「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」(河野広道)
1935年、河野広道は、「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」で書いている。
貝塚とは一般に、多少にかかわらず貝を食した先住民の塵捨場の跡であって、貝殻が分解し難い為に腐らずに残って堆積したものだろう位に簡単に考えられている。しかるに本邦における先史時代貝塚には人骨の埋葬されているものがはなはだ多く、かえって人骨を伴わざる貝塚がはなはだ稀な程である。そしてその人骨の埋葬状態を見ると、少なくとも北海道においては、多く屍を丁重に葬り、完全土器や石器等を副葬してある。この事実は明らかに死者に対する情愛や畏れの表現であって、宗教的な埋葬法である。廃物捨場を同時に墓場として使用することは、一般文明人の立場からは到底考えられない矛盾であって、私が考古学的研究に興味を感じたのは、まだ少年の頃あいであったが、何故塵捨場に屍人を丁重に葬ったのか解釈に苦しんだものである。しかしその後アイヌと親しみ、その風俗を知り、彼らの原始的な宗教思想に慣れるに従って、彼らの廃物に対する見方や取扱い方が我々のそれとは全く異なる事を知り、漸く 貝塚=墓場の謎が解ったのである。
私に貝塚人骨の謎を解いてくれたものは、アイヌのイオマンテの思想に他ならない。(引用者が現代仮名遣いに改めている)
イは「物」、オマンテは「送る」。イオマンテは「物送り」。「熊を祭る」、「熊を犠牲に供して神や祖先をまつる」のではない。それはアイヌに言わせれば、「熊送り」であり、「熊それ自身をカムイ(神)の国に送る儀式であり、決して犠牲のために殺すのでもなければ、熊以外の神を犠牲に供して神や祖先を祭るでもない」。
信心深いアイヌ、即ちカムイを大切にするアイヌには、神々がたくさん食物を与えてくれるから生活が楽であると信じている。具体的に言うといかなる食物といえどもカムイが形を変えてアイヌに食べられにやって来たものであるから、食べる時には先づ神に感謝し、食べた残りや不用の部分は決して粗末にせず、丁重に神の国に送ってやる。取扱いを丁重にして、送ってやれば、神は再びそのアイヌに食べられにやって来るのである。
イオマンテは「山野で鳥獣を猟した時にも行うもので、いかなる山中といえども、やはり殺した鳥獣の頭を股木にさし、ヌシヤサンを造り、新しいイナウを削って、鳥獣の霊を送るのである」。
貝塚の形成過程も言及されている。
とにかくかくの如しで家側にせよ、山にせよ、一定の場所に一まとめにして送られたものは次第に塚をなし、その内腐れやすい部分のみ分解し去って、分解し難い部分のみ残り、ついには貝塚・土器塚・骨塚等を形成するに至るのである。
貝塚と人骨についてはこうだ。「人の屍体は、同じ場所にではあるが、掘って特に丁重に埋葬されるようになる」。
更に後代になると、墓は物送り場から独立して一定の場所に墓地を形づくる。
琉球弧と形態は異なるところがあるけれど、貝塚に人を葬るには、死者との共存の段階であり、一定の場所を得るようになるのは、区別の段階だと言うことができる。
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