し返すという視線が生まれた段階だという気がする。

 宮古、八重山の「マブイごめ」は、そのブーによってフーをつなぎとめるべく、身体にブーが巻かれる。霊魂も霊力的に捉えられている。あるいは、霊魂としての霊魂は、霊力としての霊魂にくるまれている。だから、マブイごめも「タマスツケ(タマスアビャー)」と表現する方が正確なのだと思える。


『谷川健一全集〈第11巻〉民俗3―わたしの民俗学 わたしの「天地始之事」』

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2016/09/25

「呪術と霊魂観」(幸地哲)

 幸地哲が宮古島砂川を例にした「呪術と霊魂観」が面白い。

 幸地は、タマスウカビを「魂浮かび」と解している。これは「茅」を身体と霊魂に見立てて椀に浮かべるところから来ているのだと思える。

 面白いのは、病気、死後の状態の図解で、幸地は、死後に明確に分離する状態を描いていることだ。ぼくたちはこれまで、病気は、一時的な分離を指していると捉えてきたからだ。

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タマスウカビによってもとの身体の中に安定化される魂とは、一時的に遊離しただけで完全な遊離とはみなさないので、(B)のように魂を身体から切り離さないでどこかで一部身体につながっていると解し、図式化した。
特に大病になると図1(B)のような身体と魂がかろうじて接触しうる状態で危険と解される。魂が有利したのをようやく接触させた段階と考えたい。

 幸地が宮古島出身者なのか知らないのだが、これは島人の感覚をよく捉えているのではないだろうか。つまり、宮古、八重山では完全な霊肉分離とは捉えられず、霊魂が霊力的にみなされているのだ。ブー(芋麻)を身体に巻きつけるのも、身体から完全に話さないためと見なせば合点がいく。

 それを捉えると、「マブイグミ」に対応する言葉は、「タマシツケ」なのだと思う。

 cf.幸地哲「呪術と霊魂観-宮古島砂川を中心として-」(「沖縄民俗研究」2号、1979)


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2016/09/24

琉球弧各諸島のシマウタ

 中曽根幸一の『琉球弧の民謡入門「しまうた」流れ』から、奄美、沖縄、宮古、八重山のシマウタの形容を探してみる。ウタの属性ではなく、どのような印象をもたらすかという点にフォーカスして。

 沖縄は、「明朗かつ雄大であり、悲調にして優美」と形容も多い。宮古はアーグ(アヤグ)を基準に「優雅」と書かれている。「味わい深い」とも。

 八重山は「情感深く」と。これは、ゾメキはほとんどないのと対比して言われている。奄美は「哀愁」。

 これだけでは直観的には分かりにくいので、属性の特徴を挙げてみる。

 沖縄のは、「仕事歌より恋歌が圧倒的に多い」。また、「海に囲まれている沖縄は、どういうわけか海に関する歌が極端に少ない」。宮古は「物語性」を伴う。

 ユンタ、ジラバは”野の調べ”といわれ、八重山の歌の本体ともいうべき歌謡」。男女混成で二組に別れ、交互にうたう。奄美は「魂と魂の語り合い」。「情感深い物語歌」で、「奄美独特の裏声の世界は、人々を激しく揺さぶらずにはおかない」。

 中曽根の挙げている特徴を言えば、恋歌の沖縄、物語歌の宮古、労働歌の八重山、信仰歌の奄美になる。

 宮古と八重山については、歌遊びの主なシマウタの曲順が挙げられていて面白い。

 ・宮古
 トーガニアーグ
 根間ぬ主
 豆が花
 なりやまアヤグ
 伊良部トーガニ
 クイチャー

 ・八重山
 赤馬節
 しゅうら節
 鷲ぬ鳥節
 小浜節
 月ぬまぴろーま節
 とぅばらーま
 六調
 弥勒節
 やらよう

 典型的な歌遊びの曲順を聴き比べれば、それぞれの特徴はとく分かるのかもしれない。

 奄美だと、

 朝花節
 俊良主節
 黒だんど節
 嘉徳なべ加那節
 六調
 (「奄美島唄物語」)

 沖縄は、かぎやで風、ナークニー、唐船ドーイなどのカチャーシーが入るだろうけど、典型的な曲順として言うとどうなるのだろう。

 

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2016/09/23

トーテムの系譜と島人の思考

 琉球弧で知られているトーテムの系譜と対応する島人の思考を整理してみる。


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 蛇-トカゲは、「食べる-食べられる」関係として同一の系譜に属する。貝-蟹-ヤドカリは、蟹は貝の子として、ヤドカリは貝と蟹の合体として同一系譜と見なせる。苧麻は、植物トーテムとしても霊魂にかかわるものとしても異なる系譜にある。また、トカゲは蟹を食べるので、蟹との系譜的なつながりを持っている。

 蛇は「不死」として、トカゲは、これが不鮮明だが「不死の壊れ」という島人の思考に対応する。貝は「死と再生」、蟹は貝に化身する蟹として「サンゴ礁の子」という認識、そしてヤドカリが貝と蟹の合体ということは、「性交と出産の認識受容」に対応していると思える。

 苧麻は、植物繊維を可視化された「息」として人間身体と同等のものを見い出したことに対応する。これは霊力の側から霊魂を捉えたことも意味している。


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2016/09/22

『縄文の神 よみがえる精霊信仰』(戸矢学)

 「よみがえる精霊信仰」という副題に期待したのだが、そこはあまり触れられていなかった。戸矢学によれば、古神道とは「神とともに在る」という思想で、それは四つに集約される。

 1.カンナビ(神奈備等)
 2.ヒモロギ(神籬等)
 3.イワクラ(磐座等)
 4.ヒ(霊・靈・日・火)

 このうちカンナビが自然崇拝の象徴。山岳はもっとも天に近く、分け入るに困難で生活に適していない。だから、”異界”とされて、神が住まうと信じられた。

 ヒモロギは、神のすまう場所で、縄文の森。鎮守の森の原型。イワクラは神の乗り物。

 カンナビ、ヒモロギ、イワクラは「珊瑚礁の思考」からみれば、生命の源泉の場であり、死者が還るという意味では、いずれ生まれ変わる死者のいる場でもあった。つまり、縄文の「あの世」でもある。それが、山、森、岩というバリエーションで語られている。このうち岩はトーテムにもなりうるものだと思う。

