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2016/04/30

蝶形骨器の変遷

 金子浩昌による蝶形骨器の変遷は次のようになる。

 祖形と見なされているのは、沖縄島でもっともくびれた部分になるうるま市の古我地原貝塚から出土したもので、これは石でできている。胴体部の幅広い線刻があるが、羽の模様ははっきりしない。最大幅8cmで他の製品と比べると小さい。

結合式

2
5005
(津堅島)

 結合期の初期に位置づけられているのは、津堅島のキガ浜貝塚からのもの。現在発掘されたもののなかでは、結合型の初期に位置づけられるが、ずいぶん発達したものに見える。金子浩昌は、「結合式蝶形骨器の原形」としている。


4
6006
(室川貝塚)

 「はねの彫刻内外に朱彩があり、豪華な雰囲気をもつ」。「はね全体は、ゆるやかな反りをもってのび、自然のチョウのはばたきを写している」。翅頂(しちょう)につく二つの隆帯は大きく強調されている。「この隆帯は、正面から見たときに細くなったはねに幅を幅をもたせる工夫で、チョウのはねの華やかさを表現している」。

5、6

8008

 幅広く深い切りこみで外形がていねいに切り取られている。「切断面は垂直的ではなく、裏面で斜行する面をつくり、はねの薄い感じを出そうとしている」。

3006
(長浜貝塚)

 「胴体部は幅広く先端が三角形に尖っており、他に類例を見ないかたちである」。大きさは蝶形骨製品中埼大。

単一式

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4010
(津堅島)

2002_2
(埼桶川)

 素材はウミガメ類。左右に開くはねの幅(開帳)が広く、先端が細い。


11

4004
(真志喜安座原)

 はねの表現は、「肋骨の製品には見られないチョウの自然のかたちを表現しようとしている」。「前ばねの前縁がゆるやかに湾曲する表現」。「後ばねの尾状突起も流麗な表現」。


 どちらも豪華になるのが終点に来ている。

 祖形に当たる古我地原貝塚出土のものが、前Ⅲ期・約4500~3500年前に当たる。

 6の吹出原遺跡の蝶形骨器は、縄文時代後期から晩期とあるので、約3300年前としておく。

 11の真志喜安座間原第一遺跡のものは、よく分からないが約3500年前としておく。

 なぜ、このとき終わったかは分からない。いずれ、土器の編年と対応させてみたい。


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2016/04/29

加計呂麻島のオボツ(吉成直樹)

 吉成直樹は、加計呂麻島の各シマのオボツの位相を整理している。

Photo

 「瀬武」が空欄だが、オボツという言葉は知られていない。いちばん高い山はユミシヤマといい、ここに高千穂神社の神を勧請している。吉成は、「天から下りる神の観念があったのかもしれない」と書いている。

 「佐知克」の場合、神山に降りるとは言うが、それをオボツ山というかどうかは知らない、という。

 「薩川」では、オボツ山にはいつも神がいて、神はすべてオボツ山から迎える。

 これらか分かることを列記してみる。

1.遠隔化された他界が、オボツ山に該当する。

 西阿室、須子茂、実久、武名、於斉、阿多地、薩川

2.上記のうち、オボツが、「御嶽」の役割も果たしている。

 阿多地、薩川

3.かつての他界が、オボツ山である。

 嘉入

 「阿多地」で、オボツ山が「御嶽」も兼ねることは、そこにイビがあることからも分かる。吉成の聞き取りは、2001年のものだが、オボツの位相はおおよそ確認することができるわけだ。

 オボツの呼称は、政治的な側面は持つかもしれないが、地勢・地形としての地名の意味を損なっているわけではない。


『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』


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2016/04/28

『おもろさうし 古典を読む』(外間守善)

 外間守善の『おもろさうし 古典を読む』(1982)から。

八重山石垣市平得にウブオン(宇部嶽)と呼ばれる御嶽がある。ところがこの御嶽は、『琉球国由来記』(1713)では、ヲホ御嶽と記されている。つまり、ウブとヲホは同じ御嶽の名だということである。とすると、ヲホはオホ、オーとつながるし、ウブはオボ、オーブになりうる。「奥武」と記される聖域オーとオーブがこれで近い関係というか、同根である蓋然性がみえてくるわけである。勝連半島平安名の神歌ウムイが、ウーブの御願の中で、ウーブの嶽(奥武の嶽)、ウーブの山(奥武の山)と謡っていることは、その一つのあかしであろう。

 まず、聖域であるといなとにかかわらず、オーは地形・地勢としての地名に解体されなければならない。そのうえで、「ウーブの嶽(奥武の嶽)、ウーブの山(奥武の山)」というのは、平安名では地先の島と地先の山がかつて「あの世」だったことを示すと理解することができる。

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2016/04/27

「南西諸島における神観念・世界観の再考察」 2

 昨日の視点に立つと、「常在神とオボツ神の同一性と山中他界」で考えたことを更新できそうだ。改めて、ヨーゼフ・クライナーの「南西諸島における神観念・世界観の再考察」を辿ってみる。

 神人衆が行なう祭祀は、「神山」と「ミャー(広場)」に集中する。神山は、特定の山ではなく、「やま」や「もり」を一般的な名称に過ぎない。つまり、神山には、かつての他界も遠隔化された他界も混在するということだ。

 聖地は三つの形態に分類できる。

 1.ウボツ(オボツヤマ)ないしウガン(オガンヤマ)
 2.イヤンヤ
 3.イベ(イビガナシ)

 1.ウボツ(オボツヤマ)ないしウガン(オガンヤマ)

 加計呂麻島の裏に、高くそびえる山の一箇所はウボツ(オボツ)カミヤマ。いちばん近い裏山あるいはいちばん高い山。一本ないし数本の古木があって、根元に線香と水が供えられる。村から離れている場合には、なかなか登れないので、遠方から拝むだけ。

 この神は、天に坐す男性の一柱、七柱。天からウボツカミヤマの木に降りて、神道を通ってミャーに迎えられる。

 2.イヤンヤ

 このカミヤマでは、岩や洞窟のなかに「昔の人の人骨」が散らばっていて、地下他界の入口に通じると言われる。

 3.イベ(イビガナシ)

 イベは山よりも村に近い。ミャーに接する平坦地の小さな林か藪、その中の空地にある拝所。形態は珊瑚岩で積んだ小高い塚、石で囲まれて一段高くなった土台と木、または自然石。イヤンヤ神山とちがって、神聖化されても怖れられてはいない。村を常時守る神の観念が結びつく。

 カムムケー(神迎え)は旧二月の壬の日に浜辺とトネヤで行われる。その日、村を訪れるウボツガミとネリヤの神、ナルコ・テルコカミは七番目の壬の日(旧四月の中の壬の日)まで、すなわち、六十日間、トネヤに滞在そ、オオーリ(お送り)のとき、それぞれの他界に帰る。

 つまり、「ウボツガミ」と「ネリヤの神、ナルコ・テルコカミ」はそれぞれに遠隔化された他界の神ということだ。前者は、山として、後者は海上として。つまり、加計呂麻島では、他界は海上と山と二重に遠隔化されたことになる。

 また、山として遠隔化された他界の場合、天上の他界の観念を発生させやすかったことになる。

 琉球弧の場合、

 1.かつての「あの世」:地先の島(あるいは平地)、遠隔化された他界:海上はるか彼方
 2.かつての「あの世」:地下、遠隔化された他界:底知れない地下
 3.かつての「あの世」:地先の山(あるいは平地)、遠隔化された他界:高い山の山頂付近

