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2016/06/30

卵生神話(後藤明)

 多良間島のぶなぜー神話はもう少し掘り下げられそうだ。多良間島の別の神話。

 津波がやってきて人々が全滅してしまった。天の神が卵を七個持ってきて、鳥のようにそれを抱いて孵化しようとした。しかしなかなか卵はかえらず、腐ってしまった。再び七個の卵を別のところで抱いていると、男女七名が生まれた。そこでその七名の伴侶を天から降ろして夫婦にさせた。(佐渡山安公「ゆがたい 宮古島の民話」)

 卵から生まれる神話は来間島にもある。

 タヒティでは卵形の貝から生まれる。

 神がみの始祖タアロアは、卵形の貝(pa'a ただし、殻、皮の意味もある)のなかにひとりでいる。ある日、タアロアは貝を割ってでてそれを天としてルミアと名づけ、また、あらたな貝をとって地とした。タアロアは地を夫とし、岩を妻とした。(別譚ではタアロアの体の各部分から自然現象が生み出された。)タアロアが神に乞うて人間が作られたのは、もっと後になってからである。(崎山理「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子: アマンの起源」)

 ベラウではオオジャコが始祖になる。

 大神ウエル・イアンゲズ(天の始祖)はないもない海をみて星を降らせ、アンガウル島とベリリウ島の間のルクスと呼ばれる海域に島を盛り上がらせた。つづいて、オオジャコを下し、このオオジャコから生まれたラトミカイクから人間の始祖となる女神オアブズが生まれ、つづいて女神トゥラン、ウアブが生まれる。

 これらを見ると、卵から生まれることと、貝を割って出ることとは同じだと思える。

 後藤明は書いている。

 日本の南島には、土中誕生の神話が豊富に見られる。とくに宮古・八重山諸島に集中する。すでに見た八重山諸島の祖先神たるアカマター蛇は、洞窟や土中から這い出してきたものといわれる。これは海上他界とは異なった地下異界の思想が、南島に並行して見られたことを意味する。そして土中誕生は、台湾・高山族、東南アジア大陸部、またインドネシア東部の島々などで、竹中誕生と共存して分布する。土中誕生モチーフはさらに、原初大海の中にある岩の割れ目から出現する話を含め、ニューギニアから南太平洋まで続くのである。
 卵生および土中誕生に共通するモデルは蛇と鰐である。蛇は永遠の生命を持つものとして人間に対置されるが、鰐は人間と等価の存在と見なされる傾向がある。

 後藤は、蛇のいないポリネシアでやミクロネシアでは、脱皮の思想は蟹や貝をモデルとして語られるが、あまり顕著ではない、という。

 貝から人間が生まれる、あるいは貝の次に人間が出現するというモチーフは、土中からのヤドカリの出現と同位相にあることになる。ただし、ヤドカリには蛇と同様の脱皮を見い出せるが、貝の場合、殻が更新されることに若返りを見ている点が異なるのだと思える。

 人間がヤドカリと出会うためには風葬を要する。シャコ貝はそれに依らない。だから、サンゴ礁さえあれば、位相としてはシャコ貝はヤドカりと同位相ながら、ヤドカリより先である可能性を持つ。

 ところで、シャコ貝が猿にやっつけられる昔話は、トーテムが人間を襲うというトーテムの零落形態なのではないだろうか。

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

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2016/06/29

『漂海民の人類学』(野口武徳)

 『漂海民の人類学』で野口武徳は書いている。

 ただ山原船が強い(沖縄的)船霊信仰を持っていたのに対して、久米島のサバニーなどでは、たんに船霊信仰が希薄とか無いとかいうだけでなく、漁業が近くの海(珊瑚礁のリーフにかこまれたラグーン)でのものであり、航海安全に関する信仰はあまりなかったというのはおもしろい。
 このサバニーと山原船の航海安全に対する態度は、かのマリノフスキーがトロブリアンド島民の呪術や信仰に関して書いた『珊瑚礁の庭、そしてその呪術』を彷彿とさせずにおかない。

 サンゴ礁の海では呪術は随伴しないが、外洋では不可欠ということ。琉球弧もやはりそうなのかと確認できた。

 また久米島沖の奥武島について、島の西海岸にある集落は、明治以降の移住によって形成された。大半は糸満系の人、とある。奥武島でも、高瀬貝、サザエ、夜光貝が採れる。


 ここに関するマリノフスキー記述をいくつかネットから拾っておく。

Trobriand islanders, according to anthropologist Bronislaw Malinowski, felt the same way about their fishing magic. Among the Trobrianders, fishing took two forms: in the inner lagoon where fish were plentiful and there was little danger, and on the open sea where fishing was dangerous and yields varied widely. Malinowski found that magic was not used in lagoon fishing, where men could rely solely on their knowledge and skill. But when fishing on the open sea, Trobrianders used a great deal of magical ritual to ensure safety and increase their cath. ("The Cultural Study of Work")

fishing is also controlled by magic.
Here, however, any observer would be impressed by the fact that the most lucrative, most reliable and probably quantitatively the most productive method of fishing - that by poison - has no magic. whatever, whereas the fishing with seine nets on the lagoon is associated with a very definite ceremonial of a magical nature, including spells an rites; and the fitful fishing for mullet as well as the dangerous fishing for shark are surrounded with a regular public ceremonial.Such relatively unimportant activities as snaring and hunting are associated with a few minor acts of private magic, but have no development systems of public ceremonial. ("Coral Gardens and Their Magic: The Description of Gardening "Bronislaw Malinowski)

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2016/06/28

「「野生の科学(Wild Science)」とは何か」(中沢新一『熊楠の星の時間』)

 昨年のたしか12月にサンゴ礁学会での講演を聴きに行ったので、当日を反芻するように、中沢新一の「「野生の科学(Wild Science)」とは何か」を読んだ。ぼくは、そのとき脱稿間近だった『珊瑚礁の思考』を、琉球弧の「野生の科学」として書き上げるつもりだったので、講演はひときわ印象に残っている。

 サンゴ礁ほど、このような試みにふさわしいフィールドもありません。生活圏の中にサンゴ礁を抱えた人間は、他の自然環境に暮らす人間以上に、絶え間ない努力をつうじて自然領域と人間領域の間をつなぐ、正しい適切な構造をもった関手を「発明」してこなければならなかったからです。のちほど詳しくお話ししますように、サンゴ礁の環境はおどろくほど豊かで、気が遠くなるほど複雑ななりたちをしています。そういうサンゴ礁の自然環境に、自然なかたちでつながっていける思考の形態は、どのような形をしていなければならないか。これが本日「野生の科学」に解答の求められている問いです。

 中沢はそこに、「個物は個物のままなのですが、その個別が個物性を超えて全体性につながり、個物がすべての他の個物と相即して、相入するようになります」と、南方熊楠のモデルを借りて話すだのだが、直感的に言ってもこれはサンゴ礁を表わすのにふさわしい。『珊瑚礁の思考』の核も、それを含んだものになるのだろう。

