「石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチ」(中沢新一)
中沢新一は、柳田國男の『石神問答』を受けて書いている。
ミシャグチは諏訪信仰の世界では、村はずれの境界に祀られているわけではなく、そこになんらかの差別の感情や思考がまつわりついているわけでもなく、むしろ堂々と人々の暮らしの中心に位置していた神なのである。石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチは、そこをとおって若々しい善なる力が人の世界に降りてくる通路として、たとえ空間的な境界に関係をもつにしておm、それが中心にあるものから排除された領域としての境界を意味するのではなく、まさに世界と生命の根源にあるものに触れている境界の皮膜をあらわしている。ミシャグチやシャグジや、もろもろの「サ+ク」音の結合であらわされる霊威を、空間的な境界性で説明しつくすことはできない。空間における境界性は、ミシャグチにとっては、むしろ二次的な意味しか持っていない。
ミシャグチの置かれた場所は、遠隔化される以前の「あの世」との出入口としての境界に当たる。それは村はずれにあることもあれば、村の中心に位置することもある。また、場が転移されることもあれば、生成しては消えることもある。琉球弧では、それをスクが象徴しているというのは、驚くべきことだ。
サソコのミシャグチの身体の石棒と、近くには胞衣がかけられてあったのは、それをよく表わしている。諏訪は、かつての「あの世」の段階、縄文期の他界の記憶をよくとどめた場所なのだろう。
他界が遠隔化され、御嶽に置換されるとき、「石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチ」という表象を、御嶽はまとうことになる。
中沢新一 『精霊の王』
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