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2016/07/31

「風土記に探る出雲の聖域」(石塚尊俊)

 ぼくの目線は、縄文期のあの世の復元にあるのだが、「風土記に探る出雲の聖域」でも叶わない。狭田の国と闇見の国は「風土記前代の様相が最も広汎にわたる」とされているのだが。

 石塚は、二つの国が古くから佐太大神の信仰を通じてつながっているのが不思議だと書いている。

 佐多大神は、狭田の国の大神であり、佐太御子社がある。しかし、闇見の国にも久良弥社がある。ここにも神がいるのだから、両方佐多大神なのは不思議だということだ。しかも、闇見の国の加賀の神崎に佐太大神の誕生譚がある。

 この由来は、両地域にわたってシャコ貝をトーテムとする人々がいたと解すればいいのではないだろうか。いまのところ、そう仮説しておく。

 加賀の潜戸は、加賀の神崎にある。洞窟の境界部を通じて考えられたあの世は、神崎自身なのかもしれない。 

 

石塚尊俊 『出雲国神社史の研究』

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2016/07/30

「猿田彦神の意義を発見するまで」(伊波普猷)

 伊波普猷の「猿田彦神の意義を発見するまで」(1926)は、折口信夫に宛てた文章として発表されている。

 伊波は、琉球語の「サダル(先きになる)」という意味から、「猿田彦」語源に接近している。猿田彦は、「先駆けの神」または「先導の神」があるが、それは琉球語の「サダル」と同じであるに違いない。

古くはこの神のことを単にさだひこのかみ(先駆の神)といったに相違ありません。併し猿田という字を当てはめたところから見ると、当時さるだひこのかみともいったでしょう。このさるだは措置法即ち隣音交換であらたがあたらとなりあらぶがあぶるとなったように、さだるがそうなったのではありますまいか。

 そして「さだるひこのさだるがさるだとなって、それが勢力を得ていた」と解している。

 どうもどこかちぐはぐな印象を受けるのは、折口信夫が琉球語の特徴に逆語序を挙げたように、琉球語でサルダと言って、猿田彦の側でサダルとしているなら順当な気がするのだが、それがあべこべの関係になっていることだ。

 奥里将建は、この言葉のもとに琉球語のサダユンを置いているが(「琉球人の見た古事記と万葉」1926)、そうだとしたら語根には「サダ」を置けばいいように思える。佐田大神のように。

 サダは、サチ、サキへの転訛もありうるので、ここでもスクと同様、「サ行音+カ行音」の組み合わせに辿り着く。この意味ではサルタヒコとは、地の精霊の顕現の位相を持つ。

 サルタヒコとは、

 ・海神である蛇と太陽神であるシャコ貝の子神
 ・「先駆けの神」というよりは、「境界神」であり「神の使い」
 ・それは、トーテムの零落の位相を示す
 ・その名は、地の霊力の顕現を意味する

 サダルに「先に行く」という意味があるのは、「神の使い」の位相のひとつの現われと見なせる。それと同時に、トーテムの零落の形態のひとつに、地霊的な存在へ解消されるのが示唆されているように見える。それはトーテムの零落の最終形態であるかもしれない。

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2016/07/29

「サルタヒコの誕生」(谷川健一)

 サルタヒコの語源は「サダル神」に由来する。谷川は「サルタヒコを猿の面をした鼻高く頬あかき神だというふうに考える必要はない」。それはこじつけである、としている。

 そうではないだろう。鼻高いのは蛇の、頬赤いのはサダル神の赤の面影を宿していると見なせばいい。もともと蛇とシャコ貝から生まれるのが動植物なのだから、人ではない精霊の側面を持つのではないだろうか。

 鳥越憲三郎が『伊勢神宮の原像』のなかで、「アザカ国の守護神として猿田彦大神は信奉された」と言っているのを、「後世に起こった信仰を古代にさかのぼらせた想像」として退けている。しかし、これにしても鳥越の見解は妥当だと思う。ぼくたちの視点からいえば、アザカは、シャコ貝にちなむ地名であり、シャコ貝をトーテムとした人々を示している。

 貝を母に持つ佐太神社の祭神がイザナギで、サルタヒコも祀るというところは親子関係をよく示している。サルタヒコの父は蛇で、母は貝なのだ。

 「猿が伊勢大神の使いであると信じられた」。この場合のサルタヒコは、「神の使い」に零落した位相を示している。

 ぼくの知識不足もあるが、この論考で谷川の見解がよく分からない。もう少し丁寧に説明してほしかった。ただ、こういうことも書いている。

 この五穀の種をくばる神を竹富島ではハイマワリ、ハイクバリの神と呼んでいる。早配りの神ということで「志摩の速贄」のハヤでもある。ところで五穀は作ったが、火がないとたべられないというので、ニライの神から火を手に入れたという伝承がある。そこで以前には八重山では子どもが生まれるとすぐ海岸につれていって、竹富島の島影を拝ませる習慣があった。

 竹富島は石垣島にとってあの世の島だったわけだ。ところで、「竹富島ではハイマワリ、ハイクバリの神と呼んでいる」ところは、「上勢頭亮の直話」と書かれている。後段に続く話しもそうだと見なせるが、例によって谷川の出典扱いの所作には悩まされる。


『谷川健一全集〈第3巻〉古代3―古代史ノオト 他』

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2016/07/28

「縄文のエロス」(「珊瑚礁の思考」-シマウタ編)

 直前になってしまいましたが、7月30日土曜日に「縄文のエロス」と題して、「珊瑚礁の思考」のシマウタ編をやります。

・魚のユングトゥ(西表島)
・ペンガントゥレー節(黒島)
・赤馬(沖縄島恩納)
・パイケダー・ユンタ(新城島)
・ムングルクバーザ(石垣島)
・テジャク節(沖永良部島)

 これらの曲を持田明美さんが歌うとともに、ぼくはアマン世・クバヌハ世(縄文期)の心がどのように現われているのか、または引き継がれているのかという解説を試みます。

 なかでも、「魚のユングトゥ(西表島)」と「ペンガントゥレー節」は、縄文期の心がまっすぐに表現されているので、ひときわ味わい深くなること、請け合いです。特に「魚の(イューヌ)ユングトゥ」は、これまで解説されたこともないので、この曲を取り上げること自体に価値を感じています。

 シマウタはよく知られるようになったとはいえ、まだぼくたちが味わいきれてない作品たちはたくさん眠っているのでしょう。それらを発掘して、シマウタの世界観を広げていきたいと思っています。ご都合のつく方は、中野のモモカルデンにいらしてください。


 7月30日[土] 18:00~20:00 [17:30開場] 参加費\2,000(1ドリンク込み)
 場所:東京都中野区中央2-57-7 カフェ・モモカルデン tel:03-5386-6838


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2016/07/27

『謎のサルタヒコ』

 気になる点を列記してメモしていく。

 猿田彦は「衢(ちまた)の神」、「祖(さえ)の神」。「祖(さえ)の神」は「岐(ふなと)の神」。「この神さまが黄泉国との境を守っている」。

いわば杖からクナトノサエノカミとして猿田彦を誕生させているわけです。それによって黄泉国から雷であるとか、まがまがしいものが地上に入ることを防ぐ働きをする神さまとして岐神、猿田彦は誕生しているのです(吉田敦彦)。

 「道案内として天と地の境目である衢、そこが猿田彦がいわば守るべき場所なんです」。境を守ると同時に、「他界にまで導くような力を持った神さま」。

天の八衢というのは天の交差点であって、そこに立って待ち受けている祖の神、あるいは岐の神としての猿田彦は、その境を守ると同時に、こちらとあちらを媒介する、その両方の役割を持っている(鎌田東二)。

 「アメノウズメが裸になる、性器を露出するというのは必ず太陽の道を拓くのとかかわっているわけです(吉田)」。

 加賀の潜戸(くけど)は、佐太大神の生誕の地。旧潜戸には賽の河原がある。新潜戸は佐太大神の生誕の地。佐太大神には、猿田彦大神との同一説がある。

 佐多大神の母は、キサカヒメ。キサカ(ガ)ヒメは、大国主神の遺体を拾い集め、ウムガヒヒメの母の乳汁とともに塗り込めて再生せしめた女神。サダの神は、貝の女神を母神としている。