 これら、あるいはこれらの混合が現われることになる。

 1-2の場合。遠隔化された他界は、海底になる。
 
 また、

 1-3の接続として、

 1.かつての「あの世」:地先の山(あるいは平地)、遠隔化された他界:海上はるか彼方
 
 があり得ることになる。国頭の例がこれだ。1と3は地上の他界として位相同型だから、この転換があり得ることになる。


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2016/04/26

山の他界の遠隔化と聖域の発生

 これまで海の彼方の他界を軸に、他界の遠隔化を考えてきたが、山の他界の方が、「御嶽」の発生は捉えやすいのかもしれない。

 まず、地先の山が「あの世」に選ばれる。他界が遠隔化されるということは、地先の山の、その向こうに見える山頂付近に「あの世」は遠隔化される。

 次の段階では、その山頂付近が聖域化され、高神が出現することになる。海上他界と異なり、ここでは、遠隔化された他界と聖域は地続きで表現することができる。

 ただし、山の他界の場合でも、それで済むとは限らないのは、実際に神人がそこに行けるとは限らないことや、島人とともだった儀礼が行なわれにくいことだ。そこで、山頂の聖域の霊力を転移させ、集落に接する場所に、第二の聖域を設けることになる。そしてここに高神が居場所を定める。

 山の他界の場合、かつての他界が海上へと遠隔化されることもありうる。国頭のシニグ祭では、男子結社員たちが、来訪神として山から出現するのは、地先の山の他界が、海上へと遠隔化したことを示すのではないだろうか。

 
 

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2016/04/25

「奄美諸島の神山」(小野重朗) 2

 小野重朗の『南島の祭り』(1994)に挙げられている例について、認識が誤っていたので、再考する。

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 山の他界の場合、ぼくは、

 (遠隔化された他界)→(かつての他界)→(集落)

 という行路を想定したが、ここに(神の降臨地)を加えなければならない。

 (a山頂:神の降臨地)→(b山:遠隔化された他界)→(c山:かつての他界)→(イビ)

 請島池地(#1)。

 ミヨチョン山→モリヤマ→(カミミチ)→ミヤ。

 この場合は、ミヨチョン山((a or b),or(a and b))であり、モリヤマ(c)となる。

 この解釈は、小野のいう「森山は聖地だからすぐれた人や祖先をそこに葬った例がある」という理解と合致する。

 オガミヤマは、地形、地勢を表わすモリヤマとは異なり、明らかに信仰地名だ。「神人たちが拝む山、祈願をする山」だから、(a)に該当している。同様のことは、オボツヤマにも言える。

 律儀に、a→b→cという行路が見られないのは、ここに同一化や不在の例があるからかもしれない。

 1)同一化

・a山頂とb山は同じである場合。遠隔化された他界の山の山頂が降臨地になる。

 2)不在

・他界が遠隔化されたのが、山ではなく、海上であった場合。この場合、存在するのは、c山だけになる。

 あるいは、同一化の方が、基本的な図として自然かもしれない。

 加計呂麻島瀬相(#10)では、モリヤマからもオボツヤマからも行路が存在する。これは、(かつての他界)→(集落)と(遠隔化された他界)→(集落)を示すものだ。ここのイガミが、モリヤマイガミ、オボツイガミ、テルコイガミとあるのは、

 モリヤマイガミ かつての他界
 オボツガミ、テルコイガミ 遠隔化された他界

 に対応していると考えられる。

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2016/04/24

葬法とシャコ貝 3

 もう少し、シャコ貝と葬法にフォーカスしてみる。

安座間原第一遺跡(宜野湾) 
砂丘 
前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末
40%(シャコ貝使用律)
人体に配置される貝は頭部に集中する傾向

41号:壮年男性。伏臥伸展葬。
・大きなしゃこ貝の一対が、頭部の両側をすっぽり包むように墓壙底に据えられている。

木綿原(読谷)
砂丘
前Ⅴ期末~後期初頭
44%

9号:成人男性。箱式石棺。仰臥伸展葬。
・全身に多くの貝が配置。しゃこ貝とクモガイ。ほとんどがシャコ貝(10個以上)。
・眉間、右耳上、左耳付近、右鎖骨上、左脚付け根(大腿骨近位端)、大腿骨の間(転落か)、両膝付近、左脚上(脛骨上)。内側を下に向けたものが多い。

 「使用が特定個人に集中する傾向、ことに伏臥葬に顕著なのは安座間原第一遺跡に共通する」(木下尚子『南島貝文化の研究』)

 こうしてみると、伏臥という特異なあり方は、怪我や病因に対する思考の産物のように見える。

 両遺跡の年代は、宮古島アラフ遺跡の「貝塚時代5前期から後1期中盤」とそう隔たってはいない。

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2016/04/23

「宮古島アラフ遺跡のシャコガイ製貝斧と利器」(江上幹幸)

 2003年12月、宮古島のアラフ遺跡で、シャコ貝製の貝斧が4点セットで出土した。4点がセットで出土したのは琉球弧初だった。これは、貝斧の埋納(デポ)遺構だったのだ。(「宮古島アラフ遺跡のシャコガイ製貝斧と利器―貝斧埋納遺構の考察を中心に」「南島考古26号」2007)

 アラフ遺跡は宮古島東の新城の浜辺にある砂丘遺跡。遺跡の後背地は標高約60mの急崖が取り巻き、琉球石灰岩の割れ目からは自然湧水が流れ出ている。前面の海は、裾礁に取り巻かれ、礁原(ヒシ)内側の幅500mにもわたる礁池(イノー)が広がり、格好の漁場になっている。砂丘の後背地には約5mの砂丘が形成され、海岸と平行に走る防潮林の内側に遺跡は立地。

 新城の浜は、奥行き200~300mの比較的広い面積の海岸低地と水源をもち、約1.2kmの長い砂浜と静かな礁池を抱いた入江だから、居住環境として適した条件を備えている。

 放射性炭素年代。

 第Ⅲ層 AD.80年
 第Ⅴ層 BC.355年、BC.390年
 第Ⅶ層 BC.900年

 生活痕は、第Ⅲ層から第Ⅶ層にかけてみられるから、AD.80年~BC.900年(2916年~1935年前)。貝塚時代前5期から後1期中盤に相当。約1000年にわたり長期に住み続けた場所。

 調査チームは、貝斧の埋納遺構を見つける。

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 4点の貝斧は、刃部を同方向に向けて扇状に並べられている。最下部に配置さえたNo.2(13cm)のみは殻表側を上に、その他は殻内側を上にしている。No.2に接して右側が寄りかかって立てるように、No.3(13.7cm)がある。さらに右側に、No.3に乗る状態で、No.4(11.5cm)が置かれている。最も長いNo.1(16.2cm)は、No.2の左側に、やや角度を変えて、No.2の斜め上に交差するように乗る。際立って特徴的なのは、No.3の刃部に立てかけ、No.4の刃部を包み込むようにして全長7cmの枝サンゴ(ミドリイシ属)が置かれていることだ。

 長さは不揃いであるにもかかわらず、基部の頂点は、同じ円周上に弧状に揃っていて、もう1点のNo.1の基部頂点も3点と同じ円弧上に乗っている。

 考古学者の江上幹幸はそこに円を見い出す。実際に円を描くと半径10cmの円内に収まる。江上はさらにそこに腐食消失した容器を幻視する。貝斧の配置された高さはまちまちだから、平板な容器ではなく、深さを持った深鉢状の容器だろう。実際、直径20cmの籠に入れてみたら、ぴったり収まった。

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4点の貝斧は、植物製の籠あるいは浅鉢形木製容器のような、ある程度の深さを持つ円形の容器に収納されていたことがほぼ明確である。

 かつ、

枝サンゴは新鮮な個体であることから、生きていた美しい色をした枝サンゴの一部を折り取って採集し、展示したものと考えられる。

 さらに、

 4点の貝斧のうち並んだ3点の貝斧の刃縁が揃えられ、2点の貝斧の刃部に接するように枝サンゴが配置されていることから、単に容器に収納しただけとは考え難く、また地表に置かれたまま、当時の形態を保持することも考えられないことから、意識的に砂中に埋納したデポ「貝斧埋納遺構」であると判断した。

