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2016/03/31

ユナのイメージ連鎖

 砂州としてのユナのイメージ連鎖を辿ってみる。

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 イノーは、ユナ(砂州)を元に生まれた言葉。そもそも同じものだと見なされた。ユウナ(ハマボウ)は、ユウナに生える植物。これも、一体性のあるものとみなされた。胞衣(ヨナ)は、サンゴ礁海のあり方から似ていると捉えられたもの。ユウナと胞衣も似ている。

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 それは、「子」であれ、「糞」であれ、体から取りはずすときに媒介になるものだ。ユウナが便所の横に植えられたのは、用を足すという以外にも、便所と子を産むことのつながりの意識も共有されていた。宮古島の平良では、胞衣を埋める際、ユーナの葉で包んでいる(「沖縄の民俗資料」)。

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 胞衣と子の関係は、ユウナと花の関係と同じ。胞衣と子の関係は、イノーと魚の関係と同じ。だから、ユウナの花は、サンゴ礁の海に入ると、亜熱帯魚に化身する。


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2016/03/30

葬法とシャコ貝 2

 葬法にともなうしゃこ貝について、もう少し肉薄してみる(cf.「葬法とシャコ貝」)。

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 目を引くのは、安座原の41号、32号、木綿原の1号のように、頭の位置に置かれたシャコ貝だろう。特に、安座原のものは、頭部の両側を包むように配置されているのが、特異な印象を与える。木下尚子は、そこから「死霊の捕獲・封入の呪具」とみなしたわけだ。

 しかし、多良間島の創世神話のように、シャコ貝をトーテムと見なした例があること、伏臥という特異な姿勢があるとはいえ、伸展葬であること、1~3は、貝塚時代4~5期にかけては、生と死が、移行のなかの区別の段階にあることを踏まえれば、これは「あの世」への移行と再生への道程をスムーズにする、ちょうど「水」と同じ役割を果たしたものだと思える。

 松本孝幸は、「シャコ貝よ、傷を癒せ」のなかで、木綿原の9号について、新たな所見を加えている(「南島考古 第24号」2005年)。

 研究のために人骨を借用している際に、頭骨に陥没を見つける。それは攪乱や落石によるものではないらしい。頭蓋骨以外の骨には異常が認められない。

 今回報告した一例は、シャコガイが伏せられていた部分に、骨の異常が認められたので、このシャコガイは患部を癒そうとして置かれた可能性が高いと推測できた。本来このシャコガイは頭部の傷を覆うように伏せられていたものと思われるが、軟部の腐敗が進行する過程でやや鼻根部の方へずり落ちたものと考えられる。

 木下の報告では、「眉間」と書かれたいた箇所だ。松本は、「南西諸島では埋葬時に身体の一部を貝で覆うような葬法が見られる。ある種の貝のもつ特殊な力を信じて、被葬者の身体的な障害や異常を癒そうとしたのかもれない」としているが、妥当だと思う。

 頭部の両側をシャコ貝で覆うのは、エリアーデが「生誕と再生のシンボリズム」が当てはまり、そこには女性器との類似性が大きく預かっている。この段階では、生から死への移行と再生はともに考えられていたのであれば、死者への配慮と再生がその中身に当たる。

 シャコ貝はその後、「石」としての機能を併せ持ち、また十字としても見られるので、境界性の意味を強め、魔除けの意味を強めていくが、それはやつした姿であって、過去に遡行する視点からいえば、シャコ貝を「辟邪」から解放すべきなのだと思える。


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2016/03/29

『縄文学への道』(小山修三)

 小山修三の『縄文学への道』から、例によって気づきをメモする。

 衣装の素材としては、「編布(あんぎん)」が前期からすでに発見されている。原料には、カラムシ、アカソ、カジノキをはじめとした植物繊維。しかし、防寒用には不向き。

 ぼくがこれに着目するのは、多良間島の神話(cf.「ぶなぜー神話の位相」)で、人間の前に出現する最後に、カラムシ(ブー(苧麻))位置づけらているからだ。編み物だったかもしれないが、琉球弧で防寒用は要らなかったとすれば、織物だった可能性を持つ。

 動物仮面は男性のもの、人間的仮面は女性のもの。

出産経験者の八五%が出産後あまり間をおくことなく死亡している(p.54)。

 メモ。これは、不死の段階の脱皮による若返りの元になっている。

 単系出自をむねとするリネージ。共系出自のラメージ。先祖とのつながりは必ずしも明確ではないが、成員が同じ出自と信じているクラン。

 縄文時代には、アニミズム的世界があった。そうなら、イコン(カミの姿)をつくるひつようはほとんどなかった。ヒトの像は前期の中頃まで明確な形をとることはなかった。土偶に顔がつくられヒトらしくなるのは、前期の中頃。

土偶には増殖を保証する女神の姿という基層があり、その後、葬送(死と再生)および形代としての用途が付加されていったようだ。

 縄文オーストロネシアカミはついにその顔をあらわすことはなかったのである。

 航海の方法。

 1.海岸に立つと対岸が見える(灯台効果)
 2.高地にのぼれば対岸が見える(物見台効果)
 3.沖に出て母港の見える位置から対岸が見える(山立て効果)

 山立て効果の最大値をつかうと、アジア大陸の東縁部の海域には七つの独立ブロックがあらわれる。

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 メモ。1と2の境界は宮古凹地。

 色彩は縄文時代を通じてあらわれる。死者は全身を赤く染められることが多い。棺や副葬品も同様。
 


『縄文学への道』


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2016/03/28

「干瀬の人生」(柳田國男)

 干瀬はさながら一条の練絹のごとく、白波の帯をもって島を取巻き、海の瑠璃色の濃淡を劃している。月夜などにも遠くから光って見える。雨が降ると潮曇りがここでぼかされて、無限の雨の色と続いてしまう。首里の王城の岡を降る路などは、西に慶良間の島々に面して、はるばると干瀬の景を見下している。虹がこの海に橋を渡す朝などがもしあった、今でも我々は綿津見の宮の昔話を信じたであろう。(柳田国男「干瀬の人生」)

 サンゴ礁の海は、なぜこうもわたしたちの心を捉えて離さないのだろう。それは単に、美しい海というだけではない。「海の畑」と言われるように海の幸を届けてくれるというだけでもない。「干瀬を、海上に広がる珊瑚礁にすぎないと見てしまえば、琉球の文化はわかりにくい」(『柳田國男と琉球』)と酒井卯作は書くけれど、それは確かに、「美しい海」という以上の何か、「海の畑」以上の何かであり、それはきっと本土ヤポネシアの森に匹敵する大きさを持っている。

 サンゴ礁、と言葉を繰り出すだけで、もういささか我を忘れてこの世ならざるところへ心を移すような心持ちになるのはなぜだろう。それを掴みとるのに、現在のサンゴ礁が形成された6000~4000年前の島人を訪ねてみよう。

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2016/03/27

「便所・産小屋」(宮田登)

 全国的に知られている「便所」の民俗事例。

男女の一対を、便所を建てる時そこに埋めたり、内部に祀っておくというものである。便所参り、雪隠参りの習俗も、普遍的であった。正月と誕生後三日目と七日目に生児をだいて自宅と近隣の便所参りをする。便所は、正月と誕生という儀礼空間の中で意味を持っていることは注目されるべきであろう。

 宮田登は、「便所」を「下肥のもつ植物の生命力を成長させる力」と結びつけて考えている。

 母屋のナンドが出産の場として使われた。このナンドの機能は、本来母屋とは隔離された産小屋が果たしていた。

女性の血穢を不浄視する思想が、日本の近世社会には、南島を除いた諸地域の社会全体に普遍化していた(後略)。

 女の家 女-ナンド-ナンド神-かまど神-祖霊
 男の家 男-座敷-神棚-仏壇

 「男の家」による「女の家」の浸食。

 宮田は、荒神の名称は道教の影響が明らかであり、火の神を荒神と呼称する以前の形態があるのを指摘している。

 

『女の霊力と家の神―日本の民俗宗教』


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2016/03/26

「波照間の村と井戸のつながり」(朝岡康二)