風神のマスラ神と、大地と海の貝であるキサカヒメの子宮すなわち洞窟から光輝く神としてのサダの神が誕生したのだ。(中略)加賀の潜戸は沖縄の信仰にみられる「太陽が穴」と深く通じているように思われる。サダの神は太陽の大神なのではないか。まさしく加賀の潜戸は、太陽の御子神としての太陽の大神の誕生をするにふさわしい「闇き岩屋」なのである。(鎌田)

 宮古島のサダル神、老婆は冠を被り赤い頭巾をかぶっている。「赤」は悪霊を退ける。御嶽にはシャコ貝がある。魔除け。シャコ貝は殻が最大の二枚貝で、上の殻と下の殻がぴたっと上下に噛みあう。その様子が十字形に見える。

沖縄の寿司屋に行きますとシャコ貝の寿司が出る。これをギラと言う。そういう言い方もありますが、アザカーとかアジクャーという言い方もある。両方あるんです。(谷川健一)

 猿田彦の「原点はサダル神」。アメノウズメは「目勝ち」。目の呪力を持つ婦女。ウズは海蛇。宮古島では虹が天の蛇。

アマテラスとサルタヒコは、日本神話における二種の太陽神であると私は思う。前者は天皇家につながる、新たなる天津神の主宰者としての太陽神であり国家神、後者は土着先住の国津神の中の太陽神。(鎌田)

 (大石窟伝承は)洞窟からの日神アマテラスの出現であり、さらにいえば洞窟に象徴された母胎からの日神の誕生である。すなわち乳房や女陰を露出したウズメの踊りは、出産を模倣した類間呪術による迎神の祭儀と考えられる。(神崎勝)。

 サルタヒコに対峙したウズメは、「サルタヒコの邪視を克服する呪術と言われる」。しかし、そうではなく、「出産をモチーフとする迎神儀礼によって、サルタヒコを出迎える母神でなければならない」。

 ハマグリの化身である女神ウムカヒメは、鳥を化して大空を飛翔すると信じられていたのである。貝の化身としての海の女神たちは、ときに鳥となって空を翔けつつ潮路を引く船を見守っていたのであろう。(神崎)。

 貝に挟まれて溺れ死ぬサルタヒコ。これは、「魚介の捕獲を類間呪術的に表現した「漁の呪儀」の神話にほかならなかった」(神崎)

 海の女神ウズメとその御子神である日神サルタヒコの信仰伝承。

 以下、メモ。

 これらを読むと、シャコ貝は太陽神で、蛇は海神という見立ては間違っていないようだ。

 サルタヒコもアメノウズメも、シャコ貝である太陽神と蛇である海神との子だ。だから、両者には太陽と蛇の面影が宿る。

 サルタヒコが貝に生まれ、貝に死ぬのは、貝の一生を思わせる。それはひとつの津波と次の津波のあいだの時間でもある。また、トーテミズムの終わりで、ここで貝は海の貝に戻る。口を切られた海鼠も海の海鼠になってしまう。

 アメノウズメの踊りは、シャーマン踊りで、性器を露出するのは、貝が口を開いて太陽が昇るのと同じことを意味した呪術だ。海鼠の口を切ったのは、貝の口を閉じたのだ。

 サルタヒコが、蛇とシャコ貝の子神でありながら境界の神でもあるのは、琉球弧の葬地で、貝に包まれた遺体が、洞窟の入口へ、そして道へと場所を移行する段階に対応している。

 サルタヒコの太陽の子神とアマテラスの太陽神とでは位相が異なっている。サルタヒコは、母を太陽とするが、アマテラスの祖神は父を太陽としており、それを自身を太陽の化身としたところでアマテラスは生まれている。

 開いた貝は太陽になり、閉じた貝は十字になる。魔除けの意味は閉じた貝に淵源している。

 また、「太陽が穴」は、大きなシャコ貝の端が見立てられていただろう。


『謎のサルタヒコ』

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2016/07/26

太陽神の重層構造

 中沢新一が「アースダイバー(対馬神道14)」で描いている対馬神道の重層的構造をもとに、琉球弧の思考をトレースしてみる。

Photo_2

 太陽神としてのシャコ貝は子宮として、サンゴ礁という胞衣から動植物の生命を生みだす。

 新石器的世界になれば東方の「太陽(ティダ)の穴」から生まれると考えられるようになるが、これを海のどこかなのだから、もとは太陽と海は溶け合っている。だから、太陽神は海の女神とつながっている。ここで、津波とシャコ貝の口の開閉はつながるだろう。津波はシャコ貝を連れてくることからしても。

 スク寄りの頃、海は時化、雷が鳴る。海神は海の大地を揺らめかせ、蛇は霊力を喚起させて、スクを出現させる。


 新石器的世界では、太陽神は男神として、女神を日光で感精させて、天童を生む。ユタの祖だ。

 漲水御嶽の蛇聟入では、蛇と結ばれた女性は、三人の女性を生み、それぞれが神になったとも伝えられるが、ここに旧石器的世界観の残滓を見ることができる。

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2016/07/25

島人の精神の位相メモ

 縄文時代が終わり、グスク時代に入ると、島人はサンゴ礁にめっきり関わらなくなる。サンゴ礁に背を向けるように立ち去る。それこそ、立ち去らされたように。かわって森林伐採が始まり穀物農耕が始まる。歴史的にはそこで鉄や暦を使うようになったとされている。いわば、母なる自然としてのサンゴ礁は、開墾されたのではなく、放っておかれたのだ。

 母なる自然は開墾されることによって、イメージへと転化されるのだとしたら、島人にとってはそれはまだ起きていないのではないだろうか。部分的には港湾化され、赤土の流出によってサンゴ礁は部分化されているとはいえ、サンゴのj復元はいまも根気よく続けられていることであり、葦徳の港湾クルーズ計画も断念されたばかりだ。

 戻せば、母なる自然は開墾によって失われる。そこから本土ではスサノオによって王権は生まれてくるのだし、イメージへ転化せざるえなかったから、妣の国へ行きたいと言ってスサノオは泣き叫ぶことになる。これに照らせば、島人はまだスサノオの泣き叫びを経験していない位置にいるのではないだろうか。

 経済的な自立や、国家的な独立が謳われるときに、決まって「しっかりする」ことが唱えられる。「なんくるないさ」ではいけない、しっかりしなくてはならない、というように。これは個人的には可能なことし、個々それぞれはそれぞれにそれをなしているとは言える。しかし、この文脈は決して王を誕生させよという文脈にはならない。

 言い換えれば、島人のなかから「地元への恩返し」を旨とする政治家は生まれてきただろうか。徳田虎雄はそうだったかもしれない。そういう意味では、徳之島はスサノオを生む土壌を持っているかもしれない。けれど、徳田虎雄にしても、地元への利益誘導を主眼とする政治家ではなかった。もちろん、島嶼環境は田中角栄のような絵に描いたそれができるわけではないという自然条件もある。けれど、「地元への恩返し」というよりは、島を出るタイプの政治家は、むしろ本土人になることが政治家になることの意味だったのではないだろうか。

 ことの是非を言いたいのではなく、島人はあるいはぼくたちは依然として、スサノオ以前のところにいるのではないか、ということだ。だから、スサノオを通過せよ、というのではなく、だからこうした精神の位相差を抱えたまま、ことに対していることを自覚しなければならないと思える。こうしたところに言語化が待たれるものが潜んでいる気がする。実感の伴わないところで、他人の物語を自分の物語として読むことにずっと晒されている気がする。

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2016/07/24

「ニライカナイの原像」4

 「ニライカナイの原像」をよく伝える神歌に出会うことができた。

 祝女葬式のオモイ(大宜味村字城)