 学ばせてもらったのは麻のことだ。麻を収穫すると「麻酔い」をする。「麻は他の植物とは違う-そう縄文人は感じていたことだろう」。「麻酔いをもってある種の”神憑り”と受け止めるlことは容易に想像がつく」。「古来、祭りには火が付きものであるが、大麻草をその火にくべて、住民全員が意図的に陶酔するような状況があったかもしれない」。

 大麻(おおぬさ)は別名「祓串」で「神前でお祓いをおこなう際に参詣者の頭上で左右左と振る祭具」。大麻はヒモロギ(神籬)の簡略化。

 ヒモロギは、生木である榊の枝に木綿や麻苧、神垂等を下げたもので、古来依り代としても祓串としても用いるが、その榊を保存性の良い白木に代えて象徴的な意匠としたものが大麻である。

 神道祭祀のもっともシンプルな形は、「神と大麻と人」という構図である。「大麻が神と人を媒介する」。戸矢によれば、大麻は、古来保有しているシャーマニズムが継承されたものだ。

 縄文土器の文様に使われた縄は「麻縄」、縄文人の衣服も麻織物・麻布。

 ここで立ち止まるのは、琉球弧では苧麻がトーテムだったと知っているからだ。ぼくはそれを可視化された「息」として捉え、宮古、八重山ではそれを通じて霊魂を捉えたとも考えている。この「麻酔い」は、「息」の可視化について視点を与えてくれる。つまり、苧麻は霊力の発現(あるいは霊魂の遊離)を誘発するのだ。

 苧麻がトーテムとするのは、霊力としての「息」の発現を誘発し、その息が可視化されたものと見なされたことによる。それは人間身体の内部にあるもとの照応物を見い出すことに他ならないから、憑依を旨とする霊魂の技術が誕生することと同じである。

 戸矢は土偶文様について書いている。

この世は精霊で満ちている。縄文人の感性がそれをこのように見た。精霊たちが犇めき渦巻き流動する様を図案化したものが、土偶の文様なのではないか。そして精霊に覆われていること、あるいは精霊と一体であることを表現しているのではないだろうか。-すなわちこの文様は精霊である。

 これはぼくたちの言葉でいえば、人間として化身する精霊が刻印されているということになる。

 また、「入墨は精霊の仲間入りをするための技術であり儀礼である」としているが、もともと人間も精霊を元にしているのであれば、入墨は「仲間入り」というより、人間の本体である精霊を象徴化したものだ。

 


『縄文の神: よみがえる精霊信仰』

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2016/09/21

『問題は英国ではない、EUなのだ』(エマニュエル・トッド)

 エマニュエル・トッドは以前、英国はEUから離脱すると言っていてそんなことはあり得るのかと驚いたが、実際そうなってしまった。で、『問題は英国ではない、EUなのだ』も読んでみることにした。

 トッドによれば英国のEU離脱の動機は移民問題ではなく、イギリス議会の主権回復だった。それはふだんはおとなしい英国の労働者階級の反抗であり、そこにはグローバリゼーションに対する疲労がある。

 トッドはこれを歴史的な推移として見ている。英国が近代化のリーダーだったことを忘れてはいけない。その英国が自ら先鞭をつけたグローバリゼーションの流れからいち早く抜け出ようとしている。それは近代国家の再構築というモデルなのだ。

 米国でドナルド・トランプが支持を得ているのも同じ流れのなかにある。「彼らは、国家としてのアメリカの再建を夢見て、グローバル化の言説からの解放を要求している」のだ。

 イギリスのEU離脱は、西側システムという概念の終焉を意味しています。今後はどのような再編もあり得ます。これは、冷戦の真の終わりです。

 そこでありうるシナリオは、国民国家の再構築に着手するか、さらなるグローバリゼーションの荒波にさらされるか。トッドが英国のEU離脱を歓迎する理由がこれで分かる。

 社会と国際関係の安定を望む民衆は、過剰なまでのグローバリズムの進展に小休止を呼びかける権利を持っているのではないでしょうか。(中略)経済的格差の拡大、スケープゴートを求めてイスラム恐怖症という妄想のカテゴリーを生み出す背景です。イスラム恐怖症をこれ以上蔓延させないためには、そういった民衆の希望を考慮する必要があるはずです。

 トッドは、適切な言葉か分からないが理念を掲げた思想家ではなくリアリストであるから、国民国家を至上のものと考えているわけではない。

課題は日本を含めた先進国世界に共通だと考えています。急速なグローバリゼーションを受けて、貿易はどんどん開かれた状態になり、各国間の経済波及効果はいまだかつてないレベルにまで高まっています。それは基本的には良いことだと思いますが、あまりに性急だった感は否めません。所得格差は拡大し、高等教育の発展によって市民集団の同質性は溶解しました。

 こういう発言を見ても、彼が呼びかけているのは「小休止」だというように見える。

 トッドが懸念しているドイツについては、日本と照らしても興味深い視点が見られる。トッドに言わせれば、ソ連ブロック崩壊後の米国のロシアに対する過酷な政策は「戦略的にとてつもない過ち」だった。

 ドイツ人は、第二次世界大戦における米国の勝利を正統なものと見做していません。(中略)ナチス・ドイツと熾烈に戦った連合国側兵士の九〇%がロシア人だったということを、ドイツ人は知っているからです。

 だから、米国のロシア政策は第二次世界大戦が無かったかのごとくの仕打ちだった。そこでトッドが言うのは、「その結果、ドイツは自国の過去から解放されました。つまり、反ロシア政策をとったことで、米国はドイツに対するコントロール力を失ったのです」、ということだ。

 ドイツもまた、第二次世界大戦処理に米国の欺瞞があるのを知っていること、日本に比べたらはるかに戦前の克服に努力しているように見えるドイツも、過去からの解放を感じたこと、そのドイツが移民問題に開放的になるのは野望という以外にも、戦前回帰という評価への恐れを持っているだろうことが推察されてくる。

 トッドに言わせれば、「ヨーロッパをめぐる今日の最大のパラドクスは、不安定なドイツがヨーロッパのイニシアティブを握っているという点」にあるということになる。

 人口や教育の視点からみれば、米国は安定化に向かい、ロシアは復活し、中国超大国論は神話に過ぎない。そこで日本への提案としては、安定した対外関係は安定に向かう国との関係から得られるから、日本のパートナーにふさわしいのは米国とロシアだということになる。その際、「アメリカの尊厳を傷つけないようにする必要がああります」という辺り、トッドが単なるパズルとして考えているわけでもないことが分かる。

