『出雲国風土記』の佐太大神
『出雲国風土記』の佐太大神誕生の話し。
加賀の神埼。ここに岩窟がある。高さ十丈ほど、周り五百二歩ほど。東と西と北に貫通している。いわゆる佐太大神の産まれた所だ。ちょうど産まれようとするときに、弓矢がなくなった。そのとき御母である神魂命(かむむすひのみこと)の御子の枳佐加比売命(きさかひめのみこと)が、祈願なさったことには、「わたしの御子が、麻須羅神の御子でいらっしゃるならば、なくなった弓矢よ出て来なさい」と祈願された。すると、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。そのとき弓を手に取っておっしゃったことには、「これは、あの弓矢ではない」とおっしゃって投げ捨てられた。また金の弓矢が流れ出てきた。そこでそれを待ち受けてお取りになり、「暗い岩屋だこと」とおっしゃって、金の弓矢で岩壁を射通された。すなわち御母神、支佐加比売女(きさかひめのみこと)の社がここに鎮座していらっしゃる。今の人はこの岩窟あたりを通るときには、必ず大声を反響させて行く。もしこっそり行ったりすると、神が現われて突風がおこり、行く舟は必ず転覆してしまう。
このくだりについて、谷川健一は書いている。
この洞窟には母神であるキサガイ姫をまつったとあるから、これを母子信仰とみることはできるが、その夫のマスラ神を太陽神と考えると、キサガイ姫はそれに仕える日の妻であったことになる。とすれば加賀の潜戸は太陽の子が誕生する「太陽の洞窟」にほかならなかった。(「シャコ貝幻想」)
キサガイ姫は「太陽の化身」である「赤貝」の神だ。夫であるマスラ神は、風を起こす蛇の神だ。「金の弓矢」はその化身の姿であり、産まれる佐太大神は、蛇と太陽の化身の赤貝の子である。太陽の子であるだけではなく、蛇と太陽の子なのだ。
面白いのは、加賀の潜戸は、実際に太陽を通すことだ。
加賀の潜戸をおとずれて、そこでわかったことは、洞窟が東西に向いているという事実であった。洞窟の西の入り口に舟を寄せてみると、穴の東の入り口がぽっかり開いている。そのさきに的島とよばれる小島が見える。その的島にも同じように東西に貫く洞窟があって、つまり、加賀の潜戸と的島の二つの洞窟は東西線上に一直線に並んで、もし的島の東から太陽光線が射し込むとすれば、その光線は的島の洞窟を貫き、さらに加賀の潜戸の洞窟もつらぬくということが分かった。
二つの洞窟の方向は、真東ではなくやや北の方にずれている。 したがって、それは夏至の太陽がのぼる方向に向いている。 夏至の太陽は的島の東に姿を現し、的島の洞窟と加賀の潜戸を一直線に射しつらぬく。 そのときに、それは黄金の弓矢にたとえられたのであり、太陽の洞窟から、佐太の大神は生まれ出たのであった。と記している。 古代人にとっては、洞窟は母の胎内であり、洞窟の入り口は、門・鳥居ともいうべきもので、太陽の光がさすということは、日の御子誕生のための聖婚の行為であった。(谷川健一『出雲びとの風土感覚』)
太陽は洞窟の穴を通って昇る。それは同時にキザカイ姫が金の弓矢で洞窟を射通すように、貝が口を開けることと同じだ。ここで、佐太大神の誕生は、太陽の誕生と重ねられていることになる。
佐太神社では、竜蛇が神社の浜に波の間から姿を現わすと信じられてきた。また、この神社の神紋は扇だという。ここにも、蛇と貝の結合が見られる。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント