「南方島人の入墨文に酷似する彫画」(国分直一、盛園尚孝)
1955(昭和30)年九月に列島を通過した台風22号は、鹿児島の薩摩半島に上陸し九州を南北に突き抜け、日本海を北上するが、そこで北陸に強風をもたらし、新潟大火よ呼ばれる火災を引き起こした。上陸する前、種子島の西を通った台風は、南部の広田川の南側の砂丘を崩壊させた。するとその箇所に、遺物や人骨が露出していた。島人がこれに気づき、高校教師、盛園尚孝が確認したのが、広田遺跡発見のきっかになった。
調査は、翌1956年の7月に2週間以上かけて行なわれる。これが第一次調査だ。
盛園尚孝、国分直一による「種子島南種子町広田の埋葬遺跡調査概報」(1958年)で、ぼくがもっとも注目するのは、「南方島人の入墨文に酷似する彫画も数例ある」と書かれていることだ。こおおで挙げられている4点は、類似したものだが、最も似ている1点は取り上げられていない。
国分が、ここで「蝶形骨器」との類似を指摘したことは、たびたび引用されている。しかし、「南方島人の入墨文に酷似する」ことは、注目されてこなかったようだ。しかし、発見時の直感というのは鋭いものだ。「蝶形骨器」を発見し名づけた島田貞彦もそうだし、国分-盛園についても、それは言える。
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