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2016/07/29

「サルタヒコの誕生」(谷川健一)

 サルタヒコの語源は「サダル神」に由来する。谷川は「サルタヒコを猿の面をした鼻高く頬あかき神だというふうに考える必要はない」。それはこじつけである、としている。

 そうではないだろう。鼻高いのは蛇の、頬赤いのはサダル神の赤の面影を宿していると見なせばいい。もともと蛇とシャコ貝から生まれるのが動植物なのだから、人ではない精霊の側面を持つのではないだろうか。

 鳥越憲三郎が『伊勢神宮の原像』のなかで、「アザカ国の守護神として猿田彦大神は信奉された」と言っているのを、「後世に起こった信仰を古代にさかのぼらせた想像」として退けている。しかし、これにしても鳥越の見解は妥当だと思う。ぼくたちの視点からいえば、アザカは、シャコ貝にちなむ地名であり、シャコ貝をトーテムとした人々を示している。

 貝を母に持つ佐太神社の祭神がイザナギで、サルタヒコも祀るというところは親子関係をよく示している。サルタヒコの父は蛇で、母は貝なのだ。

 「猿が伊勢大神の使いであると信じられた」。この場合のサルタヒコは、「神の使い」に零落した位相を示している。

 ぼくの知識不足もあるが、この論考で谷川の見解がよく分からない。もう少し丁寧に説明してほしかった。ただ、こういうことも書いている。

 この五穀の種をくばる神を竹富島ではハイマワリ、ハイクバリの神と呼んでいる。早配りの神ということで「志摩の速贄」のハヤでもある。ところで五穀は作ったが、火がないとたべられないというので、ニライの神から火を手に入れたという伝承がある。そこで以前には八重山では子どもが生まれるとすぐ海岸につれていって、竹富島の島影を拝ませる習慣があった。

 竹富島は石垣島にとってあの世の島だったわけだ。ところで、「竹富島ではハイマワリ、ハイクバリの神と呼んでいる」ところは、「上勢頭亮の直話」と書かれている。後段に続く話しもそうだと見なせるが、例によって谷川の出典扱いの所作には悩まされる。


『谷川健一全集〈第3巻〉古代3―古代史ノオト 他』

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