「広田遺跡と貝符」(木下尚子)
木下尚子は、広田遺跡と南島の貝符を比較して、南島では、加工技術は「貝殻を自由に割りとり複雑な形状をつくり出すことに向けられ、これらの表面に彫刻を施す方向へは向かわなかったようである」と指摘している。
南島人の得意は、貝を切り絵のように加工することであり、その「南島的伝統からみると、南島の貝符に彫刻が施されていないのはむしろ当然ともいえる」。
南島に多い広田亜様式の貝符は、南島人が広田様式の彫画のある貝符を模倣して製作したのであろう。
模倣はそうなのだと思う。しかし、貝符内の彫刻に南島人が気を向けていないのは、得意の方向とは別に、同同様の表現を「針突き」として持っていたからではないだろうか。
木下は興味深いことに気づいている。
貝符から文様を消して、外郭形状のみ眺めると、「広田様式の貝符の形状や変化の規則性が、南島の貝符以外の文物に共通する」。
木下は、貝符で、蝶形器に近いもの(16,18)が出現する頃、貝製容器では中央の切り込みを台上に変化させているもの(6,8)が現われるという相互影響を指摘する。
貝製容器の柄部のデザインは、二千数百撚をへだててその基本形は変化しない。外郭形状からみる限り、「貝符はきわめて南島的文物である」。「広田様式の貝符はその文様を本義とし、南島的な受け皿をこれに対応させた作品である、といえよう」。
これは南島と広田人とのあいだに、蝶をモチーフにしているという共通認識があったということだと思える。
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