 トッドは、「日本人自身が自分たちの国が危険な国であると必要以上に思い込んでいる」とも指摘する。それにはそう思うだけの理由もある。トッドの見通しに頷かされるように言えば、戦前回帰型のナショナリズムに陥らずに国民国家を再構築することが課題であるように思えた。

 


『問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論』

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2016/09/20

「科学&神話」空間としてのサンゴ礁(珊瑚礁の思考カフェ Vol.5)

 告知を忘れていました。第5回「珊瑚礁の思考カフェ」(9/26)は、「「科学&神話」空間としてのサンゴ礁」というテーマです。

 白化が気になる今年のサンゴ礁ですが、カフェでは、地球惑星学の茅根創教授をお招きして、「琉球列島のサンゴ礁地形」と題して、琉球弧にどのようにサンゴ礁が形成されていったのかをお話しいただきます。

 後半はぼくが、琉球弧のサンゴ礁に島人は何を見ていたのか、どういう神話空間として捉えていたのかをお話しします。

 科学と神話と。いままでに聞いたことないサンゴ礁世界を味わうことができると思います。時間のご都合のつく方、ぜひいらしてください。


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9月26日[月]19:00~21:00 [18:30開場]
参加料:1500円

千代田区西神田 2-4-1( 財 ) 東方学会新館 2F

主催:ユージンプランニング
予約・お問い合わせ:
ユージンプランニング(平日 10時~17時)

Tel 03-3239-1906 /Fax 03-3239-1907
E-mail manabiya@yujinplanning.com
*ご予約の際はお手数ですが、イベント名をご明記下さい。


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2016/09/19

『琉球独立への経済学』(松島泰勝)

 『琉球独立宣言』のときと同様、松島への提案から入りたい。『琉球独立宣言』では、「琉球」の対象から奄美が外れていた。

 今回の「経済学」では、それはこのように注記されている。

 本書では琉球の範囲として、1609年に島津藩が琉球を侵略して奄美諸島を直轄領とする時期までは奄美諸島、沖縄諸島、宮古・八重山諸島を琉球とするが、それ以降は、沖縄諸島、宮古・八重山諸島を琉球とする。これは琉球を分断して統治する、日本の琉球に対する、日本の琉球に対する植民地主義の傷跡でもある。琉球文化圏という言葉から明らかなように、琉球の島々はサンゴ礁の島々から構成され、歴史的、文化的な多くの共通点を持ち、動植物も類似しており、日本による植民地支配からともに脱することができよう。

 こういう認識であれば、『琉球独立宣言』の感想でも書いたように「奄美」をその範囲から除外する必要はない。ぼくがもっとも重視するのも、松島が書いているようにサンゴ礁の島々から構成される琉球文化圏であり、それは縄文期から醸成されている基盤の強いものだから、1609年の他律的な出来事を機に区別する必要はないのではないだろうか。今回は、沖永良部島や奄美大島の「自己決定権」についても言及されているのだから。そこが今回も同様の提案になる。

 また、ありがたいことにぼくの書いた『奄美自立論』にも触れているところがあるので応答したい。

喜山が指摘するように「奄美は琉球ではない、大和でもない。だが琉球にもなれ大和にもなれ」と、奄美は二重の疎外を受けてきた。奄美が鹿児島県、沖縄県のどちらかに帰属することによっては、二重の疎外から脱することはできないだろう。大きなものに帰属すれば、そこからまた新たな悲劇の歴史が生まれるだけである。島に住む人間の自己決定権の行使によってしか、400年間の植民地支配から解放されないことを、沖永良部島の集いやシンポから学んだ。

 原則的にはそうだ。二重の疎外は、薩摩が奄美を直轄領としながら、それを清や幕府に隠蔽するという複雑で根暗い政策に淵源している。その構造は近代以降、個人の生の困難としても立ち現われたが、もともと外的な政治要因によって生まれたものであれば、それを解除することによって、疎外の一部を除くことはできると思える。

 新たな琉球国に参加する島もあれば、単独で独立する島、日本国にそのまま残る島のように、島に応じて対応が異なるであろう。それぞれの島人の自己決定権を認めてこそ、琉球国は自由で民主的な国になることができる。

 こういう、たぶん驚かれるだろう国家像を提示しているのであれば、なおのこと琉球独立以前に、帰属の問いかけがあっていいのだ。

 琉球国は、近代国民国家のような国家主義に基づく国にはならない。琉球の人々の人権を抑圧する日本政府の植民地主義から解放されるために、国という政治的枠組みを使うのである。

 たぶん、国家機関説とでも言うような仮象の国家像に新しさもあれば隘路も潜んでいる。けれどもまた磨くだけの価値はあるとも思う。


『琉球独立への経済学: 内発的発展と自己決定権による独立』

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2016/09/18

「米比防衛協力強化協定の概要と締結の背景」(波照間陽)

 波照間陽の「米比防衛協力強化協定の概要と締結の背景」(2014)。

 そもそも米西戦争を経て、20世紀初頭には、米国はフィリピンにスービック海軍基地とクラーク空軍基地を持っていた。太平洋戦争を経て独立したフィリピンの基地を維持するため、1947年米国とフィリピンは軍事基地協定に調印。

 その際、99年間米国に提供するという内容になっていた。1959年の改定で、基地協定の基準を99年から25年に短縮することが決められる。その後1965年の交渉で、1991年に失効することが規定される。

 この91年の失効を前に、フィリピンは民主主義に移行し、コラソン・アキノ政権下で、91年の失効後、外国軍による基地の使用については上院の承認等が必要となることが規定された。これは国民投票で80パーセントの支持を得た新憲法による。

 段階的縮小と延長使用を提案する米国と折り合いがつかず、交渉は1年以上にわたる。その91年、ピナツボ山が噴火し、クラーク基地が多大な損害を被る。その修繕にかかる5.2億ドルと見積もられた費用について、米国議会は拠出を認めず、クラーク基地はフィリピンに返還されることになった。92年にはスーピック基地からも撤退を完了。

 しかし、イスラム系組織の反政府活動、南沙諸島の領有権をめぐる周辺諸国との対立などに対し、フィリピン政府は防衛能力の向上を図ることが困難な状況にあり、98年に米軍のフィリピンへの寄港と一時滞在を認める協定を結ぶ。

 2014年、米軍がフィリピン軍の基地を使用し、航空機や艦船の事前に配備することが可能となる防衛力強化協定が結ばれる。この協定の背景には、「南シナ海における中国の強硬な行動」があると考えられる。