 今日祝女愛し エイエイ
 月の崖 越え給い エイエイ
 太陽の崖 越え給い エイエイ
 乗り板に 乗り給い
 脇板に 乗り給い
 石の門に エイエイ送ろう
 金の門に エイエイ送ろう (『国頭郡誌』)

 たとえば、「太陽(てだ)の方位」で駒木敏は書いている。

 「月ばんた」「太陽ばんた」を越えて送られるノロの行く先は、一体どこなのであろうか。明確に表現されてはいないけれども、それは月や太陽によって可視的に方向づけられる、彼方のニライと考えてよいであろう。(「人文学」1988)

 祝女は新しくはないが、シャーマンの葬送としてこの神歌は相当古いと思える。月はもうひとつの太陽であることが示されているし、ニライカナイへの道行きが、ニライカナイへの原像への道行きと重なり合ってイメージできるようになっている。

 


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2016/07/23

シャコ貝と蛇

 シャコ貝を太陽神と見たということは何を意味するだろう。

 オヒデリ様は冬の季節に山から里に下りてきて、出雲から戻ったイカヅチ神と結婚する。その結婚によって、樹木や動物の生命の種を授かった女神は、身重な体をかかえて山にお戻りになる。ふたたび山にこもったオヒデリ様は、冬の季節を越え、春の時節の到来を待って、森じゅうに生命を放つ。
 フユ(内部にこもって増殖する意味の古代語)からハル(生命が膨らんで出てくるという古代語)へ。阿連の村に伝えられているこの太陽神の祭には、縄文文化と倭人的海人文化に共通の基層である、旧石器以来の狩猟文化の思想が、がっしりと組み込まれている。旧石器文化の生命力は、しぶとい。(中沢新一「アースダイバー・対馬神道」)

 シャコ貝は、子宮であり太陽神であるとするなら、ここでいう「オヒデリ様」に該当している。しかし、シャコ貝は雷とは結婚しない。当時が母系社会であったとしたら、女性は男性なしで子を孕むのだから、神々が結婚する必要はない。

 それなら、雷はどうしていたのだろうか。いや、その前に琉球弧でも雷は蛇だろうか。

 奄美大島では蛇と雷との同一性がもっと端的に表現されている。雷のことを奄美大島の瀬戸内町では、ティングロジャ(天の大蛇)とか、単にグロジャ(大蛇)と呼んでいる、と登山修は報告している(谷川健一『不死と再生の民俗』)。

 琉球弧でも雷は蛇だ。島の人は、ハブに噛まれるのを「打たれる」と表現する。また、蛇は虹でもあった。

 すると、スク(シュク)寄りの前には雷が鳴る、ということは、雷は、サンゴ礁の霊力を喚起させていたわけだ。

 阿連を「対馬神道のエルサレム」と書いた鈴木棠三は、対馬神道と琉球神道との比較へ注意を喚起している。そして対馬島内に多い「茂地」は、「琉球のオタケに相当するものの如く思う」と指摘している(『対馬の神道』)。

 
『蛇―不死と再生の民俗』


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2016/07/22

「ニライカナイの原像」3

 8月10日の「ニライカナイの原像」に来てくれる人のメリットを考えてみるに、死者やあの世に対するもともとの感じ方、考え方が分かるというこかなと思います。「祟る」とか「穢れ」とかではない、それ以前の観方。そして聞いたら、自分の故郷の縄文の「あの世」を探索してみたくなるのではないかと予想します。

 そしてそれはいまとても求められていることなんじゃないかと思ったりもします。いま、いろんな民俗学的な記述を読むときに、ここは縄文のあの世を示唆していると思えたら、備忘するようにしています。記述者はもちろんそんな問題意識で書いていないのですが、縄文の「あの世」の痕跡は伝承や地名に残されているので、当たりをつけることができます。そこには、穢れや祟りの観念がかぶさっていたり、人間ではない動物の精霊が祀られていたり、それらが複合して分かりにくくはなっているものの、確かな手応えを感じさせる場所もあります。

 代表的なのは、五島列島の福江島にあるとされている「みみらくの島」がそうです。「みみらくの島」にしても伝説化されているので、福江島のどこかということははっきりしていないのですが、そこにひとつの解答というか、仮説を提示することはできるので、そのことはお話しします。

 自分でも理由がよく分からないけれど、そういう縄文の「あの世」探究に夢中になっています。でもそれは単にぼくが欲しているというだけではないんじゃないだろうか。

 そう思うのは、『震災の霊性学』などで書かれている幽霊の話や、教訓型や追悼型ではない、記憶型と呼ばれる新しい慰霊碑のあり方が、縄文の「あの世」のあり方と相似しているからです。いまのぼくたちは、死者やあの世を祟りや穢れと見なしたり、供養するといった形を採ったりして、縄文期からははるかに遠ざかっているわけですが、それでも心の層としては縄文期の感じ方を色濃く持っている。だから、震災のような思いがけない死に際しては、そうした心の層が噴出してくるのではないかと考えたりしています。むしろそれは、かつてあった過去ではなくて、未来の感じ方としてぼくたちがふたたび自分のものにしていいものなのかもしれません。そういうことをお伝えできればと思っています。


8月10日[水] 19:00~21:00 [18:30開場] 参加費\1,500

場所:学び舎遊人
東京都千代田区西神田2-4-1
(財)東方学会新館2F

予約先:
tel:03-3239-1908 
email:
manabiya@yujinplannning.com

 
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2016/07/21

「祟り-祀り」、「穢れ-祓い」以前

 金菱清は、池上良正を引く形で、「生者と死者の関係の綱引き」について、整理している。

 仏教インパクト以前

 「祟り-祀り」 祟るから祀る
 「穢れ-祓い」 穢れだから祓う

 仏教インパクト以後

 「供養-調伏」

 「供養-調伏」というのは、「仏教的功徳を死者に廻施して救済を擁護する供養と、仏法の力によって死者を善導・教化して鎮める調伏である」。どちらにしても死者は恐ろしいものだということになっている。

 金菱はこれに対して、石巻の幽霊話や閖上の慰霊碑は、

不安定かつ両義的な生/死の中身を縮減せずに、それをむしろ豊富化し、そのままでよいという肯定的なものとして当事者が受け止めていることは、従来の宗教観からは説明がつかないように思われる。

 としている。

 琉球弧の他界観に照らすと、従来の宗教観のなかにもこれを含めることはできると思えてくる。それは、仏教インパクト以前の在来システムのなかに、「祟り-祀り」、「穢れ-祓い」以前を加えることだ。

 これは、うまい言葉が見つからないが、「助力-感謝」とも言うべきものだ。死者は生者とともにあって助けてくれる。だから、感謝をする、というようなことだ。美辞麗句に仕立てたいわけではなく、縄文の「あの世」のあり方は、それを教えてくる気がする。「ニライカナイの原像」では、そのことに触れたいと思っている。

 

『震災学入門: 死生観からの社会構想』

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2016/07/20

「ニライカナイの原像」2

 琉球弧の精神史をたどるなかで、しばしば吉成直樹の『琉球民俗の底流』を読み返すことになる。問題意識が重なることが多い。

 今回立ち止まるのは、中本正智がニライカナイを「土の屋・日の屋」と解したことに対する吉成の理解だ。

 オモロが謡われる時代になるにおよんで、「みるや」「にるや」は太陽と王を同格とみる考えによって、太陽がそのなかの中心的な位置を占めるようになったが、本来、太陽には関係なく、単に万物の源泉である「土の中」を意味する言葉であったとみなすのが、最も整合的ではないかと考える(後略)。

 としている。

 八重山、宮古の民俗語彙では「ニーロー、ニーラスク、ニーレイスク、ニッラ、ニッザ」などはすべて地下の世界を表現している。吉成によれば、カナイ系の語を使うのが沖縄島を中心とする地域であることは、カナイ系の言葉(日の屋)が、琉球王国の成立前夜、王権が大きな意味を持つようになって以降に関連づけて考えるべき言葉であることを示している。

 しかし、前花哲雄は、石垣島のこととして、ニーラスク、カネーラスクという言葉を挙げていた。これは、古くからニライ系の言葉とともにカナイ系の言葉もあったことを示唆するものだと思える。

