おのころ島と淡路島 4
吉井巌は、『天皇の系譜と神話』(1967年)のなかで、イザナギ・イザナミによるおのころ島と国生みは、「元来は別個の集団に伝承せられた、神話的思考を異にする集団のそれぞれの所産であったと考えられる」と指摘している。吉井は、そのふたつを「漁撈呪言型の国生み伝承と男女国生み型伝承」と呼んでいる。
そして、「天浮橋」は何か、と問うている。
「天浮橋」のうち「天」は、「天、それも高天原世界の意味を強調しようとしている意図が明らかに汲み取られる」。おのころ島をつくる「矛」は、「もともと漁撈生活を送る人々に親近なものであり、その人々の生活圏の中で生まれたものであることが認められる」。
本来の漁撈呪言型国生み伝承のなかでは、天を冠さない「浮橋」の意義で理解されていた可能性が多大。「橋に立つ」にのは、「橋に示現すると解してはじめて正解にいたるのではないか」。
浮橋は水上に浮かべられた依代と言う原義を持っていた可能性が強いのである。しかも、浮橋をこの様に理解するならば、漁撈呪言型国生みの原型は、神々が水辺の依代に示現し、漁具である矛を用いて、呪言を唱えつつ海中より島を生ぜしめる、と言う内容となり、いかにも水辺の生活者にふさわしい国生みの全貌が具象化されてくるのである。或いは、実際にかかる内容を持った呪儀が水辺の集団に繰りかえされ、かかる祭儀と共にこの国生みの神話が育成されて行ったのかも知れない、と想像さへもわくのである。
「水蛭子の本質的意義」は何か。として、吉井は、土橋寛の「ヒル」考えを受け、
ヒルコは本来霊威ある存在であり、ヒルコが記紀において蛭の用字で示され、同時に欠陥児としての印象を与えて行く契機も、この説によってきはめて自然に了解されるのである。
ヒルコはもともと生み損じの子として軽視されるべき性格のものではなかった、そして、同時にヒルコはその信仰の母体を失うならば、神から生物の蛭へと伝楽する要因を、その名称の中に持っていたのである。
「淡島」についても、「単に語呂合わせの興味だけで、淡島が生み損じの島にされてしまったとは考えられない」。「今の四国か或いは四国の阿波を中心として生活し活動した人々の住む地域をさした名称ではなかったか」。「アハ島と名づけられた或る生活圏が、かつて存在したと考えてもよさそうに思える」、と仮説した。
淡島も水蛭子と同様、もともとは軽視されるべき存在ではなく、しかも反面、不幸な運命を辿って行く因をはらんだ名称であったことが推定されるのである。
鋭い接近をしていたのだと思える。
吉井の言い方をなぞらえれば、これらはもともと、
淡路島の島人と、対岸の島人にとっての始祖神話だった。前者でいえば、漁撈呪言型の始祖神話だ。そこに、稲作かつ国生み型の神話がかぶさっている。
「天浮橋」は、「天」は吉井の言う通りだとして、「浮橋」は、おのころ島周辺の光景をモデルにしている。かつ、「淡島」は、淡路島を指している。国生みでの「淡路島」と字が違うのは、その意味が異なるからだ。淡路島の島人にとっての「淡島」はいったん否定されなければならない。なぜなら、「淡島」は、住み生活する場ではなく、対岸の島人にとっては、「かつてのあの世」である聖地だからである。
ともかく、本質的なことは、吉井によって1967年に指摘されていたわけだ。
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