「三井楽をめぐる国家と社会」(網野善彦)
唐の商人円珍が、到着したのは「旻美楽(みみらく)崎」とある。それは中国大陸への出発地だった。現在の魚津ヶ崎(2)が言うところの「美弥良久埼」だとしたら、そのままミミラクと見なしてよいと思える。しかもそれは魚津ヶ崎のある半島の島人にとってそうだったのではないだろうか。
一方、念仏踊りあるいは精霊踊りと言われるオーモンデのある嵯峨ノ島(1)も、もうひとつのミミラクである。それは、対岸の島人にとっての。
三井楽を「日本国」の西の果てとみる機内を中心とした国家の支配者の見方と、この地に実際に生活を営んだ人々とのあり方との間には、ほとんど相容れないほどの隔たりがあったのである。われわれはまずそのことを明確に確認しておかなくてはならない。そのうえで、われわれにとって必要なのは、この国家の見方の存在を十分に認識しつつ、それに引きずられることなく、海を越えた広い世界を視野に入れ、この地域に生きた人々の立場から、列島の社会と国家をあらためて見直してみることであろう。
「美弥良久」のある種の浪漫化に対する網野善彦の考えはもっともだが、「この地に実際に生活を営んだ人々」の立場からも「美弥良久」は解きほぐすことはできる。ぼくたちはそれもすべきなのだと思える。
それにしても福江島の地形は、いたるところにミミラクがあってもおかしくない。縄文期の島人が聖なる場を考えるのに、豊かな刺激をもたらす島だったに違いない。
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