 「生活圏の中にサンゴ礁を抱えた人間は、他の自然環境に暮らす人間以上に、絶え間ない努力をつうじて自然領域と人間領域の間をつなぐ、正しい適切な構造をもった関手を「発明」してこなければならなかった」とある。これなどは、言われなければ気づきにくいことだ。それというのも、サンゴ礁を抱えた人間は、ノーメンテで自然の贈与にあずかることができるから、出身者であるぼくには、「なんくるなさいー」的な島民性ばかりが目についてしまうのだが、たしかに言い換えればこれは、観察を大に要請した自然でもあるということだ。ぼくたちはそれを取り戻さなければならないのだろう。しかしそれはむしろ希望だ。

 「正しい適切な構造をもった関手」(ファンクター)についていえば、胞衣をサンゴ礁として、貝を女性器として見立てたことが自然領域と人間領域をつなぐ最大のファンクターになった。島人は自然を通じて自身を理解した。しかし、一方でサンゴ礁は胞衣と、貝は女性器と似ていることに島人は気づいた。なにしろ今でも、サンゴ礁の海は、お腹のなかにいるときみたいだという感慨を送って寄越すくらいだから、サンゴ礁期の島人なら、猛烈に感じただろう。

 つまり、島人は一方で、スデル(脱皮する)動物をトーテムとしながら、他方では、何もないところから霊力の流れによって子供が生まれる不思議さを、豊かな「寄り物」が寄ってくるサンゴ礁の不思議さに重ねて、生命を理解するようになっていた。これは、限りない喜びを島人にもたらしたことだろう。しかしその一方では、この理解は人間がスデル存在ではないという認識への一歩にもなったと思える。

象徴的「関手」はそうやって言語が分離した単位どうしの間に「類似性」を見つけて、つなぎあわせたり重ね合わせたりすることによって、新しい意味を発生させるのです。

 ぼくたちは、サンゴ礁の名づけのなかに興味深い事実を発見したのではないだろうか。そこでは、言語が分離した単位どうしの間に「類似性」を見つけたのではなく、ひとつながりのなかの別の形のものに名づけをするために、言葉自体をメタモルフォーゼさせて新しい意味を発生させている。ユナ(砂洲)、イノー(礁池)、ヌー(澪)、スニ(もうひとつのサンゴ礁)、イヤ(胞衣)、ザン(ジュゴン)、そしてウル(サンゴ)などがそれだ。これは霊力思考による名づけの発生を示しているのかもしれない。

 島人の存在の根っこには渚がある。渚の向こうにサンゴ礁がある。島人は、サンゴ礁を通じて、それと身体を分かちがたく結びつけながら、生活思想をつくりあげていったのだ。いやそれは身体思想とも言うべきものだ。 


『熊楠の星の時間』

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2016/06/27

『沖縄自立の経済学』(屋嘉宗彦)

 たくさんなされている経済学の議論はさておき、ここでは姿勢のことだけ触れてみたい。

 どのような姿勢をとるべきかの選択肢の1つは、自立は無理であるから現状を受け入れ、「なんくるないさ」(なるようになるさ)とう姿勢をとることであり、もう1つは、無理かもしれないが自立(「どぅーあがち」)に向けて努力する(「ちばいん」、頑張る)という姿勢である。
 前者は、よく言えば、沖縄的とも言われることがあるが、流れに逆らわない形でおおらか、かつしたたかに生きる姿勢だと言えるかもしれない。しかし、悪く言えば、長いものに巻かれろという自主性のない事大主義とも見られ、沖縄外の他者から「うしぇーらりーん」、つまり「軽蔑を招く」姿勢でもある。それだけでなく、これは日本への依存を消極的にであれ容認することになるので、自立・独立を考える立場からは容認できない態度である。本書は、独立を射程に入れて沖縄経済を考えようとする立場なので、「なんくるないさ」という姿勢を除外して、後者を選択する。

 ぼくだったらここは、「なんくるないさ」の姿勢を認めつつ、「ちばいん」という人を増やすという考えになると思う。それが島民性にも合っていると。

 「ちばいん」人口を増やすには、島に戻ってあるいは戻れなくても島のために動けるような、地場のローカル・小規模産業を育成することが大切になる。その方策は本書でも説かれている通りだと思う。地場産業の育ちとともに、官公が偉い、知識人と大衆の図式といった「事大主義」も解消されているくことになる。

 本書は、ここ数年文字なき時代の夢の時間に漂っているので、ひさしぶりに現実世界に引き戻してくれた。

『沖縄自立の経済学』

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2016/06/26

『先祖と日本人』(畑中章宏)

 畑中章宏の『先祖と日本人』を印象深く読んだ。柳田國男、橋川文三、伊藤静雄、白井晟一、福永武彦、坪井洋文、どの人の作品に触れるにしても、律儀に出身地、家族構成、生い立ちを丹念に記しているのが、この本のモチーフから来ているように感じられた。

 それぞれのテーマは、もう少し掘り下げてほしいと思うところで話題が変わるので、まるで柳田國男の文章みたいだと思いながら、でも、広げるべき視野の行く先はいくつも示唆をもたらしてくれた。

 戦後も災後も、「記憶の伝承」ということはよくいわれた。しかし、理性ではわりきれない、魂の次元を揺さぶられる事態が、大きな戦争や、巨大な自然災害なのではないか。柳田は『先祖の話』で、「生死観を振作せしめる」という言葉を使った。私たちは、「反省の学」を模索するとともに、新しい泣きかたを見つけ出さなければいけないと思うのである。

 そうなんだろうと思う。「振作」は「しんさく」と読むと辞書にある。
 

『先祖と日本人 戦後と災後のフォークロア』


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2016/06/25

「沖縄先島のオナリ神」(馬淵東一)

 馬淵東一が黒島で採取した伝承。

昔、兄弟が南の海上に航するとき、姉妹がこれを私だと思えといって手拭を与えた。風波で船が大破し、姉妹の加護を念じていると、高瀬貝が沢山現われて、船の割目をふさぎ、無事に帰島したので、それを記念して高瀬貝の円錐形に模したクバ笠を始めて作り、現在に及ぶ(「日本民俗学」第三巻第一号、1955)。

 この伝承では「針突き」のくだりは消失して、クバ笠の由来譚になっている。「穴から最初にトーテムが現われ、次に人間が出現する」という神話は、さまざまに変形されうるということだ。

 多良間島の神話も、プロトタイプの神話が変形されて洪水型になっていると考えることができる。


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2016/06/24

『山の宗教 修験道』(五来重)

 五来重は、「原始的修験道」の発生を「神奈備信仰」に置く。一般に修験道は高山、深山が、雄大荘厳な山容によって神秘感と畏敬の念をもtららすところから成立すると言われているが、それは修験道が成立してから、あとづけたものに過ぎない。もっと素朴な古代日本人の心から、自然発生的に山岳信仰を説明すれば、神奈備信仰になる。

すなわち山を「神の霊(ひ)」のこもれる山とする信仰であり、その神の霊も祖先の霊とするのがもっとも古い形である。

 この表現を補うとすれば、祖先の霊ではなく、死者の霊と言うべきところだろう。

祖霊のこもられる山がすなわち神奈備であるから、その山麓に住む子孫たちの朝夕仰ぎ見ることのできる、したしみやすい山が、神奈備として山岳信仰が発生するのである。それと同時に死者の霊の行く山としての他界信仰がともなうので、賽の河原や三途の川があり、納骨や塔婆供養がおこなわれたりする。