 朝岡康二は「波照間の村と井戸のつながり」(『村が語る沖縄の歴史 歴博フォーラム「再発見・八重山の村」の記録』)のなかで、スクについて触れている。「明らかな遺物・遺跡をともなわない「むら」」として。

 「八重山の考古学では、琉球王府支配以前に存在したと考える集落を、「スク村」として把握している」。「「スク」がつくワーは、伝説的な英雄の居住地であった」。

 「スク」とは「底」あるいは「元」といった意味であろうから、住民が島のもっとも古い屋敷跡であるとみなしている、と考えてよいであろう。そのうえで、「アスクワー」「ミスクワー」「ブスクワー」のように、各集落の御嶽として公的な祭祀対象となったものと、「ミスク村」や「マスク村」のように、ワーにはならず、集落跡として記憶されているものにわけられる。

 しかし、ワーになっていくなても、村の女性に、「マスク」村跡のことを聞くと、「恐れ多いところ、神さまのいるところ」といって、「必要なとき以外には、むやみに立ち入るものでない」と語ってくれた。

 ここから窺えるのは、御嶽が「置き換えられたあの世」であってみれば、御嶽に置き換えられなかった「マスク村」跡は、そのままマスク村の「あの世」とみなされたことを意味している。

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2016/03/25

「兄妹始祖とそれに続いて現れる人間でない子」(崎山理)の意味

 崎山理は、「創世神話のひとつのタイプとして兄妹始祖神話では、人間でない子が派生概念として登場する」として、「兄妹始祖とそれに続いて現れる人間でない子というモチーフの組み合わせが、とくにオセアニアと琉球、日本で見出される」としてきている(「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子: アマンの起源」)。

 このような人間として不完全な子は。ヒルコ(蛭子)あるいは水生の小生物に置き換えられ、象徴化されたと考えられる。言語でいえば、タブーとなった名称にたいして現れる婉曲表現(euphemism)に相当する現象といえる。ヒルコが後世、「昼子」(滝沢馬琴説)などと解釈されるのもその類である。

 タブーによる婉曲表現という指摘は重要だと思える。崎山は、八重山神話と古事記を比較して、「八重山神話では、イザナギ・イザナミがアマン神に、そしてヒルコがヤドカリに置き換えられていると解釈できる」としているが、ヒルコの意味を理解するには、古事記では、アマン神がイザナギ・イザナミに、ヤドカリがヒルコに置き換えられているとみなした方が、ことの真相に迫れるのではないかと思う。

 つまり、「兄妹始祖とそれに続いて現れる人間でない子というモチーフの組み合わせが、とくにオセアニアと琉球、日本で見出される」のは、この地域が、母系社会で、かつ水生動物をトーテムとしたことを意味するのだと思う。

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2016/03/24

「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」(河野広道)

 1935年、河野広道は、「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」で書いている。

 貝塚とは一般に、多少にかかわらず貝を食した先住民の塵捨場の跡であって、貝殻が分解し難い為に腐らずに残って堆積したものだろう位に簡単に考えられている。しかるに本邦における先史時代貝塚には人骨の埋葬されているものがはなはだ多く、かえって人骨を伴わざる貝塚がはなはだ稀な程である。そしてその人骨の埋葬状態を見ると、少なくとも北海道においては、多く屍を丁重に葬り、完全土器や石器等を副葬してある。この事実は明らかに死者に対する情愛や畏れの表現であって、宗教的な埋葬法である。廃物捨場を同時に墓場として使用することは、一般文明人の立場からは到底考えられない矛盾であって、私が考古学的研究に興味を感じたのは、まだ少年の頃あいであったが、何故塵捨場に屍人を丁重に葬ったのか解釈に苦しんだものである。しかしその後アイヌと親しみ、その風俗を知り、彼らの原始的な宗教思想に慣れるに従って、彼らの廃物に対する見方や取扱い方が我々のそれとは全く異なる事を知り、漸く 貝塚=墓場の謎が解ったのである。
 私に貝塚人骨の謎を解いてくれたものは、アイヌのイオマンテの思想に他ならない。(引用者が現代仮名遣いに改めている)

 イは「物」、オマンテは「送る」。イオマンテは「物送り」。「熊を祭る」、「熊を犠牲に供して神や祖先をまつる」のではない。それはアイヌに言わせれば、「熊送り」であり、「熊それ自身をカムイ(神)の国に送る儀式であり、決して犠牲のために殺すのでもなければ、熊以外の神を犠牲に供して神や祖先を祭るでもない」。

信心深いアイヌ、即ちカムイを大切にするアイヌには、神々がたくさん食物を与えてくれるから生活が楽であると信じている。具体的に言うといかなる食物といえどもカムイが形を変えてアイヌに食べられにやって来たものであるから、食べる時には先づ神に感謝し、食べた残りや不用の部分は決して粗末にせず、丁重に神の国に送ってやる。取扱いを丁重にして、送ってやれば、神は再びそのアイヌに食べられにやって来るのである。

 イオマンテは「山野で鳥獣を猟した時にも行うもので、いかなる山中といえども、やはり殺した鳥獣の頭を股木にさし、ヌシヤサンを造り、新しいイナウを削って、鳥獣の霊を送るのである」。

 貝塚の形成過程も言及されている。

 とにかくかくの如しで家側にせよ、山にせよ、一定の場所に一まとめにして送られたものは次第に塚をなし、その内腐れやすい部分のみ分解し去って、分解し難い部分のみ残り、ついには貝塚・土器塚・骨塚等を形成するに至るのである。

 貝塚と人骨についてはこうだ。「人の屍体は、同じ場所にではあるが、掘って特に丁重に埋葬されるようになる」。

更に後代になると、墓は物送り場から独立して一定の場所に墓地を形づくる。

 琉球弧と形態は異なるところがあるけれど、貝塚に人を葬るには、死者との共存の段階であり、一定の場所を得るようになるのは、区別の段階だと言うことができる。

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2016/03/22

おのころ島と淡路島 3

 「おのころ島」と淡路島について、もう少し正確にしてみる。

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 生と死の「区別」の段階では、神話は、「あの世」との境界部から、はじめにトーテムが出現し、次に人間が出現する。生と死が分離されると、かつての「あの世」の地から文化が発祥する。

 こうだとして、日本神話のそこからの変形を読み取ると、まず、イザナギとイザナミという二神が介在している。「おのころ島」は二神が関与するとはいえ生むわけではなく、「潮が自ら、凝てできた」という意味の通り、地形が生成された原型はあまり損なわれていない。

 イザナミがまず生む「水蛭子」はトーテムが解体され、次に生む「淡嶋」は、人間が擬島化されている。そして「水蛭子」は、葦舟に入れて流され、「淡嶋」も子としてはカウントされない。つまり、この淡路島の島人にとっての神話は否定される。

 生と死が分離されると、「あの世」は遠隔化されるので、生と死の区別の段階の「あの世」はかつての「あの世」の地として聖地の意味のみを残し、文化の発祥地として言われるようになる。日本の神話では、淡路島の島人にっての神話をそれ以上語らないので、「おのころ島」が「あの世」との境界であり、かつ「あの世」そのものと見なされたか、「あの世」との境界であり、「あの世」自体は、山や友ヶ島や沼島を示していたかは分からない。あるいは、「おのころ島」は「あの世」の島であって、境界部の方が変形をこうむったのかもしれない。

 淡路島の島人にっての神話の変形は生と死の区別の段階までで、神話は次に、対岸の大和朝廷勢力のものに接ぎ木される。逆に、対岸の勢力にとっての生と死の区別の段階の神話は語られない。そして、淡路島が文化の発祥という意味は、淡路島をはじめに、次々に国(島)生みされるというように変形されている。つまり、対岸の勢力にとっては、「淡路島」が「あの世」の島だったわけだ。

 区別の段階の島人にとっての神話を、分離の段階の大和朝廷勢力の神話に接ぎ木した箇所が、接合面であり、大和朝廷勢力の行った作為になる。

 淡路島の島人が、変形される前の神話の原形を取り戻せたらいいのだと思う。

 cf.「おのころ島と淡路島 1」「おのころ島と淡路島 2」


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2016/03/21

「国生み神話考」(松前健)