 江上は、埋納された状況にも推定を及ぼしている。

 4点の貝斧は刃こぼれを再調整した痕跡がないことから、これらが使用後であることは明確である。道具の形態が異なれば当然機能も異なり、これを敷衍して言えば、4点のセットがそろえば一連の作業を完了でき、何らかが製作可能であると解釈できる。これらから推測すると、何らかの作業おそらく丸木舟の製作が終了し完了した後に、供養の目的で枝サンゴを供えて儀礼的に一括埋納したという解釈が可能である。

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 No.1 丸ノミ型:刳(く)る(えぐる、くりぬく)。おそらくヒレジャコガイ
 No.2 平手斧型:平面を削る。オオジャコガイあるいはヒレナシジャコガイ
 No.3 丸手斧型:湾曲を削る。オオジャコガイあるいはヒレナシジャコガイ
 No.4 手斧:切る・削る

 4点の着装模式図。

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 4点の使用度を見てみる。

 No.1 ほぼ自然形状のまま。刃部は研磨して滑らかであるが附刃はされていない。
 No.2 刃部に大きな欠損があるが、再調整されて研磨により滑らかになっている。長期にわたって使用された。
 No.3 刃部。刃縁中央部に打撃を受けた大きな欠損が見られる。道具にとって致命的な欠損であるが再調整されておらず、最終使用した後のある役目を終えた道具。
 No.4 磨り減った偏刃であり、磨り減った部分には欠損が見られる。右利きの人間が繰り返し使用した。刃部にやや大きな欠損がある。研磨して使用した可能性もあるが、欠損面は新鮮であり、最終使用後は調整されていないと判断できる。

 そうすると、こうなる。枝サンゴが添えられているのは、欠損部に対してなのだ。

 「貝斧は製作に莫大の努力を要する物」。

 造船用の手斧を供養する例として、江上は、インドネシア、レンバタ島ラマレラ村の儀礼を参照している。

 儀礼パウ・ソルナカ。パウ:食べ物を与える、ソル:樹皮剥き用道具、ナカ:手斧。造船道具に食べ物を与える。

 具体的には儀礼用に保管している漁獲物オニイトマキエイ(マンタ)の左鮨先端を添えて一箇所に祭る。

 これは素晴らしい報告だ。

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2016/04/22

後産または胎盤の信仰(フレイザー)

 フレイザーの「胞衣」への言及。

 世界中の多くの地方で、臍の緒または更に一般的には後産は嬰児の兄妹もしくは姉妹である生きものと見なされ、あるいは子供の守護霊またはその魂の一部をなす物質的存在と見なされている。更にまた、後産や臍の緒とその主である人間の間に存在すると見られる共感的関係は、その子供の生涯を通じて彼の性格や職業に影響を与え、もし男なら彼をすばしこい木登り名人、上手な泳ぎ手、熟練した猟師、勇敢な戦士などに成長させ、もしまた女であるなら彼女を巧みな縫い手、上手なパン焼き女などに成長させるように、後産または臍の緒を処置する普及した習慣のうちに明らかに現われているのである。こうして、後産または胎盤に関する、そしてより狭い範囲では臍の緒についての信仰と慣習は、可移的例(tranferable soul)または外的霊(external soul)の普遍的信仰、およびその上に立つ慣習と驚くべき一致を示している。(『金枝篇(一)』)

 これは、ニューカレドニアのカナク人ではこうなる。

たとえば、胎盤を埋めた穴に命の木を植えるという慣習が大変広く見られることが知られている。その木は男が生きているあいだは花をつけるが、彼が死ぬと木も枯れてしまう。(『ド・カモ』)

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2016/04/21

植物との同一視とトーテム(モーリス・レーナルト)

 モーリス・レーナルトは、ヤムイモを「祖先の肉」と見なす一方で、トーテムも持っている段階の様相を書いている。

 ヤムイモは、子供のように優しく扱わなければならない。島人はヤムイモを手に取るときの扱い方を見て、その人物の品格や如才なさを判断する。

ちょうど生まれてまもない子供を、頭ががくんと落ちないように抱きあげるのと同じような優しさで、ヤムイモを手に取るのである。

 ヤムイモは「祖先の肉」であり、「人間的」なものだからだ。ヤムイモは土のなかで死んでも、頭は反対に芽を出汁、新しいヤムイモを出すから、「ヤムイモは永続する生命のシンボル」だ。死んだヤムイモは故人のイメージだ。亡くなった夫をもつある妻は、夢のなかで夫が会いにきて、「私は古いヤムイモだよ」と語る。

 カナク人のトーテムのひとつは「とかげ」だ。レーナルトは観察しようと思って、家のそばにとかげの一種を置いたことがある。

グルルという喉から出る鳴き声は、現地人によると雨を知らせるという。とてもざらざらしているが、人間の舌のようにピンク色をしている舌で鼻面をなめ、つかまっている枝の色になって一日中目立った動きもせずに目だけ動かしている。微動だにしない大木の幹にこのとかげがじっとしている様子は、さながら森と一体になった生き物であり、カナク人が自然の生命とこのとかげとのあいだに、ある関係を設定したのも納得できるのである。

 ぼくたちは、設定されたか関係を「脱皮」に見ることができる。

 畑の豊穣化の儀礼では、山腹に耕作地に通じる道を拓くのに、男たちが骨を折って藪を切り開き、とかげの通った跡のようなジグザグの小道をつけていく。作物がうまく実ためには、とかげがやってきて、畑を歩きまわることが必要だからだ。

 また別の儀礼では、とかげが結婚するためにやって来て住み着いた場所である聖なる岩場に、ある樹の葉の束を置いておく。この樹の実もまたトーテムだ。木の葉の束をしばらく岩場に接触させたあと、畑に埋める。畑ではとかげが男であり、葉は女である。

 カナク人も、トロブリアンドの島人のように、性交が子を孕ませるという認識はない。夫は生殖を行なう者ではなく、強化する者だ。

男女は土地の豊穣性と自らのあいだ、収穫物の実りと女の妊娠とのあいだに、新たな同一性を感じる。

 カナク人の段階は、女性が産むことと植物が実ることを同一視している。性交が子を孕むという認識を持ち、妊娠と出産と植物が実ることとの時間の違いを認識するようになると、男女対の祭儀が生み出されることになる。

 この段階でトーテムは、人間に悪意を示し襲う怪物となり、あるいは人間を助け、カミや山の名となって、解体の途次を歩んでいる。しかし、神の使いにも人間の使いにも、まだなっていない。

 

『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』

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2016/04/20

「蟹守考」(若尾五雄・中山太郎)

 『珊瑚礁の思考』を書く段階で、若尾五雄の「蟹守考 地名から見た蟹」に気づいてなかったのはうかつだった(『金属・鬼・人柱その他 : 物質と技術のフォークロア』1985)。

 若尾はここでとても面白いアプローチをしている。「蟹が蛇に勝話」は、「洪水の表現」ではないか。

 蟹満寺に隣接する健稲田姫神社があるが、ここは天神側が山間部から出てくる突端にあたり、自然堤防になっている。その土質は、川によって山間部から運び出された粘土を含む河原砂だ。つまり、健稲田姫神社は山中と平野とのやや湾曲した場所で、天神側が押し出した土砂の堆積した上にできた神域である。

 もうこれだけで、「健稲田姫神社」がかつての「あの世」に建てられたことが分かる。岸和田に伝わる古い伝承では、豊玉姫は沼町でお産をし、胞衣を九雙牛神というところへ舟に乗せて運び、埋めたという。これは、「九雙牛神」が「あの世」だったことを示している。

 名古屋郊外の蟹江も水郷をなし、昔は「浮島」といった。ここからも「浮島」が「あの世」の島だったことが分かる。そして、ここが「蟹江」という名前に変わった。「蟹江」として聖域化された。つまり、生と死の分離の段階で、蟹は蛇に勝つ。このとき、不死のトーテムは駆逐されたということだ。