 そう理解するとしたら、八重山、宮古の民俗語彙でカナイ系を欠くのは、欠けていったことを意味するのではないだろうか。その理由は、「太陽」の意味が変わってしまったからだ。変わってしまった意味から、太陽は王権と結びつけられることになる。

 8/10のカフェではこのことまでは言及できないと思うけれど、「太陽」の意味の原像に向かって、「土の屋・日の屋」の意味を解きほぐすところまでは行けると思う。

 

『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』

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2016/07/19

「ブーは一番神様に近い植物」(「与那国島のものの見方・考え方」)

 1954年の与那国島生まれの方が、ブーとカラムシは違うと言っている。「茎の色、葉の色、触った時の葉の感触も違う。そもそも糸の取り方が違う」と。

ブーは、茎の皮をはいだら水に浸すだけで、竹や貝をつかった《イン》といいう道具を使えば繊維と肉質を分けることができるようになるけれど、カラムシは、茎からはいだ皮を蒸すのね。

 「ブーは一番神様に近い植物」だという。

 織染める原料のアイにも物の原料のブーにも、神様がいらっしゃる。染物や織物の材料にアイやブーを取る時、いきなり行ったらアイやブーにいらっしゃる神様が驚くの。なんらかの合図をして寝ている神様を起こしてから近づいていって、取らせてもらわないといけない。それは、ボンと石を投げてもいいし、オーイと言っても、咳払いしても、歌をうたってもいいの。

 ブー以外にも親密な関係を結んだ植物があるのが分かる。アイも食用ではない。ただ、トウガラシにも神様はいると話している。

 ブーは、いちばん神に近い植物ね。だから、落とした魂を戻すタマチスイ(沖縄のマブイグミ)をするときに、魂を人間の体に縛りつけるのに、ブーの繊維を使うでしょ。手首、足首、首にも巻いて魂が逃げ出さないようにするわけ。最近では、足首には巻かなくなっている。私がタマチスイされた時は、お腹にまでブーを巻かれたわ。

 この聞き取りは素晴らしい。ブーをトーテムやそれに近い関係を結んだのは多良間島だけではないことが分かるし、何よりこの方の肉感的な交流の仕方がかつてのことを彷彿とさせてくれる。1950年代生まれだというのに、こういうことがありえたのかと驚かされる。
 
 ブーのことだけではない。胞衣は、与那国では「アングヌムヌ」(グは鼻音)という。

 《アング》というのは、相手をすることなの。旅から来た人の相手をすることとか、他所から来た人とこっちの人が性的な関係に入る、こういうことも含めてそういうのよ。

 与論でいえば、さしずめアグヌムヌだろう。旅人への性的歓待は、琉球弧ではアグという言葉を使って呼ばれていたのかもしれない。与那国では、胎盤も「アングヌムヌ」という。

 だから、《アングぬムヌ》というと、「(赤ん坊の)相手をするもの」、「お相手さん」というような意味になるわね。お母さんのお腹の中で、赤ん坊が一番親しく相手をしてもらった方ということでしょう。胎盤というのは、ずうっと、自分をつつんで育ててくれて、しかも自分と一緒に育ってきた方でしょ。その相手と別れて、子どもは生まれてくる。そして、寒かったり、暑かったり、ひもじかったりする、厳しい外の世界にいて、時々には、あの安心できて気持ちがよかった時のこと、いつでも側にしてくれた相手のことを思い出すんじゃないかしら。

 こで胞衣埋めのときの「笑い」の意味が分かってくる。やはり生児が「あの世」に連れ窓されないための分離を図るのだ。

 「胞衣笑い」は、「お腹の中にいたころ自分の対になっていたもの(胎盤)を思い出して笑っている」と解されている。

 彼女は、しかし、そういう育てられ方をされてはいる。父親や叔父が、「この子をいつディミミと合わせようか」と相談し、1才になる前にと、大人の目が届くところでそうしている。ディミミとは、「地の耳」でミミズのことだ。「屋敷の中で《ディミミ》を探して、洗面器に入れて畳の上で毎日のように対面させたんだって」。そして、彼女はディミミと話せるようになったという。

 ディミミは地下のことを教えてくれる。

《ニラ》つまり地面の中の世界のことをいつでも耳を澄ませていて、異変があったら人間に教えてくれる大切な役目をしているから。

 そして父親の畑仕事の際、「ミミズに聞いたことを教えるのが」彼女の役割になったという。「それがよく当たるので、親父は幼い私をあてにするようになっていった」。

 《ディミミ》は、季節の変わり目に年に2回、春と秋に食べるものだった。食物でもあるけれど、半分はお祈りの世界よ。《ディミミ》をいただくことで、《ニラガナチ》にあやからせてください、という意味なの。《ニラガナチ》は《ニラ》に《カナチ》がついたもので、《ニラ》つまり地底世界に対する尊称ね、天は《ティンガナチ》、海は《トゥーガナチ》よ。

 素晴らしい語り部で出会えたものだ。彼女の話しを絵本にすればいいのにと思う。
 

安渓貴子・安渓遊地『奄美沖縄 環境史資料集成』


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2016/07/18

「サンゴ礁をめぐる原琉球の旅」(前編)

 雑誌「モモト vol.27」に、「サンゴ礁をめぐる原琉球の旅」(前編)を寄稿した。今回も仲程長治さんの素晴らしい写真の上に文字を載せるという豪華な装いだ。

 ここでは古琉球の前を「原琉球」と呼んでみた。なかでもその後半、サンゴ礁が発生してからの島を幻視している。「アマン世」「クバヌハ世」の後半ということになるが、「ウル世」と呼んでもいいのだと思う。

 それにしてもこの表紙の写真。最高のサンゴではないですか。

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2016/07/17

太陽の子から若太陽の化身へ

 後藤明は書いている。

 貝は古代人にとって特別な存在であった。古代ギリシャでは女神ヴィーナスがシャコ貝から誕生する。タヒチの神話では世界は巨大なシャコ貝の貝殻に入っていた。このように巨大なシャコ貝は世界を閉じこめておく器であり、それが開かれることによって天地が分離し、世界が開闢するとイメージされたのであろう。

 琉球弧でも人間はシャコ貝から誕生した。もっといえば、シャコ貝からサンゴ礁の海へ出て波間に顔を出した。そのシャコ貝は太陽の化身だった。ということは、島人は太陽の子というわけだ。

 これは按司たちの若太陽思想に引き継がれたのかもしれない。つまり、太陽の子が、太陽自身の化身を自認したということだ。


『海から見た日本人-海人で読む日本の歴史』

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2016/07/16

「赤子塚の話」

 柳田國男の「境の神に子を祷る風習」。

 幸いにしてこうして御一緒におもむろに考えている内に、児捨馬場が児拾馬場であったごとく、また子売地蔵がやはり子買いであったごとく、死んだ児の行く処とのみ認められた塞河原が、子なき者子を求め、弱い子を丈夫な子と引き換え、あるいは世に出ようとしてなお彷徨う者に、安々と産声を揚げしめるために、数百千年の間凡人の父母が、来ては祷った道祖神の祭場と、根元一つであることがほぼ明白になった。つまり我々は皆、形を母の胎に仮ると同時に、魂を里の淋しい石原から得たのである。そういう風にかつて信じていたのである。(「赤子塚の話」『柳田國男全集7』)

 この文章は美しい。明白になったことをもっと言えば、「賽河原」が、あの世との境界であったことを意味している。そしてその当時jは、「里の淋しい石原」ではなく、聖なる場だった。

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2016/07/15

洞窟と浜辺から持ち帰るサンゴ石

 「あの世」の境界から石を拾ってくる行事(『沖縄・奄美の祝事』(崎原恒新、恵原義盛))。

 今帰仁村今泊、クバの御嶽の西側中腹にあるフトウキヌイツピャー(洞窟)に旧五月二十九日、九月二十九日(かつては九月九日であったという)に祈願、小石を懐中にして帰ると子を授かるといい、湧川ではワルミヌテラ(洞窟・ビジュル信仰)では今泊の浜からウル(サンゴ石)を拾ってきて祈願し、帰りには以前に拝んだ人のウルを持ち帰ると子が授かるといわれている。

