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2016/04/09

『日本の神々』(谷川健一)

 谷川健一の考えとの違い、言い換えれば、何が更新されなければならないかを探ってみる。

 「青の島」と呼ばれる地先の小島は、舟で死者を運んで洞窟に葬ったところで、「死者の洞窟の中はうすぼんやりとした黄色な光に満たされているので「青の島」と称した」。

 もうこのところで、二つある。ひとつは、「青の島」すべてが死者を葬った島ではない((青の島)⊃(死者を葬った島))。「青の島」のなかには、死者が葬られた島もあったに過ぎない。死者を葬るから「青の島」なのではなく、語源に添えば、中空にある、あるいは地先にある島として「青の島」は名づけられた。したがって、洞窟のなかに、「うすぼんやりとした黄色な光」を見たわけではない。見たとしても、それに他界の意味づけをしたわけではない。

 宮古では人が死んだらオウの島にいくと言う。また、伊計島のシノグ祭では、「ネズミはオウの島に飛び立てよ」という。これらの原義は、地先の島を他界としたときの名残りをとどめている。

 来間島の「虫送り」では、ネズミ、ムカデ、イナゴを入れたシャコ貝を持った男たちが、干瀬の珊瑚礁の穴まで泳いで、入れに行った。久米島の仲里村では、ネズミ、イナゴ、ウンカは稲の害敵だから、「干瀬の外、波の外」に追放してニライカナイに閉じ込めてください、という願いごとが唱えられる。

 この習俗は、他界の遠隔化以降のものだ。

 アロウ島も「青の島」と同じ意味。

アロウについては意味不明だが、後述する新神・荒神(アラガミ)のアラと関連があると思われる。

 アロウは、「青の島」と同じawaを語源とする転訛である。

 「青の島」も「アロウ島」も間近かにある他界であった。生活領域のせまかった時代になるほど、現世と他界が接近していたとしても不思議ではない。

 ここでぼくたちの考えと一致する。しかし、それは「生活領域のせまかった時代」だからではない。生と死が分離されていなかったからだ。

共通して言えることは、死者の島が荒涼としてけっして明るくないということである。

 これは誤解と言わなければならない。強いていえば、他界が遠隔化されたあと、「死者の島」が零落したということだ。

 謝名城の海神祭の神送りでは、「マヤの神」の対語として「青の神」が出てくる。

これは青の島もアロウ島も本来の存在感を喪失し、ニライカナイと同じように見なされたことを意味する。

 谷川はその要因を、「地先の小島に死体を捨てる風習がすたれた」ことと、仏教用語の影響を受けて、来世を「グショウ(後生)と呼ぶようになった」ことの、ふたつに求めている。

こうして時間的他界の観念は残されたが、空間的他界は海の彼方のニライカナイの神と同一視されるにいたった。
 ニライカナイの神は「世」(豊年、豊作)をもたらし、祖霊は後生から時を定めて来訪すると二分化して考えられるようになった。

 谷川は、「青の島」はニライカナイと同一視されるようになったと考えている。これはそうではなく、ニライカナイの前身が「青の島」なのである。おそらく前進としての「青の島」はニライと同じだ。

ニライカナイの神の君真物であるアロウ神が、沖縄本土に上陸する前にかならず地先の小島の奥武島(青の島)に立ちよったというのは、祖霊神が青の島にとどまっていた時代の記憶を消し去ることができなかったからだと思われる。

 根拠はさらに強いのであり、立ち寄るのは、「青の島」がニライカナイの前身だからである。

 ほぐすべきことはいくつも出てくる。

 ・「青の島」の地名と死者を小島に葬ることとの間には、関係はない。
 ・したがって、死者を葬るから「青の島」なのではない。
 ・まして、そこに色を見たわけではない。
 ・また、荒涼とした世界と考えられたわけでもない。
 ・かつての他界が身近にあったという点は谷川の考えと一致する。
 ・しかし、「青の島」がニライカナイと同一視されたわけではない。「青の島」がニライカナイへと遠隔化したのだ。
 ・遠隔化の理由は、地先の島に葬るのが廃れたからでも、仏教用語の影響のせいでもない。他界が遠隔化、観念化したからである。

