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2016/05/31

聖域化の契機

 聖域化の契機を挙げてみる。

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 1.死者との共存段階での葬地。

 2.区別の段階での、葬地と「あの世」への出入口

 3.「あの世」:ニライ

 4.遠隔化された「あの世」:ニライカナイ

 5.いわゆる御嶽

 6.集落が移動した場合、かつての集落自体が聖域化される。


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2016/05/30

始まりの場所の転移 3

 神の行路はもう少し精緻化できそうだ。

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 神は、地の島に立ち寄るとされる他に、浜辺の岩に舟を止めると言われる場合もある。後者のそれは、かつての「あの世」への出入口を示すものかもしれない。

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2016/05/29

「広田遺跡と貝符」(木下尚子)2

 1955年の台風22号で、砂丘は海浜に面した東側部分を焼失、崖面を形成するにいたる。そこで広田遺跡は発見される。

 墓地の範囲は南北20m、東西10m以上。「墓地に対応するとみられる集落跡の発見には至らなかった」。

1.デザイン

 下層貝符の形状は、イモガイ使用部の自然のカーブを無視するかのように、均一な板状形に加工されている。「このことから、下層タイプ貝符は本来貝以外の素材による3次元の文物のコピーであったとみることができる」。

 「ただ帯文には立体交差を表現するものがあって、この種の文様が本来何か具体的意匠の写しであることを想像させる」。

 上と下では、根拠は異なると思えるが、広田遺跡の人々は、「蝶形骨器」を参照したのではないだろうか。奄美大島笠利湾のサウチ遺跡から出土した「貝符の外形は貝符というより、むしろ南島の彫画骨製品の伝統を踏まえているので広田様式の亜様式とみなせる」。蝶形骨器の意匠は、奄美大島でも知られていたのだと思える。

貝符は本来、貝以外の素材による立体的文物のコピーらしい・下層と上層貝符の間には機能上の断絶があるが、形状・文様では継続している部分もあり、これらは一連の変化の線上にあると理解される。中層貝符は両者の中間的様相を呈している。貝符の文様意匠には左右対称性と中国的要素を認めることができる。

2.通過儀礼

抜歯は男女を問わず施され、4人に3日とというきわめて高い割合であるとされる。

 上層貝符は「長管骨などに沿って丁寧に置かれた情況であったとされる」。

貝符の未製品もあることから、沖縄の古代人が広田遺跡の貝符を模倣して貝符を作った可能性がある。(中略)今までのところ、南島の貝符はその多くが包含層出土や採集によるもので、埋葬に伴うものではない。

 これは、両者の態度の境界線のひとつをなす。琉球弧では、女性の通過儀礼は針突きだった。したがって、埋葬には伴わない。

3.霊魂の数

下層貝符は、「同一遺体に伴う貝符どうしでさえ、明らかな変異を示すこのような傾向は、下層貝符全体についても認められ、総じて一つとして同じ文様はない」。

 両者に共有されていたのは、モチーフにしているのが「蝶」であり、「蝶」は霊魂の化身であることだったのではないだろうか。


『南島貝文化の研究 〈オンデマンド版〉貝の道の考古学』

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2016/05/28

『奄美与路島の「住まい」と「空間」』(石原清光)2

 重要なことが書かれている気がするので、再度、『奄美与路島の「住まい」と「空間」』に当たってみる。

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 「トビャラ」が葬地にして入口だというのは、飛ぶ術を持った老人が、ここからハミャ島や請島まで飛んでいったという伝説を元にしている。また、その墓もある、と。「トビャラ」という岩礁から、ハミャ島や請島を「あの世」に行ったと見なす。

 「カミドゥリ」という岩礁が葬地だというのは、人骨がよく出たという言われから。また、記述はないが、この場合の「あの世」は「ハミャトゥ」かもしれない。

 「クモデ」は、神の迎えと送りで、来訪神の舟をつなぐ場所とされるので、これもかつての「あの世」と見なした。しかし、位置関係からいえば、「トビャラ」の近くなので、かつての「あの世」としてのハミャ島や請島の転移かもしれない。

 与路の場合、むしろ陸の他界の方が見やすいように見える。

 「アブリャ」は、神人やユタの儀礼に使われ、「テリャ」は神社として一般の人の信仰を集める。「アブリャ」の頂上付近は、「西のミャー」、「テリャ」の頂上付近は、「東のミャー」。東のミャーは特にミャートンチと呼ばれる。

 神道は、ウブツやアブリャなどのヤマと前浜を結ぶ垂直の道が基本。アブリャは、ヤマ全体が風葬にかかわるという捉え方はない。

 ウブツの神は、テリャの神とオナリとイェリの関係にあり、三月三日にオナリであるウブツの神がテリャの神の所へ行く。

 島の世界観の構造が見えにくいのは、他界が遠隔化されたからだが、その他にも、遠隔化された他界から霊力が転移され、聖地が発生したことにも依る。

 与路島のケースから分かるのは、精霊の住む場所を除くと、

 1.葬地
 2.かつての「あの世」への入口
 3.かつての「あの世」
 4.遠隔化された「あの世」
 5.(遠隔化された)「あの世」が転移された場所

 という五つの系列を見定めることがポイントになると考えられる。

 請島はともかく、アブリャ、テリャ、ハミャ島で、かつての「あの世」を再現してみれば、実にじつに小さなコスモスが浮かび上がってくる。 


『奄美与路島の「住まい」と「空間」』

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2016/05/27

蝶形骨器・針突き・貝符 4

 蝶形骨器、貝符、針突きの流れをもう少し追ってみる。

 飛翔型の「蝶形骨器」では、十字形元になる対角線は強く意識されるが、外側を構成する四つの三角形は潜在的なものに留まる。また、綾型の「蝶形骨器」では、頭部の三角の尖りから菱形は意識されるが、四枚の翅が三角形になることは潜在的である。

 ここで、広田遺跡の「貝符」をあいだに挟んでみる。ふたつの貝符は、上層と下層の祖形のひとつとして編年されたこともあるものだ(矢持久民枝「広田遺跡出土貝符の検討-その分類と編年-」)。

 下層「貝符」は、「蝶形骨器」に比べてより四角形に近づくので、対角線が構成する三角形は希薄化するものの、四角形は意識されやすい。また、「蝶形骨器」と下層「貝符」のデザインでもっとも異なるのは、「蝶形骨器」では強く意識されていた翅の変化点が、下層「貝符」では見られなくなり、胴体部と四枚の翅の区別が意識されている。そのため、綾型の「蝶形骨器」を起点にすると、菱形を真中におき三角形を配置する形態が意識されてくる。

 また、上層「貝符」のデザインは、「五つ星」と呼ばれる「針突き」のデザインと瓜二つである。これは、両者の共時性を強く示唆するものだ。

 下図は、広田遺跡のデザインを、直接、琉球弧の蝶モチーフのデザインに系譜づけたものではない。しかし、「蝶形骨器」が途絶えて、あとはその現在形を手にしているに過ぎない状況からすると、その間の時代に存在した広田遺跡の「貝符」デザインは、現在につながる蝶モチーフのデザインの足掛かりになるものだと思わせる。

 広田遺跡の人々が、蝶を霊魂の化身と見なしたかどうかは分からない。それは大いにありうるとしても。しかし、装身具や副葬品を製作した広田遺跡の人々と、主に素材となる貝を提供(おそらく贈与という形で)した琉球弧の島人には、これが「蝶」をモチーフにするものであることは、共有されていたはずだ。

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2016/05/26

「蝉形貝札と獣形垂飾」(国分直一)