 どちらも「あの世」との境界域から持って帰ることが言われている。これはつまり、他界が遠隔化される以前から、浜辺はいわば境界域であったことを示している。

 そうだとすると、今泊の先の「あの世」はどこだったろう。地勢からすれば、伊是名島がふさわしい。

 谷川健一は書いている。

むかし、名護の祝女と伊平屋島の王とは兄妹関係にあった。そこで名護では、旧七月の海神祭りのときにネズミをイノシシに見立てて、小さな舟にのせ海の彼方の伊平屋島にむけて流す。するとそのお返しとして伊平屋島のほうからは、旧の三月ころにヒートを送ってよこすというのである。

 これは王と祝女の関係に変形される前は、名護の「あの世」が伊平屋島であったことを示していると思える。


『神・人間・動物―伝承を生きる世界』

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2016/07/14

シャコ貝と津波

 太陽が男神になると、この父の存在は希薄になる。

太陽も西の海に沈んでいく。そのとき太陽と海は、水平線で一つに溶け合う。倭人にとって、太陽神と海神はそのようにして、もともとは一体の神である。(中沢新一「アースダイバー」対馬神道11)

 これは強い示唆を与える。シャコ貝が太陽神であり、津波は海神であるなら、シャコ貝も津波と関係があると考えられていた可能性を持つ。

 実際的には、そのつながりはある。

 八重山気象台の構内にも直径およそ三米くらいの、球形の典型的なB型の石があった。筆者は第八代石垣島測候所帳であられた瀬名波長宜翁から、はじめてこの石が津波によって打ち上げられたものであることを教えていただき、津波の石に興味をもつキッカケとなった。同翁の話によると、もとこの石には、「ヒメジャコ」、すなわち八重山名ギーラのからもついていたという。(牧野清著『明和の大津波』)

 津波の後に見い出されるもののひとつにシャコ貝がある。多良間島のぶぜなー神話で、シャコ貝が人間に先立つものとして現われるのは、「洪水」と無関係ではないのだ。シャコ貝は津波をもたらさない。けれど、津波はシャコ貝をもたらす。

 ということは、シャコ貝に猿がはさまれる神話、民話は津波の変形と見なすことができる。

 中沢は書いている。

 天と海は漢字では二つに書き分けられるが、発音すれば両方とも「あま」で、同じ音である。「天高きところ」と「海のはるか彼方」とは、どうやら神話の思考の中では、同じ意味をもっていたらしい。

 ぼくたちは、「天」も「海の彼方」も生み出されていない段階のことを考えている。そのときには、太陽は海をもたらさないが、海は太陽をもたらす、つまり、海は太陽の母体と考えられていたことになる。

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2016/07/13

「ニライカナイの原像」(「珊瑚礁の思考カフェ」第4回)

 「珊瑚礁の思考カフェ」第4回は、「あの世」をテーマにします。「ニライカナイの原像」。
 (毎日の更新は、この記事の下で行っています)。

 柳田国男が山中他界を、折口信夫が海の彼方を強調し、吉本隆明が洞窟の向こうを付加した他界観。それを踏まえながら、他界の発生と展開のなかで、彼らの他界観を位置づけ直してみたいと思う。

 日本人の他界観について、谷川健一は書いている。

 古代日本人が他界をあらわすのに使用した「常世」「根の国」「本つ国」「妣の国」「黄泉の国」などの言葉を吟味してみると、いずれもが、日本人の死後の世界としての他界と、祖先の渡来の「原郷」(「本つ国」)としての他界と、二つのイメージを剥離しがたくもっている。日本人の民族体験の総和は、いつしか集合的無意識として日本人のなかに流れ、沈殿している。それを喚起するとなれば、自己をさかのぼってはるかな祖霊の観念にたどりつく。しかし日本人の他界は、たんに死者たちの霊の住む海彼の国というだけでは充分ではない。この二つが分かちがたく融着したものである。つまり時間としての他界と空間としての他界とがみごとにまじりあった世界である。こうした他界観をもつ民族が日本人の他に存在するか私は知らない。諸民族の世界観の中でも日本人の世界観が特異な位相をもっているのは、この二重の他界観に胚胎するところが大きい。(『柳田国男の民俗学』)

 柳田國男が常民の感性を重視したのとは別の意味でこれは日本を特異なものにしてしまっているが、そうする必要はない。日本人の他界観も琉球弧のそれも、普遍性のなかの一類型として位置づけることができると思う。

 複雑に見えているのは、縄文期と弥生期とでは人々の認識しているワールド・モデル(世界模型)が異なることに起因している。つまり、「あの世」の捉え方がまったく違っているのだ。そして、縄文期のワールド・モデルは神話世界と分かちがたくつながっているから、弥生期のワールド・モデルからみれば、以前の姿が分からなかうなってしまう。

 しかし、その痕跡は残る。だから、ぼくたちは残された手がかりから、縄文期の他界の場所や世界観を復元してみることができるのだと思う。2時間のなかでどこまでそれを言えるかは分からないが、試みます。現在のニライカナイから縄文期のニライカナイへ、そしてその原像へ。 


8月10日[水] 19:00~21:00 [18:30開場] 参加費\1,500

場所:学び舎遊人 東京都千代田区西神田2-4-1 (財)東方学会新館2F

水道橋駅から徒歩9分
九段下駅から徒歩8分
神保町駅から徒歩6分

予約先:tel:03-3239-1908 
email: manabiya@yujinplannning.com

Photo


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2016/07/12

「太陽を食べるもの」『黒潮に生きるもの』(鈴木克美)

 造礁サンゴに棲む共生藻は、ズーサンテラと呼ばれる。サンゴの個虫は海中のプランクトンを食べる。しかし、それだけで巨大な造礁サンゴをつくるのは難しい。しかもサンゴは、植物プランクとの豊かな濁った海にからきし弱い。造礁サンゴの発育には、餌の多い濁った海よりも、清澄な海水と強烈な太陽光を要する、

造礁サンゴが旺盛に生活し、サンゴ礁の発達した海では、サンゴ自体がえさをとらえるための条件よりも、ズーサンテラが太陽の光を食べるための条件の方が優先されていることは確かである。(鈴木克美『黒潮に生きるもの』)

 サンゴ礁の動物で、ズーサンテラを体内に棲まわせているのはサンゴだけではない。たとえば、世界最大の二枚貝、オオジャゴ(ガイ)もそうだ。

 オオジャコの両の貝殻のあいだから覗いて見える、毒々しいまでに派手な色の外套膜のなかにも、無数のズーサンテラがしっかり棲み込んでいるのである。オオジャコだけではない。シャゴウ、シラナミ、ヒレジャコ、ヒメジャコ。シャコガイの仲間は、みんな体内にズーサンテラを共生させている。

 まだ、ある。ふつう二枚貝は、水管を水中に突き出しているが、シャコ貝の水管は発達せず、丸い穴が開いているだけ。そのかわり、美しい色彩の外套膜を外に張り広げてズーサンテラに太陽の光を食べさせているのだろう。

 鈴木の議論で面白いのは、ズーサンテラの光合成を「太陽の光を食べている」と表現していることだ。その意味では、ズーサンテラこそは、サンゴやシャコ貝の親だと言ってもいい。サンゴやシャコ貝こそが太陽を食べているとみなせば、本当はサンゴやシャコ貝が太陽の祖先になると言い換えてもいい。ともあれ、シャコ貝はその生き方において、もうひとつのサンゴなのだ。

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2016/07/11

「漲水御嶽の伝承」(末吉亜梨沙)

 末吉亜梨沙の(「琉球王権と神話の歴史地理学的研究」)から、もう少し示唆を得てみる。

 漲水御嶽の伝承では登場する蛇が天上に昇る、つまり蛇が神であり、生んだ子どもたちも同じく神となったという伝承が多く残されている。その反面、悪いモノとして登場する蛇の子を浜下りを行なうことによって流すという話も存在している。