74年、当時の南ベトナム政府軍と中国軍が西沙諸島をめぐって交戦し、中国が全ての島嶼を制圧した。88年には、南沙諸島のサウスジョンソン礁をめぐって同二国間で武力衝突が発生し、ベトナム側に80名近くの犠牲者を出した。(中略)94年、フィリピンが領有権を主張していたミスチーフ礁に中国が構㐀物を建設した。(中略)2012年4月、ルソン島西岸から約 200キロメートル沖に位置するスカボロー礁付近で、違法操業する中国の漁船を発見し、取り締まろうとするフィリピン海軍を中国海監が妨害した結果、両国の監視船が対峙する事態が発生した。(中略)さらに、2014年2月、スカボロー礁付近で、中国の海洋監視船がフィリピン漁船に放水し、海域から追い出した。この行動から、中国が同礁を実行支配しつつあると言える。

 この状況を鑑みれば、「フィリピン政府や軍にとって EDCA(今回の協定-引用者)は歓迎されるものである」。しかし、「しかし、中国は米比新協定を自らに対する封じ込め戦略として受け取り、警戒感を高めている。中国との敵対関係が進行することも危惧される」。

 波照間はここで、「米比間の新協定は沖縄とって必ずしもプラスになるとは言えない。それは、米国と中国の対立がこれまで以上に高まると考えられるからである」としている。

 波照間の論文を引いたのは、数日前のドゥテルテ大統領の米軍依存を辞めるという示唆を受けて、これまでの経緯を押さえておきたかった。それにしても、91年の撤退まで、フィリピンには90年前後にわたり米軍が駐留していたわけだ。しかも交渉はアキノ政権から始められたわけではなく長期に及んでいる。ピナツボ山の噴火という自然災害も後押ししている。

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2016/09/17

『生命記憶を探る旅: 三木成夫の生命哲学』(西原克成)

 三木成夫への理解を深めるつもりで読んだのだが、著者の業績を辿る旅になっていて最初は面食らったが、面白かった。

 三木の本のなかでも最も印象的な胎児の上陸劇は、西原によっても強調されている。

 上陸して本能的にのたうちまわって血圧が高まると、ミトコンドリアの細胞呼吸のはたらきが高まり、冷血動物から温血動物への道をたどる。このステージで水呼吸用のエラから空気呼吸の肺が発生。低血圧・低体温の冷血動物の細胞内には、ウィルスと多数の細菌類が共存することが知られている。これが細胞内に共存するとため、微生物の遺伝子ゲノムは体細胞核の遺伝子に取り込まれて、ジャンクゲノムとなる。

 ヒトも冷血動物から進化しているから、からだを冷やすと自動的に冷血動物のシステムが作動して、腸内の常在微生物が白血球に抱えられてからだぢゅうを巡り、あちこちの組織に細胞内感染症を起こす。また、「上陸劇」の前後では、「対組織免疫系」も「対微生物免疫系」もそもに「免疫寛容」となっている。

 この発生の仕組みから導かれる悪習慣は、著者によれば「口呼吸」、「冷中毒」、「骨休め不足」。

 1.「口ぽかん(=口呼吸)は、阿呆のあかし」
 2.「腹を冷やさない」
 3.「及ばざるは過ぎたるに勝れり」
 4.「朝寝、朝酒、朝湯は身上をつぶす」
 5.「接して漏らさず」
 6.「快食・快便」
 7.「寝相を正して早寝・早起き」

 身体を冷やすと冷血動物のシステムが作動して、腸内の常在微生物が身体中をめぐり細胞内感染症を引き起こすというのが、いちばん分かりやすかった。

 著者は腸管を三つに分けている。呼吸の「鰓(さい)腸」、胃腸の「腹腸」、「はい腸」。

 「鰓(さい)腸」は、肺と顔を含めた横隔膜から頭側の部分。精神や思考にかかわる、ヒトの文化、経済活動のすべて。心臓があるので、ここと横隔膜にこころが宿る。

 「腹腸」は「食の相」。はらわた。人間の本心が宿る。所有欲の源ともなる。

 「はい腸」は、内容物がたまるとうずき排出すると喜びが生じる。「鰓(さい)腸」から湧き出る「精神」や「思想」と「はい腸からこみ上げる「情念」や「こころ」は相克し、なかなか相容れることがない。

 著者はこれらの成果を、「三木形態学」を道しるべとした「重力進化学」と呼んでいる。


『生命記憶を探る旅: 三木成夫の生命哲学』


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2016/09/16

『沖縄戦後民衆史』(森宣雄)

 書名からすると古そうに見えるかもしれないが、これは今年発刊された新しい本だ。そして今までに読んだことのない読後感を残すとともに、こういうものが読みたかったという手応えも与えてくれる。それは「沖縄の民衆」を主人公に据えることからもたらされている。すると、どんな民衆像を手にすることになるだろう。

 たとえば、森は沖縄の日本復帰をこう説明している。

日本が沖縄の「祖国」だというのは、日本政府が(沖縄住民の主権性)を米統治下に潜在化させ住民を無権利状態でゆだねる資格をもつことを、「祖国」の父祖性・家父長権において正当化するためにつくられた政治的神話であった。

 「神話」というのは、もちろん国家側のものだ。沖縄住民の無権利状態で米国に委ね、日本政府が主権を潜在化させるというのは米国の意図にも依っている。

この残余主権は将来の沖縄返還を準備するねらいで確認されたのではない。もし沖縄の主権を住民にたいして認めれば「住民は国連をバックに米国を追い出す権利を主張する」などの混乱が起こるのをダレスは予想し、人民自決の論理にもとづく沖縄の日本復帰、独立、他国との合邦、そして連合国や国連の沖縄統治への介入といった事態を封じ込める目的で、潜在主権というトリックは考案された。

 米国は国連への訴えかけで沖縄の人民自決が顕在化するのを恐れ、沖縄住民を無権利に置くとともに、潜在的な主権を日本政府に置く。日本政府は、その潜在主権によって「祖国」という政治的神話を持った。

 これに沖縄住民はどう対したのか。

米占領支配から自力で自治権を獲得し、設定された擬制にしたがって「祖国復帰」をはたし、日本の肢体内に入った。そのあと第二段階として、国内の民主制度と社会運動によって家父長的支配を無効化し、米軍の長期駐留の呪縛も解く、武装解除と自立の道を進めている。