 国分直一は、自らも調査した広田遺跡について、書いている(『環シナ海民族文化考』1976)。

さらに問題はあった。貝の彫画の中に南島の入墨文に似たものが見出されることだ。人面もあり、獣面もあるが、これほど広田遺跡人の系統を暗示しているものはあるまい。受容した弥生文化の影響のかげから極くわずかながらその素性が顔を出していると見てはいけないだろうか。中国の文化をうけ入れ、貝ガラ細工の技術をもった南方系の人種が弥生期に住んでいたことを示唆しているようにも思われた。

 これは第一次調査の年に書いたものだと国分は断っている。

 その後に国分はこう書く。

広田の再葬骨に伴出した貝札の彫刻に入墨文があるとする説は、一九五七年秋の日本考古学協会の大会においても述べたが、その後、金関丈夫教授によって、入墨文と考えるよりは、中国古代楚国の棺底に敷いた苓床のすかし彫の彫刻文に類似するとみるべきであることが明らかにされた。

 なんだか変な文章だが、国分はこれに納得したのだろうか。国分は、自分の直感にもっとこだわるべきだったと思う。

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2016/05/25

蝶形骨器・針突き・貝符 3

 蝶形骨器とその図形としての形態、そして貝符との関係を図式化してみる。

 まず、「蝶形骨器」は、現状出土しているなかの最終形として位置づけられている長浜吹出原遺跡のものを取り上げる。上を「飛翔型」、下を「綾翅型」と呼んでみるとして。

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 ここから、図形や針突きへの展開を想定してみる。

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 「飛翔型」からは翅の先端から接合部の中央に線を結び、翅の先端同士も線で結べば、そこに三角形と四角形は見い出せる。それは、「胴衣」や「背守り」として展開されることになる。

 「綾翅型」、蝶の胴体部の誇張が目立つ。しかし、どの「蝶形骨器」でも、胴体部の表現は忘れられることはなかったから、これもひとつの帰結なのだろう。ここから、「針突き」へは、「飛翔型」からの三角形や四角形ほどには、直接的にはいかないが、それでも「綾翅型」に、胴体部の菱形の形態は浮かび上がらせることができる。下部が完成していれば、それはより一層明確だったのかもしれない。

 いちばん下が広田遺跡の上層から出土した貝符だ。また、上層貝符の祖形として位置づけられてもいる。針突きとこの貝符のデザインは酷似している。貝符の下層から上層へのデザインの連続性も指摘されているから、どちらがどちらへの影響ということは断言しないでおきたい。むしろ、デザイン自体の共鳴が重要だ。それは、貝符がデザインされた前後に、この針突きのデザインも刻印されていたと見なすことができるからだ。

 上層の貝符は副葬品、下層の貝符は装飾品とみなされている。ところが、琉球弧では貝符も蝶形骨器も埋葬には伴わない。蝶形骨器は、シャーマンの化身の道具であり、またシャーマン以外の着装はなかったと考えられる。この系譜は、遺物として残らない形で継続された。

 一方、広田遺跡の方は、下層の段階から、貝符が霊魂の表現として意識されている。下層から上層へ連続するのは、霊魂のファッションとして着けられたということだ。そして、上層において、針突きのデザインと共鳴するとすれば、少なくともこの段階で、琉球弧では針突きは存在していたと想定することができる。

 琉球弧と広田遺跡の違いは、成人儀礼のあり方に現われていた。女性の成人儀礼は前者では針突き、後者では抜歯だったのだ。 

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2016/05/24

「南方島人の入墨文に酷似する彫画」(国分直一、盛園尚孝)

 1955(昭和30)年九月に列島を通過した台風22号は、鹿児島の薩摩半島に上陸し九州を南北に突き抜け、日本海を北上するが、そこで北陸に強風をもたらし、新潟大火よ呼ばれる火災を引き起こした。上陸する前、種子島の西を通った台風は、南部の広田川の南側の砂丘を崩壊させた。するとその箇所に、遺物や人骨が露出していた。島人がこれに気づき、高校教師、盛園尚孝が確認したのが、広田遺跡発見のきっかになった。

 調査は、翌1956年の7月に2週間以上かけて行なわれる。これが第一次調査だ。

 盛園尚孝、国分直一による「種子島南種子町広田の埋葬遺跡調査概報」(1958年)で、ぼくがもっとも注目するのは、「南方島人の入墨文に酷似する彫画も数例ある」と書かれていることだ。こおおで挙げられている4点は、類似したものだが、最も似ている1点は取り上げられていない。

 国分が、ここで「蝶形骨器」との類似を指摘したことは、たびたび引用されている。しかし、「南方島人の入墨文に酷似する」ことは、注目されてこなかったようだ。しかし、発見時の直感というのは鋭いものだ。「蝶形骨器」を発見し名づけた島田貞彦もそうだし、国分-盛園についても、それは言える。

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2016/05/23

「種子島の貝製品・貝文化」(木下尚子)

 弥生時代のはじめ、貝交易が成立。こうした動きとは別に、「弥生時代終末期、華やかな貝製装身具の使用が種子島で唐突に始まった」。そして孤島で400年近く展開した。

サンゴ礁北限の人々が、より南のサンゴ礁の貝類を豊富に使って作り上げた装身文化、これが広田遺跡の貝文化である。彼らの装身具は、北の古墳人の腕輪や、南の奄美・沖縄の装身具に少なからぬ影響を与えた。(『考古資料大観 第12巻』2004)

 広田遺跡は集団墓地。175平方キロの砂丘、1メートルの厚さにわたって人骨157体が累々と見つかる。下層は一次葬、上層は二次葬。

 遺跡の中核を担うのは、「貝符・小玉」装身型。同時期も南島にも、大和にも、このような装身文化を見い出すことはできない。

 沖縄諸島の南島型貝符は、「明らかに広田遺跡下層貝製品の部分的模倣」。奄美諸島では貝符未製品が多い。

 南島型貝符について、木下は次のように説明している。

方形貝符周縁に三角の刻みを入れたもので、全体が左右対称で、表面に彫刻を施さず、2個から6個の孔を持つ特徴がある。琉球列島の貝塚時代後期に多いが、起原は縄文時代晩期併行期に求められる。

 つまり、模倣とはいえ、同様の貝製品は存在していたということだろうか。

 また、広田遺跡の「貝符・小玉」装身文化は、同時期の南島にも大和にも、見い出すことはできないとしても、ぼくたちの知る祝女の衣装は、小玉装飾を引き継いでいるのかもしれない。

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2016/05/22

「貝製装身具からみた広田遺跡」(木下尚子)

 広田遺跡で埋葬された157体の人骨に伴っていた貝製品は、総数約44000個、総重量約24kg(『考古資料大観. 第12巻』2004)。平均してもあまり意味はないが、これは280個/人にも及ぶ。

A:連結式装身具
 ・連結用に小孔を複数個もり、単独あるいは複数個を連ねて着用される装身具。

B:副葬品
 ・着装用の孔を持たず、人骨上に置かれていたもの。

 貝符の出土位置は、手首、首まわり、頭に集中。連結して腕飾り、首飾りにしていた。


 下層期・古段階:弥生時代後期後半~古墳時代前期(1800?年~1600年前)
 下層期・新段階:古墳時代中期(1500年~1400年前)
 上層期:古墳時代後期(7世紀を含む)(1400年前)

◆下層期・古段階:弥生時代後期後半~古墳時代前期(1800?年~1600年前)

・「貝符・小貝玉」型の人々。女性が多い。
・「貝輪・小貝玉」型の人々。男性が多い。

◆上層期:古墳時代後期(7世紀を含む)(1400年前)

