『アイヌと縄文』(瀬川拓郎)
瀬川拓郎の『アイヌと縄文』。いたるところで、琉球弧の対応させることができるような気がした。単純に似ているというより、時代変化の契機、習俗が呼応している。「アイヌと琉球」というテーマで両者を比較したら、お互い同士、精神史を立体化できる感触。ぼくがそこまでやれるか、分からないけれど。
おおよそ、だけれど、続縄文時代、擦文時代と貝塚時代後期、ニブタニ時代とグスク時代とが対応する。
・「縄文土器の地域圏は、縄文時代の方言分布圏と私は考えている」
・四世紀、北海道の人々は、人口密度が希薄化した東北北部へ南下。五世紀後半には、古墳社会の人々は、続縄文人が南下していた東北北部へ進出。東北北部へ進出した古墳社会の人々は、国会の支配に抗してエミシと呼ばれるようになる。
・「川」を意味する「ナイ」は日本海側。「ペツ」は太平洋側。
・続縄文人。本州と同じカマドを持つ竪穴住居になる。土器は文様を持たない本州の土師器とうりふたつ。
・擦文時代、交易もする狩猟採集民から、狩猟採集もする交易民へ変貌。
・アイヌ語の祭祀関係の言葉は、大半が古代日本語からの借用語。カムイ(神)、タマ(魂)、ノミ(祈む9、オンカミ(拝み)、ヌサ(幣)、タクサ(手草)、シトキ(粢)。
・ニブタニ時代は著者の命名。アイヌ文化の遺跡がはじめて広域に調査された日高の二風谷遺跡の名称にちなむ。アイヌ文化伝承の聖地ともされる二風谷地区の顕彰の意味も込めて。
チャシは全道で500か所以上。「聖域か、首長居館か」という問題設定もグスクそのもの。チノミシリは霊山。血縁集団の祖霊崇拝にかかわる山。アイヌは、山頂には特定の神が住み、特定の部落を守ると伝えていた。
私は、チャシがこのチノミシリでもあったと考えています。
ヲチャラセナイチャシ。台地上の集落の端に設けられ、二〇メートル四方の空間を壕で区画し、そのなかに約七メートル四方の建物が一軒設けられている。瀬川は、ヲチャラセナイチャシをアシャゲと比較している。そして、ヲチャラセナイチャシは、成立期のチャシとして位置づけ、その後、首長の居館、あるいはチノミシリとなったと考えている。
これはグスクそのものと言っていいから、グスクの性格と比較して対応させると、
・聖域
・あの世 チノミシリ
・御嶽 ヲチャラセナイチャシ
・按司の居所
となるように見える。
示唆にあふれるのは、アイヌの交易への対応。
・アイヌが世界観を共有しない和人とのあいだで商品交換をおこなうにあたって、神からの贈与である獣を商品とするには、アイヌの神話的な世界との縁を断ち切り、ただのモノとする必要があったのではないか。
・神の世界に属するこの市庭(市場ー引用者)という場が、アイヌにおいてはチャシであり、あれらはそこへ獣をもちこむことによってこれを無縁化し、それによってはじめて獣を商品とすることができたのではないか。
大量の獣の解体処理をおこなっていたチャシが、獣という仮装から神を解き放ち、無縁化がおこなわれる場であったとすれば、チャシはそこへもちこむこと自体によって送りが成立するような、儀礼の簡略化とむすびついた大量捕獲・大量生産に適合した聖域となっていたのかもしれません。
チャシという聖域で解体された獣は、アイヌとの縁を断ち切られたものだとしても、そこで商品交換がおこなわれたわへでない以上、それはまだ商品にはなっておらず、商品になることを保留された「中間的」なものでしかなかったことになります。
・縄文時代には、津軽海峡の両岸の人々は、同じ地域文化圏。しかし、交易が活発化する九世紀以降、津軽海峡は文化の境界として固定化される。
・縄文思想とは、人びとを「親戚」としてむすびつけることのような連帯の原理
この交易によるアイヌ社会の変貌は、琉球弧の貝塚時代後期の貝交易による影響に大きな示唆を与えてくれる気がする。
いつか、きちんと取り組んでみたい。
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