「雪隠参りと橋参り」(小野重朗)
小野重朗は、「雪隠参りと橋参り」の分布をたしかめている。
A:雪隠参りと橋参り
B:雪隠参りのみ
C:橋参りのみ
より古層と考えられるAの例として栃木県下都郡壬生(みぶ)町の例をあげておく。
七夜を生まれて七日目に行ない、命名する。お七夜の祝いのときセッチン参りといって、赤子を便所にだいて行って、オガラの箸で人糞をなめさせるまねをする。ついで井戸と氏神様へお参りし、橋の渡り初めもする。
これらの要素のなかで、古い順に挙げれば、糞をなめる真似、雪隠参り・井戸・橋参り、氏神様になると思う。
小野はこの習俗について、
私はこれらの<参り>はそれぞれの危険を生児に体験させることにあると思う。雪隠参りで(中略)人糞を食べるまねをさせるのは、便所に落ち込んだ状態を実演させているのである。カマドに近づくことも、ウルシの木の下に行くことも、実際に火傷やかぶれがおこることもありうるし、橋を渡ることは川に落ちるおそれ、水難にあうおそれが当然あるわけで、これを危険の体験、危険の克服と言っていいであろう。
これは小野らしくない通俗的で浅薄な理解だと思う。ぼくは驚いた。
どの例にしても、その場は境界を意味し、「この世」への生誕を認める儀礼である。
糞を食べる真似をするのは、「糞を食べる」表現であり、「糞まみれ」という「糞に食べられる」ことと等価になる。それは子とl糞の同一視の思考に淵源を持つ。また、糞まみれになることは、琉球弧の「水撫で」と同じ意味を持つ。
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