 「奄美大島以南の島々にいうカネクは蟹江や綺田と同様な砂地または泥地で、村を造り得る低地をさしている」。これは、クソガニという名前の「カニ」の由来であるのかもしれない。

 カニコロ、カニババは胎児の糞のこと。「つまり、この場合のカニは胞で、胎児を包むものである」。「カニを包と考えることは、蟹守の本質に深く根ざしたものがある」。

 そしてこう続けている。

エナとはいかなる意味であろうか。漢字には「穢」、「女又衣(漢字が出ない)」という文字がある。穢はケガレであり、(女又衣)は破れた衣の意味である。胞衣が白不浄とされるのは白色の胞衣を不浄と見てのことであろうから、「穢(女又衣)」という熟語が成り立つとすれば、胎児が破った汚ない衣とは胞衣を表現するのには打ってつけの漢語である。

 これはもちろん、そうでなない。胎児の糞をカニコロ、カニババと言うのを、人を蟹として見ていることを示すものに他ならない。

 若尾は、蟹の抜け殻を、胞衣に当てはめて考えている。若尾のこの論考と同様、中山太郎の「蟹守土俗考」に気づかなかったのもうかつだった。中山は、対馬でお産の際、箒をつくり蟹を払った写本から、沖縄に今も残る、出産のときに蟹を這わせる風習が対馬国にもあったのではないか、としているが、その通りだ。ここで対馬と琉球弧はつながる。

 「払蟹」を中山は、蟹を這わせることと理解しているが、それはその通りで、箒をつくったのは、お産の促進のためだ。

 それにしても、戦後の民俗学者たちは、「穢れ」にアクセントを打ってものごとを解釈したがる。これは、高度経済成長を目の当たりにした心的ストレスなのではないだろうか。

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2016/04/19

「雪隠参りと橋参り」(小野重朗)

 小野重朗は、「雪隠参りと橋参り」の分布をたしかめている。

 A:雪隠参りと橋参り
 B:雪隠参りのみ
 C:橋参りのみ

Photo_2

 より古層と考えられるAの例として栃木県下都郡壬生(みぶ)町の例をあげておく。

七夜を生まれて七日目に行ない、命名する。お七夜の祝いのときセッチン参りといって、赤子を便所にだいて行って、オガラの箸で人糞をなめさせるまねをする。ついで井戸と氏神様へお参りし、橋の渡り初めもする。

 これらの要素のなかで、古い順に挙げれば、糞をなめる真似、雪隠参り・井戸・橋参り、氏神様になると思う。 

 小野はこの習俗について、

私はこれらの<参り>はそれぞれの危険を生児に体験させることにあると思う。雪隠参りで(中略)人糞を食べるまねをさせるのは、便所に落ち込んだ状態を実演させているのである。カマドに近づくことも、ウルシの木の下に行くことも、実際に火傷やかぶれがおこることもありうるし、橋を渡ることは川に落ちるおそれ、水難にあうおそれが当然あるわけで、これを危険の体験、危険の克服と言っていいであろう。

 これは小野らしくない通俗的で浅薄な理解だと思う。ぼくは驚いた。

 どの例にしても、その場は境界を意味し、「この世」への生誕を認める儀礼である。

 糞を食べる真似をするのは、「糞を食べる」表現であり、「糞まみれ」という「糞に食べられる」ことと等価になる。それは子とl糞の同一視の思考に淵源を持つ。また、糞まみれになることは、琉球弧の「水撫で」と同じ意味を持つ。

 

『南九州の民俗文化』

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2016/04/18

脱皮と糞まみれ

 台湾の先住民、タイヤル族の神話。

 昔珍しい男があった。祖先等に向って云うよう、「私に糞を塗ってくれないか、若し快く願いを容れてくれるならば、汝等は死ぬことはなく、たとえば蛇の皮が剥げて何時も若いように決して老衰することはなかろう」と。社人らは糞を塗る位は易いことだと毎日代わるがわる塗った。最初は面白半分であったが、何時しか一人減り二人減り、数月ならぬうちにはや約束を破ったから、かの男は大いに怒って、意気地なき等奴よと罵りながら自ら糞溜の中に飛び込んで死んだ。その日から人々の命は縮まったのである。(『生蕃伝説集』1923)。

 ここでは糞にまみれることが脱皮と同義であることが示されている。「糞」が霊力の表現としての意味を弱められたところで、死は始まる。

 脱皮は子が生まれることの比喩であるとすれば、(子産み)=(脱皮)になる。また、この神話では、(脱皮)=(糞まみれ)となっている。すると、(子産み)=(糞まみれ)であることを示している。これは、アイヌの赤ちゃんがテーネプ・テンネプ(汚物まみれ)と同じだ。つまり、糞と子が同一視される思考は不死の段階に届く古い淵源を持っている。
 

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2016/04/17

アイヌのアイアイ

 アイヌでは、出産のとき、火の神に取り上げてもらうために、炉辺に産褥をととのえることがある。子供が生まれると、父は。男の子なら「わが家の幣をつぐもの」、女の子なら「わが家の火の神の血を引くもの、火の女神の魂のかたわれ」と唱える。

ちなみに赤ん坊は泣声を模してアイアイとよばれるが、またテーネプ・テンネプ(汚物まみれ)ともいう。二~三歳になるとポンション(小さなうんこ)、四~五歳のときにはションタク(うんこのかたまり)とよぶ。(『風土記日本. 第6巻 (北海道篇).』1958)

 書き手はこれに続けて、「つまりよい名前をもつと悪霊のとりこになるから、名前まけしないようにわざときたない呼び方をするのである」と解している。

 これは、糞便に「穢れ」の観念を持ってからの理解で、もともとはこの呼称も「よい名前」なのだ。糞と子供の同一視の思考は相当に古いのだと思える。

 また、テーネプ・テンネプ(汚物まみれ)、ポンション(小さなうんこ)、ションタク(うんこのかたまり)という名づけは、金久正が挙げた、クソガネ(糞兼)、アハマリ(赤まり)、マリッグヮ(まりっ子)と同じ意味だ(「イャンハツとツモリ」『奄美に生きる日本の古代文化』)。

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2016/04/16

「厠考-異界としての厠」(飯島吉晴)

 飯島吉晴の「厠考-異界としての厠」(『怪異の民俗学〈8〉境界』)。

 胞衣の埋め場所は、内と外の境に関係する。

これらの場所が次の子の誕生と結びついた、再生の場であることが考えられる。つまり、胞衣を此の世から異界に戻し(死)、再び生命をもたらしてもらう(再生)場所なのである。

 メモ。ここは言いようなのかもしれないが、ぼくはまだ、あの世へ返すと言うに留めておきたい気がする。

 「雪隠参り」は、岩手、新潟、福島、栃木、群馬、長野、山梨、埼玉、東京、神奈川、三重等で、「東日本に多い」。

そのとき赤子に檜傘、真綿帽子のほかオムツをかぶせたり、糞便を食べさせるまねをする所がある。

 メモ。檜傘、真綿帽子、オムツは胞衣の再現。糞便を食べさせる真似は、糞との同一視。

 飯島も書いている。

糞便と赤坊の同等性は精神分析学の文献で広く報告されているが、赤坊は糞便として生まれてくると想像されたのである。実際の分娩においても、産婦は出産と同時に脱糞することがよく見られるようだが、原初的な想像力では、腹にあるものが外に出てくるのは脱糞過程としか考えられないのである。このように、赤子は「糞便」と同一視されており、「雪隠参り」においては、社会的に「糞便」として新たに誕生するわけである。

 メモ。「原初的な想像力では、腹にあるものが外に出てくるのは脱糞過程としか考えられない」というより、子産みも脱糞も同じ霊力発現の表現であるということだ。

 雪隠参りの見られない西日本では、七夜の名づけ祝いが重視されている。

 雪隠参りは、赤子が此の世に社会的に再生する儀礼と考えることができ、厠はその媒介をなす場所と言える。

 「厠は境界領域として二つの世界を結びつける空間」。

 胞衣埋め 「便所」-「竈の後ろ」(琉球弧)
 宮参り   「便所]-「浜下り」(琉球弧)