 これは「祖国」に覚めた場所から、戦後を掬いとるように糸を張った理解だと思える。「擬制にしたがって「祖国復帰」をはたし」と言えるのも、ここで「反復帰論」などの資産を手がかりにしたものだ。

 ただ、民衆の情念は、奄美にしてもそうだったように、近代以降の「日本人になる」ことが圧倒的に強かったと思える。復帰後13年の時点で、「沖縄の心」とはと聞かれた県知事が、「それは大和人(ヤマトンチュー)になりたくて、なりきれない心だろう」と答えたところにもよく現われている。

 覚めた目でみれば、そもそも沖縄(琉球)人は大和人になれるわけではないし、なる必要もない。しかしこの「大和人」には「日本人」という含みも持っている。「日本人」になるということが、「日本国民」のことだとしたら、すでになっているのだから、「なる」という運動をする必要はない。けれど、「日本人」が国籍というだけでなく、民族性を含むものとして捉えたら、「日本人」になるということは、「沖縄(琉球)人」を否定することと同義だった。復帰後13年も経って知事が、「大和人(ヤマトンチュー)になりたくて、なりきれない」と言明するのは、「大和人」や「日本人」を、「沖縄(琉球)人」を否定して実現すべきものとして捉えられていることを示している。

 これは沖縄、奄美の人以外にはわかりにくい感じ方なのではないだろうか。

 森は古くからの格言、「物呉ゆすど我御主」(物やゆたかさをもたらす者こそ主人・国王だ)について書いている。

 「それは奴隷のことばだと、思われるかもしれない」。しかし、そこには、「ときの権勢は日没と日の出のように盛衰をくり返し、そのなかで社会も刷新され、生命力をえて循環的に歴史が進んでいくという見方」があり、それは「琉球の原始古代からの政治思想、歴史観である」。

 これをぼくの言い方でいえば、力の源泉が自然(珊瑚礁)にあり、自分たちのなかにあるのではないという思考が色濃く投影されている。そしてそのうえでその自然と一体化するのだ。

 それはこういうところにも顔を出しているのだろう。

 〈沖縄〉は米軍「異民族支配」には対峙したが日本の国権に対抗する主権的主体には発展しなかった。

 それはなぜか。そう問うて、森は「沖縄の主権的主体化、それはないのかもしれない」。「沖縄の民族意識と団結は防衛的なものであり、「力を組織して」主権を構成する道には進みにくい」と書くが、ここにも力の源泉が人間のなかにあるのではないという思考が現われている。そして他なる力の源泉に自分たちを溶けいらせるように合体しようとする。

 森は続けて、「国家を相対化する民衆史観、異文化・普遍性への越境などの精神文化は、権力(たとえ自生的なものでも)の集中をはばむ。組織化をこばむ野生性の精神だ」と書いている。

 力の源泉を自分たちのなかに持たないということに強い意味を見い出そうとすれば、「国家を相対化する」ことになるだろうし、「組織化をこばむ」ことにもなる。しかし、それは内側から強く主張されることはない。そういう理念のもとに取り出された思考ではないし、それが野生ということの意味だからだ。

 この本の話題に戻ろう。森は、沖縄の文化の固有性と普遍性を挙げている。
 
沖縄の固有性

 民族的同胞意識
 国家史を相対化する民衆史観固有の民俗文化の復興
 女性の(精神的優位性の)復権
 団結・自衛の伝統

普遍性

 人の情けを重んじる価値観
 自然を大事にする価値観
 いのちを大事にする価値観
 異文化・普遍性への越境
 超党派的な連帯への献身

 これらがどんな風に編まれているか。

同胞意識と団結・自衛の伝統が結合した、沖縄の民族的団結・主体化のエネルギー、つぎに異文化や普遍性に越境し超越的な連帯にひらかれようとする渇望、さいごに国家や権力の変遷を突き放してとらえる歴史(社会)観。この三つの潮流がせめぎ合い何らかの調和をとげるなかで、歴史を動かすダイナミズムがうみだされてきたようにみえる。そのほかの、人の情け、自然の偉大さ、いのちを重んじる価値観、民俗文化、女性の精神的優位性は、三つの潮流のいずれにも根源的な生命力をおくる基盤的な精神文化といえるだろう。

 これらの指標が民衆史を解きほぐすうえで親切なガイドを果たしている。

二〇世紀の戦争遺産から手をはなさない日米同盟に軍縮と理性的行動をもとめるパートナーをアジアにもとめていくには、なにが必要だろう。なによりも大きな交渉力、ソフト・パワーの土台となるのは(あらかじめ沖縄にたいする支配権の名乗りあいを防いでおくためにも)歴史と文化に即した自己像を明確に打ち出すことではないか。

 この自己像が切実だ。それが必要だという想いでぼくも『珊瑚礁の思考』を書いた。

 森の挙げる固有性と普遍性が「歴史を動かすダイナミズム」としてどこまで行けるのかということと、琉球独立論が「主権を構成する」ところまで行けるのかということが、併走して問われるところに現在は至っている。

 

『沖縄戦後民衆史―ガマから辺野古まで』

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2016/09/15

宮古、八重山のマブイグミ

 宮古、八重山のマブイグミについて、酒井卯作の『琉球列島の死霊祭祀の構造』から列記してみる。

1.宮古島ではタマシウカビともいう。離島ではタマシツケというところも多い。

・カンカカリヤが茅を二片か三片もってきて水の入った椀にいれ、指でかきまわしうまく茅がくっついていると、魂がついているという。

2.平良市松原では、魂を失くしたところから小石を拾ってきて椀に入れ、さらにフキ(木片)を添えて、魂に帰るように呼びかけて、病人に小石を抱かせる。

3.島尻では、タマスアビュー(魂浴びせ)という。魂を落としたと、トキ、ツカサから告げられると、その場所に行って小石一個を拾って拝む。供物はご飯二椀、茶碗にススキ二枚を水に浮かべる。拝んでいるうちに二枚の葉がくっついたら魂が入ったという。拝み終わると、本人に供物をあげさせる。落した場所が分からないときは、門口で魂を迎えるツカサもいる。島外で落としたと分かると、港の桟橋で迎える。

4.西表島古見では、魂を落とした場所に行って、石や土をその子の懐に入れてやる。自分の家で失ったときは、麻(チョマ)を首にかけ、線香と花米を床の間に供えた。いちばん効用があるのは便所。そこで、「マブイを返してください」といいながら麻紐で一つの輪をつくり、線香の上を二、三回まわして病人の足首、手首を締めるとマブイが戻る。