・貝符の多くが非装身具となり、貝輪や飾り玉類が減少して、埋葬に伴う装身習俗は衰退する。

1.広田遺跡で消費された貝殻は、開始期にすでに、南九州から沖縄諸島を含む広域からもたらされていた可能性が高い。
2.下層期・古段階には、南九州から沖縄諸島に至る島嶼とのつながりを示唆するグループが存在する。
3.素材貝殻の産地は、下層から上層に移行するに従って、沖縄諸島に収斂する傾向がある。

 広田遺跡を除くと、種子島、奄美諸島、沖縄諸島に広田遺跡関連の貝製品119点が知られ、それらは貝塚時代後期(3世紀~10世紀)に相当。(注.後1期中盤~後2期)。

 広田人には抜歯習俗が認められる。

 
 これらの記述から導ける仮説。

1.広田人において、貝符が装身具から副葬品へ変化したのは、生と死の「移行」から「分離」への変化を示すものではないか。

2.南島において出土する貝符は埋葬に伴わない。それは、貝符に相当する価値を身体に刻んでいたからではないか。それが「針突き」。

3.両者に共通したのは、蝶を霊魂の化身と見なすこと。

4.装身具としての貝符が、複数個連ねる場合があったのは、広田人がこのとき、複数の霊魂概念を持っていたことを示すのかもしれない。

 

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2016/05/21

「蝶形骨器」と「貝符」のあいだ

 蝶形骨器と貝符の編年を対照させおこう。

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金子浩昌「沖縄縄文時代の蝶形骨製品」(2014)
木下尚子「貝製蘇ぷシングからみた広田遺跡」(2004)

 これをみると、蝶形骨器の終焉は、やはり交易期の始まりと関わりがあるように見えてくる。また、蝶形骨器と貝符とのあいだには、約400年ほどの開きがある。しかし、現状の出土状況や蝶形骨器の編年のあいまいさにも起因するだろう。なにより、琉球弧の蝶モチーフは連綿とするのだから、この差自体は問題ではないと思える。

 蝶形骨器の終焉は、シャーマンがカミへの化身の媒体を別の表現型に変えたことを意味している。

 また、琉球弧で、貝符は埋葬に伴わないことは、別の表現型を持っていたことを示す。それは「針突き」だと考えられる。

 外形に焦点を当てれば、下層の貝符は、蝶形骨器のデザインを引き継ぐものであり、上層の貝符は、右手尺骨頭部と共鳴している。

 いまのところ「蝶形骨器」と「貝符」のあいだが示唆するのはこのことだ。

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2016/05/20

「蝶・獣形製品と土器の相似」

 伊藤慎二によれば、土器編年と明確に対応可能な蝶・獣形製品の編年は、資料的制約から、現在のところ困難(「琉球貝塚文化における社会的・宗教的象徴性」)。

 しかしながら、伊藤が注目するのは、蝶形製品の上縁部の形態は、左右対称の波上に角ばった突起部分が連なる。これは、前Ⅳ期の「土器の口縁部に酷似する」。そこで伊藤は言う。

 蝶形製品もこの同時期に、土器口縁部突起とその直下の口縁部文様帯の意匠を祖形に創出されたものである可能性が極めて高い。

 土器口縁部の山形突起は世界各地に分布する。縄文文化の特徴でもある。しかし、「その意匠を他の器物に転用した例は北琉球以外では未確認」。

 これは、逆ではないだろうか。「蝶形骨器」の意匠がむしろ土器に応用されたのではないだろうか。「蝶形骨器」は「蝶」をモチーフにしているのであれば、具体的な動物があるのだから、そこから図形を編み出したと考えるのが無理はない。もっとも、伊藤は、「蝶形骨器」は「蝶」由来であることに疑問を呈してこう書くのだから、伊藤の意図は分かる。

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2016/05/19

「広田遺跡と貝符」(木下尚子)

 木下尚子は、広田遺跡と南島の貝符を比較して、南島では、加工技術は「貝殻を自由に割りとり複雑な形状をつくり出すことに向けられ、これらの表面に彫刻を施す方向へは向かわなかったようである」と指摘している。

 南島人の得意は、貝を切り絵のように加工することであり、その「南島的伝統からみると、南島の貝符に彫刻が施されていないのはむしろ当然ともいえる」。

南島に多い広田亜様式の貝符は、南島人が広田様式の彫画のある貝符を模倣して製作したのであろう。

 模倣はそうなのだと思う。しかし、貝符内の彫刻に南島人が気を向けていないのは、得意の方向とは別に、同同様の表現を「針突き」として持っていたからではないだろうか。

 木下は興味深いことに気づいている。

 貝符から文様を消して、外郭形状のみ眺めると、「広田様式の貝符の形状や変化の規則性が、南島の貝符以外の文物に共通する」。

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 木下は、貝符で、蝶形器に近いもの(16,18)が出現する頃、貝製容器では中央の切り込みを台上に変化させているもの(6,8)が現われるという相互影響を指摘する。

 貝製容器の柄部のデザインは、二千数百撚をへだててその基本形は変化しない。外郭形状からみる限り、「貝符はきわめて南島的文物である」。「広田様式の貝符はその文様を本義とし、南島的な受け皿をこれに対応させた作品である、といえよう」。

 これは南島と広田人とのあいだに、蝶をモチーフにしているという共通認識があったということだと思える。


 


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2016/05/18

蝶形骨器・針突き・貝符 2

 設楽博巳は、「縄文時代のイレズミ」の存在について、黥面土偶から類推している。引用しているのは、縄文晩期(前9世紀)に栃木から出土したものだ。縄文時代後期には、仮面の出現が考えられているので、「黥」にしてもそこまで遡れる可能性を持っている。

 縄文時代後期 4500年前
 縄文時代晩期 2900年前

 一方、金子浩昌は、「蝶形骨器」の製作期間を、

 貝塚時代前3期中盤 4000年前~
 貝塚時代後1期前半 2400年前

 としている。これをみると、定着の遅れた琉球弧での霊魂の成立は早すぎる気がする。ここには、霊魂概念を持った種族の来島などのインパクトがあったのではないだろうか。また、「蝶形骨器」の製作終了は、交易期の開始と関係があるのかもしれない。

 種子島広田遺跡の貝符の上層と下層の年代は、以下のように推定されている。

 下層 6~7世紀(2700~2600年前)
 上層 弥生時代後期後半~古墳時代(1800?~1500年?前)

 これに照らすと、「蝶形骨器」の終了と下層の貝符の出現とは、踵を接しているように見える。また、上層の開始年代をみれば、約1800年前には、「針突き」は出現していたと考えられる。

 貝塚時代前3期中盤 4000年前 「蝶形骨器」
 貝塚時代後1期中盤 1800年前 上層の貝符

 こんどは、本土の仮面と黥のズレ(1600年)に対して、「蝶形骨器」と上層の貝符のズレは、1200年とやや近寄る。

 これらの資料から考えれば、「蝶形骨器」のデザインは、下層の貝符に引き継がれる。上層の貝符は、むしろ「針突き」と結びついているように見える。


『縄文社会と弥生社会』

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2016/05/17

蝶形骨器・針突き・貝符

 資料を見る前に直感的に比較してみたい。

 「蝶形骨器」の記憶は、貝符に引き継がれているだろうか。まず弥生時代後期後半に位置づけられている貝符の祖形について、これは「蝶形骨器」から継承されたというより、蝶の形からのものだが、胴体部と翅、上翅と下翅の区切りは意識されている。

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 「蝶形骨器」ではデザインされていた中室と脈の表現は、曲線とその囲いによって抽象化されている。しかし、胴体部と翅部の区別よりは、左右を横断する曲線のデザインの方が優先されている。胴体部は、頭部と胴体部の節が意識されているように見える。