 三輪山の山中の川の合流するところに橋があるが、「すなわちここが他界の入口で、三輪山そのものを他界(地獄または極楽)、すなわち死者の世界とするものである」。

 金剛山も神奈備信仰から出発している。そこに祖霊をまつり、春に秋に「山遊び」「岳のぼり」をして歌垣、かがいをたのしみ、農耕の予祝や雨乞いをし、収穫をするなどの信仰対象とした。

 五来の説明で分からないのは、三輪山が他界の山だったとして、れおはどこへ遠隔化されたのかということだ。三輪山の山頂付近に遠隔化されたとすれば、橋の近くに初期の他界はあったことになる。それこそ祖霊まつりの場所になると思う。

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2016/06/23

神島と大飛島

 『宗像沖ノ島』の著者は、祭祀遺跡をもつ島として鳥羽市神島と笠岡市大飛島を挙げている。

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 神島の中腹に八代神社。島には古墳はない。

 大飛島。背後の山上に巨石が累々としてあり、これを対象として祀られてたものと考えられている。

 沖ノ島1号遺跡の出土品は神島や大飛島のものときわめて性格を一にしている。(『宗像沖ノ島』)

 神島と大飛島の位置から考えて、ここは遠隔化される以前の他界であると考えられる。

 沖ノ島、神島、大飛島の例は、他界が遠隔化されたとき、「あの世」を置換した原神社の設置場所は、三通りあることを想定させる。

 1.遠隔化された他界から、集落へ転移 琉球弧の多くの御嶽
 2.遠隔化された他界の場所そのもの  沖ノ島
 3.遠隔化される以前の他界        大飛島

 この想定が正しいかどうか、他の場所も当たってみよう。

 

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2016/06/22

『宗像沖ノ島』

 大島の最高峰は、御岳(224m)で、その東麓の海岸近くの丘陵上に中津宮が鎮座している。海浜近い断崖の上に、沖津宮遥拝所がある。天気の良い日には、海上はるかに沖ノ島を仰ぐことができる。

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 現在、沖ノ島に参拝する場合は、まず中津宮に詣で、大島の船で沖ノ島に向かうのが慣例となっている。これは、大島の人々の大部分は沖ノ島周辺に出漁し、沖ノ島に親しみを尊崇をもっているからであり、沖ノ島の豪華な祭祀遺物が今日まで守られてきたのは、大島の漁民によるところが多いのである。(『宗像沖ノ島』第三次沖ノ島学術調査隊、1979)。
 縄文期。「魚や貝類、海鳥やアシカの骨などが出土しているが、シカ・イノシシの骨は確認されていない。沖ノ島の縄文人は夏季の一時的な居住であり、冬はこの島にまったく閉じこめられるほかなかったであろう。
 沖ノ島の祭祀遺跡は、古墳時代に始まっている。ほぼ四世紀の後半よりあらわれ、九世紀初頭には大規模な祭祀は終わっているといってよい。
玄界灘に浮かぶ沖ノ島も宗像の漁民にとっては神の島であったと思われる。
 宗像郡では、後期の群集墳はほぼその全地域に分布しているが、いまのところ大島や地島にはみることができない。

 これらの記述は、沖ノ島が遠隔化された他界であることを示しているように見える。沖ノ島への参拝の場合、大島の中津宮に詣でるのは、大島が遠隔化される以前の他界のひとつであることを示している。やはり、神でなくても人も、他界の航路を辿り直すのだ。群集墳は、大島以外に地島にも見出せないのは、地島も他界の島のひとつであることを示している。

 縄文期、沖ノ島の社務所前遺跡出土のニッポンアシカ遺存体は、晩期にその数を増加させている。縄文晩期には、すでに沖ノ島は、遠隔化された他界としてあった。そこでは、男子結社による成人儀礼が行なわれていたと考えることができる。

 沖ノ島が「おいわずの島」として禁忌感が強いのは、遠隔化された他界かつ原神社が置かれたことを示していると思える。

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2016/06/21

『宗像大社・古代祭祀の原風景』(正木晃)

 今のところ当たりをつけるほどの意味しかないが、玄界灘の真ん中にある「沖ノ島」は、「あの世」の島の系譜に入るようだ。

 ここは「神の島」と呼ばれ、「四世紀の後半から一〇世紀初頭に至るまで、六〇〇年近くにもわたって、祭祀がいとなまれつづけ」た。それは、遠隔化される以前の「あの世」の島として聖地だったからだと考えられる。

 ただし、「沖ノ島」は、九州島から見えるわけではないので、最初の「あの世」の島だったのではなく、遠隔化される途上あるいは最終的に遠隔化された「あの世」だったと考えられる。

 縄文期の遺跡からは、ニホンアシカの骨が出土する。それ以外の「魚骨や貝殻がまったく出土していない」。そして、現在でも「沖ノ島」は女人禁制としt知られている。これは、「沖ノ島」が、ニホンアシカ猟を伴う男子結社の成人儀礼の場所だったことを示唆していると思える。


『宗像大社・古代祭祀の原風景』


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2016/06/20

黒島の針突き由来譚(『南嶋入墨考』) 2

 黒島の針突き由来譚(『南嶋入墨考』)は、まだ考えることができそうだ。

 昔、ある人が八重山から沖縄に旅する途中、難船し、流されて天の根まで行ってしまった。(天の根というのはどこかと聞くと、ずーうっと南の方の島だという)そこはヤラドル(濁海)で、船が沈みかかった。そのとき、船に女の兄弟の魂の手が現われて、沈もうとする船を持ちあげて呉れ、船底の釘を抜く虫がいて、釘を抜くと、すぐその抜けた穴に高瀬貝がはいって、その代りをつとめ、船も人も無事帰ることができた。そこで、船人たちは故郷に帰ってから、その魂の手に現われていた入墨と同じ模様を姉妹の現実の手に入墨し、兄弟たちは高瀬貝の形をした笠を「クバ」の葉で作らせて冠らせることにした。

 この伝承は、生と死の分離以後の視線で書かれている。

 ・船が沈みかけ、また助けられた場所 天の根・彼方の南の島・濁海
 ・助けた人 女の兄妹の魂の手
 ・助けたもの 高瀬貝
 ・はじまり 女は入墨をし、男はクバの笠をかぶる

 これを神話げ変形されたものとして受け止めてみる。

 復元された神話の形はこうなる。

 洞窟の穴から、高瀬貝が、次に手の甲に入墨をした女が出現した。

 これが他界が遠隔化されると、「洞窟の穴」は、「天の根・彼方の南の島・濁海」になる。出現した「高瀬貝」は、人間を助けるものへ、「手の甲に入墨をした女」は、「手に入墨をした女の魂の手」となって、人間を助ける。

 こういう変形が施されているように見える。

 原形は、生と死の移行の段階に遡らせてみれば、入墨は、洞窟の穴から出現することになる。この考え方に添うなら、「霊魂」は移行のなかの「共存」の段階で発生したことになる。すると、死者の概念と変わらないのだろうか。


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2016/06/19

大湯のストーンサークルと黒又山

 須藤良吉の『古代謎の証し―日本民族列島漂着考』によると、考古学者の江坂輝彌は、大湯のストーンサークルについてこう書いている。

 古代人は山への信仰があつく神々は三角山に降臨し、そこから巨石や立石に宿るものと信じていた。大湯のストーンサークルの場合は、三角型の黒又山を降臨の場とした祭祀遺跡であり、巫女シャーマンのような人物が環状列石の中心に立って、神々を呼んだものであろう。

