植物との同一視とトーテム(モーリス・レーナルト)
モーリス・レーナルトは、ヤムイモを「祖先の肉」と見なす一方で、トーテムも持っている段階の様相を書いている。
ヤムイモは、子供のように優しく扱わなければならない。島人はヤムイモを手に取るときの扱い方を見て、その人物の品格や如才なさを判断する。
ちょうど生まれてまもない子供を、頭ががくんと落ちないように抱きあげるのと同じような優しさで、ヤムイモを手に取るのである。
ヤムイモは「祖先の肉」であり、「人間的」なものだからだ。ヤムイモは土のなかで死んでも、頭は反対に芽を出汁、新しいヤムイモを出すから、「ヤムイモは永続する生命のシンボル」だ。死んだヤムイモは故人のイメージだ。亡くなった夫をもつある妻は、夢のなかで夫が会いにきて、「私は古いヤムイモだよ」と語る。
カナク人のトーテムのひとつは「とかげ」だ。レーナルトは観察しようと思って、家のそばにとかげの一種を置いたことがある。
グルルという喉から出る鳴き声は、現地人によると雨を知らせるという。とてもざらざらしているが、人間の舌のようにピンク色をしている舌で鼻面をなめ、つかまっている枝の色になって一日中目立った動きもせずに目だけ動かしている。微動だにしない大木の幹にこのとかげがじっとしている様子は、さながら森と一体になった生き物であり、カナク人が自然の生命とこのとかげとのあいだに、ある関係を設定したのも納得できるのである。
ぼくたちは、設定されたか関係を「脱皮」に見ることができる。
畑の豊穣化の儀礼では、山腹に耕作地に通じる道を拓くのに、男たちが骨を折って藪を切り開き、とかげの通った跡のようなジグザグの小道をつけていく。作物がうまく実ためには、とかげがやってきて、畑を歩きまわることが必要だからだ。
また別の儀礼では、とかげが結婚するためにやって来て住み着いた場所である聖なる岩場に、ある樹の葉の束を置いておく。この樹の実もまたトーテムだ。木の葉の束をしばらく岩場に接触させたあと、畑に埋める。畑ではとかげが男であり、葉は女である。
カナク人も、トロブリアンドの島人のように、性交が子を孕ませるという認識はない。夫は生殖を行なう者ではなく、強化する者だ。
男女は土地の豊穣性と自らのあいだ、収穫物の実りと女の妊娠とのあいだに、新たな同一性を感じる。
カナク人の段階は、女性が産むことと植物が実ることを同一視している。性交が子を孕むという認識を持ち、妊娠と出産と植物が実ることとの時間の違いを認識するようになると、男女対の祭儀が生み出されることになる。
この段階でトーテムは、人間に悪意を示し襲う怪物となり、あるいは人間を助け、カミや山の名となって、解体の途次を歩んでいる。しかし、神の使いにも人間の使いにも、まだなっていない。
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