 胞衣埋めの場合の「竈の後ろ」は、家屋内御嶽である「火の神」を通じた異界との境界。宮参りの場合の「浜下り」は、海の彼方の異界との境界。

 ここでは、「便所」と「竈の後ろ」と「浜」は等価になる。
 


 

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2016/04/15

産育と便所

 琉球弧の網羅性は低いが、『日本産育習俗資料集成』(2008年)から、産育と便所のつながりを概観してみる。

 胞衣を「便所」近くに埋める地域のある県。

 北海道、青森、岩手、秋田、群馬、富山、長野、愛知、兵庫、奈良、福岡、沖縄

 北岩手では、胞衣は木灰のあるところには埋めない。灰気が通うと、胞衣が生き返る。産婦のすそから元の所へ入って行き、産婦の生命を奪う。また、盛岡では胞衣を酒で洗うと、誰の生まれ変わりか分かる。

 群馬の吾妻郡では、後産のおりない時には、便所に下駄と草履を片方ずる履いていく。静岡の周智では、後産が降りないときは便所の踏み板を裏返しにする。

 三重県鈴鹿郡では、胞衣は「ヨナ」。山口県の熊毛郡も。「イヤ」が現われるのは、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島。沖縄で胞衣埋めが便所となっているのは宮古郡とある。大島南部では「ヤ」。語頭の母音が脱落。

 メモ。胞衣は、北上するにつれ、エナ音に転化したように見える。

 宮参りが便所になる地域のある県。

 岩手。

 琉球弧では「浜下り」。鹿児島の吉利村も浜に行く、とある。

 もちろん、他に見ていない地域がたくさんあるのだろうが、産育と便所のつながりは北方で強く現われている。

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2016/04/14

『奄美与路島の「住まい」と「空間」』(石原清光)

 石原清光の『奄美与路島の「住まい」と「空間」』。これは2006年と、最近の研究になる。

 ヤマ。ムラの周辺部に位置することが多い。

 「浜側のヤマ」 墓地、前浜のアダン林、大勝川の河口:死霊、悪霊、ケンムンと結びつく
 「岳側のヤマ」 アブリャ、テリャ、神山、オガミヤマで岳(山)の延長上:ノロやユタの祭祀の対象になる。

 「岳側のヤマ」は、ミヤーがあり広場として踊ったりする場所を管理している。

 「ムラ中の山」 草木の繁った盛り山のようになった所。イビヤマ、集落の中心にある。

 ウブツ、ウブツヤマ。大勝川の上流域のムラから見える範囲。山すべてではなく、領域。

 ウブツの神は、腰当てガミ(コシャテガミ)。守護神の意味。

 前浜の位置関係。

 東南
 (古来の船着き場:ウーブネガナシ(大船神))-大勝川の河口-(カミドゥリ:トビャラより小さく突き出た岩礁)-(岩礁地帯)-(タマンミャー:泉)

 北東
 (クモデ:ウムケとオーホリに用いられる岩。来訪神の舟をつなぐ神聖な場所)-(ヤマンシャ(墓地の下)、動物の解体)・(カミドゥリ:岩場。人骨も出た)-(トビャラ)

 トビャラ:飛ぶ術を得た老人が、ここからハミャ島や請島へ飛んでいったという伝承。老人のj墓がある。


 これらの記述だけから地理を把握するのは難しいが、いくつかの示唆が得られる。

 石原の整理した「浜側の山」は、かつての葬地であり、他界の傾向。「岳側の山」は、遠隔化された他界の傾向。ウブツは、「御嶽」に相当。霊力の転移によって、「イビヤマ」と等価。

 浜辺になると、トビャラ、カミドゥリは葬地であり、クモデがかつての他界に相当している。飛んだ老人の伝承からは、ハミャ島、請島は地先の島としての他界であったことが窺える。

 葬地が多様であるだけ、かつての「あの世」も多様に分散している。このことが、多様であいまいな観念の複合を生んでいる。


『奄美与路島の「住まい」と「空間」』

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2016/04/13

トイレの神様

 鶴藤鹿忠は『琉球地方の民家』(1972)のなかで、与那国島の便所神に触れている。

 与那国島では厠神は一番親しい神である(比川)。厠、井戸、カマの神は兄弟である。この三神のうちで誰が厠神になるかといっても為手(つめて)がない。結局一番美人の神が厠神となった。綺麗な神だから綺麗にしないと怒られるという(祖納)。唾を吐いたら厠神の額にかかるから吐いてはいけない。長く坐っているのもいけない。汚いところにいる神で、えらい神とされた。井戸の石は厠に使われないが、厠の石は井戸に使えるともいう(比川)。久米島仲里でjは「フルヌカン」が荒れると豚は元気がなくなるので、そういうときに「フルヌカン」を拝む。「フルヌカン」は盲目である。「フル」の前で目の悪口をいってはいけないといっている。

 厠神が美人なのは、与那国島だけではなかった。後年、沖永良部出身の祖母を持つ植村花菜は、「トイレにはそれはそれはキレイな女神様がいるんやで」(「トイレの神様」)と歌うのだから。

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2016/04/12

ヨナ・ヨネ地名

 崎山理の「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」から、挙げられているヨネ、ヨネ地名をプロットしてみる。

 崎山は書いている。

このヨネ、ヨナ(琉球地名でユニ、ユナ)の分布は、弥生時代初期に、すでに日本海側から東北地方へかけて達していた稲作文化の軌跡と符合している。このことは、イネの穀実が「砂」から意味変化したヨネという言葉とともに、伝播していったことを意味する。

 崎山の考えにしたがえば、「砂」から「穀実」に意味変化して、これらの地名がついたということになる。しかし、もう少し繊細にみれば、崎山はヨネ期を「縄文時代晩期から弥生時代初期」としているのだから、阿蘇で火山灰が「ヨナ」と呼ばれたように、「砂」系の地名として付けられていったものが、稲作との親近性から、漢字が当てられる際に「米」が採用された例がこのなかにはあると見なす必要があると思う。

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2016/04/11

「ビジュル信仰」(平敷令治)

 折口信夫は、「ビジュル」は「イビ」を語根にしていると書いた。

而も其中、最大切に考へられてゐるのは、井(カア)の神・家の神・五穀の神・太陽神・御嶽の神・骨霊(コチマブイ)などである。大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があつて、道の島では、霊石に、いびがなし〔神様〕といふ風な敬称を与へてゐる処もある。又一般に、霊石をびじゅるといふのも「いび」を語根にしてゐるので、琉球神道では、石に神性を感じる事が深く、生き物の石に化した神体が、沢山ある。井(カア)の神として、井の上に祀られてゐるものは、常に変つた形の鐘乳石である。此をもびじゅると言うてゐる。ある人の説に、びじゅるは海神だとあるが、疑はしい。家の神の代表となつてゐるのは、火の神(カン)である。
 香炉は、其置く場所を、臨時に変へることは出来ない。女は各自、必香炉を所有して居る。女には、香炉は附き物である。香炉がなければ、神の在る所がわからない。其ほど、香炉に対する信仰がある。形は壺の如きものや、こ穢い茶碗の縁の欠けた物等が、立派に飾られてある。香炉がある所には、神が存在すると信じて居る故、香炉が神の様になつて居る。拝所には、幾種類もの香炉がある。八重山のいびと言ふ語は、香炉の事であると思ふが、先輩の意見は各異つて居る。
 八重山には、御嶽に三つの神がある。又、かみなおたけ・おんいべおたけと言ふのがある。八重山のみ、いび又はいべと言ふ事を言ふが、他所のいびとうぶとは異つて居る。うぶは、奥の事である。沖縄では、奥武と書いて居る。どれがいびであるか、厳格に示す事は出来ないが、うぶの中の神々しい神の来臨する場所と言ふ意味であると思ふ。八重山の老人の話では、御嶽のうぶではなくて、門にある香炉であると言つて居る。即、香炉を神と信ずる結果、香炉自体をいびと言ふのである。処が火の神にも香炉がある。(「琉球の宗教」)