 これをぼくたちの理解に置き直してみる。大湯のストーンサークルは、この世と「あの世」との境界点を意味している。大湯の墓の死者は、ストーンサークルの中心部から「あの世」へと向かった。それは黒又山だと考えられる。この場合の神々とは死者や動物たちの精霊であると考えられる。シャーマンがもしストーンサークルの中心部に立ったとしたら、黒又山へのモノ送りとモノ迎えのときだったのではないだろうか。


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2016/06/18

蝶形骨器・針突き・貝符 5

 時代区分の感覚をつけるために図示しておく。

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 蝶形骨器は、開始と終了の年代は、あいまいなので点線で示す。蝶形骨器以降の表現は、別の形態で現在まで連綿としているということは、消滅を意味していない。一方、針突きは、発生の可能性は蝶形骨器の発生まで遡らせることができるが、確かめることはできない。


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2016/06/17

黒島の針突き由来譚(『南嶋入墨考』)

 黒島での針突き由来譚(『南嶋入墨考』)。

 昔、ある人が八重山から沖縄に旅する途中、難船し、流されて天の根まで行ってしまった。(天の根というのはどこかと聞くと、ずーうっと南の方の島だという)そこはヤラドル(濁海)で、船が沈みかかった。そのとき、船に女の兄弟の魂の手が現われて、沈もうとする船を持ちあげて呉れ、船底の釘を抜く虫がいて、釘を抜くと、すぐその抜けた穴に高瀬貝がはいって、その代りをつとめ、船も人も無事帰ることができた。そこで、船人たちは故郷に帰ってから、その魂の手に現われていた入墨と同じ模様を姉妹の現実の手に入墨し、兄弟たちは高瀬貝の形をした笠を「クバ」の葉で作らせて冠らせることにした。

 この伝承をみると、船が流された先は、要するに「あの世」へ行ったことを意味している。これが暗示しているのは、針突きは「あの世」からもたらされたということだ。これは入墨は「あの世」で教わるというマオリの神話を思い出させる。

 ただし、「高瀬貝」が人間を助けるという人間との関係の位相や八重山から沖縄への船旅という想定は、新しさを感じさせる。

 この箇所は後代の変形と見なしてみる。すると、生と死が区別される前に霊魂は発生しているように見える。蝶形骨器と崖葬墓の出現はどちらも貝塚前4期からとされていて厳密に前後を確定するのは難しい。強いていえば、古我地原遺跡の蝶形骨器の祖形が前3期とされているから、霊魂の方が先と言いうる可能性はある。

 これを前提にすると、ことの推移はこうなる。

・生者と死者の共存

 ・蝶は死者の化身
 ・霊魂の成立
 ・蝶は霊魂の化身
 ・針突きの発生

・生者と死者の区別

 ・崖葬墓の発生
 ・空間としての「あの世」の発生
 ・ヤドカりがトーテム

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2016/06/16

「葬制の沿革について」(柳田國男)

 墓地は葬地と祭地のふたつの種類がある。

 ハカという日本語は本来漢字の「墓」には相当せず、むしろこういう昔からの、葬所として特定せられた土地を意味していたかと思うが、確かなことはまだ自分には言えない。

 サイノカハラは「語の元の意味は境のこと」で、「世を辞した人びとの去り進む地であった」。「蓮台」は通例「棺を運ぶ乗り物の名」。

 サイノカハラは、「今でも地形から見て、かつての葬送の地であったことの推測せられるものが少なくない」。カハラは「小石原」のこと。元はゴウラという語から分かれたもので、「流れの岸を意味するカハラとは別」。

 大島の西北にある横当島も、「少しく遠いが朝夕に山の姿に面して、海を行く者の目標となっているにかかわらず、今もって無人でありまた種々の霊異が伝えられるのは、おそらくは本来死者のみ移住すべき島であったからであろうと思う」。

 両墓制の議論の発端となったという葬地と祭地は、ロベール・エルツのいう二重葬儀に対応している。

 吉本隆明は、「他界論」のなかで、埋め墓は空間的な他界の表象であり、詣で墓は時間的な他界の表象だと解した。

 ぼくたちの考えでは、埋め墓は、この世とあの世の中間状態の表象であり、場所もこの世とあの世の中間的なあいまいさがある。詣で墓は、あの世への境界に位置する。こちらの方が、本質的だ。

 吉本は別のところで、中間連続という言い方をしている。それは柳田國男の大きな特徴だと思われる、と。

鳥と獣のあいだ、植物と鳥とのあいだ、あるいは人間と獣のだいだは、獣は獣、人間は人間、そしてこっちからこっちへ移るんだというようなものではなくて、これらのあいだには中間連続しているものがあって、すーっと移行してしまうのだというかんがえ方、大袈裟な言い方をすると世界観、ちいさくいえば思考のタイプがあるのだとおもいます(「『遠野物語』の意味」)。

 これは「この世」と「あの世」についても同じだ。

 生と死の移行の段階とは、中間連続の思考の段階と言ってもいい。そこでは、化身も容易だった。

 ここで二重葬儀の生まれる契機を挙げてみると、

 再生、空間的な「あの世」の発生、死者の神への変態

 この三つの契機があったところでは改葬が行なわれる。生と死が分離してまえば、二重葬儀は意味を失くす。分離以前については、まだ明確な像を持てない。


『吉本隆明〈未収録〉講演集第1巻 日本的なものとはなにか』

 


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2016/06/15

「五島-常世への出発」(谷川健一)

 三井楽の浜は福江島でももっとも大きい砂浜で、そこには海辺の墓地がある。そこにはイルカが押し寄せてくることもある。砂浜の岩の上に、癩のために死んだ者の死体を置いて鳥についばませるようなこともあった。

 三井楽の西北端にはある柏港は、遣唐使の船がさいごに寄港して水を積み込んだところ。柏崎のさらに西に嵯峨ノ島がある。ここでは月影を踏んで死者をとむらうオーモンデ祭りがある。はだしで踊る南方的な色の濃い祭り。島の裏側には、海におちこむ崖がある。「私はその異状な光景に、何かこの世の裏側を見たような気がした」(「五島-常世への出発」)。

 柏の漁港から船で二時間ほどのところに「高麗曾根」という浅瀬がある。ここはもと高麗島と呼ばれ、その島にある地蔵の顔が赤くなるときは島が滅亡するといわれた。そういう話が柏港に伝わっている。干潮時には、墓石や石垣の跡が見えるとも伝えられる。

 かくれキリシタンの『天地始之事』には「万里の島のみえろがな。あり王島のみえろがな」というくだりがある。この「あり王島」は「あろう島」のことではないか(「あろう島とにろう島」『黒潮の民俗学―神々のいる風景』)

 また谷川健一は別のところでも、「美瀰良久(みみらく)の島なんていうのも、(中略)当時は空想の島だったかもしれませんね」。「あそこはちょっと異様な島ですね(嵯峨ノ島-引用者)。そこをみたときはじめて私は”この世の果て”というような感じがしたんです」と述べている(「歴史公論」第9巻第1号、1983)。