 初期の段階では、

 1.太陽の女神であるシャコ貝から人間が生まれる。

 性交と出産の認識を受容し、人間がシャコ貝をトーテムとしなくなると、

 2.太陽の女神と蛇の子が神となる。

 他界が遠隔化し、高神が生み出されると、

 3.太陽の女神が蛇の子を流産する

 農業的世界になると、

 4.女が日光に感精して神の妻になる

 神の妻から、神へと自認すると、

 5.神としての祝女になる。

 漲水御嶽の伝承は、2と5が習合していることになる。


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2016/07/10

浜下りの段階

 末吉亜梨沙は「キンマモンと沖縄の蛇聟入の関係性は深い」と考察している(「琉球王権と神話の歴史地理学的研究」)。これはとても面白い。

キンマモンが出現するとされたのは 3月・6月・9月・12 月であるとされている。一方で、浜下り由来の話を始め、沖縄の蛇聟入のなかで胎内に宿っている子どもを流産させる話で登場する儀礼の浜下りは 3 月 3 日に行なわれており、キンマモンの出現する月である 3 月と被っているのがわかる。そしてキンマモンは聞得大君と関連して出現していることから神女との関係性は密接していると考えることが出来、蛇聟入で蛇の棲家とされている場所も神女との関連性をみることができる。
 また、キンマモンというのは海底に住んでいると『琉球神道記』で記載されていた。この海底というのはニライカナイのことであろう。海底の宮として連想されるのは、龍宮である。その龍宮に住んでいるということからキンマモンは龍神と考えることができる。

 本当は、神の子として活躍するはずの蛇の子が、流産を余儀なくされるのは、蛇の零落を意味しているが、同時に蛇が動物であることを止めて抽象的な神へと変容したことを意味している。琉球弧においても、グレート・スピリットは蛇が担っているようだ。

 末吉の言う「キンマモンと沖縄の蛇聟入の関係性は深い」を言い換えてみると、浜下りは他界の遠隔化と関係性が深いのだ。

 ところでここでいう浜下りとは、

 儀礼として記載されている浜下りとは旧暦三月三日に行なう沖縄の年中行事の一つで、三月三日に女性のみだけではなく家族連れで潮干狩りをすることによって、不浄を祓って健康を願う行事である。しかし、元来の起源説話では女性が浜におりて身を清めるというものであった。

 ということで、生れたばかりの子の足を海に浸すという行為を含んでいない。子は浜辺で拾ったということも語られるわけではない。だから、赤子の儀礼としての浜下りは別に考えられなければならない。むしろ、神との子として成長する話のなかにこの儀礼の意味は含まれている。むしろ高いの遠隔化にもかかわらず、赤子の儀礼は残ったと言うべきかもしれない。

 シャコ貝は太陽であり子宮であり、サンゴ礁は胞衣である。すると、サンゴ礁を破って子は生まれる。そういう世界観に子は海からの授かり物という認識はぴたりと一致している。


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2016/07/09

『日本人の死生観―民族の心のあり方をさぐる』(五来重)

 山中他界の古層を探った五来重だけれど、その死生観は穢れ先験の観点だった。

 風葬がよく見られたことについて、

日本人が肉体を厭うことのはなはだしい民族で、その肉体を早く消滅させて、肉体が消滅すれば霊魂は浄化する、きたない腐敗していく肉体が存在すると霊魂は浄化されない、とかんがえていたからで、早く浄化させるためには、水に流してしまうか、あるいは風化させてしまうかの、二つの手段をとっていたのです。

 これはことの起こりから言えばそうではなく、肉体に意味を認めたから、風葬は持続してきたのだ。

 「熊野詣での山道では死んだ人の霊に会うことができる」。

熊野はそういうところであり、また同時に烏をもって神聖なる鳥とする理由も、熊野に古墳がほとんど発見されていないという事実も、ここが風葬の卓越したところ、あるいは水葬の卓越したところであったということが考えられるわけです。

 これは熊野が地上の他界を持ったことを意味している。

中国の蓬莱というべきものにあたるものが、理想郷としても、あるいは死者が行ったり来たりするような場所としても、海上の他界というものができてくる。そのもとになるのがやはり水葬だろうと思います。

 海上他界のもとは水葬とは限らない。風葬も浅く埋める埋葬も海上他界と結びつく。

 「具体的んば島をもって他界とする考え方も」ある。

伊予のほうでは宮島、厳島をもって他界とする考えがあって、伊予の北半分では人が死んだら厳島へ行くという。厳島神社ではまもとに迷惑だろうと思います。厳島といわず弥山(みせん)ともいっていますが、厳島の頂上が弥山で、弥山へ行くという。

 この記述の通りなら、弥山は、遠隔化された他界に該当している。厳島は標高530mほどあるから、それに該当する条件は持っている。また、厳島の人は迷惑ではない。それは対岸の人々からは神聖視されたことを意味するのだから。

 「黄泉国という場合には、地下の他界をさしている」。「もちろんそれはまっ暗で」、「しかもそれはひじょうに穢れた国である」。

 地下だからまっくらということにはならない。穢れも、穢れていったのであって、最初からそうなのではない。

 「霊場こそもっとも発生的な第二次の詣墓にほかならない」。

 これはその通りだと思う。しかし、

 要するに死者の穢れという霊魂執念から、死体埋葬または荼毘を行なった第一次墓地も穢れていると考えられ、この霊魂をきよめるために清浄なる聖地に第二次墓地をもとめ、霊魂の禊を行なったことが両墓制の起源といってよいであろう。

 理由は穢れではない。「第一次墓地」近辺に他界への入口があり、別の場所に他界があるということが詣り墓を要請するということが、両墓制を生む根拠になったと考えられる。


『日本人の死生観―民族の心のあり方をさぐる』


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2016/07/08

太陽とシャコ貝

 大型のスクはキラハニと呼ばれている。しかし、谷川健一は宮城島で「テダハニ」とも聞き取りしているから、このキラハニはテダハニと同一であり、太陽を意味している。

 ところで、シャコ貝をアジケーと呼ぶのは、十字の意味を担うようになってからのものだとすれば、その古名に当たるものがあるはずだが、石垣島でギーラと呼ばれるのはその候補になるだろう。ところで、ギーラもティダなのではなだろうか。

 ギーラは具体的にはヒメジャコのことだが、ヒメジャコの口のまわりの怪しさは太陽と呼ぶにふさわしい。

 ぼくたちは、琉球弧の野生の思考で、シャコ貝は子宮であり、サンゴ礁は胞衣だとみなされていたと考えている。すると、シャコ貝は太陽の女神だということになる。ふつう、貝は月と女性に結びつくので、この連合は不自然にも見える。シャコ貝を太陽と結びつけていいだろうか。

 オヒデリ様という太陽神は、山と森に住む動物たちの、守護神であり母でもある。彼女は古代ギリシャではアルテミス、古代ローマでディアナ(ダイアナ)と呼ばれていた、樹木と動物と自然の多産性を守護する女神の一類である。この女神の来歴は、おそろしく古い。ヨーロッパでも、旧石器時代の狩猟的文化のなかで、この女神の原型がすでに活躍を見せている。
 オヒデリ様は冬の季節に山から里に下りてきて、出雲から戻ったイカズチ神と結婚する。その結婚によって、樹木や動物の生命の種を授かった女神は、身重な体をかかえて山にお戻りになる。ふたたび山にこもったオヒデリ様は、冬の季節を迎え、春の時節の到来を待って、森じゅうに生命を放つ。(中沢新一「対馬神道」14)

 ここでいうオヒデリ様にシャコ貝が対応づけられれば、ありえることになるかもしれない。中沢のいう山と森をサンゴ礁に置き換えれば、シャコ貝の果たす役割はぴったりだともいえる。ただ、貝と蛇の結婚を語る伝承は琉球弧にはないと思える。

 しかし、この段階では、女性はひとりで子供を産むと考えられていたとすれば、蛇の存在は要らないことになる。

 シャコ貝は、斧としても用いられ、鍋でもあった。モノを生み出す力、多産性はシャコ貝に託されていたことは確かだと思える。

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2016/07/07

「石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチ」(中沢新一)

