『山の宗教 修験道案内』(五来重)
五来重の探究はぼくたちの問題意識にとても近いようだ。走り読みだが、メモをつけておく。
「原初的には、それぞれ麓の民がこれをこれらの山々を自分たちの先祖の霊のいく山、「神奈備」として拝んでおったものが」、山伏がだんだんと勢力圏を拡大していく。
水葬儀礼というものは沈めるもので、流すものではない。補陀落船というものを沖まで曳いていって、そして船の底にあいた栓を抜いて沈めてしまうものだと思います。
メモ。沈めるかどうかは、地上の他界に地下の他界が混入しているかどうかで決まるものだと思う。
風葬では、烏は人が死ぬのを待っている。それでのちになると、人が死にかかると烏が鳴くと言われるようになる。「烏鳴き」。
熊野には古墳がない。熊野の妙法山には死んだ人の霊がみないく。その霊を祀る人として狩人がいた。それが修験道の山の開設者になる。「山開き」は、修験が登るときのこと。
神奈備信仰は、麓の死者の霊が山にこもっている。だからその山は尊い。いちばんの先祖と考えられる人が「山の神」になる。
庄内平野の死者供養をする山を「モリの山」という。
奈良時代には、山の頂を踏むことに一つのタブーがあったと考えています。これは私の説ですが、奈良時代という時代が、山の頂を踏むようになった最初の時代である。修験道なり、日本人の宗教観念からいえば、大きな変化の時代であるというふうに考えています。
メモ。ぼくたちの方から見れば、奈良時代までに他界は山頂に遠隔化されて聖域化されたが、そのタブーが破られるようになったということだ。
富士が登ってはならなかったのは、「蓋シ神仙ノ遊萃(あつ)マル所ナリ」と、「神仙の世界」であると考えられたから。山へは登らないけれど、山の見えるところでお祭りをしていた。亡くなった人の霊が富士山にいくという信仰があった。
山を管理するのは山伏だったので、山伏は霊を司るものだった。山の神のもとの姿は死者の霊だから、山伏はそれを司るものだった。
富士山の山頂が上宮。下宮は遥拝所。中宮は「村山口」。
メモ。上宮、中宮、下宮はまだ、意味を定かに掴めないが、上宮は遠隔化された他界、中宮はかつての他界、下宮は、原神社として聖域が転移されtが場と、理解しておく。
山が地獄であるとか、浄土であるとかいう観念ができてくるのは、すべてそれに先行するところの風葬があったからというのが、私の主張です。
山伏の生活は、夫が山伏で妻が巫女であるという例が非常に多い。
メモ。これは根人、根神の後代に姿になる。
日本人は物が生きているのではなくて、物の中に霊があると考える。同じようで実は違うのです。ですから肉体を日本人は意外に粗末にします。その中に入っている魂の方が価値があるわけです。
メモ。これは霊魂思考が進展した段階の捉え方を言っていることになる。
参籠洞窟は、「日本で洞窟を住居にした痕跡から、そこにお籠りをすることができたのだと思います」。「岩陰というものは、住居としても墓としても使われますから、それが修験道の伝統になると参籠洞窟になる」。
「胎内窟としての洞窟信仰は、そこの中に入ることによって一度死んで、出ることによって生まれかわる」。
メモ。参籠洞窟にしても、住居だったからということではなくて、他界の出入口だったからというほうが相応しい気がする。住居であったことを生かしてもっと言えば、
参籠洞窟 (この世)=(あの世)の段階への遡行
胎内窟 (この世)と(あの世)の区別の段階への遡行
琉球弧の精神史から得られるプロトタイプのモデルを本土の山に適応させた場合に何が見えてくるか。五来は、その形や語彙を教えてくれる。
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