 松前健は、「国生み神話考」のなかで、イザナギ、イザナミの国(島)生みを南太平洋の「原初の岩からの万物や人間の誕生」と結びつけて考えている。

 岩からの神霊や人間の祖先の誕生というだけの観想なら、岩石を神霊の憑り来る座であると考えた原始信仰であって、世界には決して珍しくはないが、天地万物が誕生して来るとか、島々を生み出すとかいう話になると、やはり特殊な感じを免れない。この観想の起源は、一体何であろうか。一面に、やはり火山の爆発による海島湧出というような現象も考えられよう。

 岩は豊かな霊力を内包し、溢れ出させる場だった。それが生と死が区別されるようになったときに、「あの世」との境界域となり、そこからトーテムや人間が出現するようになる。神が生み出されれば、そこに神は降りてくるだろう。この段階の思考を保存したものとして、南太平洋の原古の岩と「おのころ島」は同一のモチーフに属していると言える。

『松前健著作集 (第9巻)』

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2016/03/20

「ゆな」と「よな」(『方言俗語語源辞典』他)

 『方言俗語語源辞典』の「ゆな」にはこうある。

ゆな →いのー。砂。砂利。岩手県下閉伊那。[考]南島八重山で、砂をイノー、石垣島で州をユーニという。千葉県武郡で、浜の砂をイナゴ、島根県松江で、砂浜をイナハマという。それらとの関係。熊本で火山灰をヨナというのとも関係あるか。 →よな。

 で、「よな」には、「火山灰。熊本」と説明されている。

 「よな」にはもうひとつある。

よな 胞衣。えな。大阪(浪花聞書)。[考]エナの語源ははっきりしない。大言海もエナは「胞幅(エノ)ノ転ニモアルカ・・・」といい、エ(胞)については「家の約カ・・・」といっている。(中略)関西でエナ、ヨナ、久留米でヤナ、九州でイヤ、喜界島でウワという。(後略)

 ぼくたちは、「よな」と「えな」は同じであると見なしてきた。それは地名にも現われている。

 柏崎市と上越市との境にある標高993mの孤立峰、米山。

米山は薬師如来をまつる山として有名であるが、平安時代初期の《大同類聚方》には、<恵奈山薬、越後国三志摩雄之家伝方也、元者少彦名神方也>とあり、米山がかつては恵奈と呼ばれていたことがわかる。(『世界大百科事典』)

 米山で、「よな」と「えな」は二重性をなしている。

 思うに、yuna と ena の発音は近いところで揺れていたのではないだろか。「よね山」はかつて「えな山」と呼ばれていたとあるが、もとは「よね」だとしたら、「よね→えな→よね」という転訛だと思える。


 

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2016/03/19

「ヒルメとアマテラス」(谷川健一)

 また、議論の中身自体に深入りはできないけれど、気づいたことだけ記しておく。谷川健一は、「ヒルメとアマテラス」のなかで、淡路島について触れている。

 仁徳帝が、朝夕淡路島の清水を酌ませて「大御水」としてのは、日用ではなく、聖水だった。仁徳帝が淡路に聖水を求めたのは、「淡路が応神・仁徳王朝の古い出身地であるということである」としている。

 しかし、これまで見たところからいえば、淡路は出身地なのではなく、「あの世」の島として聖地だったということだ。

 これまで言われてきたようにイザナギ・イザナミの国生み神話は淡路島を中心としたものであった。イザナギは島の神で、履中帝や允恭帝が淡路島に狩猟をしたということではなはだしく不興を洩らす。ということは恐らく淡路の海人だったのであろう。

 不興を買ったのは、「淡路の海人」だからではなく、淡路島が「あの世」の島で聖なる地だったからだ。

 こうしてみるときに淡路島にまず日光感精説話を背景とするヒルメの信仰は足がかりを得て根づいた。だがしかし日神崇拝が淡路から東進して伊勢に到達したとき、東方をたっとぶ聖地の信仰は確立した。そうしてかつての聖地とされた淡路島は今度はその位置を逆転せざるを得なかった。

 ぼくは詳しくないけれど、淡路から伊勢への流れは、移動に伴う「あの世」の位置の移動を少なくとも含んでいると思う。

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2016/03/18

おのころ島と淡路島 2

 入谷仙介は「淡路島の伝承と民間信仰」のなかで、おのころ神社について、書いている。

 自凝(おのころ)神社をその遺跡として信じている。自凝神社は、三原平野のほぼ中央に位置する小丘の上に鎮座する神社である。この丘からは、三六〇度の展望が開け、南西に南辺寺山、南方に屏風のように連なる島で最も高峻な諭鶴羽山脈、北に先山を盟主とする島中部の群山を望むことができる。これらの山々に囲まれた三原平野の景観は、小島の内部と思えない雄大さである。古代の人々がこの地を、天地のはじめのところとして崇拝したのも実感され、ここから先山を仰ぐと、このお山が国生みの最初に出現したというのも、かならずしも荒唐無稽な空想だけではないように思われる。古代には、三原平野は入海だったともいわれる。もしそうだとしたら、ここは海中の小島であった。人々は、海が干上がって陸となり、島が地続きになるのを目撃していたことになる。

 ぼくたちが注目するのは、「三原平野は入海だったともいわれる」ことで、おのころ神社が「海中の小島」であったかもしれないということだ。

 実際、どういう光景が出現していたのだろう。考古学の知見を手がかりにしてみる。高橋学は、7500yB.P.には、「三原平野では湾口部に、沿岸流で北から南へと砂嘴が延びはじめていた」と書いている。砂嘴(さし)とは、「鳥のくちばしのように延びた堤防状の砂の堆積」のことだ。

 6300y.B.P.の頃、海域は最大に達する。「この時に倭文川、成相川、三原川および大日川は、マガキ、イボウミニナ、ウラカガミなどの生息する内湾に、それぞれ独立した河川として流入していた」。

 三原川の流路沿いには砂礫が堆積し、鳥趾状をなして内海に向かって突出していた。そして、堆積から取り残された部分は、interdistributary bay状をなし、有機物に富むシルト混じり砂が堆積していた。三原川の流路は、レンズ状の断面形をとる砂礫層の分布範囲の変化から、海域の拡大期には西から北西へ向きを変え、海域の縮小期には北西から西へ方向を変化させたことが推定される。

 イメージを持つために、ミシシッピ川の鳥趾(とりあし)状三角州はこうなっている。

「ミシシッピデルタ」

Misisippi

 interdistributary bayは、「分流間湾」のこと。分流した川の河口部の両端のあいだが部分的に湾状になっていることを指しているのだと思う。

 おのころ神社は、三原川沿いにあるので、まさに鳥趾状の陸地になっていたと思われる。だから、入谷の言うように、「海中の小島」であったわけではないが、まさに海向こうに盛り上がったところとして見えたのは確かだと思える。おのころ島神社のある小丘の、この成り立ちは、「塩こをろこをろにかきなして」引き上げたところ、矛の先からしたたった塩が凝ってできたという神話の記述と見事に対応しているようにみえる。

 その後、海水準は次第に低下し、2600y.B.P.には「湾口部に砂堆の形成が進んだため、かつての内湾は潟湖の様相を示すようになった」。また、「湾口部では、(中略)潮の出入りする流路が存在し」ていた。砂州を下に湖のようになった潟湖(せきこ)。潟湖はラグーンとも呼ばれる。まるでサンゴ海だ。イザナギとイザナミがおのころ島をつくるときに立つ「天の浮橋」は、潟湖のなかの列をなした砂堆のイメージにぴったりではないだろうか。潮の香り豊かな神話の記述とこの頃の三原平野の光景は対応している。

例.北方湖
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 吉本隆明は、おのころ島について、こんな連想をしていた。