 霊石ビジュルは、「イビ」を語根にしている。イビとウブは異なっている。ウブは奥のことで、ウブのなかの「神々しい神の来臨する場所」が「イビ」である。この折口の考えを入口において、平敷令治の「ビジュル信仰」に入っていく。

 ビジュルはおおむね自然石。高さは30cm~60cm。材質は、「珊瑚石・鍾乳石および石筍・ニービヌフニまたは真石と呼ばれる第三紀砂岩の石核」。形態はくびれのあるものとないもの。「彫刻された陰陽石をビジュルとよぶ事例は稀だし。自然石のビジュルにも陽石状の石体は少ない」。

 「一般にビジュルは集落の近くの台地や木立あるいは洞窟の中に祀られている」。

 海岸沿いの村落では、海辺の木立や洞窟に祠地を設けることが多く、内陸部では丘や洞窟に祠地を選定している。わざわざ無人の小島にビジュルを祀った例(恩納のヨー島)や、浅瀬の岩かげに祀った例(水釜)もあるので、(中略)ニライカナイがビジュル信仰に投影されていることは明らかである。

 「沖縄諸島ではビジュルと石敢当とは別物である」。

 ビジュルを祀り始めた伝承は不明なところが多く、伝承があればほとんど、「海に浮いていた霊石や、啓示を受けて土中から掘り出した霊石を祀るようになった」。

ビジュルを持ちあげて、スク(あいごの稚魚)の豊漁を占う珍しい習俗は恩納にった。(中略)毎年六月二十五日にフトゥキヌメーから船を出してヨー島に渡り、ノロがビジュルを持ちあげた。石を重く感ずれば二度目にスクが寄る時には豊漁を意味したという。
寄り石の場合は”寄り清ら”寄り上げ”、土中から出た石は”押し明け””スデル””ワライ”などと命名されていた。(中略)権現と呼ばれていたものの、石体に表象された観念はニライカナイから訪れるあるいは大地からスデル(顕われ出る)セヂ高きもの、という固有の観念であった。

 この平敷の考察からは、ビジュル信仰の初源のあり方として、サンゴ礁成立以降にその発生を求めることができるように見える。寄り石と土中からという出所は、他界が遠隔化される以前のニライ時代の思考の産物だ。ヨー島は、恩納のシマにとってのニライ時代の他界である。

 ニライ時代     遠隔化される以前の他界
 ニライカナイ時代 遠隔化されて以降の他界

 折口信夫が「生き物の石に化した神体」と書いたのは、とりわけ重要で、久米島のスク石などは、スクの化身とみなされたのだと思う。

 また、イビをウブの転訛と見なしたくなるが、折口の「イビとウブは異なっている」という理解を踏まえれば、区別をしておいたほうがよさそうだ。しかし、このア行とバ行の語の組み合わせは、どうやら霊力の高いものであるようだ。


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2016/04/10

満潮時の胞衣埋め

 飯島吉晴は、『笑いと異装』のなかで、沖縄の胞衣について整理して、こう書いている。

沖縄では、通常、胞衣は竈の後ろの灰の中に紙やユーナの葉に包み、しかも満潮時に埋めるものとされている。

 まだ思いつきの範囲を出ないが、備忘のため書いておく。なぜ、満潮時なのか。ぼくは、満潮時は、洞窟の穴が塞がるのと同じ、他界との出入口が塞がることと同じだと見なした。そこから考えれば、満潮時に胞衣埋めを行なうのは、子供が「あの世」へ引きずり込まれずに、「この世」へしっかり現出させるためと考えられる。その現出を促す呪術が「笑い」だ。

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2016/04/09

『日本の神々』(谷川健一)

 谷川健一の考えとの違い、言い換えれば、何が更新されなければならないかを探ってみる。

 「青の島」と呼ばれる地先の小島は、舟で死者を運んで洞窟に葬ったところで、「死者の洞窟の中はうすぼんやりとした黄色な光に満たされているので「青の島」と称した」。

 もうこのところで、二つある。ひとつは、「青の島」すべてが死者を葬った島ではない((青の島)⊃(死者を葬った島))。「青の島」のなかには、死者が葬られた島もあったに過ぎない。死者を葬るから「青の島」なのではなく、語源に添えば、中空にある、あるいは地先にある島として「青の島」は名づけられた。したがって、洞窟のなかに、「うすぼんやりとした黄色な光」を見たわけではない。見たとしても、それに他界の意味づけをしたわけではない。

 宮古では人が死んだらオウの島にいくと言う。また、伊計島のシノグ祭では、「ネズミはオウの島に飛び立てよ」という。これらの原義は、地先の島を他界としたときの名残りをとどめている。

 来間島の「虫送り」では、ネズミ、ムカデ、イナゴを入れたシャコ貝を持った男たちが、干瀬の珊瑚礁の穴まで泳いで、入れに行った。久米島の仲里村では、ネズミ、イナゴ、ウンカは稲の害敵だから、「干瀬の外、波の外」に追放してニライカナイに閉じ込めてください、という願いごとが唱えられる。

 この習俗は、他界の遠隔化以降のものだ。

 アロウ島も「青の島」と同じ意味。

アロウについては意味不明だが、後述する新神・荒神(アラガミ)のアラと関連があると思われる。

 アロウは、「青の島」と同じawaを語源とする転訛である。

 「青の島」も「アロウ島」も間近かにある他界であった。生活領域のせまかった時代になるほど、現世と他界が接近していたとしても不思議ではない。

 ここでぼくたちの考えと一致する。しかし、それは「生活領域のせまかった時代」だからではない。生と死が分離されていなかったからだ。

共通して言えることは、死者の島が荒涼としてけっして明るくないということである。

 これは誤解と言わなければならない。強いていえば、他界が遠隔化されたあと、「死者の島」が零落したということだ。

 謝名城の海神祭の神送りでは、「マヤの神」の対語として「青の神」が出てくる。

これは青の島もアロウ島も本来の存在感を喪失し、ニライカナイと同じように見なされたことを意味する。

 谷川はその要因を、「地先の小島に死体を捨てる風習がすたれた」ことと、仏教用語の影響を受けて、来世を「グショウ(後生)と呼ぶようになった」ことの、ふたつに求めている。

こうして時間的他界の観念は残されたが、空間的他界は海の彼方のニライカナイの神と同一視されるにいたった。
 ニライカナイの神は「世」(豊年、豊作)をもたらし、祖霊は後生から時を定めて来訪すると二分化して考えられるようになった。

 谷川は、「青の島」はニライカナイと同一視されるようになったと考えている。これはそうではなく、ニライカナイの前身が「青の島」なのである。おそらく前進としての「青の島」はニライと同じだ。

ニライカナイの神の君真物であるアロウ神が、沖縄本土に上陸する前にかならず地先の小島の奥武島(青の島)に立ちよったというのは、祖霊神が青の島にとどまっていた時代の記憶を消し去ることができなかったからだと思われる。

 根拠はさらに強いのであり、立ち寄るのは、「青の島」がニライカナイの前身だからである。

 ほぐすべきことはいくつも出てくる。

 ・「青の島」の地名と死者を小島に葬ることとの間には、関係はない。
 ・したがって、死者を葬るから「青の島」なのではない。
 ・まして、そこに色を見たわけではない。
 ・また、荒涼とした世界と考えられたわけでもない。
 ・かつての他界が身近にあったという点は谷川の考えと一致する。
 ・しかし、「青の島」がニライカナイと同一視されたわけではない。「青の島」がニライカナイへと遠隔化したのだ。
 ・遠隔化の理由は、地先の島に葬るのが廃れたからでも、仏教用語の影響のせいでもない。他界が遠隔化、観念化したからである。