 貝符のデザインは、蝶の観察さえあれば、「蝶形骨器」の記憶がなくても描けるものだと思える。

 また、右手尺骨頭部の「針突き」の起点デザインは、貝符の頭部、尾の頂点と上翅、下翅の区切りを直線で結べば、菱形と四つの三角形は得られるが、強い結びつきではない。

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 しかし、古墳時代後期の祖形に位置づけられている貝符は、右手尺骨頭部の「針突き」の起点デザインにダイレクトに結びつけられる。むしろ、「針突き」のデザインから拵えたと言ってもいいものだ。

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 少なくとも、この時点で「針突き」は存在していたと見なせる。しかし、それは時代としては新しすぎると言ってもいいものだ。


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2016/05/16

『日曜日、すずは口笛を吹いた』にみる縄文の思考

 2年前、試写会のように短編映画『日曜日、すずは口笛を吹いた』を観たとき、いかにも現代映画なのに縄文的なものが散りばめられているのに驚きました。当時、『珊瑚礁の思考』に取り組んでいる最中だったので、思わず監督にマイ・フレンドと呼びかけたくなったくらい。

 そういうわけで、「珊瑚礁の思考カフェ」の第2回は、この映画を東京で初上映して(約30分)、そのあと、古勝監督にインタビューしながら、ここにある縄文の思考を読み解いていきます。仕事帰りのひととき、どうぞお越しくださいませ。


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2016/05/15

針突き・メモ

 町誌の追補に向けた文章のための「針突き」メモ。

 ハズチ(喜界島、徳之島)、ハズキ(大島)、ハンジチ(沖永良部島)、パンジキ(与論島)、ハジチ(沖縄)、ハイズツ(池間島)、ピズツク(宮古島)、パズツク(多良間島)、パイツキ(水納島)、テイツク(八重山)、パルツク(黒島)。

 指輪のたかみ
 指している間のかたみ
 我手にある入墨
 あの世までも(那覇)

 入墨は年齢とともに場所を増やし、また大きくした。沖縄島では、61才になると手の甲、茎状突起部を大きくする。ティナァーと呼んだ。

 メモ。これは後生との近さを意味するものだったかもしれない。つまり「あの世」行きの準備。

入墨をするときは先ず台の上に女の手をのせ、針を三本或は七本そろえて束とし、入墨用の香り高い墨をすって、針の先につけ入墨する文様を予め画いて、その上を墨をつけた針束で突いた。
島々の施術者が南島を通じて女であったということは注意すべきである。
入墨をしたときの傷は約二週間で全治し、表皮がはげると水草の花に見るような美事な青色の文様が浮出してくる。
その始まる前と、終った後に親戚や友人の女たちが集まってきて、盛大な祝いを行う(中略)。男子はこれに出席せず、女たちのみで祝をする(後略)。
入墨がなければ、死後往生ができず、死霊が迷う。そこで、後生で迷わず成仏できるように入墨した。まだ未だ入墨していない乙女が若いうちに死ぬと、その手にあたかも入墨していたかのように入墨文様を書いて後、葬ったものであるという。

 タブーとして、

・入墨の傷が治らないうちに葬儀を見てはならないし、その家に行ってもならない。
・入墨の傷の治らないうちに、妊娠した女性を見てはならない。

 メモ。どちらも入墨が「霊魂」に関わっていることを示している。両者ともに、死者やこれから生れる子に霊魂を持って行かれないようにと考えられたものだ。

 右手茎状突起部。沖縄島では「五つ星」と呼ばれる。
 左手形状突起部。アマム(沖永良部島)

 指の背の線主体のデザインについて、与論島では、後生に行くためには必ず備うべきもので針路を示す一種の記号として用いられている。四角形主体の図は、左手手首の内面にあるもので、後生の門で、先祖に調べられ、このしるしのある者は門に入れてもらえるが、無いものは入れてもらえないと言われている。

 以上は、小原一夫『南嶋入墨考』から。

 昭和五十年代(一九八〇年頃)では、奄美群島では消滅。

 メモ。これはそんなことはない。少なくとも昭和の終わり前後まではしていたはずだ。

 右手茎状突起部。イチチブシ(五つ星・久米島)。クデーマー(八重山)
 左手茎状突起部。アマンム(宿かり蟹・久米島)、朝日(名護)、まるぶし(久米島)

 茎状突起部(宮古島)。タカゼン(高膳)、トウヌピサ(鳥の足)、カザマーラ(風車)、アオヤッダ(アオヒトデ)
 手首(宮古島)。オミス(お箸)、ニギリメシ(握飯)。カン(蟹)

 指。ウミヌホウミブシ(海の女陰星・那覇)、ウミヌグジュマ(ひざら貝、国頭)
 指の付け根。三角。ホーミ(女陰・国頭)、楕円。グジュマ(ひざら貝・国頭)

 背。オオジガタ(扇形・久米島)。チキンガナシ(お月様・八重山)

 宮古の点の文様。ウマレバン。

 阿嘉島の女性。明治14年生まれの女性の母は、生涯六回施術。「文様は骨まで染まっているはずだと自慢していた」。

 与論島の入墨師は伊平屋島から来ていた(与論島出身の栄喜久談)。しかも男性。

 以上は、市川重治の『南島針突紀行沖縄婦人の入墨を見る』から。


 

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2016/05/14

トゥマ島とみみらくの島

 トロブリアンドの島人にとって、「あの世」の島であるトゥマ島は生活の場でもあることをマリノフスキーは書いている。

 生活の場としてのトゥマは、キリウィナの原住民たちがときどき出向く村である。トゥマ島とその隣りの島々では、海亀の甲羅や、大きな白い子安海(Ovulum ovum)が夥しく採れる。事実この小島は、キリウィナの北部及び東部の村々にとって大切な装身具用品の主要な産地となっている。だからトゥマ島には本島から男たちがよく訪ねて行く(『バロマ』)。

 面白いのは、トゥマでは、「バロマに関わりある経験を何もしたことがない者は、ほとんどいなかった」ことだ。「ある期間トゥマに滞在する者が、自分の死んだ友人たちの誰かを見かけるのは何の苦もない」。そのことに「わずかの疑念も抱いてはいなかった」。

 男たちが酋長とトゥマ島へ出かけたときのことだ。上陸したところには一人の男が立っていた。一行はすぐに彼が、偉大な勇者で最近亡くなった男だと分かった。彼らが近づくと男は消えたが、そのときはっきりと、「さよなら」という声を聞いたのだ。

 これはまさに「みみらくの島」のことだ。

 いづことか音にのみ聞く、みみらくの島隠れにし人をたづねむ

 トロブリアンドの島人は、こうしてトゥマ島で会うほかに、「自分で死者の国を訪れる特殊な能力をもった人々を介して、バロマともっと親密に触れ合える」(『バロマ』)。

この世の中に生まれ出たすべての子は霊魂の変形によって最初ツマにおいて生まれでたものである。(p.135『未開家族の論理と心理』)
セリグマン教授は、「この世はもともとトゥマから移住してできたものだ。男と女はトピレタ(死者の島の首長-引用者)トピレタによって上界へ送り出され、トピレタ自身は下界にとどまった」という物語さえ採取していた。(『バロマ』)

 トゥマ島は、すべての始まりなのだ。

 生と死が区別の段階に入ると、境界が発生する。だから空間が分割される。それとともに直線的に進む時間の概念が生まれる。


 

 

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2016/05/13

『アイヌと縄文』(瀬川拓郎)

