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2016/05/07

岩崎卓爾「明和の大津波」録

 岩崎卓爾が写しとった明和の大津波。

 1771年の石垣島。朝八時ごろ、やや強く地面が震えると、海潮が遠くへ退き、青、緑、紅、紫の熱帯の色彩がまばゆい大小の魚たちが珊瑚樹が入り組んだ切り株に跳びはね、女性や子供たちが捕まえて、海の秘密はことごとく暴露された。しかし、島人たちは驚異の念が一層加わり、この世の倒壊の暗示に違いないと、落ち着かず、皆岸辺に集まった。

 すると東方の洋上に魔に似た二条の黒雲がいったん空高くにあがったと思いきや、砕けて激しい潮があふれ、奔馬のように狂い、数回の大波小波の大津波を繰り返した。一回には波の高さが127メートル、二回は93メートル、三回は187メートルと、三たびの魔の手を振るい、また雲は低く垂れて風は止み、天地は暗澹として妖気に満ち、大木巨木樹をつんざく音、家屋が破壊される音が鳴り響いて、救いを求める声が交錯して聞こえた。

 実にこの惨劇はこの世の地獄と思われた。海嘯の波は、島の半分を洗い、ほか14ヶ村を壊滅させて、溺死する者9488人、家屋田畑の流失、牛馬の死傷は夥しく、十日の月の光は蒼く白い死体を照らし、累々路傍に遺棄されて死臭が全市の空に漂ったが、何ら応急の策を案出する者もなく、茫然自失していた。また入って住むべき家も、田に食べる一粒の穀もなくなった。

 本島を深い底に突き落す運命に逢わせた絶望の天災は、生計を困憊させ、なお悲嘆の涙もいまだ乾かないうちに疫病が蔓延し、加えて飢饉に襲われて人口は著しく減った。1776年二月飢饉、疫病のため死者3733人、1802年8月疫病流行して死者4258人、1835年麻疹流行し死者655人、1853年悪疫流行し死者1843人、昔日の繁栄を失った。

 『岩崎卓爾一巻全集』(1974年)より現代語訳、一部アレンジ。

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