 中沢新一は、柳田國男の『石神問答』を受けて書いている。

ミシャグチは諏訪信仰の世界では、村はずれの境界に祀られているわけではなく、そこになんらかの差別の感情や思考がまつわりついているわけでもなく、むしろ堂々と人々の暮らしの中心に位置していた神なのである。石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチは、そこをとおって若々しい善なる力が人の世界に降りてくる通路として、たとえ空間的な境界に関係をもつにしておm、それが中心にあるものから排除された領域としての境界を意味するのではなく、まさに世界と生命の根源にあるものに触れている境界の皮膜をあらわしている。ミシャグチやシャグジや、もろもろの「サ+ク」音の結合であらわされる霊威を、空間的な境界性で説明しつくすことはできない。空間における境界性は、ミシャグチにとっては、むしろ二次的な意味しか持っていない。

 ミシャグチの置かれた場所は、遠隔化される以前の「あの世」との出入口としての境界に当たる。それは村はずれにあることもあれば、村の中心に位置することもある。また、場が転移されることもあれば、生成しては消えることもある。琉球弧では、それをスクが象徴しているというのは、驚くべきことだ。

 サソコのミシャグチの身体の石棒と、近くには胞衣がかけられてあったのは、それをよく表わしている。諏訪は、かつての「あの世」の段階、縄文期の他界の記憶をよくとどめた場所なのだろう。

 他界が遠隔化され、御嶽に置換されるとき、「石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチ」という表象を、御嶽はまとうことになる。

 

中沢新一 『精霊の王』


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2016/07/06

三輪山・御室山・泊瀬

 三輪山の背中には、この秀麗な山をだきかかえるようにして、御室山がどっしりと構えている。この御室山からは豊かな泊瀬(初瀬)川が流れ出していて、その水源のあたりは縄文時代からの祭祀の中心地になっていた。つまりそこには何か別の名前で呼ばれていた可能性もある「シャグジ」の神が祀られていた、と推定される。

 御室山附近の知識を持ち合わせていないけれど、この記述から想定できるのは、泊瀬川の水源あたり、縄文時代の祭祀の中心地であり、「「シャグジ」の神が祀られていた」のは、「あの世」との境界であり、標高82mの御室山がそれに当たる。これに対して、標高867mの三輪山は遠隔化された「あの世」に当たる。

 「「翁」は「三輪」と同一の構造を持つ」と中沢が言うとき、ぼくたちの言葉でいえば、「あの世」への境界、「あの世」、遠隔化されたあの世からなる世界の構造を指している。

 もうひとつ、金春禅竹の心意を代弁して、中沢は伊勢外宮の高倉山を指摘している。

「伊勢」においても、光の神は外宮の背後の山に穿たれた洞窟を通じて、根源の底に触っていた、だから「伊勢」も「翁」と同一体なのだ、というのが禅竹の言いたいことだったと、私は推測する。

 これは、高倉があの世であり、伊勢の海の彼方が遠隔化されたあの世だとうことになる。

 中沢は書いている。「国家の先に出現するものの本質を、なんとかして見通してみたいと考えている。そのときいちばん必要とされるのが、国家の原理が作動していない社会に生きるとき、人間はどんな思考、どんな身体感覚、どのような姿をした超越または内在の感覚がふさわしいのかをあらかじめ描き出しておく、想像と思考実験なのである。」

 これはぼくなどが、「あの世」と「かつてのあの世」と境界探しに夢中になる理由を言い当てているようにも聞こえてくる。


中沢新一 『精霊の王』


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2016/07/05

シャコ貝・サンゴ礁・シュク

 「猿楽伝承に言う、不思議な子供を詰めたまま水中を流れてきた「壺」」。ミジャグチの伝承においても、「卵のような形をした、なにかの容器状のものに包まれて出現する童子のイメージが広くゆきわたっている」。容器はしばしば「新生児を包む胞衣として描かれる」ことが多い。

 蚕は、

ミシャグチのように、殻につつまれて守られている間に、見えない殻の内部で劇的なメタモルフォーシスをおこなって、現実の「見える」世界の中に出現、「みあれ」するのだ。これが諏訪信仰圏で、ミシャグチが胞衣の中で成長して、童子として出現すると考えられているのと、よく似た考え方である。

 琉球弧では、壺や卵や容器はシャコ貝であり、胞衣はサンゴ礁であり、そのなかで育つのはシュクとして表現されている。驚くことに、あるいは不思議なことに、ミシャグチとシュクとは語音の共鳴さえ起こしている。

 シャグジ=宿神を、このように環太平洋的な広がりをもった思考としてとらえ直してみると、私たちの前に思いもかけなかった可能性が開かれてくる。宿神的思考の記憶は、南北アメリカ大陸から東北アジアをへて中国少数民族の世界へ、かつてのスンダランドに属する島々やポリネシアへと広がっていく、広大な環太平洋圏を舞台にしておこなわれる未来の神話学のなかに、正確に位置づけることさえ可能である、と私は思うのだ。

 そのひとつの琉球弧は、シャコ貝、サンゴ礁、シュクという動物や自然たちによって描かれることになるだろう。


中沢新一 『精霊の王』

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2016/07/04

葬法とシャコ貝 4

 安座間原第一遺跡の41号男性や木綿原遺跡の9号男性など、シャコ貝をまとった人骨の意味は、多良間島の胞衣埋めと同じだと見なせばいいようだ。

 41号男性は、伏臥で頭部のまわりに、9号男性は、頭部と全身にシャコ貝が置かれていた。ことに41号男性は、頭部を包むように両側にシャコ貝が置かれているので邪霊と解されてきている。

 ここに多良間島の胞衣埋めを置けば、そこでは胞衣は、シャコ貝のなかに入れて土中に埋めている(『村誌たらま』I)。これは41号男性の埋められ方と瓜二つだと言っていい。どちらにしても、人のモノ送りの儀礼だと見なせる。霊をあの世に返すのだ。

Photo_2

 遺体にシャコ貝が伴うのは、前4期から後期のはじめにかけてのことだ。立地も岩陰か砂丘になっている。前4期から出現するのは、「あの世」が生み出されてからの時期と矛盾しない。人間に先立つものはシャコ貝だった、あるいは人間はシャコ貝から生まれたという観念は、地の島のあの世と結びついているのかもしれない。とにかく、海辺に住居を構えるようになって、見い出したトーテムはシャコ貝だった。

 三島格は、「としや名護から寄よんてやり聞きゆる、首里と名護境(さけ)にあざ貝(け)植えらな」という恩納節を引き、「これは当時、アジケーが呪物の一つとして使用されていたことの投影であろう」(『貝をめぐる考古学―南島考古学の一視点』1977)と書いている。ぼくたちが注目するのは、シャコ貝を「植える」と表現していることだ。多良間島では人間に先立つものとして「アズカリ(シャコ貝)とブー(苧麻)」があり、シャコ貝は植物とセットで語られている。これは、シャコ貝が、サンゴ礁に生えたものと見なされていたことを示唆している。

 ということは、シャコ貝トーテムの位相には、

 ・土中から出現するという地下他界の要素
 ・シャコ貝は植物と似ている
 ・シャコ貝は子宮や卵に似ている

 の二重性が見られることになる。

 動植物との親縁関係を多良間島の神話にちなんで蛇、シャコ貝、ブー(カラムシ)の三つに象徴させてみると、蛇は不死の段階に対応し、人間とは不即不離の関係にあって、かつ人類的な広がりを持つので、部族を区別するトーテムと呼ぶのはふさわしくない。一方で、植物も部族間に共通性を持つのでトーテムとは呼びにくい。そう考えると、シャコ貝をトーテムとすることのなかには、トーテミズムの解体の兆しは既に入っていることになる。

