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2016/06/12

「美弥良久」と「根の国」(吉本隆明)

 柳田國男が「根の国の話」のなかで、「美弥良久」(みみらく)を「三井楽」としたことについて、吉本隆明は書いている。

 そうすると、日本から中国に行く場合に、この三井楽まではいわば「現世」で、そこから先は普通の人ではなかなか思いがとどかないところで、向こうへの行き方はよくわからない。よくわからないから、いってみれば「憧れの土地」との境界点にもなっているわけです。
 この「美弥良久」については、平安末期から鎌倉期にかけての歌人、源俊頼が亡くなったじぶんの母親を下って詠んでいる歌がありまして、柳田國男はそれを例にあげています。

 みみらくのわがひのもとの島ならばけふも御影にあはましものを

 この場合、俊頼にとって「みみらくの土地」というのは、たぶん海の向こうの憧れの、夢のような他界の土地を意味していたのです。じぶんの母親の霊はそちらの方に行ってしまっている。それがもしこちら側の土地であったならば、いつても母親に会えるものを、といった歌の趣旨になるとおもいます。こういう歌によって平安末から中世にかけてすでに、「美弥良久」というのは楽土・浄土であって、海の向こうにある憧れの土地だという考え方がほぼ定着していたと見てよいことになります。

 これもまた本土では、平安末期には他界が遠隔化していたことを示すものだ。「三井楽」は他界との境界を意味している。おそらく、そこには洞窟や岩があるはずである。それはいずれ確かめたい。

 そして、遠隔化する前の行くことができる他界は、三井楽の先にある嵯峨ノ島だったのではないだろうか。このことも、おいおい確かめていきたい。

 ところで吉本は、柳田はここで、トロブリアンドの例などを知りながら、そういう「連結の仕方を意識的に絶対にしなかった人」だとして、その方法を取り出している。

そういう連結の仕方をしますと、たやすく一種の普遍性が得られるのですが、しかしそうすると、トロブリアンド島の住民の考え方、その島の呼び方、そこから霊魂が海の流れに乗って岸辺に帰ってくるという考え方と、それから「美弥良久」から始まって「根の国」「ニイラ」ということで海の向こうに他界を思い描くという日本の南の方から広がっている考え方との微妙な違い、微妙な感じ方の違いというものが全部捨象されてしまって、「南島系はみな同じだ」ということになってしまいます。つまり、同じ主題と構造だというわけです。

 ぼくなども『珊瑚礁の思考』では、よろこんでトロブリアンドとの連結をやっている。それをするからこそ分かることがあるからなのだが、「考え方との微妙な違い、微妙な感じ方の違い」を落としていけないということは、もちろん考えに入れておきたい。


『吉本隆明〈未収録〉講演集第1巻 日本的なものとはなにか』

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