5.波照間島では、サコウの葉を煮て刻み、味噌で揚げてゴマをまぜて少しずつ子供に食べさせる。

6.石垣島川平では、タマシツケという。落とした場所に行って魂を込める。「タマシトリのフルメー」といって花米、酒などを供えて、麻紐の中程を三、四結んで、落としたところで着物に包んで持ち帰り、子供の首にそえてかけてやる。便所の神が高位だからといってそこから魂を取ってくる場合もある。

 宮古島離島、石垣島でいう「タマシツケ」、島尻での「タマスアビュー」は霊力思考としての表現だ。宮古島でいう「タマスウカビ」はどうだろう。「ウカビ」は「浮かび」と解していいかどうか分からない。ただ、島尻などで二枚の葉がくっつくというのは、「着ける」とも「憑ける」ともなり両義的だ。

 二枚の葉がくっつくというのは、古見や石垣島川平で、麻で足首、手首を締めたり、首にかけたりする仕草を象徴化したものだともいえる。この場合も、霊力的な表現に見える。また、子供の身体も植物と見なしている視線を感じるし霊魂も植物由来で発想しているようにも見える。

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2016/09/13

「はぶいの植物学」(多和田真淳)

 ハブイには、「すべて蔓性の植物が用いられる」。

 沖縄では、命脈、すなわち命の綱にはヌチヅィル(命蔓)というのでこれらの蔓草をヌチヅィルの象徴として全身にまとうたのであろう。

 たとえば、ブー(ちょま)をトーテムとしたとき、そこに身体の霊力の形を見い出したことになる。

 アザカはハブイと対をなすもので、「神人の手」に持つものだ。

ハブイ(『琉球国由来記』渡名喜島の項で”アザカ冠り”とある)をかぶり、手に葉付きの木の枝、青葉のススキ(『琉球国由来記』渡名喜島の項で”青葉のシヂコ”とある)、赤く仮種皮のはじけた果枝をもった神人、または人はたりまち神格化するものである。神格化したものがてにもったものはアザカと称し、このアザカは神の愛で、悪魔の最も恐れるものである。
 かくして、ハブイとアザカ、蓑笠と杖、をもったものは特定の日の行事に遠来神として、作物の種子をもたらし、降伏をもたらし、災厄を祓い、勧善懲悪をするという。神の恵み、神の加護、神の捌きを行なうのである。

 ハブイとアザカを対とみなせば、それは「蛇」と「貝」ということになる。杖があれば、杖にはその両方が象徴化されることになる。「はぶいの植物学」『多和田真淳選集』より。

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2016/09/12

ニライカナイ・メモ

  「FRONT(水の情報文化誌)2006」から、ニライカナイ・メモ。

 祖霊神系の御嶽が集落の「腰当」森を形成するのに対して、ニライ系の聖地は海洋を望見できる山頂・岬端・浜辺や地先の小島にあり、「遥拝(お通し)」の性格を有する。(浦山隆一)

 「山頂・岬端・浜辺や地先の小島」は分解して考えることができる。

 山頂      遠隔化された他界で、海の彼方のニライカナイに対応
 岬端      ニライカナイの遠隔化に伴った境界部
 浜辺      他界との境界部
 地先の小島 かつての他界

 久高島のクボー御嶽の北側、岩礁で囲まれたところ。

ここにもクバの林があり神谷原(かべーる)と呼ばれ、ここには神が住んでいたとされる。また、伊敷浜もこの近くにあり、この浜からニライカナイへ遥拝する習わしは、現在でも受け継がれている(高良倉行)。

 「神谷原(かべーる)」の森は、久高島のかつての他界であることが分かる。

 往古、久高島にニライカナイから降臨した神は、島々を造り、人を招き、久高島から点在する小島、コマカ島、アドキ島などを経て本島の玉城村百名のヤハラヅカサに上陸し、ミントングスクに移る(高良倉行)。

 この記述に則れば、玉木村の他界は、アドキ島、コマカ島、久高島へと遠ざかっていったことになる。

対岸に小島のない宜野座村字宜野座の古代の葬地は、宜野座大川の川口をへだてた対岸の字松田に葬地を設け、その地をカメーヌメェー(神の在わす目途(あたり)と呼んでいるのである。(久手堅憲夫)。

 宜野座は、川向こうの他界を示してくれている。

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2016/09/11

種子島広田のガロー山

 種子島広田は泉を中心に親族が組まれている。元旦には一番水を待ち構えていた人たちが先を争って若水を汲んだ。

 広田には、ガロー山が9つもある。ガロー山は、種子島の聖地であり、ガローの神のトリ木の根元には、ガル石(菊面石の類)の小塊を積んである。

 1つのガローについてだけ、「ガローは蛇の神さま」と言われている。「ガローと祖霊との関係を示す口碑は何もない」。ガローは村落民の「鎮守の森」でもある。

 ガローは田の周辺にある。それはガローの発生時期を示している。

同時にそれは、人々が新しい生活を開始した時期であると思われる。すなわち、新しい生産様式の下に、新しい居住地を定めた時期であるようだ。(下野敏見『種子島の民俗〈1〉』)

 「井戸を中心にして村落が形成され、その物質的遅延的結合に対して、ガロー山が精神的血縁的結合の象徴となって」いる。

 これらの下野の記述を琉球弧の方からみれば、ガロー山が「御嶽の森」に当たることが分かる。

 広田では石塔祭りで「精霊流し」が行なわれる。種子島では、死者の霊魂は「先の世」に赴くと言われる。葬式やその手伝いは、「ホネカミ(骨噛み)」と呼ばれている。(飯島吉晴「民俗的環境」『種子島広田遺跡. 本文編』)

 若水といい「蛇の神様」といいホネカミといい、広田の島人も「脱皮」を重視したことがうかがえる。これは貝符の文様に示唆を与えるものだ。縄文の「あの世」は、石塔山に該当するだろうか。それにしても、ガロー山が村落に9つもあるのが目を引く。


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2016/09/10

「ビジュル信仰」(平敷令治)2

 おおまかに言えば、境界部にビジュルがあり、辻には石敢當、御嶽にはイビがあるというのが、琉球弧の石神の配置になる。

 平敷によれば、八重山のビジュルの分布密度は高く、「沖縄諸島の比ではない」。零落の一途をたどっているのは田畑のビジュル。「与那国では田植の時には今でも田のビディリを祀る」。

