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2016/08/22

『縄文聖地巡礼』(坂本龍一、中沢新一)

 和歌山県の神島には、「田辺の龍神山から龍神が渡ってくると信じられている」。

 島名からしてそのものだが、神が寄るとされていることにも、縄文のあの世の島だったことを明かしている。

 敦賀半島の最北端にある「あいの神の森」もそうだ。「田の神とも漁の神とも言われている」。

この現実世界のなかに小さな穴が無数に開いていて、他界と通じていて、生きている人間は、向こうへ行ったり戻ってきたりを繰り返している。そういう世界だと、死者を村のなかに葬ることをします。ところが縄文後期になると、(中略)死者の世界を村の外へ出して分離しはじめてる。そうすると、不均質だった生者の世界は均質空間になり、死者の世界も観念的になって記号化されていく(中沢新一)。

 琉球弧の場合、生と死の移行と分離の段階での葬地の位置の変化は見いだしにくい。そこは、徐々に遠ざかるイメージとして思い浮かべればいいだろうか。

 その時代に土製仮面が出てきます。仮面の機能を考えると、生きている人間が仮面をつけて顔を隠すことで、他界の存在になるわけですね。そして仮面をつけた存在が他界から出現してくるというお祭りをする。現世と他界を分離しておいて、そのあいだをつなぐ存在があることを表現するようになっていく(中沢新一)。

 仮面の登場を、ぼくたちは霊魂の成立と捉えていて、生と死の分離とに段階の差を設けて考えている。しかし、環状列石が複数の集落を等号する「御嶽」の機能を持つとしたら、環状列石は生と死の分離の象徴として捉えてよいのかもしれない。
 

『縄文聖地巡礼』


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