 ぼくもなぜ、オールド・アナザ・ワールド探しに夢中になるのか、われながら理由がよく分からないけれど、ひとつには、こうした空想的な浪漫的な認識のされ方を払拭することにはなる。ぼくは、福江島がそうした雰囲気をまとうことになった理由の方に関心が湧く。それも地勢のなせる技だろうか。

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2016/06/14

『化身の王国』(「珊瑚礁の思考カフェ」vol.3)

 3回目の「珊瑚礁の思考カフェ」は、『化身の王国』というテーマで行います。

 クバヌハ世・アマン世(縄文期)の琉球弧では、海や山の主の精霊は動植物に化身し、その動植物たちもまた別の姿へと化身していました。それは異種間をまたぎ、存在の垣根を越えていきます。島は化身の王国でした。

 しかし、化身は任意に起こるわけではありません。そこには理に叶った流れがあり、島人は化身に人間と自然の関係の大きな環を見出していました。むしろ、その環を通じて人間のあり方を理解していたのです。

 今回は、縄文思考の核とも言うべき化身の法則に迫るとともに、それを物語や商品などの作品づくりに活かすヒントを探ります。
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 ◆7月6日[水] 19:00~21:00 [18:30開場]

 ◆千代田区西神田 2-4-1(財)東方学会新館 2F
 ◆予約先:ユージンプランニング
 tel:03-3239-1906 email:manabiya@yujinplanning.com
  (もちろん、わたしにご一報いただいてもOKです)

 正式なフライヤーが出来ましたら、またお伝えします。


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2016/06/13

「三井楽をめぐる国家と社会」(網野善彦)

 唐の商人円珍が、到着したのは「旻美楽(みみらく)崎」とある。それは中国大陸への出発地だった。現在の魚津ヶ崎(2)が言うところの「美弥良久埼」だとしたら、そのままミミラクと見なしてよいと思える。しかもそれは魚津ヶ崎のある半島の島人にとってそうだったのではないだろうか。

 一方、念仏踊りあるいは精霊踊りと言われるオーモンデのある嵯峨ノ島(1)も、もうひとつのミミラクである。それは、対岸の島人にとっての。

三井楽を「日本国」の西の果てとみる機内を中心とした国家の支配者の見方と、この地に実際に生活を営んだ人々とのあり方との間には、ほとんど相容れないほどの隔たりがあったのである。われわれはまずそのことを明確に確認しておかなくてはならない。そのうえで、われわれにとって必要なのは、この国家の見方の存在を十分に認識しつつ、それに引きずられることなく、海を越えた広い世界を視野に入れ、この地域に生きた人々の立場から、列島の社会と国家をあらためて見直してみることであろう。

 「美弥良久」のある種の浪漫化に対する網野善彦の考えはもっともだが、「この地に実際に生活を営んだ人々」の立場からも「美弥良久」は解きほぐすことはできる。ぼくたちはそれもすべきなのだと思える。

 それにしても福江島の地形は、いたるところにミミラクがあってもおかしくない。縄文期の島人が聖なる場を考えるのに、豊かな刺激をもたらす島だったに違いない。

Photo


『網野善彦著作集〈第10巻〉海民の社会』


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2016/06/12

「美弥良久」と「根の国」(吉本隆明)

 柳田國男が「根の国の話」のなかで、「美弥良久」(みみらく)を「三井楽」としたことについて、吉本隆明は書いている。

 そうすると、日本から中国に行く場合に、この三井楽まではいわば「現世」で、そこから先は普通の人ではなかなか思いがとどかないところで、向こうへの行き方はよくわからない。よくわからないから、いってみれば「憧れの土地」との境界点にもなっているわけです。
 この「美弥良久」については、平安末期から鎌倉期にかけての歌人、源俊頼が亡くなったじぶんの母親を下って詠んでいる歌がありまして、柳田國男はそれを例にあげています。

 みみらくのわがひのもとの島ならばけふも御影にあはましものを

 この場合、俊頼にとって「みみらくの土地」というのは、たぶん海の向こうの憧れの、夢のような他界の土地を意味していたのです。じぶんの母親の霊はそちらの方に行ってしまっている。それがもしこちら側の土地であったならば、いつても母親に会えるものを、といった歌の趣旨になるとおもいます。こういう歌によって平安末から中世にかけてすでに、「美弥良久」というのは楽土・浄土であって、海の向こうにある憧れの土地だという考え方がほぼ定着していたと見てよいことになります。

 これもまた本土では、平安末期には他界が遠隔化していたことを示すものだ。「三井楽」は他界との境界を意味している。おそらく、そこには洞窟や岩があるはずである。それはいずれ確かめたい。

 そして、遠隔化する前の行くことができる他界は、三井楽の先にある嵯峨ノ島だったのではないだろうか。このことも、おいおい確かめていきたい。

 ところで吉本は、柳田はここで、トロブリアンドの例などを知りながら、そういう「連結の仕方を意識的に絶対にしなかった人」だとして、その方法を取り出している。

そういう連結の仕方をしますと、たやすく一種の普遍性が得られるのですが、しかしそうすると、トロブリアンド島の住民の考え方、その島の呼び方、そこから霊魂が海の流れに乗って岸辺に帰ってくるという考え方と、それから「美弥良久」から始まって「根の国」「ニイラ」ということで海の向こうに他界を思い描くという日本の南の方から広がっている考え方との微妙な違い、微妙な感じ方の違いというものが全部捨象されてしまって、「南島系はみな同じだ」ということになってしまいます。つまり、同じ主題と構造だというわけです。

 ぼくなども『珊瑚礁の思考』では、よろこんでトロブリアンドとの連結をやっている。それをするからこそ分かることがあるからなのだが、「考え方との微妙な違い、微妙な感じ方の違い」を落としていけないということは、もちろん考えに入れておきたい。


『吉本隆明〈未収録〉講演集第1巻 日本的なものとはなにか』

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2016/06/11

「みみらくの島」

 「みみらくの島」が出てくるのは次のような箇所だ。

 かくて、十余日になりぬ。僧ども念仏のひまに物語するを聞けば、「このなくなりぬる人の、あらはに見ゆる所なむある。さて、近く寄れば、消え失せぬなり。違うては見ゆなり」、「いづれの国とかや」、「みみらくの島となむ言ふなる」など、口々語るを聞くに、いと知らまほしう、悲しうおぼえて、かくぞ言はるる。
 (道綱母)ありとだによそにても見む名にし負はばわれに聞かせよみみらくの島
と言ふを、せうとなる人聞きて、それも泣く泣く、
 (長能)いづことか音にのみ聞くみみらくの島隠れにし人を尋ねむ

 歌の部分は現代語訳では、こう書かれている。

 せめて亡き母がいるということだけでも遠くから見てみたいものです。耳を楽しませるというみみらくの島。その名前にあやかって母がいるかどうか私に聞かせてほしいのです。みみらくの島よ。

 話にだけ聞いているみみらくの島。その島に隠れている母上をいったいどこを目当てにして探したらいいのだろう。

 道綱母らは僧の噂話から「みみらくの島」を知る。十世紀のみやこでは既に、「あの世」の島のことは宗教者が伝承のような形で知るほどに消えかかっていた。

『蜻蛉日記〈1〉上巻・中巻―現代語訳付き』

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2016/06/10

fotod(『阿美語字典』)

