「兄妹始祖とそれに続いて現れる人間でない子」(崎山理)の意味
崎山理は、「創世神話のひとつのタイプとして兄妹始祖神話では、人間でない子が派生概念として登場する」として、「兄妹始祖とそれに続いて現れる人間でない子というモチーフの組み合わせが、とくにオセアニアと琉球、日本で見出される」としてきている(「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子: アマンの起源」)。
このような人間として不完全な子は。ヒルコ(蛭子)あるいは水生の小生物に置き換えられ、象徴化されたと考えられる。言語でいえば、タブーとなった名称にたいして現れる婉曲表現(euphemism)に相当する現象といえる。ヒルコが後世、「昼子」(滝沢馬琴説)などと解釈されるのもその類である。
タブーによる婉曲表現という指摘は重要だと思える。崎山は、八重山神話と古事記を比較して、「八重山神話では、イザナギ・イザナミがアマン神に、そしてヒルコがヤドカリに置き換えられていると解釈できる」としているが、ヒルコの意味を理解するには、古事記では、アマン神がイザナギ・イザナミに、ヤドカリがヒルコに置き換えられているとみなした方が、ことの真相に迫れるのではないかと思う。
つまり、「兄妹始祖とそれに続いて現れる人間でない子というモチーフの組み合わせが、とくにオセアニアと琉球、日本で見出される」のは、この地域が、母系社会で、かつ水生動物をトーテムとしたことを意味するのだと思う。
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