だが、期待に反して、ニールスク(地底)から顕現したという伝承についてはいまだに一例も確認しえない。

 これは興味深いことだと思う。これは、八重山では「境界」より、「霊力あふれる場」という思考が残っていることを意味するのではないだろうか。


 恩納の習俗。

毎年六月二十五日にフトゥキヌメーから船を出してヨー島に渡り、ノロがビジュルを持ちあげた。石を重く感ずれば二度目にスクが寄る時には豊漁を意味したという。

 スクは石に化身するという思考の現われだと思う。スクと縄文の「あの世」と石という素晴らしい取り合わせ。


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2016/09/09

「旅人をして之を抱かしむ」(柳田國男)

 酒井卯作は、『南島旅行見聞記』で、柳田國男が伊計島について、

 イチクマ(村)のハーメー、旅人をして之を抱かしむ

 と書いているのを受けて、書いている。

島に入ってくる旅人はなぜこの夫婦石を抱くのだろうか。一説には旅に出る者もこの石に詣るという。たんなる外敵を防ぐというだけのものではなく、もっと深い宗教的な意味があったかもしれないのである。(『柳田国男と琉球』)

 「旅人」はただの観光客ではなく、神でもあったのだから、これは、来訪神が立ち寄る地の島と同じ意味を持つと思える。つまり、この海岸のふたつの石は、琉球縄文期の「あの世」あるいはあの世への境界部だったということだ。

『柳田国男と琉球―『海南小記』をよむ』

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2016/09/08

「アースダイバー アヅミの神道(13)」(中沢新一)

 中沢新一は、甲州と南紀の丸石神について比較している。

 甲州のそれ道祖神として、三叉路や小字の境などに設けられるのがふつうで、なんとなく場違いな感じを抱かせる。ところが南紀のそれは、村から離れた川沿いの場所に楠や欅の巨木がそそり立ち、その根元などに立派な石の基壇が築かれ、その上に鎮座している。

 両者は意味合いが異なる。

甲州の道祖神場には、生まれたばかりの童子としての太陽をあらわす丸石が、神として祀られた。
 丸石神の故郷である南紀では、その丸石が独立自存の至高の神として、威厳ある祭場に祀られたのである。この丸石神は。どう考えても、童子としての太陽である。

 これを琉球弧の方からみれば、丸石神は、シャコ貝と同位相にある。道祖神として立てられることもあるシャコ貝は、甲州の丸石神に対応している。また、神社の古形に立てられた南紀の丸石は、御嶽に立てられたシャコ貝に対応する。すると、御嶽のシャコ貝も「童子としての太陽」を意味することになる。


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2016/09/07

「円に十字」の文様

 市川重治は、「南島婦人の入墨(三宅宗悦)」で、丸に十字(円形の中に十字が内接)の形を「盥(たらい)」とよばれているのに奇異な印象を受けるが、多良間島ではそれをアデマと呼び、それが「豆腐を製造するとき豆をする石臼をたらいに支える支柱のことである」と聞き取りしている。

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 そこで市川はこう書いている。

 そうすると多良間島では十字形の針突文様は禁忌を表わすものではなくして、豊かさの象徴となるのではあろうか。(『南島針突紀行』)

 これはとても重要な示唆ではないだろうか。

 つまり、この「円に十字形」の文様は、元をたどれば「シャコ貝」を現わしたものだ。しかも臼は女性器でもあるから、象徴化のつながりも見い出せる。

 ここから見れば、左手尺骨頭部の文様は、貝として出現し、アマンへと引き継がれたことになる。

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2016/09/06

「牡丹に蝶」

 『蝶の民俗学』で、今井彰は花札の「牡丹に蝶」をきっかけにこの図柄の由来を、唐文化に求めている。牡丹蝶文はいずれ琉球弧にも流入し、祝女の持つ扇の図柄にもなったのかもしれない。

月と瑞雲の裏面はテイダに相対する王妃の世界を表し、牡丹の花が咲き、蝶が飛び交う楽土を描いている(下野敏見『奄美・吐カ喇の伝統文化』)。

 しかし、太陽と牡丹と蝶の取り合わせには別の連想も過ぎる。

 さて、来間島で聞いた話では、この島の東がわには、非常にふかい洞窟があって、途中タカが洞窟を守っている。その底には牡丹の花があり、太陽の光線が射しこんでそれに当たるところがある。そこでこの洞窟を「太陽が洞窟(がま)」と呼ぶという(谷川健一「太陽の洞窟」)。

 島人が貝を牡丹として象徴化したとすれば、「太陽と牡丹と蝶」は祝女自身を描いているともいえる。太陽と太陽の化身である貝と霊魂の化身である蝶。段階の違う思考の産物が一同に会しているわけだ。


『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』

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2016/09/05

広田遺跡の貝符の位相

いまのところ素朴な仮説に過ぎないけれど、今後確かめることとしてメモしておきたい。

 種子島広田遺跡の貝符の編年を、

 下層 弥生時代後期後半~古墳時代中期
 上層 古墳時代後期

 として置いておく。

 下層は「装飾品」であり、上層は「副葬品」に意味が変わる。また、上層では二次葬に伴う副葬品だ。貝符のタイプも全く異なり、「この圧倒的な型式の総入れ替えともいえる転換(あるいは断絶)が意味するところは大きい」(矢持久民枝「広田遺跡出土貝符の検討」)。

 下層貝符について、素材の「貝」と形態の「蝶」、文様の「蛇」と「蝶」に分解してみる。広田人もまた、蛇と貝の子供たちだったのではないだろうか。

 それが上層では、素材の「貝」と文様「蝶」に落ち着く。「蛇」の欠如は、蛇が神化したことを示唆する。

 それはつまり、上層と下層の転換は、生と死の分離を意味するのではないだろうか。「装飾品」である段階では、トーテムとしては貝と蛇の子に返り、霊魂は蝶に化身する。上層では、貝は聖なる動物として素材に用いられる、霊魂は蝶に化身して他界まで行くことが考えられたのではないだろうか。そして再葬は、死者が神になるための儀礼だったのではないだろうか。

 生と死の分離が、古墳時代中期から後期併行期の時点なのは、本土の歴史からすれば遅い。しかし、種子島は本土とは近いとはいえ島であり、また、琉球弧の生と死の分離に比べれば早い。グラデーションとまでは言えないが、ここに段落を認めることはできる。


 
 

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2016/09/04

「出雲-常世への憧れ」(谷川健一)