 天から岩や土砂を投げて島ができるという神話は、大林太良が収集した見解ではポリネシアタイプのもので、琉球の神話はこの型とおなじものだとされている。『記』の神話は、岩や土砂を投げて島を造るのではなく、海の塩水をかきまぜて矛から滴った塩が積って島ができたことになっている。これは土砂を上から投げたり水平に投げるといった神話のヴァリエーションとみることができ、土砂のかわりに塩水の滴りが凝って塩が積って島ができたということになったとおもえる。わたしはこのヴァリエーションのところを読むたびに、海辺の砂地に海の水を繰りかえしまいては天日に晒す塩田の潮採りの作業をイメージする。瀬戸内や南の島の海辺の塩田風景のイメージが創らせたヴァリエーションのようにおもえてくる。(「起源論」)

 吉本は見事な幻視をしているということではないだろうか。小丘の成り立ちは、ここがまさにおのころ島のモデルになった場であることを示してるように見える。

 淡路の島人は、海に隔てられた、あるいは海に近いこの小丘を「あの世」との境界とし、そこをトーテムや人間の出現の地としたはずである。そして、「あの世」が発生すると、「あの世」の地となった。この地の伝承を、大和朝廷勢力は、神話の初期に組み込むことになったと思える。

 友ヶ島や沼島は「おのころ島」ではないと言う必要はない。そこも、「山頂崇拝がことに盛んでった」(入谷)淡路の、その山と同じく、「あの世」の山や島であり、同様に聖地だった。そういう意味では、「おのころ島」の面影を背負っているのだ。

 cf.「おのころ島と淡路島 1」


『瀬戸内の海人文化 (海と列島文化)』

『平野の環境考古学』

『母型論』

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2016/03/17

『母系社会の構造―サンゴ礁の島々の民族誌』(須藤健一)

 琉球弧の神話は、性交と出産の認識を受容したあとの母系社会のものだということが示唆されているが、その際の性の認識について、知ることができた。

 トロブリアンドの性認識は、オセアニアで普遍的なものではない。ミクロネシアに限定しても、性交と生殖を関係づける社会はかなり存在する。

 たとえばサタワル島がそうだ。彼らは、「男が来て女と寝て、血を出してやると女の腹のなかに子どもができる」と説明する。「血」は精液のことで、禁忌語なので、「血」と表現する。血は、女性の体内で「骨」をつくる。女性は、「子どもの肉をつくる」。

女性の腹のなかで男性の血から子どもの骨格ができると、女性の月経がとまる。

 つまり、男性は子供の骨格をつくり、女性は子供の肉をつくる。

 島人は、「おまえの血はどこか」、「あなたの肉は誰か」と質問する。この場合、「血」は、父方の母系集団を聞かれていることになる。「血の関係」という場合は、基本的に父-子という二世代間の血縁関係を意味していて、父系的に系譜関係をたどる性質のものではない。

 性の認識を受容すると、子供の身体に対して「骨」への寄与が認められるわけだ。トロブリアンドは、母方から子供の肉体は授かるが、サタワルでは、骨は父、肉は母という分業が発生する。しかし、それは母系社会の構造を解体することにはなっていない。


 グゥンは、「形のある実体で、グゥンを宿している人間と同じ容姿をしたものとして語られる」。グゥンは、「グゥンの家」に住んでいて、それは腹のみぞおちのある腹部にある。グゥンは身体から遊離し、生活圏だけではなく、別の世界へもゆくことができる。遊離が長いほど健康を害し、再帰しないと死にいたる。

 著者の須藤健一は、これを「霊魂」と訳して説明しているが、霊力がそのまま霊魂に同致する形で一元化されているのが分かる。

 他界について、須藤が図解しているので、それに頼る。


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 「南の島」アユルは、「入江の多い島で、天上世界と同様、食べるものの豊かな理想郷としてイメージされている」。これはすでに実在の島から離れていて、サタワルが生と死の分離以降の段階にあることが分かる。

 

『母系社会の構造―サンゴ礁の島々の民族誌』


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2016/03/16

本土ヤポネシアのヨナとしての胞衣

 谷川健一は、立石半島では胞衣をヨナと呼ぶと紹介している(『日本人の魂のゆくえ: 古代日本と琉球の死生観』)。

 ぼくが調べたところでは、奈良県大和高田市でもそう呼ばれている。

 ヨナ(胞衣)は土瓶の手を取ったものに入れ、他の汚物とともに自家の墓、もしくは便所の入口、またはその年のアキの方に埋めた。埋められたヨナの上を最初に踏んで通ったものはその子を恐れるようになる。ヨナを埋めた上を多くの人に踏まれるほど、子は丈夫になり頭もかたくなる。ヨナとともに男女それぞれ筆墨・針・糸などを添えて埋めておくと、その子はそれぞれの道に堪能になるといわれる。(『改訂 大和高田史』)

 また、高知県北川村でも。

 胞衣(ヱナ、当村ではヨナと呼ぶ。
ヨナの始末は大切に取扱う。ヨナはハンド(褐色に焼いた瓶)のなかに入れるか、ボロ布に包んで床の下に埋めるか、あるいは年中日の当たらない、たとえば大きな木の下、あるいは墓地の片隅にハンドに入れて埋める(後略)。

 『日本の通過儀礼』でも、「エナ(胞衣)は、アトザン(後産)・ヨナ・ノチザンなどともよばれる」とあるので、本土でもヨナ呼称はそれほど珍しくないのかもしれない。

 『大阪伝承地誌集成』では、「胞衣はヨナとも読め、夜泣きに通じるとして生じた俗信」と書かれているが、これはおそらくそうではない。

 琉球弧でも、ヨナと呼ばれることがあるのは、サンゴ礁海を意味するヨナとの同一視からくると、ぼくたちは考えてきた。そうだとすると、それを知っている人々の北上が、大和にその名を残したことになる。ヨナの冒険は本当に胸が躍る。それは、砂を起点に、米にもなれば胞衣にもなった。

 そうやって気づく。「本土でもヨナ呼称はそれほど珍しくないのかもしれない」と書いたが、それはそうだ。エナ自身がヨナ由来だからだ。


『日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観』

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2016/03/15

竜巻としてのイノー(谷川健一)

 谷川健一は、八重山で竜巻をイノーと呼ぶとして、こう書いている。

 司馬江漢の「西遊日記」には長崎県の生月島について「此海よりエイの尾といふもの天に登ることあり、是は竜なりといふ。登らんとするとき、黒雲下がりて海の潮を巻き、支台歯台に天に登るに、雲中よりエイといふ魚の尾のごときものひらひらと見え遠ざかる。故に、エイの尾が登るといふなり」と、竜巻がエイの尾に似ていることを述べている。八重山では竜巻をイノーと呼んでいる。これはその姿が海面に尻尾を垂らすエイノオに似ているからである。

 これはいかにもな推定だけれど、かなり怪しいのではないだろうか。竜巻のイノーがエイノオから来るためには、エイノオも琉球語でなければならない。ところが、谷川はこの前に、「沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいる」と書いているのだ。しかも、「カマノフタ」に由来することも聞いている。

 このことは、カマンタと呼ばれる以前の呼称があったことを示しているが、それがエイであるかどうかは分からない。しかも、エイの尾に見立てるなら、エイの精霊として見立てたはずである。

 むしろ、竜巻のイノーは、サンゴ礁海を意味するイノーから来ていると思える。つまり、サンゴ礁海の霊力あるいは精霊のことだ。

 

『続 日本の地名―動物地名をたずねて』

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2016/03/14

おのころ島と淡路島 1

 生と死の移行と分離の段階では、神話はそれぞれ次のように語られる。

 移行:Aから、トーテム、次に人間が出現する。
 分離:Bから、文化Cが発祥する。

 ここで、A=(移行の段階の「あの世」との境界)、B=(移行の段階の「あの世」)

 琉球弧の場合、Aは「穴」、Bは、例えば「沖の島」、Cはたとえば、「五穀」になる。

 ここで日本神話を見ると、『古事記』では、

 イザナギとイザナミが天からの階段に立って矛をおろして海水を音を立ててかきまぜると、その矛のさきの海水がつもっておのころ島ができた。二神は降り立って性交をする。イザナミはまず水蛭子を生んで、葦舟で流す。次に淡島を生むが子のうちに入らない。

