「入墨の話(人さし指の力)」(柳田國男)
柳田國男の1956年の講演。1920年から1921年にかけて、沖縄をゆっくりずうっと見たときに、「一番印象深く思って帰ったのは女の入墨なんです」と話している。
皺の寄った汚い手にしているから、美しいという感じはしなかった。しかし、「あなた方は御存知ないからだけれど、ふっくらとした娘の手の上に、藍色で所々してあるというものは実に可愛いもんですからね」と、どこかの島で言われている。
沖縄の有識階級の人はたいて、「昔からあったとは言わず」、ある時代から男の近づくのを防ぐためそうしたと言うが、柳田は、「之は半分しか本当でないと思います」としている。
以前は或限られた人だけ、つまり神様の為に務めなければならない役、之はもうはっきりと判らないのが普通ですが、名家の子女で一生大抵は独身で神様に奉仕している、そういう人にだけつけさしたのだろうと、私は解釈しているのです、証拠はありませんが。
柳田はここで洗骨の話しを持ちだしてる。
「私はそんな習俗が昔からあったとは思えない」。家の大切な人だけ洗骨するという習慣が、家々が独立して一軒となったために、体裁が悪いからと、広まった。「こんな実にいやな事ですらも家がよそと対等にならなければならない」という世の中になって広まった。
それと同様、入墨も「恐らく沖縄の歴史としては近世のものだと思う」。
指の背は、矢印になる。これは「一色しか解釈できない」。「即ち指さす所の力を強め且正確にする為」。「巫女、神の託宣を聞いて人をさとす役目をしている者以外には、そんな指はいらないわけです」。「その地方の神祭の儀式に関与している者とかだけが入墨をしていた時代があるんですね」。
これは色んな感想が過ぎる講演だ。たとえば、酒井卯作はこう書いている。
柳田は『島の人生』の中でいって、「嘗ては名を聞かなかった遥かの島の住民の為に、此様に心を動かされることになった」(「島々の話 その四」)。その発端が、琉球の婦人たちの入れ墨にあったと、私は考えている。(『柳田國男と琉球』)
ぼくは酒井のこの文章に心を動かされたが、柳田の1956年の講演録を読むと、一番印象深かったのは入墨かもしれないが、心を動かされることになった発端もそれであるとは考えにくくなる。少なくとも柳田は、そこに美を感じていない。洗骨も引き合いにだして、痛いこと嫌なことなのにやったのは、偉い階級の人のものだから、世間体があるからと、理由が矮小化されてしまっている。
酒井によれば、柳田は1912(明治45)年に沖縄の少女の手に施された小さな入墨を見ている。そこに美を見出していたなら、旅先で、地元の島人に、「あなた方は御存知ないからだけれど、ふっくらとした娘の手の上に、藍色で所々してあるというものは実に可愛いもんですからね」と指摘されて、そういうものかという内省は、おとぼけになってしまう。
入墨に対する警察の取締りがゆるんだりきつかったりした為に、時々は若い者のがあって、宿屋とか食物の店とかいう家の女か、身分の悪い家の女が多かったのですが、概していうと十中八九迄が稍々皺の寄った汚い手ににしているものだから、もうどんなにしても我々はいい気持が、美しいもんだという感じがしなかったんで、(後略)
なにしろ、地元の島人に指摘される前のくだりはこうなのだ。どちらかといえば、この講演での柳田の口調は感じ悪い。この講演は、女性向けに女性の学問を鼓舞しようとしているのだが、そういう状況を鑑みても、なんというか露骨な印象を受ける。
琉球弧の知識人が、昔からあったものではないとするために、男性からの防禦として入墨を見なしているのは、琉球弧的な屈折だ。一方の柳田も、家々の分岐が普及を促したと見なすのも、別の理由で歴史を浅く掬うことになっていると思える。
柳田のいう神務めの女性がこれをしていたというのは直感としてあり得る。しかし、柳田よりも資料に恵まれているぼくたちは、まず初源の神務めの女性には、蛇を象徴化した草の冠や蝶形骨器という装身具を使ったと考えている。少なくともこの段階で、神務めだから入墨ということは必須ではなくなる。むしろ、女性の成人儀礼と考えれば、多くの女性が行なうことは頷ける。琉球弧にも抜歯はあっても、本土に比べて出土頻度が少ないように、本土の抜歯に対応しているのは、女性の入墨に当たるのではないだろうか。
ただ、指さす力を強めるためという意味は確かにそうだと思わせるものがある。しかし、これも神務めだからということでなくても、をなり神の霊力を強めるため、でも言えることだと思える。
柳田は入墨を流行り廃りから考えている面があるが、それはあったとしても不思議ではない。しかし、もっと長いスパンで考えて、貝塚時代にあった入墨が廃れ、また復活するという流行り廃りを想定することもできると思う。
現在まで伝わった入墨のデザインを元にすればこういうことは言える。尺骨頭部の左手にヤドカリ、右手に蝶が描かれているということは、このデザインの上限には、ヤドカリをトーテムとし、蝶に霊魂の化身をみた段階まで遡ることができる。一方、宮古島では、右手左手ともに尺骨頭部からはトーテムが駆逐されて蝶のみが残っている。この段階では、蝶は蝶としての意味を失い魔除けになっていたかもしれない。そこで宮古島の例から下限として考えられるのは、トーテムが意味を失ったときだ。
もうひとつ考えなければならないのは、入墨は島ごとに違う。しかし、琉球弧は言語もなにも島ごとではなく、シマごとに違いを見せるのだから、シマごとにデザインは違っていい。だから、それが島ごとには共通性を見せるのには、現在のデザインは、島全体の統一性ができて以降ということになる。しかし、それだと近代以降のものだということにならないだろうか。
だから、可能性としてはデザインの構成は新しい。しかし、込められた思考は古く、上限は貝塚時代に遡りうるし、下限はトーテムが身をやつしていく段階にまでは届く。トーテムが身をやつす最大の契機は、神の誕生であるとしたら、グスク時代直後ということになるだろうか。
付け加えると、柳田の入墨や洗骨への見なしは、後続の民俗学者たちに少なからず影響を与えているように見える。
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