「貝塚時代後期土器と貝符」(中村直子)
「貝塚時代後期土器と貝符」(中村直子)から、「貝符」の思考について、おおよその見通しを立てておきたい。
貝塚時代後期の中ごろ、弥生時代後期~古墳時代並行期の「貝符」と呼ばれるイモ貝に彫刻を施す、装飾性豊かな遺物が北部圏から中部圏に広がっている。貝符は、アクセサリーや埋葬などに使用される儀礼用の道具として用いられている。
種子島広田遺跡に・
1.下層
・伸展葬
・貝符は、貝小玉などとともに被葬者が身につけた状態で出土。
・装身具を構成するパーツ
2.上層
・集骨された二次葬
・人骨のそばにばらまかれた状況で出土
・貝符の文様や形も、新しいものほど簡略化され、ひも通しの孔と考えられる穿孔もなくなる傾向にある
・単独で使われる儀礼用道具
上層タイプは、下層タイプに比べ、種子島以外での出土量が多く、沖縄本島周辺まで分布する。ただし、埋葬遺跡で出土したのは種子島のみで、他地域で、広田遺跡のように多量に出土することもない。
上層タイプの貝符は、「中の文化」に類似するものがなく、「南の文化」独自の遺物であるといえ、北部・中部圏の人々が共通して持っていた独自の慣習やその背景にある世界観を反映しているものと考えられる。
貝符の文様については、中国大陸の青銅器に施された文様をその起源として考える説がいくつか提示されている(国分,1976.1991.金関,1964・新田,1984.1991)。
貝符は、南西諸島特有の遺物であるが、その文様の起源や、装飾品の様式から中国大陸に起源が求められている。しかし、これはその習俗や文様が伝播してたどりついた結果なのか、中国大陸から人が渡来してきてダイレクトに伝わったのかということについては、明確になっていない。
ここでいう上層と下層の区分の時期は分からないが、とても興味深い考察だ。
そのまま読み取ると、貝符は下層のものほど文様が具体的で、時代がくだるにつれて簡素化される。下層は上層に比べ、種子島での出土量が多い。埋葬遺跡で出土したのは種子島のみ。
この情報を踏まえて、他の研究実績に当たっていこう。
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