明治の入墨録
まずは、「琉球の入墨と「アイヌ」の入墨」(宮島幹之助、「東京人類学雑誌」1893(明治26)年)
宮島は実際に琉球で入墨を見、また大島に立ち寄っても見ている。大島のはよほど「華美」と書いている。このときは、嫁いだときに「二心なきを示す」ためという説明を受けている。
琉球は、縦の線と円を用いて、アイヌは線を多く用いるも意匠は簡単と、比較している。
三島人土人の入墨を考ふる?は図に示すが如く左右の入墨の紋の相同じからざるるを見出す可しこの点は甚だ面白きところと思わるる(後略)
宮島は、左右対称ではないことに目を留めている。
次は、「琉球大島群島婦人の黥」(吉原重康「東京人類学雑誌」1900(明治33)年))。
吉原は、大島はもっとも北に位置するので黥形も大いに他と異なっているが、徳之島以南は琉球に似るという特徴を見出している。
吉原は、沖縄でも「文身禁止令」が出た翌年に、これを書いている。両者ともに短文で、紋様に目を引かれているが、印象録の域を出るものではない。
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