 谷川健一は、「出雲-常世への憧れ」のなかで、加賀の潜戸にまつわる佐太大神の誕生について書いている。

黄金の矢をもつ太陽神が、暗い洞穴に矢をはなつ、とは太陽神と、それをまつる巫女の交合の儀式を意味するのである。

 これは、蛇である「黄金の矢」と太陽の化身との交合を意味している。

 ここで谷川は、

 かつて沖縄では、「太陽が穴」を守る巫女が祭りの終りの日に、洞窟内の鍾乳石(石筍)に向かって自分の下腹部をこすりつけけ、それで神との交合の儀式をおこなったというが、それは太陽神の子を生むための儀礼にほかならなかった。

 と書いている。ところが、「太陽の洞窟」では、宮古島万古山の御嶽の近きにある洞窟には傘石(陰陽石)があり、神女は七晩ここにこもり、八日目の朝、太陽を誕生させるための用意をする。「これから類推するとそこで、太陽の親神と神女との儀礼的な 交媾がおこなわれることも、考えられておかしくない」。ここでは類推として書いているのだ。

 『埋もれた日本地図』が1972年刊で、『黒潮の民俗学』が1976年刊だから、この4年間で確かめることができたのだろうか。谷川の文章は、類推がいつの間にか事実に変わる印象を受けるときがあるので、交合の儀礼はあったにしても、その所作については保留しておきたい。

 

『谷川健一全集〈第10巻〉民俗2―女の風土記・埋もれた日本地図(抄録)・黒潮の民俗学(抄録)』


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2016/09/03

「アメノウズメの女陰とヒラブ貝」(吉田敦彦)

 サルタヒコを溺れさせたヒラブ貝について吉田敦彦は書いている。

 ヒラブ貝が果たした役割は、天の八衢でのアメノウズメの働きと重なりあう。「つまりこの貝には、女神の化身である性質が看取できると思われるのだ」。

このようにして女性器の威力によって、サルタビコに天孫降臨に当たって天界と地上の橋渡しをさせたアメノウズメは、そのあとアザカの海では、女陰そのものを表象することが明らかと思われる、巨大な二枚貝に化身して、サルタビコを捕まえて放さずに溺れさせた。そしてこの場面でもやはり、彼女の女陰の持つ絶大な威力を発揮して、この大神に陸と海を橋渡しする、媒介者の役割を果たさせたのだと思われる。

 この連想に説得力があるのは、アメノウズメも蛇と貝の子だからに他ならない。だから、アメノウズメはヒラブ貝に化身したのではなく、同位相にあるサルタビコは母の母体に戻っていったわけだ。
 

『東アジアの古代文化 137号(最終号) (137) 特集 東アジアの古代文化成果とゆくえ』


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2016/09/02

来間島の位相

 谷川健一は、「太陽の洞窟」で書いている。

 さて、来間島で聞いた話では、この島の東がわには、非常にふかい洞窟があって、途中タカが洞窟を守っている。その底には牡丹の花があり、太陽の光線が射しこんでそれに当たるところがある。そこでこの洞窟を「太陽が洞窟(がま)」と呼ぶという。

 太陽の光で浮かび上がる牡丹の花は貝の名残りだ。この話は、太陽が昇るということが貝が口を開くことであるということが象徴的に捉えられているのだと思う。

 追記で谷川は、来間島を調査した桜井徳太郎の談を載せている。

太陽は東の御嶽からのぼって部落の天空をわたり、西の御嶽にしずむ。それから島の真下をとおってふたたび東の御嶽からのぼると島民に信じられている。

 洞窟と太陽の結びつきは、他界が遠隔化されると、御嶽と太陽の結びつきとして変換される。

 タカの話は『琉球のニュー・エスノグラフィー』(松井健)でもう少し詳細を聞ける。

 タカ(サシバ)は、北から南へ渡っているが、島に来る際は、北風に抗して北上しているように見える。このため、タカは南からやって来ると信じられていた。

「シマ」の北にある「ティダガマ」(太陽洞)に、「タカイス」(「タカ」石)があって、いわば、この石に礼拝するために、「タカ」は最初に、この来間島に飛来するという理由付けがなされてきた。
もっとも南に位置するということが、来間島を宮古諸島中もっとも神高い島とみなす島人の心情にひとつの信念の基盤を与えることになったわけである。

 タカは聖なる方向から飛来するため、信仰深い人たちは「自らも「タカ」を食べようとはしない」。タカは聖なる鳥なのだ。

 まさに、来間島も「あの世」のシマだったわけだ。宮古島の周辺離島はすべて「あの世」のシマだったことになる。

 上で整理したことは、最初、湧上元雄の「太陽信仰の島」(「日中文化研究」5号、1993年)で知った。来間島の御嶽を経由した太陽の昇降の出典が、大林太良「太陽と火」(『太陽と月』)とあったので、求めたが見つからない。あれこれみて谷川の文章だということに気づいた。こういうルートで探す人は滅多にいないだろうが、不要な迷いをせずに済む人もあるかもしれないので、書いておく。


『谷川健一全集〈第10巻〉民俗2―女の風土記・埋もれた日本地図(抄録)・黒潮の民俗学(抄録)』

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2016/09/01

「伊勢信仰と海人の神サルタヒコ」(小島瓔禮)

 海に沈んだサルタヒコからは「海底・海中・海上」の三つの霊が生まれた。それはイザナギの禊で三つの神がうまれたのと同じ。ムナカタもアヅミもスミヨシも同じ。

 小島の言い方を換えれば、神話の段階で、他界は海上へと遠隔化されていたことを示している。このマジック・ナンバー3の淵源は、この世とあの世とその境界部のことを指すのではないだろうか。

 メモ。志摩の速贄(はやにえ)。生の貢納物を指す。

伊勢の狭長田は、そのアマテラス大神の水田を地上の世界に映した現実の聖田にあたる。その五十鈴川の川上にサルタビコが到り、後に垂仁天皇の時代にそこにアマテラス大神の大宮が定まるということは、ここでもサルタビコは、アマテラス大神の道案内の神としての役割を果たしている。

 「神話でいえば、サルタビコは伊勢神宮の鎮座の場所の預言者であった」。

 なぜ、予言することができるのか。それは、「五十鈴川の川上」の場所が、サルタにとっての「あの世」だったからではないだろうか。

 メモは少ししかとらないが、小島のこの論考は面白い。 
 

『サルタヒコの旅』

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