 やり直しをして、最初に淡路の穂の狭別の島を生む。次々と八島を生む。

 ことになっている。

 これを見ると、前段と後段では、別の人々の神話が語られているように見える。「淡島」と「淡路の穂の狭別の島」の呼称の違いは、淡路島を見る位置の違いによるものではないだろうか。

 前段は、淡路島の島人、後段は淡路島を「あの世」の島とした人々にとっての神話だ。かつ、神話の原形からいえば、前段は擬島化された人間、後段は擬人化された島になっている。

 前段では、AとBは、「おのころ島」として同一化されている。この島が「潮が自ら、凝てできたという義」(松前健)と解されているのも、それを示している。そこで、

 前段:「おのころ島」から、「水蛭子」、次に「淡島」が生まれる。「おのころ島」が発祥の地となる。

 後段:Aから、トーテム、次に人間が出現する。「淡路島」をはじめに島が次々生まれる。

 『古事記』は、前段の前半と、後段の後半を接ぎ木したものになっている。そして後段に接ぎ木する際、前段は否定されている。

 「おのころ島」は、淡路島の島人にとっての「あの世」の島であり、そこでは境界も二重化されている。後段、つまり神話の主体者にとっての「あの世」の島は淡路島だ。

 『日本書紀』の伝えでは、「おのころ島」を胞(え)として国生みが行なわれたとされたり、『古事記』、『日本書紀』の別の伝えでは、淡路島を胞として大八洲が生まれたとされたりするのは、この立場の二重性によるものだと思える。

 松前健は、「国生み神話と淤能碁呂島」のなかで、「おのころ島」は実在の島であるとみなされ、議論されてきた位置として、「おのころ神社」のある「沼島」、修験の聖地として知られ、地先に神島もある友ヶ島(沖島)を取り上げ検討している。その上で、友ヶ島の沖島が最も古い伝承であったようにみえるとした。

 これは、沼島でもあれば、友ヶ島(沖島)でもあるということだ。どちらも、それが望見できる場所に住んだ淡路島の島人にとっての「あの世」の島だったということだ。ついでにいえば、「友ヶ島(沖島)」の島人にとっての「あの世」の島は、神島だったと考えられる。特に友ヶ島(沖島)には、「深蛇池、蛇谷が住むと伝える神秘な池もあり」とされているので、そこがイザナギ、イザナミの出現地を示唆するのかもしれない。

 松前は、南太平洋で語られる神が島を生んだという神話が、「原古の海洋の一巨岩から天地万物や人間が生まれて来るという話」であると解読し、「おのころ島」もこの「原古の岩」であると推定している。

 オノゴロ島は、もともとこうした神話的な「原古の岩」であったから、実在の島の名ではなかったが、これが淡路の海人たちによって語られるに及んで、淡路附近のどこかの島に比定されるようになる。オノゴロ島が、女神自身の胞胎であるということから転じて、そこは単なる分娩の場であると考えられるようになると、胞胎はまた別の島が当てられる。時としては、淡路島自身がその女神の子生みの母胎として考えられるようになったが、また時としては、海上に浮かぶ隣接の友ヶ島の一島であるとか南の沼島であるとか考えるようにもなったのであろう。一書の幾つかの伝えに、このオノゴロ島が二尊による矛の海中撹拌以前にすでに海中にあった存在のように語られているのも、かえって古い形ではないかと考えられる。南洋の「原古の岩」もみなそうした存在として語られている。

 「原古の岩」は、「おのころ島」そのものというより、「おのころ島」と「この世」との境界が「原古の岩」に当たっている。けれど、松前はとてもいい洞察をしていたのだと思える。

 また、語られ方から分かるのは、神話のこの箇所は、生と死の分離以後の眼差しで書かれていることだ。


『松前健著作集 (第9巻)』

 

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2016/03/13

『呪術・科学・宗教・神話』(マリノフスキー)

 これまでと同様、マリノフスキーの記述は、人類学の知見というより、ワイルド琉球弧を知る手がかりを得るための貴重な資料だ。

(トロブリアンドの-引用者)漁は、内海にあう礁湖の村々では毒を使った方法で簡単にでき、ほとんど外れがなく、危険を伴わず確実に多くの成果をあげるのに対して、外洋の沿岸では危険を伴い、魚群が予め出現しているかどうかによって水揚げが大きく違ってくる。ここで重要なのは、礁湖の魚では完全に自分の経験的知識と技術を頼りにできるので呪術が存在しないのに対し、外海の漁は危険や不確実さに満ちているから安全を確保し良い結果をもたらすために呪術的な儀礼が発達していることである。

 「サンゴ礁は考える」をテーマにしている者にとっては、これは願ってもない情報だ。トロブリアンドの再生にも、サンゴ礁は大きく寄与しているのだと思う。十分条件ではないにしても。

 呪術の効力の信仰に関する三つの要素。

 1.音声的な効果。風のうねりや雷の轟き、荒れ狂う海、様々な動物の鳴き声のような自然界の音の模倣。

 2.欲望の対象となったものを呼び覚まし、特定し、あるいはそれに対して命令を下すための言葉の使用。

 3.神話のなかの、呪術を与えてくれた先祖や文化英雄への言及。

 これを見ると、1が呪術の祖形であると思える。言い換えれば、残された呪術のなかで、1に該当する箇所は古形に属することになる。

 起源神話によれば、世界には最初地下から人々が居住しはじめた。地上と似た生活をしていた。住民たちが「穴」あるいは「家」と呼ぶ起源の場所。

 洞穴、木立、岩山、露出した珊瑚、泉、入江の先端。

 そうした「穴」から、最初の人間が出現する。地下からもたらされた最も重要な贈り物は、決まって呪術。

 首長の家は、露出した珊瑚や岩山が目印となっている起源の場所に近い。

 トロブリアンドでも、永遠の若さを失った理由は、近親相姦への接近として語られている(p.173)。そして、その前に、「彼らが初めて地上に現れたときも、この能力は失ってはいなかった。男と女は永遠に若く生きられたのだ」、と書かれている。

 これは重要な箇所だ。ということは、トロブリアンドで地下の他界を持ったとき、まだ、「死」の認識を持っていなかったのだ。考えてみると、この順序は妥当にも思える。

 ミラマラが始まった理由も神話で語られている。

キタヴァの一人の女が、妊娠している娘を残して亡くなった。娘には男の子が生まれたが、その子にやれるだけの母乳が出なかった。そこで娘は、死にかけている隣島の一人の男に、精霊の島にいる母親が孫のために食物を持ってきてくれるように伝言を頼んだ。母親の精霊はかごを精霊の食物で満たし、次のように泣き叫びながら戻ってきた。「だれの食べ物を運んでいるのかだって。孫息子の食べ物で、これから与えに行くんだ。孫に食べ物をやりに行くんだよ」。精霊はキタヴァ島のボマゲマ(Bomagema)海岸に着くと、食物を下ろした。精霊は娘に語りかけた。「わたしは食べ物を持ってきた。男がそれを持ってくるように言ったんだ。でも、わたしは弱いんだよ。みんなが、わたしを妖術師と間違えないか心配なんだよ」。そして精霊はヤム芋を焼いて、孫息子に与えた。精霊は灌木の中に入り、娘のために畑を作った。しかし娘は、戻ってきた精霊の女妖術師のような姿を見て怖くなった。娘は精霊に、立ち去ってくれるようにいった。「精霊の国であるツマへ帰っておくれ。人々は、あなたが妖術師だというだろうから」。精霊の母親は文句をいった。「どうして、お前はわたしを追い払うんだい。わたしは、お前達と一緒に住んで、孫のための畑を作ろうと思っていたんだよ」。娘は、次のように答えただけだった。「行っておくれ。ツマへ帰っておくれ」。そこで老女はひとつのココ椰子の実を取り上げて半分に切り、点のない半分を娘に与え、点(eyes)の付いた半分を自分で取った。精霊の母親は娘にこう言った。自分やほかの精霊は年に一度、ミラマラの間に戻って来て村の人々を見るが、自分達は人々には見えないままだろうと、そしてこれが、年に一度の祝祭が現在のようになった理由なのだ。

