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2016/06/10

fotod(『阿美語字典』)

 「波照間」(1954)と題した金関丈夫のエッセイで、ぼくがこだわっているのは次の箇所。

波照間はもとパトロー島と呼ばれていたことが、文書に残って いる。ところが、台湾の東海岸の住民のアミ族は、沖の島のことをボトルとかボトローとか言っている。紅頭嶼をいまボテルトバコ島といっているのは、このボトルと、日本名のタバコシマとが合併した名であることは、既に明かにされているが、波照間のパトローもこのボトルに関係があるであろう、というのが私の考えである。

 そして、宮良壮当への反論として書かれた「八重山群島の古代文化」(1955)には次のように書いている。

 即ち一七世紀はじめに、日本人はまずこの島をタバコシマとよび、その中葉に到って、はじめて洋人の地図上に同じ名が現われる。後者の記載が日本名より得られたことは、台湾(台南地方)における、当時の両者の接触の史実から見て疑いえないところであり、Xina が日本語のシマに他ならないことは、Sanson d' ABBEVILLE の地図に”種子島”をTana Xina と記してあるようなことからも傍証される。

 然るに一八世紀前葉のころ、これにBotrol の名を冠する例がはじまり、その世紀の後半にいたって、これがBotol と変化してくる。このBotol の名が、何に由来するかについては、伊能氏は既に一九〇七年の『人類学雑誌』で、東海岸のピユマ及びアミ族が、同島を指してVotolと呼ぶことから来たのであろうと考え、其の後、鳥居、鹿野両博士にもこれについての調査がある。鹿野博士の『地理学評論』(七の二)の論考には、太麻里社(東海岸パイワン族)は紅頭嶼をButul、知本社(同ピユマ族)も同様、台東附近アミ族はBotoruという、とあり、これが洋人の記載の源流であったと述べている。当時この地方にオランダ人の足跡の及んでいたことは、確実な史料があって判明しているから、これらの考えには何の疑いも容れ得ないのである。

 これらを読むと、金関は、パトローの由来を追っているが、パトローの語源の意味は追っていないことになる。それどころか、宮良への反論の形で、「いったい、多くの地名起原論者は、どうも地名というものが、ことごとく地形や地物の特徴によって命名されるものだと、甚だけしからぬ妄想を抱いているのではないか、と思われるふしがある」と書くのだ。

 金関が、「台湾の東海岸の住民のアミ族は、沖の島のことをボトルとかボトローとか言っている」と書いたのは、アミ族が、ボトル、ボトローを「沖の島」と呼んでいるということではなく、紅頭嶼をボトル、ボトローと呼ぶことを示したのであり、「沖の島」自体を言っているわけではなかった。だが、地勢上の位置とボトル、ボトローを結びつけていれば、後に多く引用されることになる、ラマ。ルマ、ロマやラン、ロンという語尾以外の議論が展開できたはずだった。

 ところで、言語学者の土田滋さんから『阿美語字典』(1986)をお借りすることができた。そこにはこうある。

 fotod 1. Yami tribal person 雅美族人 2. Orchid island 蘭嶼

 b音が、f音に転訛しているが、ボトルとの関連はつけられる。ただ、この字典でも、「沖の島」あるいは「沖の」という意味に辿り着くことはできない。

 しかし、どうやら語源として、「沖の」を指す言葉としてあるらしい手応えは得ることができる。

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