 瀬川拓郎の『アイヌと縄文』。いたるところで、琉球弧の対応させることができるような気がした。単純に似ているというより、時代変化の契機、習俗が呼応している。「アイヌと琉球」というテーマで両者を比較したら、お互い同士、精神史を立体化できる感触。ぼくがそこまでやれるか、分からないけれど。

 おおよそ、だけれど、続縄文時代、擦文時代と貝塚時代後期、ニブタニ時代とグスク時代とが対応する。

・「縄文土器の地域圏は、縄文時代の方言分布圏と私は考えている」

・四世紀、北海道の人々は、人口密度が希薄化した東北北部へ南下。五世紀後半には、古墳社会の人々は、続縄文人が南下していた東北北部へ進出。東北北部へ進出した古墳社会の人々は、国会の支配に抗してエミシと呼ばれるようになる。

・「川」を意味する「ナイ」は日本海側。「ペツ」は太平洋側。

・続縄文人。本州と同じカマドを持つ竪穴住居になる。土器は文様を持たない本州の土師器とうりふたつ。

・擦文時代、交易もする狩猟採集民から、狩猟採集もする交易民へ変貌。

・アイヌ語の祭祀関係の言葉は、大半が古代日本語からの借用語。カムイ(神)、タマ(魂)、ノミ(祈む9、オンカミ(拝み)、ヌサ(幣)、タクサ(手草)、シトキ(粢)。

・ニブタニ時代は著者の命名。アイヌ文化の遺跡がはじめて広域に調査された日高の二風谷遺跡の名称にちなむ。アイヌ文化伝承の聖地ともされる二風谷地区の顕彰の意味も込めて。

 チャシは全道で500か所以上。「聖域か、首長居館か」という問題設定もグスクそのもの。チノミシリは霊山。血縁集団の祖霊崇拝にかかわる山。アイヌは、山頂には特定の神が住み、特定の部落を守ると伝えていた。

私は、チャシがこのチノミシリでもあったと考えています。

 ヲチャラセナイチャシ。台地上の集落の端に設けられ、二〇メートル四方の空間を壕で区画し、そのなかに約七メートル四方の建物が一軒設けられている。瀬川は、ヲチャラセナイチャシをアシャゲと比較している。そして、ヲチャラセナイチャシは、成立期のチャシとして位置づけ、その後、首長の居館、あるいはチノミシリとなったと考えている。

 これはグスクそのものと言っていいから、グスクの性格と比較して対応させると、

・聖域
・あの世 チノミシリ
・御嶽 ヲチャラセナイチャシ
・按司の居所

 となるように見える。

 示唆にあふれるのは、アイヌの交易への対応。

・アイヌが世界観を共有しない和人とのあいだで商品交換をおこなうにあたって、神からの贈与である獣を商品とするには、アイヌの神話的な世界との縁を断ち切り、ただのモノとする必要があったのではないか。

・神の世界に属するこの市庭(市場ー引用者)という場が、アイヌにおいてはチャシであり、あれらはそこへ獣をもちこむことによってこれを無縁化し、それによってはじめて獣を商品とすることができたのではないか。

大量の獣の解体処理をおこなっていたチャシが、獣という仮装から神を解き放ち、無縁化がおこなわれる場であったとすれば、チャシはそこへもちこむこと自体によって送りが成立するような、儀礼の簡略化とむすびついた大量捕獲・大量生産に適合した聖域となっていたのかもしれません。
チャシという聖域で解体された獣は、アイヌとの縁を断ち切られたものだとしても、そこで商品交換がおこなわれたわへでない以上、それはまだ商品にはなっておらず、商品になることを保留された「中間的」なものでしかなかったことになります。

・縄文時代には、津軽海峡の両岸の人々は、同じ地域文化圏。しかし、交易が活発化する九世紀以降、津軽海峡は文化の境界として固定化される。

・縄文思想とは、人びとを「親戚」としてむすびつけることのような連帯の原理

 この交易によるアイヌ社会の変貌は、琉球弧の貝塚時代後期の貝交易による影響に大きな示唆を与えてくれる気がする。

 いつか、きちんと取り組んでみたい。


『アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史』


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2016/05/12

「奄美のシマと神女」(山下欣一)

 山下欣一は、「奄美のシマと神女」のなかで、「高い島」、たとえば奄美大島の地勢に触れている。

険しい山々が海に迫ってそびえており、谷間の海岸に向かって、人々の住むシマがある。(中略)シマは、このように、三方を険しい山々に囲まれ、谷間に流れる川を中心に形成される沖積台地上にかたちづくられているのがほとんどで、前面に海を望む構図をとるのがふつうである。

 シマの中心はミヤと呼ばれる広場。ミヤには、アジャゲやトネヤの祭場がある。シマn広場からカミミチと呼ぶ神聖な道がのび、神が降臨すると言われるカミヤマに通じている。また、広場から海岸へと出る道も通じている。墓地は、広場の近くにあることもあるが、多くはシマのはずれ。

 竜郷の円集落は、このひとつの典型。

 カミヤマ→ティラ→ナミチ→ハマジョグチ→海岸

 ナミチが広場。ナミチには、草分けのフーヤと祝女屋敷のナカヤドが接する。

 山下は円集落の写真も載せているのだが、かつての「あの世」と考えられるティラも、遠隔化された「あの世」のカミヤマも、シマを囲む山の地勢全体からみれば、シマに実に近く山も高いというわけではない。シマに住む島人にとってどう見えたかが重要なのだということが分かる。

 思うに、この山の有無は、島人の精神性の形成に大きく影響したはずである。

 現実にある山を神奈備と見立てて神聖視したり、神奈備山を象った模型の「ヤマ」を聖所に据えることによって、人間は「空間の秩序」をつくりだそうとした。大地から特別な山が立ち上がることによって、天と地は分離され、感覚のなかに「空間」というものが生まれでることになる。(中沢新一「アースダイバー」アズミの神道(5))

 海抜十数メートルしかなくても、「御嶽」などと「山」と見立てるのだから、「低い島」でも「山」が意識されている。しかし、与論でも「拝み山」の「山」はとれて、「ウガン(御願)」となるように、現実に「山」の存在感があるかないかでは大きな違いがあるだろう。

 「うみやまのあひだ」(折口信夫)の言って本土の地勢の特徴は、奄美大島ではほとんどそのまま当てはまる。これはある意味で、奄美大島の精神性が大和化しやすい理由にもなったのではないだろうか。

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2016/05/11

ザン、ジャン、ダーン、ザノー

 前に、ザンの音韻変化について、次のように仮説した。(cf.「ユナ・ユウナ・イノー・ザン・イヤ」

 ザン(zan) ジュゴン
 ・yunanuiyu → dunanuiyu → duanuiyu → zuanuiu → zanuiu → zan(zyan)

 宮良当壮の「八重山語彙」では、与那の「ダーン」、西表の「ザノー」も記されているので、仮説をもう少し先まで進めてみる。

 ・yunanuiyu → dunanuiyu → duanuiu → duan → da:n

 ・yunanuiyu → dunanuiyu → duanuiyu → zuanuiu → zanau → zano:

 もうみると、ユナの「ユノーン」への転訛と似ている。

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2016/05/10

「沖縄採訪記」(折口信夫)

 折口信夫の「沖縄採訪記」から気になる箇所をメモ。

 大宜味村、塩屋。

あさぎから神人の通う「神道」は、常でも牛を通さぬことになっている。

 これは人は通っていいということだろうか?