 「波照間」(1954)と題した金関丈夫のエッセイで、ぼくがこだわっているのは次の箇所。

波照間はもとパトロー島と呼ばれていたことが、文書に残って いる。ところが、台湾の東海岸の住民のアミ族は、沖の島のことをボトルとかボトローとか言っている。紅頭嶼をいまボテルトバコ島といっているのは、このボトルと、日本名のタバコシマとが合併した名であることは、既に明かにされているが、波照間のパトローもこのボトルに関係があるであろう、というのが私の考えである。

 そして、宮良壮当への反論として書かれた「八重山群島の古代文化」(1955)には次のように書いている。

 即ち一七世紀はじめに、日本人はまずこの島をタバコシマとよび、その中葉に到って、はじめて洋人の地図上に同じ名が現われる。後者の記載が日本名より得られたことは、台湾(台南地方)における、当時の両者の接触の史実から見て疑いえないところであり、Xina が日本語のシマに他ならないことは、Sanson d' ABBEVILLE の地図に”種子島”をTana Xina と記してあるようなことからも傍証される。

 然るに一八世紀前葉のころ、これにBotrol の名を冠する例がはじまり、その世紀の後半にいたって、これがBotol と変化してくる。このBotol の名が、何に由来するかについては、伊能氏は既に一九〇七年の『人類学雑誌』で、東海岸のピユマ及びアミ族が、同島を指してVotolと呼ぶことから来たのであろうと考え、其の後、鳥居、鹿野両博士にもこれについての調査がある。鹿野博士の『地理学評論』(七の二)の論考には、太麻里社(東海岸パイワン族)は紅頭嶼をButul、知本社(同ピユマ族)も同様、台東附近アミ族はBotoruという、とあり、これが洋人の記載の源流であったと述べている。当時この地方にオランダ人の足跡の及んでいたことは、確実な史料があって判明しているから、これらの考えには何の疑いも容れ得ないのである。

 これらを読むと、金関は、パトローの由来を追っているが、パトローの語源の意味は追っていないことになる。それどころか、宮良への反論の形で、「いったい、多くの地名起原論者は、どうも地名というものが、ことごとく地形や地物の特徴によって命名されるものだと、甚だけしからぬ妄想を抱いているのではないか、と思われるふしがある」と書くのだ。

 金関が、「台湾の東海岸の住民のアミ族は、沖の島のことをボトルとかボトローとか言っている」と書いたのは、アミ族が、ボトル、ボトローを「沖の島」と呼んでいるということではなく、紅頭嶼をボトル、ボトローと呼ぶことを示したのであり、「沖の島」自体を言っているわけではなかった。だが、地勢上の位置とボトル、ボトローを結びつけていれば、後に多く引用されることになる、ラマ。ルマ、ロマやラン、ロンという語尾以外の議論が展開できたはずだった。

 ところで、言語学者の土田滋さんから『阿美語字典』(1986)をお借りすることができた。そこにはこうある。

 fotod 1. Yami tribal person 雅美族人 2. Orchid island 蘭嶼

 b音が、f音に転訛しているが、ボトルとの関連はつけられる。ただ、この字典でも、「沖の島」あるいは「沖の」という意味に辿り着くことはできない。

 しかし、どうやら語源として、「沖の」を指す言葉としてあるらしい手応えは得ることができる。

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2016/06/09

「二つ世の境目」(柳田國男)

 柳田の飛島の記述は続いていた。

たとえば羽後の飛島の賽の河原でも、海を隔てた鳥海の尊い山の姿は、今も昔のままに高々と仰がれるのだけれども、そこに島人の古い先祖たちが、永く留まっているということを考える者はなくなって、ただ単純なる霊山の信仰のみが残っている。ほかの多くの海ばたの町や港では、精霊送りと称して舟に数々の燈火を飾り、沖に押し流す行事だけは発達しているが、これはまた無縁の万霊を供養して、善処に赴かしめるという方に傾いてしまって、空から峰への通い路ということには心付かず、あの世は遥かなる地平の外にあるもののごとく、想像する人ばかりが多くなって来たのである。(中略)ともかくもこの新旧の二つの考えには、大きな結果のちがいが伴のうていた。一方は何度でも帰って来て逢える。他の一報は去ってふたたびこの国ではめぐり逢わぬ、行いて還らに死出の旅であった。すなわち別れの悲しみは先祖たちの世に比べると、さらに何層倍か痛切なものになっているのである。

 これを読むと、鳥海山が霊山と見なされているのであれば、飛島では、「あの世」は、御積島から鳥海山へ遠隔化されたというように見える。けれど、「あの世は遥かなる地平の外」ということにも説得力があって、ニライカナイと同様、海上他界という見なしもあったのではないだろうか。その方が自然にも思える。

『柳田国男全集〈13〉』

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2016/06/08

「珊瑚礁の思考カフェ」企画アンケート

 東京の九段下で琉球弧や本土の縄文期の思考を探究する「珊瑚礁の思考カフェ」をやるようになりました。これは、月1回ペースで12回はやりたいと思っています。

 講座っぽいのですが、ほんとうはカフェでおしゃべりするように、ディスカッションできたらいいなとも願っています。これまで、2回行いましたが、次回は「化身の王国」というテーマ。

#1 「琉球アルカイックデザイン・針突き(tattoo)の心層」
#2.「映画『日曜日、すずは口笛を吹いた』にみる縄文の思考」
#3.「化身の王国」(7/6開催)

 で、4回目以降は、みなさんの関心にも添いながら展開したいと思っています。候補を挙げましたので、下記のリンクからアンケートに答えていただけると嬉しいです。来れない方の回答ももちろん歓迎ですし、リクエストがありましたら書いてもらえると嬉しいです。結果はこの場でもフィードバックしますので、よろしくお願いします。30秒ほどで回答できます。

 「珊瑚礁の思考カフェ企画アンケート」


第4回以降、企画案

1.「『琉球グラデーション』にみる縄文の思考」
・石垣島出身の写真家・仲程長治の作品は、縄文人の眼を感じさせる。仲程の作品に縄文の思考を探る。

2.「ニライカナイの原像」
・海の彼方と言われる琉球弧の「あの世」は、縄文期にはどうあったのか。その原像に迫る。

3.「隠された聖地-縄文の「あの世」」
・縄文期の「あの世」の構造を琉球弧から抽出し、本土縄文期の「あの世」の場所を探る。

4.「ジュゴンとは何者か」
・辺野古の基地建設問題でクローズアップされるジュゴン。なぜ、島人はジュゴンにこだわるのか。

5.「マブイ(霊魂)の込め方」
・「霊魂」はどのように形成され、扱われてきたのか。琉球弧にその原像を探る(できれば本土の霊魂観にも迫りたい)。

6.「マイ・トーテムの見つけ方」
・動物や植物を「祖先」とするトーテミズムの思考を琉球弧に追い、現代における活かし方を探る。

7.「タトゥをするなら」
・「琉球アルカイックデザイン・針突き(tattoo)の心層」2

8.「南からみたサルタヒコとアメノウズメ」
・意外なことに、琉球弧の縄文期の世界は日本神話の、ある謎を解く。

9.「嗚呼、サンゴ礁」
・サンゴ礁は、美しくて海の幸をもたらすというだけではない。島人はそこに何を見ていたのか。

10.「偉大なる「スク豆腐」」
・沖縄、奄美料理店で軽いおつまみにしているスクは、実は偉大な魚だった。心して喰らうべき魚。

11.なぜ、ゴホウラとイモガイだったのか
・縄文期の島人は、科学とは異なる体系で動植物の男、女を区別していた。それは本土弥生人との「貝交易」の内実をも照らす。

 「珊瑚礁の思考カフェ企画アンケート」

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2016/06/07

明治の入墨録

 まずは、「琉球の入墨と「アイヌ」の入墨」(宮島幹之助、「東京人類学雑誌」1893(明治26)年)