 やはり、死者との共存の矛盾が、生と死の区別の契機になっている。この神話では、それは、穢れの観念の発生として語られているように見える。

 今回もまた、ありがとう、マリノフスキー。


『呪術・科学・宗教・神話』

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2016/03/12

濁音の同一と等価

 吉本隆明が、「表音転移論」で想定した、濁音の同一と等価について整理してみる。

 ここで、同一と等価の違いは、

 同一 通音
 等価 音韻と意味象徴

 と考えられていると思える。

Photo

 たとえば、サ行濁音とタ行濁音は、通音として同一。タ行濁音とヤ行濁音は、音韻と意味象徴が等価ということ。

 この図からは、「ワ(我)」が「バ」になることは等価であり、「尻(シリ)」の与那国方言である「チビ」において、「リ」と「ビ」が同一であることを示している。

 吉本は、「表音転移論」で、「ラ行音の濁音はハ行音の濁音と同一とみなすことができ」るが、「いまのところそんな事例にであったいない」と書いていたが、数年後の加治工論文で出会ったことになる。

 吉本は、同一を訛りの範囲として、等価を必然的な転移として想定していた。

 また、この関係図からは、ダ行音とラ行音がしばしば交替することは説明されない。同一でも等価でもない系列。

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2016/03/11

「沖の島」の系譜 注

 「沖の島の系譜」について、子音の有無の観点から見てみる。

 波照間島(パティルマ) ptrm
 加計呂麻島(カキルマ) ptrm
 鳩間島(パトゥマ)    ptm
 池間島(イキマ)     ptm
 来間島(クリマ)     ptm,trm
 多良間島(タラマ)    trm
 慶留間島(ギルマ)   trm
 古宇利島(フイ)     p

 ptrm 波照間、加計呂麻
 ptm 鳩間、池間、来間
 trm 多良間、慶留間、来間
 p   古宇利

 これを見ると、間違いなく「波照間」と同型と見なせるのは、「加計呂麻」のみ。 「鳩間」、「池間」、「来間」は、「波照間」からの変化を想定できるが、この三者間のみでは、同型にはならない。「多良間」、「慶留間」も同様に。「古宇利」に至っては、他の単語からでも導けるくらい任意性が高い。はだ、「フイ(越えた)」という意味の類縁は、魅力的なところがある。

 同行内の母音の変化がなく、無理なく「波照間」からの変化を想定できるのは、「加計呂麻」と「慶留間」。これを同型と見なせば、

 波照間、加計呂麻、慶留間、多良間、来間

 となり、「来間」と「多良間」とその他という方言グループになる。

 また、「鳩間」、「池間」、「来間」を「波照間」と同型と見なせば、「鳩間」、「池間」、「来間」、その他という方言グループになる。

 どちらも通常言われる方言グループからは逸脱する。ただし、地名は古音を保存していると見なすことはできる。

 全部を合わせると、

 波照間、加計呂麻、慶留間
 多良間
 来間
 鳩間
 池間

 これらが別々の方言グループだと想定することになる。

 語源の同一性にこだわらなければ、「波照間」と同型と言えるのは、波照間、加計呂麻、慶留間。
 そして、「古宇利」が、「越えた」という意味を持つように、多良間、来間、鳩間島、池間も、それに類する意味を持つと解することはできる。これらは言わば、オー系地名の持つ「地先」に対して、「先」の意味を持つ。

 オー系の地名が奔放な遍在ぶりを示すのに対して、「先の島」系列に遍在ぶりがないのは不自然だとすれば、やはり「波照間」の同型と見なしたい誘惑は残る。


 

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2016/03/10

「脱音現象論」の補足

 「「沖の島」の系譜」で行なった音韻の変化について、吉本隆明の「脱音現象論」を補ってみる。

これらの脱音化をいくつかに類別してみる。
(1) 母音(a・i・u・e・o)に挿まれた子音r音、d音、k音、w音などは語中で脱落できる。
(2) 語中のn音、m音は脱落できる。
(3) 語頭の母音a・i・u・e・oは脱落できる。このばあいの母音の脱落は|N|という無声の喉頭音で、促音的な傾向をもった「ん」音と等価なものとみなされる。
 これは法則性とするには詰めが不完全すぎる。そこで、一通りの意味で取り出されたものとしておきたいと思う。細かいことをいえば東北語と西南語と脱音化の質がすこしちがっているともおもえる。
(4) 東北語では語中のm音はb音に転化する。またt音はd音に転化することがある。n音、k音がg音に転化しうる(これは標準語をもとにした言い方で、歴史的には逆である)。
 しかし、西南語のように、y音、う音になっているものが、d音であることはない。例えば西南語で湯(yu)は(du)であり、家(ya'a)は(da'a)になる。

 1.語頭は母音以外に、h音も脱落できる。
 2.母音間に挿まれた子音の、「r音、d音、k音、w音など」には、「t音」が加わる。

 ということは、母音の変化以外は、説明できることになる。


『母型論』

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2016/03/09

文字の考古学者、弓削政己を送る

 弓削政己さんの訃報を受け取る。心づもりしておかなければならないということが不謹慎に思えて考えの外に追いやっていたのが露わになり、不意打ちのように動揺して、心の落ち着きどころが見い出せない。そういう時間が続いている。

 弓削政己の仕事は、百年のまどろみのなかで停滞している奄美の歴史に史実を突きつけるものだった。誰に頼まれたわけでもないのに、学者という職業的安定があるわけでもないのに、史料があると分かれば、東京であれ筑波であれ場所を厭わず参じて、古文書を読み解き、論文として公表してきた。その領域は、薩摩直轄時代の奄美、祝女の史料にはじまり、支庁問題、三方法運動、黒糖、大島商社、大島スキーム、ユタ、郵便等と多岐にわたる。

 発掘を通じた彼の仕事は、差別観にまみれた奄美の島人の認識に対して見直しを迫っている。しかし、弓削自身はそれを島人に突きつけるように提示するのを好まなかった。その静かな語り口は、モノに忠実であろうとする考古学者のように抑制的で、かつ、島人の気持ちを逆撫でして傷つけたいわけではないというように優しかった。それは島人らしい人柄を思わせるものだったが、そのことは彼の研究が穏やかだったことを意味するのでは全くない。誰に頼まれたわけでもない、経済的な保障があるわけでもないなかで行なわれる発掘作業には、鬼気迫る激しさを感じないわけにいかない。

 しかも、発掘から得られる「文字」はひとつの「事実」を提供する。その「事実」のピースを奄美の通念のなかに投げ込むと、ぼくたちが抱いているかすかな疑念が揺らぎだし、通念自体が疑問符のなかに叩き込まれる破壊力があった。だから、弓削政己の行動と言葉を失うということは、奄美大島が巨大な重心を失うことのように思えてくる。これから奄美はどうしていくのだろう、ぼくたちはどうすればいいのだろう。

 島に住んでいるわけではないぼくの弓削さんとの交渉は浅い。けれど、父亡き後に知り合い、年齢も近いこともあって、父の面影を弓削さんに重ねるように見ていたところがある気がする。昨年の九月、母の葬儀を終えて東京に戻ったときに、お電話をいただいた。両親を亡くしたことを伝えると、弓削さんは、いつでも視線を送ってくれた存在が無くなったとき、風が直撃してくるみたいにとても不安になったと、自身の経験を語り、慰めてくれた。それが最期のやりとりになった。

 これから彼は、奄美の郷土史家として知られていくことになるのだろうか。そうには違いないのだけれど、弓削の方法を思えば、「文字の考古学者」という言葉がぼくにはやってくる。それは単に研究の方法というにとどまらない。あくまで「文字」を求めるという姿勢そのものが、文字史料が乏しいと言われる奄美の通念に激しく抗うものだった。ぼくは文字なき時代の心の考古を追おうとしているので、領域は必ずしも重ならないかもしれない。けれど、抗いをいとわない熱量は、引き継げると思う。