 アマンに「脱皮」を見たとするなら、シャコ貝には何を見ていたのだろうか。

世界の他の乾いた不毛の土地でもそうであったように、雨と穀物の成長と豊穣と、貝との関連性は、メキシコの図像学でも道理のかなった不変の主題となっている。巻貝-海のカタツムリとも呼ばれる貝-は、月の女神の徴章であり、豊穣や成長と関係がある。海のカタツムリの像で、月と女性の性器の両方が象徴されている。古くからの注釈者は、この両方を類推して〈カタツムリがその貝殻から出てくるように、人間は母親の子宮から出てくるのだ〉と述べている。(ジェイン・F・セイファー『海からの贈りもの「貝」と人間―人類学からの視点』)

 これを参考にすれば、シャコ貝に見い出していたのは、生命を産出する子宮ではないだろうか。

 こう見てくると、アマンに見い出していたのは「脱皮」だけではないことも見えてくる。ヤドカリの背負う貝殻も見ていたのだ。

 また、シャコ貝が「子宮」であり、サンゴ礁が「胞衣」であるとするなら、サンゴ礁自体もシャコ貝が生み出したと考えられていたのかもしれない。それは、貝を割って出た神が世界を創造したというタヒチの神話と通じている。

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2016/07/03

『神の山へ―山岳宗教の源流をゆく』(久保田展弘、新妻喜永)

 『神の山へ―山岳宗教の源流をゆく』(久保田展弘、新妻喜永)から、備忘メモ。

 富士信仰の庶民への広がりは、16世紀、富士山麓の「人穴」にこもって修行した角行に始まる。

「人穴には大蛇が棲んでいる」とか「人穴の奥にはこの世が別の世界につながる侵してはならない場所だ」といわれてきた。水の溜まったその人穴に入って、角行は一辺が十五センチくらいに満たない四角の柱の上に立って、不眠の大行を遂げ、悟りを開いたと伝えられている。
 その悟りというのは、それまで恐怖の対象であった人穴を、人間の生まれかわりの聖所として位置づけ、洞窟を富士の山神の住む聖穴と説いたことだった。

 角行は見事に「人間の生まれかわりの聖所」にふさわしい場所を言い当てたわけだ。

 日本人の他界観の典型を示す山中他界が恐山であったわけだが、その他界が含む地獄・極楽のなかでも、恐山は日本海側の立山の地獄谷がそうであったように、地下他界(黄泉)であり、地獄世界と受け止められてきた。風景の異常はこうしていつも̪死の世界に結びつくことが多い。

 恐山、立山は地下他界と言われている。それは風景のなせる業かもしれないが、地下他界の伝承が残っていたのかもしれない。

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2016/07/02

貝生神話と浜下り

 後藤明は、竹中誕生説話の類話には、海や川から流れてきた泡や卵のなかから誕生する話もあるとして、植物中誕生説話、卵生神話、水辺の誕生説話は「密接に関連しているようにも思われる」としている。これには、土中誕生神話との分布も重なる。

 つまり、これらは他界を持った段階での神話だということだ。

 土の穴から出る
 竹の中から出る
 貝を割って出る
 卵から生まれる

 これらが位相同型と見なされる。

 ここで琉球弧のシャコ貝トーテムに注目すると、シャコ貝は脱皮はしないけれど、母胎から生まれるのではないスデルという形態を持つ。したがって、あの世を持つと同時に再生も考えられていた可能性を示すものだ。

メキシコのユカタン半島にある古代マヤ文明の図像学では、貝と誕生の関係が、雨や成長の関係よりいっそうはっきりと示されている。貝が姿を見せているところでは、かならずそこに神や人間がいるか、それともその貝から動物のような生き物が姿を現わしている。マヤ人は、とくに大地の神マムと巻貝とを結びつけ、この神マムと巻貝とを結びつけ、この神は、背中に貝を一個ぶらさげているか、貝から出現しているように描かれている。(ジェイン・F・セイファー『海からの贈りもの「貝」と人間―人類学からの視点』)。

 貝の首飾りは、貝から生まれた姿の後継というわけだ。

 ここでシャコ貝を海辺からの誕生と結びつけてみる。すると視野に入るのは、浜下りだ。

 浜下りの起源譚は、山に住む蛇男から身ごもらされた女が浜で蛇を流産するという筋を辿る。これはつまり、海辺の誕生を思考したとき、蛇は始祖としての地位を失うことを意味している。同時に、浜下りの起源を生と死の移行の段階に置いてよいことを示しているのかもしれない。

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

 

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2016/07/01

『山の宗教 修験道案内』(五来重)

 五来重の探究はぼくたちの問題意識にとても近いようだ。走り読みだが、メモをつけておく。

 「原初的には、それぞれ麓の民がこれをこれらの山々を自分たちの先祖の霊のいく山、「神奈備」として拝んでおったものが」、山伏がだんだんと勢力圏を拡大していく。

水葬儀礼というものは沈めるもので、流すものではない。補陀落船というものを沖まで曳いていって、そして船の底にあいた栓を抜いて沈めてしまうものだと思います。

 メモ。沈めるかどうかは、地上の他界に地下の他界が混入しているかどうかで決まるものだと思う。

 風葬では、烏は人が死ぬのを待っている。それでのちになると、人が死にかかると烏が鳴くと言われるようになる。「烏鳴き」。

 熊野には古墳がない。熊野の妙法山には死んだ人の霊がみないく。その霊を祀る人として狩人がいた。それが修験道の山の開設者になる。「山開き」は、修験が登るときのこと。

 神奈備信仰は、麓の死者の霊が山にこもっている。だからその山は尊い。いちばんの先祖と考えられる人が「山の神」になる。

 庄内平野の死者供養をする山を「モリの山」という。

奈良時代には、山の頂を踏むことに一つのタブーがあったと考えています。これは私の説ですが、奈良時代という時代が、山の頂を踏むようになった最初の時代である。修験道なり、日本人の宗教観念からいえば、大きな変化の時代であるというふうに考えています。

 メモ。ぼくたちの方から見れば、奈良時代までに他界は山頂に遠隔化されて聖域化されたが、そのタブーが破られるようになったということだ。

 富士が登ってはならなかったのは、「蓋シ神仙ノ遊萃(あつ)マル所ナリ」と、「神仙の世界」であると考えられたから。山へは登らないけれど、山の見えるところでお祭りをしていた。亡くなった人の霊が富士山にいくという信仰があった。

 山を管理するのは山伏だったので、山伏は霊を司るものだった。山の神のもとの姿は死者の霊だから、山伏はそれを司るものだった。

 富士山の山頂が上宮。下宮は遥拝所。中宮は「村山口」。

 メモ。上宮、中宮、下宮はまだ、意味を定かに掴めないが、上宮は遠隔化された他界、中宮はかつての他界、下宮は、原神社として聖域が転移されtが場と、理解しておく。

 山が地獄であるとか、浄土であるとかいう観念ができてくるのは、すべてそれに先行するところの風葬があったからというのが、私の主張です。

 山伏の生活は、夫が山伏で妻が巫女であるという例が非常に多い。

 メモ。これは根人、根神の後代に姿になる。

日本人は物が生きているのではなくて、物の中に霊があると考える。同じようで実は違うのです。ですから肉体を日本人は意外に粗末にします。その中に入っている魂の方が価値があるわけです。

 メモ。これは霊魂思考が進展した段階の捉え方を言っていることになる。

 参籠洞窟は、「日本で洞窟を住居にした痕跡から、そこにお籠りをすることができたのだと思います」。「岩陰というものは、住居としても墓としても使われますから、それが修験道の伝統になると参籠洞窟になる」。

 「胎内窟としての洞窟信仰は、そこの中に入ることによって一度死んで、出ることによって生まれかわる」。

  メモ。参籠洞窟にしても、住居だったからということではなくて、他界の出入口だったからというほうが相応しい気がする。住居であったことを生かしてもっと言えば、

 参籠洞窟 (この世)=(あの世)の段階への遡行
 胎内窟  (この世)と(あの世)の区別の段階への遡行

 琉球弧の精神史から得られるプロトタイプのモデルを本土の山に適応させた場合に何が見えてくるか。五来は、その形や語彙を教えてくれる。
 


『山の宗教 修験道案内』


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