 宮島は実際に琉球で入墨を見、また大島に立ち寄っても見ている。大島のはよほど「華美」と書いている。このときは、嫁いだときに「二心なきを示す」ためという説明を受けている。

 琉球は、縦の線と円を用いて、アイヌは線を多く用いるも意匠は簡単と、比較している。

三島人土人の入墨を考ふる?は図に示すが如く左右の入墨の紋の相同じからざるるを見出す可しこの点は甚だ面白きところと思わるる(後略)

 宮島は、左右対称ではないことに目を留めている。

 次は、「琉球大島群島婦人の黥」(吉原重康「東京人類学雑誌」1900(明治33)年))。

 吉原は、大島はもっとも北に位置するので黥形も大いに他と異なっているが、徳之島以南は琉球に似るという特徴を見出している。

 吉原は、沖縄でも「文身禁止令」が出た翌年に、これを書いている。両者ともに短文で、紋様に目を引かれているが、印象録の域を出るものではない。

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2016/06/06

「アイヌの黥」(金田一京助)

 金田一京助は「アイヌの黥」で本質的なことを書いている。

 黥の元は、「単なる真似や、単なる装飾ではなくして、少なくとも呪的な意味を持つものだったというという所までは遡れると思う」。

女童が女になるころからするものであるという所に意を止めて、特に口元の黥が最も重視されることを再び思い浮かべて、アイヌに於ける婦人というものを考えて見ると、彼女たちはもとは皆巫であって、神が人間に憑るのは必ず婦女に限り、婦女は神の言葉を宣べて、部落の大事を、決定的に支配したものであり、えらい婦女ほど、巫力がすぐれ、巫力のすぐれた女ほど、巨酋の好配偶として資格づけられていたのである。而も、子供は(日本などでは童に遡ることなどもあったが)、一切神事にあづからない。女の子が、女になると共に巫力が備わるものと考えられていたのであった。

 途中とちゅうの言葉使いに躓かなければ、とても的確なのではないだろうか。琉球弧に即せば、針突きは、「をなり神」の印だったのだ。

 金田一のこの考察は、1932(昭和7)年のものだ(「ドルメン」第1巻第5号)。誰かこれを参照して、琉球弧の針突きを考察した人はいなかったのだろうか。

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2016/06/05

「入墨と沖縄近代史」(新屋敷幸繁)

 新屋敷幸繁は、1968年7月の沖縄タイムスに「入墨と沖縄近代史」というエッセイを連載している。そこでは、「われわれは、針突そのものの美を、もういちどみなおさなければならない」と、針突きを美として捉えられようとしている。この視点は当時、新しいものだったのかもしれない。

 新屋敷は、沖縄本島の入墨を、首里の婦女子のあいだで行なわれて、それが地方に波及していったものと見なしている。貴族からはじまって庶民に及んだ、「良家の子女になろう気持ちもあって、痛さをこらえながら突かせたのである」、と。

 これは、首里に貴族性が生まれてからの流布のされ方のひとつとはいえても、針突きの発生についても、島々の全域に及んでいることの説明にもならないだろう。

 ただ、針突き師は希少な存在で町方から出かけるものだったという点については、針突きのデザインが島ごとの共通性を生んだ背景に示唆を与えてはくれる。

 

 

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2016/06/04

「入墨の話(人さし指の力)」(柳田國男)

 柳田國男の1956年の講演。1920年から1921年にかけて、沖縄をゆっくりずうっと見たときに、「一番印象深く思って帰ったのは女の入墨なんです」と話している。

 皺の寄った汚い手にしているから、美しいという感じはしなかった。しかし、「あなた方は御存知ないからだけれど、ふっくらとした娘の手の上に、藍色で所々してあるというものは実に可愛いもんですからね」と、どこかの島で言われている。

 沖縄の有識階級の人はたいて、「昔からあったとは言わず」、ある時代から男の近づくのを防ぐためそうしたと言うが、柳田は、「之は半分しか本当でないと思います」としている。

以前は或限られた人だけ、つまり神様の為に務めなければならない役、之はもうはっきりと判らないのが普通ですが、名家の子女で一生大抵は独身で神様に奉仕している、そういう人にだけつけさしたのだろうと、私は解釈しているのです、証拠はありませんが。

 柳田はここで洗骨の話しを持ちだしてる。

 「私はそんな習俗が昔からあったとは思えない」。家の大切な人だけ洗骨するという習慣が、家々が独立して一軒となったために、体裁が悪いからと、広まった。「こんな実にいやな事ですらも家がよそと対等にならなければならない」という世の中になって広まった。

 それと同様、入墨も「恐らく沖縄の歴史としては近世のものだと思う」。

 指の背は、矢印になる。これは「一色しか解釈できない」。「即ち指さす所の力を強め且正確にする為」。「巫女、神の託宣を聞いて人をさとす役目をしている者以外には、そんな指はいらないわけです」。「その地方の神祭の儀式に関与している者とかだけが入墨をしていた時代があるんですね」。

 これは色んな感想が過ぎる講演だ。たとえば、酒井卯作はこう書いている。

柳田は『島の人生』の中でいって、「嘗ては名を聞かなかった遥かの島の住民の為に、此様に心を動かされることになった」(「島々の話 その四」)。その発端が、琉球の婦人たちの入れ墨にあったと、私は考えている。(『柳田國男と琉球』)

 ぼくは酒井のこの文章に心を動かされたが、柳田の1956年の講演録を読むと、一番印象深かったのは入墨かもしれないが、心を動かされることになった発端もそれであるとは考えにくくなる。少なくとも柳田は、そこに美を感じていない。洗骨も引き合いにだして、痛いこと嫌なことなのにやったのは、偉い階級の人のものだから、世間体があるからと、理由が矮小化されてしまっている。

 酒井によれば、柳田は1912(明治45)年に沖縄の少女の手に施された小さな入墨を見ている。そこに美を見出していたなら、旅先で、地元の島人に、「あなた方は御存知ないからだけれど、ふっくらとした娘の手の上に、藍色で所々してあるというものは実に可愛いもんですからね」と指摘されて、そういうものかという内省は、おとぼけになってしまう。

入墨に対する警察の取締りがゆるんだりきつかったりした為に、時々は若い者のがあって、宿屋とか食物の店とかいう家の女か、身分の悪い家の女が多かったのですが、概していうと十中八九迄が稍々皺の寄った汚い手ににしているものだから、もうどんなにしても我々はいい気持が、美しいもんだという感じがしなかったんで、(後略)