 いや、かわしてはいけないのかもしれない。弓削さんは、史料の発掘と論文の公開というだけではなく、それら資料の共有ということにも心を尽くした方だった。道はきみたちの前に拓けている、決して塞がっていない。そう彼は言っているのだ。それは弓削政己さんからの、無償の、心からの贈り物だ。

 その姿勢は、彼が発掘した「事実」に対しても向けられたものだったろう。弓削が、発掘した「事実」から新たな「解釈」を揚々と施すのではなくそこにためらいを見せたのは、島人や鹿児島に対する配慮からばかりではない。本質的にいえば、それは遠慮すべきことではないことだ。そうではなく、発掘した「事実」が意味することを紐解き、そこに繋がっている別の事実たちとの関係を捉え直すには、考古学者が行なう編年のような緻密な編集と、諸関係を結ぶ世界観が要る。単に、たとえば「差別はあった」を「差別はなかった」に置き換えれば済む話ではない。弓削は自分の発掘した「事実」ピースの前に何度も立ち尽くしたことがあるに違いない。彼は、その「事実」の重みに誠実であり、どう理解するかは、後に続く者たちへ委ねたのだと思える。

 委ねられたぼくたちはとても心もとない。しかし、奄美という少数者のなかに弓削政己がいたことを誇りに思う。それは励ましとなってぼくたちのなかに生き続ける。弓削さん、ミヘディロ、トートゥガナシ。

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2016/03/08

「サンゴの島々からの不思議な、贈り物」

 B&Bのトークイベント、「サンゴの島々からの不思議な、贈り物」を終えた。『珊瑚礁の思考』をめぐってまとまった話しをするのは初めてで、つっかえつっかえではあったが、ひと通りお伝えしたいことは口にすることができたと思う。

 それは、琉球弧の死生観という意味では、トーテミズムと再生があり、そして高神や来訪神が出現するまでは(厳密にいえば、洞窟が塞がるまでは)死者の存在が身近にあり、「あの世」も実在の場所として身近にあったということだった。柳田國男は山中他界に、折口信夫は海上他界にこだわった。吉本隆明は、それらを踏まえるととともに、アイヌに見られる洞窟に着眼して、霊魂の行き先を、洞窟、山、海(または海、山)として段階化してみせた(「詩魂の起源」)。これを琉球弧の精神史からみれば、洞窟は境界としてあり、その先に山や海や地下の身近な「あの世」があることになる。この場合、地下や山、海は同位相にあり、後先は問わず、山と地下、海と地下は同時に存在しうる。

 その構造と段階を垣間見せてくれるのが、琉球弧の魅力だ。そしてそれを伝えられることが、琉球弧から本土への贈り物ではないかと、今回は考えてみた。また、『霊性の震災学』で見られる幽霊や、墓、慰霊碑に対する新しい向きあい方などは、琉球弧の死生観から見れば、縄文の心の噴出に見えるということも付け加えた。それは、「未来の縄文」なのかもしれない。

 それにしても、松島由布子さんが石垣島から運んでくれてみなさんにお渡しすることができた珊瑚石と、下地暁さんの「伊良部とうがに」がよい導き手となってくれた。仲程長治さんの、琉球縄文の島人と同じ眼で見ているような写真と、手で触れられる珊瑚石、下地さんの「伊良部とうがに」は、メッセージをより体感に近づけてくれたと期待したい。ぼくとしては、参加してくれたみなさんが、マイ・トーテムを見つけたり、故郷の縄文期の人たちが、どこに境界と「あの世」を考えていたのか探究に乗り出してくれたりしたら、とても嬉しい。

 今回の手応えからすれば、『珊瑚礁の思考』×画像(映像)×音楽というテーマは今後も追求できそうだ。終了後、映画監督の古勝敦さんと、「あの世」がニライカナイとして遠隔化する前の島の世界について話せたのも楽しかった。この世界を復元してみることで、古くて新しい物語が紡ぎだされるのではないかと想像すると胸が膨らむ。

 さて、当日のプレゼンテーション資料をアップしてみた。何を話したかはここからは分からないけれど、画像集として雰囲気は見てもらえるのではないかと思う。

 また、この企画を立ちあげてくれた大川雅生さんにお礼を申し上げたい。とーとぅがなし。


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2016/03/07

赤と白-赤碕と寺埼 2

 赤碕と寺崎について、久しぶりに考えてみる。

 寺崎については、村山七郎が、ジャワ語 sila[光線]、フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導き、そこからティラ-ティダを祖語として、それが「白」につながるとして、「輝かしいこと、ひかり輝くこと、光」という意味を想定したのが妥当だと思える。

 実際、日中の寺崎の浜は、目が痛くなるほどまぶしくなる。砂の粒がきめ細かいのだ。

 辺戸の岬を東側に廻ると、奥集落に注ぐ奥川が流れているが、その上流にアラマタ・アハマタと呼ばれる支流がある。また、奥集落の湾入を囲む岬はアカサキ(赤碕)と呼ばれ、海からあがってくる神の足だまりの浜である。アラ、アハ、アカは、ともに海神にかかわりをもつ地名である。アラマタは源河川の支流アラマタガーとも通ずるであろう。(『南島文学論』)

 この地形上の特徴をみると、赤碕の「赤」は色ではなく、結局オー系の地名と見なしてよいように思える。要するに中空にある埼だ。

 この周辺にある奥、安田、安波、安部赤碕は、すべてこの系列にある地名ではないだろうか。外間守善は、これらをアラ神に結びつけ、それだけはく、稲作と北方からの南下を結びつけた。こうした過剰な意味は、いちど脱色されなければならないと思える。

 ただ、考えなければいけないのは、与論の赤碕も国頭の赤碕も、東に位置していることだ。崎山理が言うように、「赤」が「昇り」を語源にしているとすれば、日の昇る埼を意味する可能性もある。

 cf.「赤と白-赤碕と寺崎」


外間守善『南島文学論』

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2016/03/06

オー系地名としてのアラ

 吉本隆明の「表音転移論」。

 ア行音の濁音とラ行音の濁音は、じっさいに出あうことはなく、これを消去するような例をもたない。そうかといって同一性と等価性の行音をもたないわけではない。ア行音の濁音はワ行音の濁音は同一だし、ハ行音の濁音と等価だとみなされる。じっさいにいままでの範囲では、その具体的な例にであわないのだ。またラ行音の濁音は、ハ行音の濁音と同一と見なすことができ、ア行音の濁音と等価とみなすこともできるとおもえるが、いまのところそんな事例にであっていない。

 新城島(アラスク)を、オー地名のひとつだと見なすと、

 awa → aba → ara

 これは、吉本のいう「ラ行音の濁音は、ハ行音の濁音と同一と見なすことができ」る例だとおもえる。

 谷川健一は、加計呂麻島の島人がアロッチュと自称したkとについて、こう書いている。

さきに、カケロマ島の住人が自分たちのことをアロッチュと呼んでいたことを紹介したが、このことはアロウ島のもう一つの側面を伝えている。おそらく岩石の多い不毛な島である、という自卑の語感がそこにこめられている。アロウ島が荒びの島という場合に、死者の世界が荒涼とした不毛な風景として描かれていたことが推定される。(『南島文学発生論』)

 これは、加計呂麻島と「あの世」に対して失礼と言うものだ。


『ハイ・イメージ論2』


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2016/03/05

母原としての|N|音

 ぼくたちは、「沖の島」、「奥武」、「ユナ系」名称について、いくつかの想定をしてきた。

 たとえば、

1.黒島(クル)
 patiruma → hatiruma → katiruma → kairuma → kairua → kuru
 [p→h, h→k,tの脱落,mの脱落,ai→u,ua→u]

2.オボツ
 awa → awu → abu → nbu → ubu オボツ(ツは格助詞「の」として)

3.ザン(zan) ジュゴン
 ・yunanuiyu → dunanuiyu → zunanuiyu → zunanuiu → zananuiu → zyanauiu → zyan → zan