海神は、塩屋から送ると、古宇利島では迎えることになっている。

 神の送り、迎えのリレー。

 津堅島。「うふあなのをがん」。願立てをして、ざん即ち海馬を獲りに出かける。肉は(?)はまず根人にあげ、御嶽にあげる。

煮る薪はお嶽の木を使う。以前は「ざん藻」の生えている処には、「ざん」がかなりいたものらしい。(中略)頭の骨は、祀ることにしている。「ざん」は、乳房のあたりなど、全く人間の女に似ている。

 浜比嘉の島。

しぬぐの時、番人を船場につけて、よその船からの人を上陸せしめない。
手の入れ墨は、二十三位からする。

 折口が来訪した際、ずいぶんと遅くなっていたのだ。

 大宜味では、「うんぢやみ祭りは、いびをまつるのだ」と折口は聞いている。

(おうの山) 奥武は宛て字である。おうというのは海中にある島という事か。羽地にも島尻にもあって、那覇のと地形が似ている。

 この辺りの折口の見立てはさすがだと思う。

 八重垣にて。

往古は神をきんまものというよしなるが、和語の入り来るより、神はかみといい、きんまんものとは、きじもん・まぢもんなどと邪神の呼称となれると古老の口碑あり。
ぐしょうを墓とするのは、久高島である。

 伊計島では、御嶽の中心には、万年貝が五六個もすえてあって、この貝をいびと言っている。

(人の犯す事ある動物) 儒艮(ザン)を犯すれふしが時々ある。浜などに死んでいるのをそうするのである。又えいを犯す者も漁夫には多い。豚を犯して、豚が孕んで生んだ子を、人に悟られぬように埋めて了うたという話も聞く。

 折口の耳にも入ったことが分かる。ザン女房譚、エイ女房譚とのむすびつき。

(にいる)にる人は、二色人ではあるまい。にれえの事であろう。にいるを地獄の意に使うこともある。「にいるの底まで、風が吹く」などという。だから、にいる人は鬼人などの意かと喜舎場氏岩崎氏もいう。

 波照間では、手を清めるのに、砂で揉んでおく。

 蝶(ハベル)は神の使いである。

にいる人はにいるすくから来る人だから申しますと、若い主人が言うた。やはり想像どおりだったのである。

 ここは折口の興奮が伝わってくる。

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2016/05/09

ジュゴン儀礼の幻視

 食べるということは、食べられるものと一体化するということ。「獣の腹の中にいた者は、そこから帰還したとき、呪術的な能力、特に獣に対する支配力を授けられるのである。帰還した者は偉大な狩人となる」。つまり、「獣がその手に身を任せる」ということ。

 この思考が農耕の段階になると、「大蛇の腹の中で大地の稔が発見される」ことになる。

 動物に呑みこまれること、大蛇のいる池で水浴すること、あるいは「海に呑まれること」や投げ出されることにさえ交替する(後略)(ウラジーミル・プロップ『魔法昔話の起源』)。

 これらの記述に誘われると、ジュゴン儀礼では、少年が海に放り込まれる。その後、ジュゴンを食したということだ。
 

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2016/05/08

「いとうみはやみり」と「暇乞い」 3

 たまたま『王府おもろとウムイ』を聴いていたら、なかば諦めていたものを偶然、見つけた。

 「ながり送(うーく)んざくぬウムイ」だ。

 ゆかてぃさみ 間切祝女や
 鐙引ち遊ぶ
 我どぅ ニレー神ゆ
 ザンぬ 口取やい 
 暇乞(いぅとまぐ)い

 「ジュゴンの 口を取って いとぅまぐい」。ザンの口を取って暇乞い。谷川健一が引いていた大宜味村謝名城のウンガミのウムイだ。谷川の出典元が不明なので、真偽が確かめられなかったものだ。

 これですっきりした。「いとうみはやみり」という以外の歌謡はあったということだ。

 cf.「いとうみはやみり」と「暇乞い」「いとうみはやみり」と「暇乞い」2


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2016/05/07

岩崎卓爾「明和の大津波」録

 岩崎卓爾が写しとった明和の大津波。

 1771年の石垣島。朝八時ごろ、やや強く地面が震えると、海潮が遠くへ退き、青、緑、紅、紫の熱帯の色彩がまばゆい大小の魚たちが珊瑚樹が入り組んだ切り株に跳びはね、女性や子供たちが捕まえて、海の秘密はことごとく暴露された。しかし、島人たちは驚異の念が一層加わり、この世の倒壊の暗示に違いないと、落ち着かず、皆岸辺に集まった。

 すると東方の洋上に魔に似た二条の黒雲がいったん空高くにあがったと思いきや、砕けて激しい潮があふれ、奔馬のように狂い、数回の大波小波の大津波を繰り返した。一回には波の高さが127メートル、二回は93メートル、三回は187メートルと、三たびの魔の手を振るい、また雲は低く垂れて風は止み、天地は暗澹として妖気に満ち、大木巨木樹をつんざく音、家屋が破壊される音が鳴り響いて、救いを求める声が交錯して聞こえた。

 実にこの惨劇はこの世の地獄と思われた。海嘯の波は、島の半分を洗い、ほか14ヶ村を壊滅させて、溺死する者9488人、家屋田畑の流失、牛馬の死傷は夥しく、十日の月の光は蒼く白い死体を照らし、累々路傍に遺棄されて死臭が全市の空に漂ったが、何ら応急の策を案出する者もなく、茫然自失していた。また入って住むべき家も、田に食べる一粒の穀もなくなった。

 本島を深い底に突き落す運命に逢わせた絶望の天災は、生計を困憊させ、なお悲嘆の涙もいまだ乾かないうちに疫病が蔓延し、加えて飢饉に襲われて人口は著しく減った。1776年二月飢饉、疫病のため死者3733人、1802年8月疫病流行して死者4258人、1835年麻疹流行し死者655人、1853年悪疫流行し死者1843人、昔日の繁栄を失った。

 『岩崎卓爾一巻全集』(1974年)より現代語訳、一部アレンジ。

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2016/05/06

「土偶」をつくらなかったということは。

 土偶をつくるには、自分の身体を、自分の外から見ているイメージを持つことが必要になる。たしかに人間は、動物や人間を見るとき、いまのぼくたちと変わらない視覚像で見ていたには違いないけれど、それと「土偶」をつくる、つくれるということは別のことで、自分の身体を思い浮かべられることを通じて、「土偶」をつくることができるのだと思える。

 「土偶」を作る契機を持っていないということは、身体を外から見るようにイメージする自己を持っていないということを意味する。あるいは、身体と結びつけた自己というイメージを持っていなければならない。身体という基盤のうえに自己があると考えられていなければならないj。モーリス・レーナルトは、「身体を具体的に表象するには」身体に結びつけられた「自我という表象を持たなければならない」と書いている。

 レーナルトはここで面白い例を挙げている。

メラネシアでは、ひとは眠っているあいだに遠い村で盗みをはたらいたという非難を甘んじて受け、身の潔白を証明するアリバイを持ちだしたりせずに罰に服する。

 そのとき彼らは、「睡眠中に分身という不思議なやり方で自分が何をしでかしたか知らない」。寝言ならいざ知らず、遠い村まで出かけt盗みを働いたことを認めざるをえないところに追い込まれるということは、自己は身体に結び付けられては考えられていないことになる。そうなると、自分の身体を外から見るような眼差しは持てない。

 それはつまり、身体を世界から分離していないことを意味している。「彼らは世界から自己を分化しておらず、したがって自分の身体に関して完全な表象を持っていない」。だから、「彼らは、自然のなかに自分を押し広げていくのではなくて、反対に自然によって浸され、それをとおして自らを知るのである」。

 ぼくたちはこれまで、特定の動物に対して似たもの、同じものを見い出し、トーテムとしての関係を結ぶと考えてきたけれど、ことはもう少し繊細に捉えなければいけないようだ。人間が、特定の動物に似たものを見い出すのではなくて、特定の動物のあるようを通じて、そこに似ている、似ていないという面が見出されてくるということだ。

