『つくられた縄文時代』(山田康弘)
『珊瑚礁の思考』は、文字なき時代の琉球弧の精神史を扱った。「文字なき時代」が知りたいと思っている世界のキーワードだと考えたからだけど、探究は文字ある時代に行きつくはるか手前で終えている。それは、高神(御嶽の神)や来訪神といういわゆる神の出現が、「文字なき時代」らしさの終わりを告げていると感じたからだ。
だから、「文字なき時代」というだけでは足りなかった。そこで、最近説明するときにはグスク時代以前という意味で「縄文」という言葉を使っている。ほんとは「アマン世」とか「クバヌハ世」とか言うとしっくりくるのだが、それでは本土の人が分からない。で、「縄文」なのだが、それでは「縄文」は琉球弧の島人にとって分かりやすいかといえば必ずしもそうではない。琉球弧の考古学でも、「貝塚時代」、「琉球縄文時代」、「縄文時代」という用語が並列されていて、最近は「縄文」に統一する傾向もあるというが、落ち着いているわけではない。それに「縄文」というと本土のことを指しているように聞こえてくるから不思議だ。
そういう座りの悪い宙づり状態にあって、それでも東京にいるのだから、本土の人と話すことも多いことを思えば、「縄文」を使うのがシンプルでいいのだが、そもそも「縄文」という言葉で妥当なのかということを確めたくて、山田康弘の『つくられた縄文時代』を読んだ。
山田によれば、もともと「縄文」という言葉は「弥生」とセットで、戦後の日本語りのなかで登場してきた、そういう意味ではとても政治的な産物だった。そこでは「貧しい縄文時代」と「豊かな弥生時代」という刷り込みも生まれ、80年代の教科書まではそれが反映されてきたが、現在では修正、更新されつつある。
「縄文」という言葉は出自が政治的なものだが、農耕や牧畜を行なっていない新石器時代という「人類史上非常にユニークな文化」であり、「縄文文化を日本列島のなかで考える立場には、一定の理があるように思われる」。
縄文時代・文化とは日本における一国史を叙述するために設定された政治的なものだと論じたが、ここへ来てその範囲は考古学的にも日本列島の中で捉えることができるという理解に落ち着きそうだというところに、少々驚きを感じなくもない。やはり、縄文時代・文化とは非常によくできた概念だと、改めて思う。
「縄文」は「縄目の文様」のように、やわらかだがなかなかタフな言葉のようだ。琉球弧についていえば、ぼくは「貝塚」、「琉球縄文」、「縄文」に対してはどれがいいと主張するこだわりはないが、サンゴ礁形成以降については、サンゴ礁型縄文文化、あるいは新石器文化とは言いたい気がする。
山田は、縄文人の死生観として、「円環的死生観」と「系譜的死生観」を挙げている。これはぼくたちが琉球弧から抽出した「円環と移行」とほぼ一致している。もうひとつ山田が挙げている特徴は「男と女からなる世界観」だ。
男性性と女性性、この二つが結合して、新たな生命が誕生する。このような「新生」に対する考え方を、縄文時代の人々が持っていたのは間違いないだろう。
ここはサンゴ礁型の特徴を添えたい個所だ。サンゴ礁型縄文文化においても、男性性と女性性が表現の基本をなしている。しかし、「この二つが結合して、新たな生命が誕生する」という表現は欠如している、あるいは希薄だ。それは性交と妊娠の因果を受容していないことに由来している。だから、同じような言い方をするとしたら、生命には男性性と女性性がグラデーションのように入り混じっている、ということになるだろう。男性と女性の結合により新たな生命が誕生するのではなく、生命には男性性と女性性がどちらも入っているという認識だ。なかなか素敵だ、と思う。Isn't it good, Norwegian wood.
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コメント
遅ればせながら拝見。生理学的には男と女はグラデーションのような連続態で、両端は男・女が明確なありようだが、社会文化的に一線をひかねば社会生活に混乱が生じるので、男か女かの二分法で登録させ、育っていく過程で男性性、女性性を身につけてゆく、と習いました(波平恵美子ed「カレッジ版文化人類学」)。
投稿: 酒井正子 | 2016/08/11 13:08
酒井さん、コメントありがとうございます。
男性性と女性性のグラデーションの感じ方を、すでに縄文期の島人は持っていたところに、ぼくは感銘しました。波平さんのご著書、読んでみたいと思います。
投稿: 喜山 | 2016/08/11 14:04