 産小屋に砂を敷く習俗についても、この本で具体的な地名を挙げている。西浦七郷のうち、「沓、常宮、縄間」の三つの漁業集落。土で固めるのが「立石、浦底、色が浜、手の浦」の四つ。

 常宮では、産屋をたてて、砂の上で子を産むのを、地元の人はまるで海亀のようだと話したという。「西浦の者は砂の上で生まれたので亀の子と一緒」という言い伝えもある。

このことはわだつみの国を本つ国とする海亀や鮫たちの産卵を思い出さずにはいられない。

 谷川は豊玉姫のお産を引き合いに出して、「こうしたはるかな記憶が産屋の砂にまじっているのではあるまいか」、「産屋の砂の呪力は海亀や鮫が海神の使いとしてあがめられていた時代の記憶の名残りである」としている。

 産屋に砂を敷くのはとても魅力的な習俗だ。しかし、その本場にもなりそうな琉球弧ではその例を聞かないし、谷川も例を挙げていない。何のことはない。浜辺の家が普遍的であるわけではないからだ。ただ、埋葬には、多くの珊瑚が使われていたことからすれば、産屋に砂を敷くことがあったとしても不思議ではない。

 だから、この習俗のプロトタイプは砂そのものの霊力に預かったもので、海亀や鮫にカミを見い出したことも併存しえたと思う。埋葬にシャコ貝が伴うことがあるのと同じ理由で。しかし、神の使いとして見なしたわけではなく、それは「はるかな記憶」というより、最近の記憶に属する。

 出産のとき、便所神が立ち会う理由につてい、納得のいく解釈が見当たらないとして、谷川は、「糞の呪力で邪神を撃退するところから生まれたのだと考えている」とした。

 これはそうではなく、排泄と子生みが同一視されたからで、霊力思考の現われである。谷川は金久正が『奄美に生きる日本古代文化』のなかで、「糞兼、赤まり、まりっ子」などの名前が明治初年の戸籍簿にあるのも挙げている。これも、悪霊のとりこにならないように、名前負けしないように、と解釈している。金久は、「これらの珍奇な名前は、長寿を記念する親心から、特に身体の微弱(弱いこと)な子供につけたものと思われる。悪い名をつけるとと体が壮健になるという伝統的信仰に基づいてである」と書いているが、こちらの理解のほうがまだマシだと思える。この発想の淵源をたどれば、排泄と子生みの同一視にいきつく。オオゲツヒメが、排泄物でおいしい料理を出すのと同じである。

 狼は犬に似て安産するから、あやかるためにお産のために、山の神(狼)を迎えるという習俗が生まれた。熊の子宮を取り出し、乾燥したものを紙に包んで腹に巻き、安産のお守りにしたのも同様。

 琉球弧では、安産のためにジュゴンに頼ることがあった。しかし、ジュゴンが安産なのかどか、ぼくは知らない。ただ、ジュゴンは海のカミであったことが、狼や熊と同型なのは覚えておきたい。

 狼や熊を安産と関連づけたのは、その淵源をたどれば、山の神や彼らが安産ということではなく、もともと、熊や狼と食う-食われることとして、同一視していたからではないだろうか。

 もうひとつ、示唆を受けたこと。

 祭場は葬地と関係があり、そこはモリと称するところが多いが、「うっそうとした森林ではなく、木が数本生えているところをモリと称している。それは神降臨の依代として存在するのである」としている。ウタキの前は、「沖縄ではさらに古くはモリという言葉を使用したと推定される」。

 これは、奄美のモリヤマにも重なるところがあるだろう。しかし、ウタキという前にモリと言われたわけではない。ウタキが根拠にした前身がモリである。

 ひとまず、ここまで。
 

『日本の神々』


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