 この点でも、レーナルトは、「メラネシア人の方が樹木を見出すのではなく、樹木の方が彼らに対して姿を現わす」という言い方もしている。ぼくたちは神話の表現からトーテムに該当すると判断する場合、「人間に先立つもの」という指標を用いてきた。まず、穴からアマンが出てきて、次に人間が出てきたという場合、それを時間的な順序のように受け止めている。しかし、ここにはもうひとつ、アマンが人間の前に姿を現わし、それを通じて人間は人間のあり方を知ることになったというのが、より正確なのだろう。

 人間がアマンを見い出すのではない。アマンが人間を見い出し、人間はアマンから自らを教わるのだ。それが、身体が世界と分離していないことの意味だ。

 「貝塚のこころ」とは、サンゴ礁が人間を見つめる。人間は、その視線が身体を透過するあり様から、人間自身を知るところで展開されたのだ。

 だから、カナク人の娘たちが、ココ椰子の油を体に塗って、輝くようにおしゃれをしている若者に対して、「水が、樹液が肌の下に透けて見えた」というとき、それが比喩ではなく、本当にそう思っていることになる。人間は、樹木に照射され、浸透される。そこで、人間は身体に植物(この場合は樹液)を見いだすのだ。

 この外から自分の身体をイメージすることにも段階があることは縄文期の土偶の過程にも示されている。それは、はじめ著しく頭部が軽視されていて、人間らしい形姿を得るまでに単純に計算して約4500年、時間がかかっている。そして、自己の外から見たイメージが希薄な度合いに応じて、そこにはたとえばトーテムとして選ばれた動物の像が浮かび上がってくるのではないだろうか。

◇◆◇

 土偶をつくるには、自分の身体を外から眺めるような表象が必要。それがない、あるいは希薄な段階では、人間の相同物であるような土偶は作られない。

 身体を外から眺める表象がないということは、そこで生きている世界についても、外から眺めるような表象を持っていないことを意味する。だから、それは身体と世界が分離していないことを同時に意味する。

 身体は世界と溶け合っている。考えてみれば、彼らは自己像を明確には持てない。鏡や写真を持たないのだから、他の人間は見れても自分は見れない。池や海に映ったおぼろげな像が自分だと分かるに過ぎない。むしろ、特定の動物をトーテムとして場合は、それが自己像に投影されることになる。

 だから土偶を作る場合であっても、自分の身体の表象を持たない度合いに応じて、誇張や過小な形になったり、「アマン-人間」の表象に近づくような動物的な姿になるのではないだろうか。

 だから、人間が特定の動物に似たところを見いだすのではない。まず、特定の動物が立ち現われる。その動物に身体は照射され、浸透されて、そのなかに動物と共通なものとして身体を見いだすことになる。


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2016/05/05

『これからの琉球はどうあるべきか』

 「琉球」と枠組みを広くとっているのに「奄美」話題はほとんど出ないというのが相変わらずの不満だが、読み応えのある内容だった。

 議論は多岐にわたるので、心にとまった言葉をメモしておく。

 安里英子

 聞得大君精度やノロ制度が初めからあったように錯覚しているけど、実際はそうではない。ノロ制度というのは、つくられた体制。御嶽という言葉も、もともとなく、漢字は当て字でしょう。薩摩以後使われた言葉なので、一枚一枚剥がしていくともっと基層にあるもの、原初的な形は何なのか考える必要があると思います。

 戦争後、何もない状態から島の人は、「公民館、御嶽、共同井戸」を自力で再建していった。

不思議なのは、無人島にたくさんの考古学的遺跡があることです。人が住んでいないところに、なぜと思います。屋慶名の藪地島には六千年前の遺跡が、海をちょっと隔ててありますよね。伊是名の近くにある今は無人になっている具志川島にも古い遺跡がある。そういう地先の小さな無人島が重要な信仰の対象になっています。

 どちらも一時滞在の場所になりうる島ではある。そしてどちらもかつての「あの世」という地勢のポジションを持っているのが興味深い。

 この間与論に行ったら、明治三年に与論の御嶽はほとんど全部合祀されてしまって、琴平神社にまとめられたと聞きました。沖縄の場合、御嶽はなくならなかった。

 ここはひと言。与論もウガンは残っていますよ。

私は自らの精神的活動、すなわち「書く」という仕事を続けなければ、逆に介護もできなくなるという確信があるので、仕事はこれまで同様続けることにしている。

 これはぼくも同じだ。介護ということではないけれど。

 我部政男

 沖縄人が頭で描いているものと、復帰後に現実に流れていくるものとの、食い違いの対応ができないままにずっと来ていると思います。この意識のずれを埋める言葉が「本土並み」だったんじゃないでしょうか。
沖縄復帰では、「本土並み」。「憲法復帰」という観念的なもので日常的な生活の中に何か新しい風景を取り入れようとしたのが、戦後の沖縄の政治だったんじゃないかなあと思います。

 伊佐眞一

ときとして自然の流れのごとく近世や古代はむろんのこと、万年単位の過去にまで一潟千里に行きつ戻りつしながら対話ができるというのは、日本国内の他府県では非常に珍しいのではないだろうか。

 これも、そうなのかもしれない。


『これからの琉球はどうあるべきか』

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2016/05/04

「貝塚時代後期土器と貝符」(中村直子)

 「貝塚時代後期土器と貝符」(中村直子)から、「貝符」の思考について、おおよその見通しを立てておきたい。

貝塚時代後期の中ごろ、弥生時代後期~古墳時代並行期の「貝符」と呼ばれるイモ貝に彫刻を施す、装飾性豊かな遺物が北部圏から中部圏に広がっている。貝符は、アクセサリーや埋葬などに使用される儀礼用の道具として用いられている。

 種子島広田遺跡に・

1.下層

・伸展葬
・貝符は、貝小玉などとともに被葬者が身につけた状態で出土。
・装身具を構成するパーツ

2.上層

・集骨された二次葬
・人骨のそばにばらまかれた状況で出土
・貝符の文様や形も、新しいものほど簡略化され、ひも通しの孔と考えられる穿孔もなくなる傾向にある
・単独で使われる儀礼用道具

上層タイプは、下層タイプに比べ、種子島以外での出土量が多く、沖縄本島周辺まで分布する。ただし、埋葬遺跡で出土したのは種子島のみで、他地域で、広田遺跡のように多量に出土することもない。
上層タイプの貝符は、「中の文化」に類似するものがなく、「南の文化」独自の遺物であるといえ、北部・中部圏の人々が共通して持っていた独自の慣習やその背景にある世界観を反映しているものと考えられる。
貝符の文様については、中国大陸の青銅器に施された文様をその起源として考える説がいくつか提示されている(国分,1976.1991.金関,1964・新田,1984.1991)。
貝符は、南西諸島特有の遺物であるが、その文様の起源や、装飾品の様式から中国大陸に起源が求められている。しかし、これはその習俗や文様が伝播してたどりついた結果なのか、中国大陸から人が渡来してきてダイレクトに伝わったのかということについては、明確になっていない。

 ここでいう上層と下層の区分の時期は分からないが、とても興味深い考察だ。

 そのまま読み取ると、貝符は下層のものほど文様が具体的で、時代がくだるにつれて簡素化される。下層は上層に比べ、種子島での出土量が多い。埋葬遺跡で出土したのは種子島のみ。

 この情報を踏まえて、他の研究実績に当たっていこう。

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2016/05/03

『珊瑚礁の思考』書評(酒井正子)