 なにしろ、地元の島人に指摘される前のくだりはこうなのだ。どちらかといえば、この講演での柳田の口調は感じ悪い。この講演は、女性向けに女性の学問を鼓舞しようとしているのだが、そういう状況を鑑みても、なんというか露骨な印象を受ける。

 琉球弧の知識人が、昔からあったものではないとするために、男性からの防禦として入墨を見なしているのは、琉球弧的な屈折だ。一方の柳田も、家々の分岐が普及を促したと見なすのも、別の理由で歴史を浅く掬うことになっていると思える。

 柳田のいう神務めの女性がこれをしていたというのは直感としてあり得る。しかし、柳田よりも資料に恵まれているぼくたちは、まず初源の神務めの女性には、蛇を象徴化した草の冠や蝶形骨器という装身具を使ったと考えている。少なくともこの段階で、神務めだから入墨ということは必須ではなくなる。むしろ、女性の成人儀礼と考えれば、多くの女性が行なうことは頷ける。琉球弧にも抜歯はあっても、本土に比べて出土頻度が少ないように、本土の抜歯に対応しているのは、女性の入墨に当たるのではないだろうか。

 ただ、指さす力を強めるためという意味は確かにそうだと思わせるものがある。しかし、これも神務めだからということでなくても、をなり神の霊力を強めるため、でも言えることだと思える。

 柳田は入墨を流行り廃りから考えている面があるが、それはあったとしても不思議ではない。しかし、もっと長いスパンで考えて、貝塚時代にあった入墨が廃れ、また復活するという流行り廃りを想定することもできると思う。

 現在まで伝わった入墨のデザインを元にすればこういうことは言える。尺骨頭部の左手にヤドカリ、右手に蝶が描かれているということは、このデザインの上限には、ヤドカリをトーテムとし、蝶に霊魂の化身をみた段階まで遡ることができる。一方、宮古島では、右手左手ともに尺骨頭部からはトーテムが駆逐されて蝶のみが残っている。この段階では、蝶は蝶としての意味を失い魔除けになっていたかもしれない。そこで宮古島の例から下限として考えられるのは、トーテムが意味を失ったときだ。

 もうひとつ考えなければならないのは、入墨は島ごとに違う。しかし、琉球弧は言語もなにも島ごとではなく、シマごとに違いを見せるのだから、シマごとにデザインは違っていい。だから、それが島ごとには共通性を見せるのには、現在のデザインは、島全体の統一性ができて以降ということになる。しかし、それだと近代以降のものだということにならないだろうか。

 だから、可能性としてはデザインの構成は新しい。しかし、込められた思考は古く、上限は貝塚時代に遡りうるし、下限はトーテムが身をやつしていく段階にまでは届く。トーテムが身をやつす最大の契機は、神の誕生であるとしたら、グスク時代直後ということになるだろうか。

 付け加えると、柳田の入墨や洗骨への見なしは、後続の民俗学者たちに少なからず影響を与えているように見える。

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2016/06/03

神の行路のプロット

 改めて、仲松弥秀が与路島の古老から聞いた神の行路。

昔世、神は、島の南端のヨシドマリ埼に接した立神(突出した岩島)から来臨された。神はこの立神に上陸され、そこからヨシドマリ埼に、そして上の稜線を辿ってオボツ山に、そこから村へ・・・(『うるまの島の古層』)

 ヨシドマリ埼の立神は、その周辺に住んだ島人にとってのかつての「あの世」だ。そこから、「村」へという場合、もうヨシドマリ埼周辺は関係がなくなる。これは、かつてヨシドマリ埼周辺に住んだ記憶を持つ島人がいるのでなければ、作為的な行路なのかもしれない。

 しかし、海上→立神→オボツ山だとすると、神の行路は、「遠隔化されたあの世」→「かつてのあの世」→「遠隔化されたあの世」→「かつてのあの世」→「この世」を辿りうることになる。

 また、この聞き取りは、前浜のクモデに来訪神の舟をつなぐという言われとは整合しない。さまざまな行路が考えられたわけだ。しかし、地上の「遠隔化されたあの世」と「かつてのあの世」を通過するということだけは確かなようだ。

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2016/06/02

飛島と御積島

 宮本常一による飛島。飛島は酒田からちょうど四十キロ。一番高いところでも六十九メートルしかない。周囲は海蝕崖。

島の西側には御積(おしゃく)という岩山ばかりの島があり、飛島の守護神としてこの島がまつられているが、その島以外はただ広々とした海原で、その水はシベリアまでつづいている。
 その島の西南端には賽の河原がある。おびただしく石が積みあげてある。もとはここに人を葬ったのであろう。そして、人の魂はここからあの世へ行くと信じたものであろう。賽の河原の沖合に御積島はある。

 死者は、御積島という「あの世」へ行ったのだ。賽の河原は人が葬られた場所かもしれないが、葬地は別にあってもいい。ポイントは、賽の河原が、あの世への入口と見なされたことだと思う。

賽の河原は、島の西の端れであった。死んだ人はみな行くと謂う。何だか知らぬが、行く事は確かだと、誰も彼も云うている。近くの山で草など刈っているといい聲(こゑ)で唄を歌いながら、脇の徑を河原の方へ通るのを聞くそうである。そんな時は、屹度村で誰か死んだという。(早川孝太郎『羽後飛島図誌』)

 また、長井政太郎は、飛島の物忌みのなかにこんなものを挙げている(『飛島誌』)。

 ・蟹は金比羅様が乗っているので食わなかった。
 ・鳥海登山者は女の炊いた飯は食わない。
 ・御積島に女が入ってはならない。
 ・鯨は福の神たるエベス様の化身であるから危害を加えてはならない(後略)。

 「御積島に女が入ってはならない」というのは、御積島が「あの世」だった段階まで遡る禁制だったのかもしれない。また、「蟹」がトーテムだったとしたら、地上の他界を持つことはありえるから、賽の河原が葬地であっても不思議はないことになる。

 

『宮本常一著作集 35 離島の旅』


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2016/06/01

「あの世へ行く路」(柳田國男)

 柳田國男は「あの世へ行く路」(「先祖の話」)のなかで、羽後の飛島のことを書いている。

 ここには、賽の河原がある。「川原とはいってもこれも岩石の荒浜であって、里から岡を越えて行く一筋の逕(こみち)があるばかり」。「ここが昔から島の人たちの、死んでから行く処となっていたことで、しかも村々の埋葬地というものは別な処にあるのであった」。

島には秀でた峰はない代りに、この賽の河原と相対して、海中に大きな岩が一つあり、周囲が崖になって登ることができぬのを、神聖の地として崇敬しており、そのまた正面には遠く鳥海山の霊峰が横たわっている。今はそういう言い伝えも残っていないが、おそらく精霊がこの浜からおいおい渡って行くものと信じられていたのであろう。

 柳田に倣って飛島の「あの世」を復元してみれば、それは鳥海山ではなくて、飛島の西の御積島(おしゃくじま)だ。鳥海山は、飛島からみれば、遠隔化された他界の位置にふさわしいが、言い伝えも残っていないのであれば、遠隔化されたのは海上の方位だったかもしれない。

 死者は、賽の河原の前にある大きな岩から、御積島へ行ったのだ。


 


『柳田国男全集〈13〉』

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