 産小屋に砂を敷く習俗についても、この本で具体的な地名を挙げている。西浦七郷のうち、「沓、常宮、縄間」の三つの漁業集落。土で固めるのが「立石、浦底、色が浜、手の浦」の四つ。

 常宮では、産屋をたてて、砂の上で子を産むのを、地元の人はまるで海亀のようだと話したという。「西浦の者は砂の上で生まれたので亀の子と一緒」という言い伝えもある。

このことはわだつみの国を本つ国とする海亀や鮫たちの産卵を思い出さずにはいられない。

 谷川は豊玉姫のお産を引き合いに出して、「こうしたはるかな記憶が産屋の砂にまじっているのではあるまいか」、「産屋の砂の呪力は海亀や鮫が海神の使いとしてあがめられていた時代の記憶の名残りである」としている。

 産屋に砂を敷くのはとても魅力的な習俗だ。しかし、その本場にもなりそうな琉球弧ではその例を聞かないし、谷川も例を挙げていない。何のことはない。浜辺の家が普遍的であるわけではないからだ。ただ、埋葬には、多くの珊瑚が使われていたことからすれば、産屋に砂を敷くことがあったとしても不思議ではない。

 だから、この習俗のプロトタイプは砂そのものの霊力に預かったもので、海亀や鮫にカミを見い出したことも併存しえたと思う。埋葬にシャコ貝が伴うことがあるのと同じ理由で。しかし、神の使いとして見なしたわけではなく、それは「はるかな記憶」というより、最近の記憶に属する。

 出産のとき、便所神が立ち会う理由につてい、納得のいく解釈が見当たらないとして、谷川は、「糞の呪力で邪神を撃退するところから生まれたのだと考えている」とした。

 これはそうではなく、排泄と子生みが同一視されたからで、霊力思考の現われである。谷川は金久正が『奄美に生きる日本古代文化』のなかで、「糞兼、赤まり、まりっ子」などの名前が明治初年の戸籍簿にあるのも挙げている。これも、悪霊のとりこにならないように、名前負けしないように、と解釈している。金久は、「これらの珍奇な名前は、長寿を記念する親心から、特に身体の微弱(弱いこと)な子供につけたものと思われる。悪い名をつけるとと体が壮健になるという伝統的信仰に基づいてである」と書いているが、こちらの理解のほうがまだマシだと思える。この発想の淵源をたどれば、排泄と子生みの同一視にいきつく。オオゲツヒメが、排泄物でおいしい料理を出すのと同じである。

 狼は犬に似て安産するから、あやかるためにお産のために、山の神(狼)を迎えるという習俗が生まれた。熊の子宮を取り出し、乾燥したものを紙に包んで腹に巻き、安産のお守りにしたのも同様。

 琉球弧では、安産のためにジュゴンに頼ることがあった。しかし、ジュゴンが安産なのかどか、ぼくは知らない。ただ、ジュゴンは海のカミであったことが、狼や熊と同型なのは覚えておきたい。

 狼や熊を安産と関連づけたのは、その淵源をたどれば、山の神や彼らが安産ということではなく、もともと、熊や狼と食う-食われることとして、同一視していたからではないだろうか。

 もうひとつ、示唆を受けたこと。

 祭場は葬地と関係があり、そこはモリと称するところが多いが、「うっそうとした森林ではなく、木が数本生えているところをモリと称している。それは神降臨の依代として存在するのである」としている。ウタキの前は、「沖縄ではさらに古くはモリという言葉を使用したと推定される」。

 これは、奄美のモリヤマにも重なるところがあるだろう。しかし、ウタキという前にモリと言われたわけではない。ウタキが根拠にした前身がモリである。

 ひとまず、ここまで。
 

『日本の神々』


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2016/04/08

「琉球アルカイック・デザイン・針突き(tattoo)の心層」

 書籍の『珊瑚礁の思考』にちなみ、「珊瑚礁の思考カフェ」と称して、琉球弧あるいは縄文の野生の思考を探るプロジェクトをスタートすることにしました。

 初回のテーマは、「琉球アルカイック・デザイン・針突き(tattoo)の心層」としました。ニ十世紀までは確かに見られた琉球の針突きについて、タトゥの理由や発生、そのデザインの由来についてお話しします。琉球文化に関心のある方にはもちろんですが、なんとなくタトゥに惹かれるという方にも、興味深く聞いてもらえるのではないかと思います。

 4/21(木)19:00(18:30開場)~ に神田で開催しますので、ぜひお立ち寄りください。

 ・千代田区西神田2-4-1 (財)東方学会新館2F 学び舎遊人
 ・参加料1000円

 このプロジェクトでは、ぼくが話すだけではなく、さまざまな分野の方とのコラボなども行なっていく予定です。

Vol1


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2016/04/07

おのころ島と淡路島 4

 吉井巌は、『天皇の系譜と神話』(1967年)のなかで、イザナギ・イザナミによるおのころ島と国生みは、「元来は別個の集団に伝承せられた、神話的思考を異にする集団のそれぞれの所産であったと考えられる」と指摘している。吉井は、そのふたつを「漁撈呪言型の国生み伝承と男女国生み型伝承」と呼んでいる。

 そして、「天浮橋」は何か、と問うている。

 「天浮橋」のうち「天」は、「天、それも高天原世界の意味を強調しようとしている意図が明らかに汲み取られる」。おのころ島をつくる「矛」は、「もともと漁撈生活を送る人々に親近なものであり、その人々の生活圏の中で生まれたものであることが認められる」。

 本来の漁撈呪言型国生み伝承のなかでは、天を冠さない「浮橋」の意義で理解されていた可能性が多大。「橋に立つ」にのは、「橋に示現すると解してはじめて正解にいたるのではないか」。

浮橋は水上に浮かべられた依代と言う原義を持っていた可能性が強いのである。しかも、浮橋をこの様に理解するならば、漁撈呪言型国生みの原型は、神々が水辺の依代に示現し、漁具である矛を用いて、呪言を唱えつつ海中より島を生ぜしめる、と言う内容となり、いかにも水辺の生活者にふさわしい国生みの全貌が具象化されてくるのである。或いは、実際にかかる内容を持った呪儀が水辺の集団に繰りかえされ、かかる祭儀と共にこの国生みの神話が育成されて行ったのかも知れない、と想像さへもわくのである。

 「水蛭子の本質的意義」は何か。として、吉井は、土橋寛の「ヒル」考えを受け、

ヒルコは本来霊威ある存在であり、ヒルコが記紀において蛭の用字で示され、同時に欠陥児としての印象を与えて行く契機も、この説によってきはめて自然に了解されるのである。
 ヒルコはもともと生み損じの子として軽視されるべき性格のものではなかった、そして、同時にヒルコはその信仰の母体を失うならば、神から生物の蛭へと伝楽する要因を、その名称の中に持っていたのである。

 「淡島」についても、「単に語呂合わせの興味だけで、淡島が生み損じの島にされてしまったとは考えられない」。「今の四国か或いは四国の阿波を中心として生活し活動した人々の住む地域をさした名称ではなかったか」。「アハ島と名づけられた或る生活圏が、かつて存在したと考えてもよさそうに思える」、と仮説した。

淡島も水蛭子と同様、もともとは軽視されるべき存在ではなく、しかも反面、不幸な運命を辿って行く因をはらんだ名称であったことが推定されるのである。

 鋭い接近をしていたのだと思える。

 吉井の言い方をなぞらえれば、これらはもともと、

 淡路島の島人と、対岸の島人にとっての始祖神話だった。前者でいえば、漁撈呪言型の始祖神話だ。そこに、稲作かつ国生み型の神話がかぶさっている。

 「天浮橋」は、「天」は吉井の言う通りだとして、「浮橋」は、おのころ島周辺の光景をモデルにしている。かつ、「淡島」は、淡路島を指している。国生みでの「淡路島」と字が違うのは、その意味が異なるからだ。淡路島の島人にとっての「淡島」はいったん否定されなければならない。なぜなら、「淡島」は、住み生活する場ではなく、対岸の島人にとっては、「かつてのあの世」である聖地だからである。

