「葬制の沿革について」(柳田國男)
墓地は葬地と祭地のふたつの種類がある。
ハカという日本語は本来漢字の「墓」には相当せず、むしろこういう昔からの、葬所として特定せられた土地を意味していたかと思うが、確かなことはまだ自分には言えない。
サイノカハラは「語の元の意味は境のこと」で、「世を辞した人びとの去り進む地であった」。「蓮台」は通例「棺を運ぶ乗り物の名」。
サイノカハラは、「今でも地形から見て、かつての葬送の地であったことの推測せられるものが少なくない」。カハラは「小石原」のこと。元はゴウラという語から分かれたもので、「流れの岸を意味するカハラとは別」。
大島の西北にある横当島も、「少しく遠いが朝夕に山の姿に面して、海を行く者の目標となっているにかかわらず、今もって無人でありまた種々の霊異が伝えられるのは、おそらくは本来死者のみ移住すべき島であったからであろうと思う」。
両墓制の議論の発端となったという葬地と祭地は、ロベール・エルツのいう二重葬儀に対応している。
吉本隆明は、「他界論」のなかで、埋め墓は空間的な他界の表象であり、詣で墓は時間的な他界の表象だと解した。
ぼくたちの考えでは、埋め墓は、この世とあの世の中間状態の表象であり、場所もこの世とあの世の中間的なあいまいさがある。詣で墓は、あの世への境界に位置する。こちらの方が、本質的だ。
吉本は別のところで、中間連続という言い方をしている。それは柳田國男の大きな特徴だと思われる、と。
鳥と獣のあいだ、植物と鳥とのあいだ、あるいは人間と獣のだいだは、獣は獣、人間は人間、そしてこっちからこっちへ移るんだというようなものではなくて、これらのあいだには中間連続しているものがあって、すーっと移行してしまうのだというかんがえ方、大袈裟な言い方をすると世界観、ちいさくいえば思考のタイプがあるのだとおもいます(「『遠野物語』の意味」)。
これは「この世」と「あの世」についても同じだ。
生と死の移行の段階とは、中間連続の思考の段階と言ってもいい。そこでは、化身も容易だった。
ここで二重葬儀の生まれる契機を挙げてみると、
再生、空間的な「あの世」の発生、死者の神への変態
この三つの契機があったところでは改葬が行なわれる。生と死が分離してまえば、二重葬儀は意味を失くす。分離以前については、まだ明確な像を持てない。
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