 4月9日の沖縄タイムスに『珊瑚礁の思考』の書評が掲載された。照れくさいので放っておいたが、再掲することにした。厚かましいことだが、無名の書き手はこうするより知ってもらう手立てがないので、ご容赦ください。

 いちばん嬉しいのは、やはり表題の「「琉球弧が生んだ」という箇所だった。


 「琉球弧が生んだ文化論」

 前著『奄美自立論』は「奄美四百年の失語」を語る話題作であった。翻って本書で喜山荘一は、文字以前の、自然と一体であった琉球弧の豊かな精神世界を再構築すべく、広く南太平洋の神話・歴史・地理・人類学等の成果を渉猟する。「文字以前」というと発展段階的な編年主義にとらわれがちだが、喜山は島尾敏雄の「ヤポネシア論」、吉本隆明の「南島論」、レヴィ=ストロースの「野生の思考」等に依拠しつつ、独自の発想を展開する。詩的言語でつづられるその思索の軌跡をたどるように味読したいものだ。本書は「Ⅰ円環する生と死」「Ⅱ『あの世』の発生と『霊魂』の成立」「Ⅲ生と死の分離を超えて」の3部からなる。

 喜山によれば、原初の「野生の思考」には大きく「霊力思考」と「霊魂思考」があり、両者がさまざまな文様をおりなす。Ⅰでは、自然の流動的なエネルギーを身体で象徴的に感受する「霊力思考」を、Ⅱでは現象を秩序だて概念化する「霊魂思考」を、Ⅲでは珊瑚礁の形成と漁撈が定住を可能にし、生と死を往還する世界観や来訪神、御嶽の常住神の観念が生み出されたと論ずる。

 Ⅰでとりあげるのは死と再生、化身、食人、トーテミズム、兄妹始祖神話など。死して後も生まれ変わる再生の観念は南太平洋の島々に色濃く、そこでは手厚い祖先崇拝はみられない。一見琉球弧とは相反するようだが、その痕跡はある。奄美の「マブリ別シ」で「家中の者は大笑い」し厳粛さを欠く態度に、「あの世とこの世は近接し、気軽に行き来できる」という感覚を見いだす。

 最も刺激的だったのはⅡである。風葬墓・他界・霊魂・呪詞の発生等が綿密に考察される。遊動から定住へ、遺体を生活空間の外に出し、境界・墓地・他界の観念が成立してゆく過程が興味深い。さらに解剖学、精神病理学まえ援用しつつ、グローバル資本主義を生きる現代人にとって示唆的な自然論が展開される。「霊力思考」が今なお活発な琉球弧から生み出された優れた思想・比較文化論であり、本書の影響は多方面に及ぶだろう。(酒井正子・川村学園女子大学名誉教授)


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2016/05/02

「奄美のシマと神女」(山下欣一)

 山下欣一は、「奄美のシマと神女」で、大熊で行われたノロの神祭りでのノロの装束を書いている(『海と列島文化 第6巻』(1992))。それは島田貞彦が「蝶形骨器」を発見してから四年後の1936(昭和11)年のことだった。

ノロたちは、着物の上にサロシ(白衣)を羽織り、頭にサジ(長い白布)を巻き、その上にツルマキカズラ(台湾カニクサ)を「カブリ」にかぶっていた。そして、頭の後部にサジ(サシクサ)と呼ぶ鳥の羽を束にし、それに三角の布を結びつけたものを挿し、親ノロだけが玉を佩いていた。参会したノロのうち二人は、「カブリ」をせずに「サジ」を巻き、わずかにツルマキカズラを挿していた。この二人は、まだノロになる式をあげていなかったため、このような装いをしていたのである。

 ぼくたちは祝女の装束で、気になる「三角の布」について、もう少し近づくことができる。

 上記の記述で書かれていない祝女の髪飾りのひとつに、ザバネがある。それは白鷺の羽根でできたものだが、下野敏見によれば、ザバネは「風羽根」をもとにしているが、それは伊波普猷が、航海の呪符として鷲の羽根を神女たちの神に挿していたのは「かざなおり」と呼ばれるが、それは「風直り」のことで、それが奄美大島では「ザバネ」と呼ばれるようになったという考えを受けたものだ。

 祝女は、ハベラザバネとして挿す。ハベラザバネは、ザバネに色とりどりのハベラ(蝶)に似た三角布を付けたものだ。宇検村屋鈍では、アヤハベラ(綾蝶)といい、赤、黄、褐、白などの色の三角布(底辺九・五センチ、高さ四・七センチ)が七個ずつ三連ついている。加計呂麻島阿多地のものは、七個の三角布が二連ついていて、kれをナナハベラと呼んだ。

 もうひとつ、重要なものがある。それはイチャ玉と呼ばれるものだ。沖永良部島で実見されたイチャ玉は、ガラス玉を51個連ね曲玉(まがたま)がついた首飾りと、首飾りの後ろ首の箇所で長さ61.5センチのゆるやかに末広がりの台形の織物がつながっている。その織物には、確か七つの三角布がつけられている。その色、赤、白、黒、緑、黄など。この織物と三角布は玉ハベラと呼ばれる。

 蝶は祝女の持ち物にも現われる。神扇だ。祝女は神事のときは両手で前に捧げ持ち、祝女と周辺の人・物とを隔てて垣をつくる用に使う。神扇には表に太陽、裏に月が描かれる。裏側には、白い満月(月論)のほかに、瑞雲、牡丹の花、蝶、岩塊がある。

 上着の下に着る筒袖短衣の胴衣は、奄美ではハベラ胴衣と呼ばれる。胴の前後には三角紋様が一面に連ねてある。

一 吾がおなり御神の
  守らてゝ おわちやむ
  やれ ゑけ
又 弟おなり御神の
又 綾蝶 成りよわちへ
又 奇せ蝶 成りよわちへ

一 あかおなりみかみの
  まふらてゝ おわちやむ
  やれ ゑけ
又 おとおなりみかみの
又 あやはへる なりよわちへ
又 くせはへる なりよわちへ

 岩波文庫の注によれば、「我々のおなり御神が、守ろうといってこられたのだ。やれ、ゑけ。おなり御神が、美しい蝶、あやしい蝶に成り給いて、守ろうといって来られたのだ」。

 「奄美では一般に蝶は人の霊、つまり先祖霊を運ぶという」(下野敏見)。

『琉球弧の世界 (海と列島文化)』


『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』

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2016/05/01

「蝶形骨器」の幅

 「蝶形骨器」について、最大幅と「孔」の位置する幅の長さを列記する。資料の図を元に計測しているので、おおよその長さになる。「孔」の形態は、照屋彩弥香の分類に依る(「孔からみた蝶形製品の分類と変遷」)。

4010_2
(津堅島キガ浜)

最大幅:9cm
「孔」位置幅:4.5cm 「孔」形態:A1(空洞のみ)

3003
(嘉手納)

最大幅:8cm
「孔」位置幅:4cm 「孔」形態:A2(空洞+下孔)

4004
(安座間原)

最大幅:12cm
「孔」位置幅:4cm 「孔」形態:A2(空洞+下孔)

1001
(津堅島キガ浜)

最大幅:17cm
「孔」位置幅:3.5cm 「孔」形態:B1,2(「組合せ空洞」+(「組合せ下孔」))

6006
(室川)

最大幅:18cm
「孔」位置幅:5cm 「孔」形態:C(段差)

8008
(吹出原)

最大幅:21cm
「孔」位置幅:5cm 「孔」形態:C(段差)

3006_2
(吹出原)

最大幅:19cm
「孔」位置幅:7cm 「孔」形態:C(段差)


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