 ともかく、本質的なことは、吉井によって1967年に指摘されていたわけだ。

 cf.「おのころ島と淡路島 1」「おのころ島と淡路島 2」「おのころ島と淡路島 3」

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2016/04/06

パピルのピル(土橋寛)

 土橋寛は、1965年の『古代歌謡と儀礼の研究』で、ヒルとヒヒルについて考察している。

 ヒルは「太陽が光り輝くこと(ヒルメの神もその意)」、「風が突然強く吹くこと」、「草の葉が揺れ動くこと」。「蛭」「水?(虫+質)」をヒルというのは、水中をヒラヒラと泳ぐ姿によるものであろう」。

感覚的には何の類似も認められない、太陽の輝き、颯風の烈しい吹き方、鳥や蜻蛉の飛ぶ姿、草の葉の揺れ動き、さては刺激の強い味覚や嗅覚に、同じヒル、ヒヒルという語を用いているわけで、これはそれらの感覚の奥に感得されている霊力の観念の共通性によるものであろうと思う。
ヒルはおそらく霊力を意味するヒ(ムスヒ、クシヒ、マガツヒなど)を働かした動詞で、ヒラメク、ヒラヒラなどの語はその派生語であり、ヒヒルは「ヒ・ヒル」の意であろう。鳥や蝶の類がヒラヒラと飛ぶ姿に、霊力の活動を見た古代人の思惟は、ヒルという語の意味からも捉えることができるのである。

 これはとても共感できる見解だ。「ヒル」は霊力思考が捉えた霊力の現われを指す言葉だった。

 ここからは、パピル(蝶)という語の「ピル」の意味を見通すことができる。アヤパピルとは、太陽に照らされて怪しく揺らめく霊力。

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2016/04/05

ヨナとヨネ

 こんどは崎山理の考察、「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」。

 崎山は、ヨネを地名にした例をたくさん挙げている。与禰(佐渡)、米生(筑後)、米田(美濃)、米内(睦中)、米子、米塚(肥後)、米原(肥後)、米川(周防)、米倉(越後)、米子(信濃)、米埼(睦中)、米沢(羽前)、米代(羽後)、米田(播磨、美濃)、米津(三河、遠江)、米原(上総)、米丸(加賀)、米本(下総)、米山(越後、岩代)。

 崎山によればこれらの名称は、稲作文化の軌跡と符合している。イネの穀実が「砂」から変化したヨネという言葉とともに伝播していったことを意味する。

 ここで立ち止まらなくてはいけないのは、これらの地名が「米」を冠することは、ヨネが穀実を表すことを意味するとしても、それは二次的なもので、初期の地名は、阿蘇で火山灰をヨナというように、その地の「砂」に類するものを意味し、「穀実」の意味を持つにおよび、「米」の漢字が当てられたという経緯だ。


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2016/04/04

ユナとイノー(中本正智)

 中本正智による、ユナとイノーの考察を見てみる。

 1985年が初出の『日本語の系譜-新版』から。奈良時代、細かい砂を表わす言葉はマサゴ。一方、砂を表わす言葉にイサゴもある。平安時代に現われる砂であるマサゴは、マサゴとイサゴのコンタミネーション(混交)によってできたと考えられる。「安易な音韻法則は、かえって比較を後退させることもありうることを肝に銘じておきたい」。

 砂を表わすのにイナゴもあるが、これはマナゴとイサゴの混淆によるもの。

 琉球列島の砂を表わす語はイノー。

 シナ  奄美大島から沖縄までの全域
 イサゴ 徳之島
 ンナグ 宮古島
 イノー 八重山

 砂を表わしていたイノーは、沖縄島になると、環礁の内海を表わす語になる。「環礁の内側は、白い砂を底に沈めた浅い環礁湖を形づくっているからである。砂を表していたイノーが、その環礁湖をさすように意味変化をきたしたのである」。

 「イノーは八重山にあって古い語系であり、シナは奄美、沖縄にあって新しい語系である」。

 ユナは、「イナゴの末尾音を落としたイナの変化形。「語頭のイはユと交替することは、夢をイメとも、ユメともいうことから知られる」。

 ユナ     与那
 ユナバル  与那原
 ユナハ   与那覇
 ユナグスク 与那城
 ドゥナン   与那国

 「琉球列島は珊瑚礁でできた島が多く、海岸には白い砂が打寄せられ、これが小山となり、ついに陸地となっていく。このように打寄せられる砂をユナといったのである」。

 この中本の考察に従えば、イノーもユナも平安時代の言葉だということになる。そしてイノーとユナの違いは、砂がイノーでユナが打寄せる砂だということになる。この認識の背景には、琉球語を本土語からの分岐として見る視点なのだろう。

 ぼくたちは、むしろイノーをユナから派生した言葉と考えた。中本の考察を辿っても、修正しなくてよい気がする。ユナ=イノーは、砂から派生し、どちらも珊瑚礁も表わす両義性を持ったとみなせばいい。

 そうであれば、与論(ユンヌ)の語源をぼくは「砂州」に求めてきたけれど、「サンゴ礁」を含意すると捉えてもいいわけだ。


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2016/04/03

ザンとスク

 浜比嘉島比嘉村の浜下り、三月三日遊びには、女性は潮を蹴って身を清め、神女たちは白衣装で小岩島の平島に渡り、豊漁祈願をする。(仲松弥秀「イノーの民俗」)

 ザンの魚も、スクの魚も
 引き寄せて、抱き寄せて、
 オナリ・エケリが肝誇り、胸誇りみそれ
 (平島での神歌(ウムイ))

 スクとジュゴンがともに歌われる例を挙げていきたい。ジュゴンと亀と比べて数は少ないだろうが。

 浜比嘉島では、ザン漁が行なわれたから、歌われる。スクも同様。スクは一匹一匹は小さい。けれど絵本のスイミーのように群体でやってくる。スクはスモール・ジャイアンツだ。

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2016/04/02

ユナとイノー

 ユナ=胞衣だとすると、ユナ(砂)には、イノーの意味も含まれることがあった。というか、もともとユナとしてサンゴ礁海をみていた。また、逆に八重山では、砂をイノーと言うように、イノーにも「砂」の意味を持つことがあった。

Photo_13

 ユナとイノーは相互に浸透しあっている。

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2016/04/01

ヨナとイナ

 崎山理は、米山、米津などのヨネ地名の分布が九州から日本海側に比較的集中していることから、

このヨネ、ヨナ(琉球地名でユニ、ユナ8)の分布は、弥生時代初期に、すでに日本海側から東北地方へかけて達していた稲作文化の軌跡と符合している。このことは、イネの穀実が「砂」から意味変化したヨネという言葉とともに、伝播していったことを意味する。(「日本語の形成とオーストロネシア語起源の地名」)

 としている。

 また、『古代地名語源辞典』では、地名のイナ(伊那、伊奈)はヨナ「砂地」の転であるとしているが、崎山によれば、これは「音韻変化的な妥当性を欠く」。しかし、「米への連想もあった」としている点は、「砂から米へという意味変化からすれば逆になるものの、[古地]の推定は、はからずもオーストロネシア語「砂」語源説を傍証するものである」。

 ここで崎山が言っているのは、ヨネ地名は、砂としてのヨナに由来しているが、イナは音韻変化としては説明できない。しかし、米を見たとき、ヨナからの連想でイナと名づけることはありえる、という考えを示しているようにみえる。

 yuna → iuna → ena

 ぼくたちは、ヨナと胞衣の関係を上記のように考えているが、これも音韻変化的には問題がある。しかし、越後の米山の古名が恵奈山とされていることからは、両者の発音がとても近いところでなされていたのを思わせる。

 

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