 などだ。

「ん」(|N|)音の潜在的な存在の意味は、たぶん多重母音(母音の積み重ね)をあらわしているにちがいないとおもえる。(「語母論」)
 東北語や西南語の語頭にきたばあいの|N|音は、a・i・u・e・oのような母音要素よりもさらに母原的なものではなかったろうか。(「脱音現象論」)
(前略)語と語のあいだ、また語中や語頭、語尾に単音化や縮音化や無音化が、また逆に、反単音化がおこったりすることは、ばあいにより当然ありうると考えられる。そしてその極限で語頭、語尾の|N|音がうまれることも肯定できそうな気がする。(「脱音現象論」)

 これまでの例のなかでいえば、同じ意味を現わす単語のなかで、他と異なる音韻にしようとする場合、母音間の移動は奔放と思えるほど、a、i、uの間を行ったり来たりしている(厳密化のためにはこうは言ってはいけないのだろうが)。それも特徴のひとつに挙げられるかもしれない。

 多重母音の場合、語尾でも|N|音化は起きる。

 また、|N|音が「母音要素よりもさらに母原的なものではなかったろうか」と吉本が言うことを、ぼくたちは、「nbu → ubu」の転訛のなかに見ている気がする。あるいは、これは「abu → ubu」でいいのかもしれない。

4.慶良間島(ギルマ)
 patiruma → hatiruma → atiruma → agiruma → giruma
 [p→h, h→k,k→g,]

 「竹(take)」が、「tagi」となるように、母音間の|k|は|g|となる。

5.古宇利島(フィフィ)
 patiruma → hatiruma → hairuma → haiuma → haiua → hui
 [p→h, tの脱落,mの脱落,rの脱落,ua↓,a→u,]

 これらの語音に耳をかたむけながら、わたしたちが感じることは、それとなく自然の景物のなかに飛び交っている自然音の、とても近くにあるという印象だ。自然音を擬音化したというのではない。景物から自然に発せられた音を切片のように取集めてつくられた印象といった方がちかいのだ。ここで想像をひとげれば、こういう言語の特徴は、景物や、景物や天然現象を擬人化し、その景物や天然の発音する兆候を言語のように聴くことができる特質につながっているようにみえる。(「語母論」)

 古宇利島の「hui」は、ここでいう自然音の近くにまで収斂した例だと考えられる。


『母型論』

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2016/03/04

『呼び覚まされる 霊性の震災学』

 第2章では、「追悼」でも「教訓」でもない「記憶」型と名づけられた慰霊碑が紹介されている。

 閖中の遺族会では、「子どもたちが生きていた証しを残したい」という目的が共有されていた。慰霊碑の周りには、献花台や焼香台を設けない。

「子供たちは神様じゃないから、拝んでもらう必要はない」。

 追悼型の慰霊碑が保存するのは亡くなったという事実であり、教訓型は災害を後世に語り継ぐという役割を果す。しかし、記憶型の慰霊碑が保存するのは、「子どもたちが生きていたという事実そのもの」だ。わが子を記憶し続けるために建てられる慰霊碑だ。

「慰霊碑が誰も近づくことがないただの冷たい石になって、子どもたちが寂しくならないように、人の集う場所を設けたくて開所することに決めた」
「形としてわが子の名前が存在する場所だし、中学生の子どもにとっては楽しい思い出がある拠り所だと思うの。だから遊びにも来ているだろうし、わが子に会える場所」

 この章の著者の菅原優は、「追憶」の霊魂観は、祖先崇拝と慰められた霊魂が霊性を獲得して守護神化する側面を挙げている。これに対して記憶型は、死者を祀り上げるのではなく、「わが子を抱きしめるような感覚」が存在している。

 記憶型の慰霊碑の前で、遺族はまるで生身の人間に語りかえるような言葉をなげかけ、そして抱きしめる。菅原は、この旧閖中の慰霊碑は、これから主流化していくべき「慰霊碑の理念型」を示していると書いている。

 『珊瑚礁の思考』で考えてきたことからいえば、記憶型の慰霊碑というのは、生と死の分離以前の移行の段階に戻っていく印象を受ける。これは祖先崇拝の解体の現われではないだろうか。

 宮城県山元町では、墓やそこに埋められているはずの骨まで根こそぎ、津波で流されてしまった。だから、墓は移転せざるをえない。しかし、慰霊碑は、元の墓のあった場所に建てられた。この場合の慰霊碑への態度は次の言葉から読み取れる。

「ご先祖様のすみかは徳本寺の中浜新墓地に移ったんですよ、という思いで(千年塔に)手を合わせるのがいいのかなと思うんですよ」

 ここでは墓と「あの世」が逆転する関係になっている。千年塔という慰霊碑が墓であり、移転し墓が「あの世」という。でもここにも、死者を死者として扱う仕草が見えてくる。

 この章の著者の斎藤源は、埋め墓(ウメバカ)と詣り墓(マイリバカ)という両墓制の概念を引いている。民俗学では、墓を二つにする大きな理由として、死穢忌避の観念が挙げられる。けれど、千年塔のあり方を見た斎藤は、こう結んでいる。

二つのお墓があるからこそ、両方をお参りして安心することが可能になったのである。即断するわけにはいかないがこれらの知見から考えられる可能性として、両墓制は従来より、先祖の霊魂に対する人びとの心情、身の丈に合わせることができる柔軟性を持ったお墓の型といえるのではないだろうか。

 これもぼくたちの視点からいえば、両墓制の発生は、死穢ではなく、生者と死者の生きる世界を区別した段階で生れた。死者は、特定の「あの世」へ行く。その観念が、「埋め墓」と「詣り墓」の二重性を生む母体になっている。こう捉えれば、「詣り墓」も、かつての「あの世」の名残りなのかもしれない。

 驚くことに、ここでも生と死が、分離ではなく、移行として捉えられた段階への回帰が見られる。

 それは、死が露出したから出来事から呼び覚まされた感覚なのかもしれない。あるいは、そういう時代に移行しつつあることのシグナルなのかもしれない。『珊瑚礁の思考』と不思議なシンクロがあって、印象に残る本だ。

 

『呼び覚まされる 霊性の震災学』


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2016/03/03

ユナ・ユウナ・イノー・ザン・イヤ

 ユナ系名称の音韻変化を辿ってみる。

 ユナ(yuna) 砂州

 ユウナ(yuuna) ハマボウ
 ・yuna → yuuna

 イノー(inoo) 礁池
 ・yuna → iuna → inau → inoo

 ザン(zan) ジュゴン
 ・yunanuiyu → dunanuiyu → duanuiyu → zuanuiu → zanuiu → zan(zyan)

 イヤ、ヨナ、イザ 胞衣
 ・yuna → iuna → iua → iia → iya → ida → iza


 イノーやイヤの場合の、yu → iu、 ia → iya のような分解や構成は、下記を参考にしている。

 ya yu yo
 wa   wo

 まず、「や」行の「y」は、ヨーロッパ語で「ギリシア語のi」といわれるように「い」に近い音ですから「イ」で表記すると、「や」行は「イぁ」=「や」、「イぅ」=「ゆ」、「イぉ」=「よ」となります。
 同様に、「わ」行の「w」は「う」に近い音ですから「ウ」と書くと、「ウぁ」=「わ」、「ウぉ」=「を」となります。
 このように「や」行音と「わ」行音」は母音の二つ重ねでしか出てきません。子音のなかではちょっと特殊な音と解釈すべきです。(吉本隆明「日本語の簡略化」)

 また、ザンにおいて、「zan」と「zyan」を想定しているのは、「せんせい」が「しぇんしぇい」と発音されるような訛音化や下記を参考にしている。

ヤコブソンは閉鎖音のつぎにくる摩擦音を、オーストラリア、タスマニア、メラネシア、ポリネシア、アフリカ、南アメリカの原住語は欠いているという。日本語もまるまる摩擦音をもたぬとはいえないが、本来的にはサ行音(s音)のような摩擦音の発音はしづらい。またf音のような摩擦音は、ひと通りの意味では存在しないとみてよい。その意味ではオーストラリア、タスマニア、メラネシア、ポリネシア、アフリカ、南アメリカの原住語とおなじ発達段階の特徴を保存しており、その段階で停滞した言語の母音・子音の体系をつくりあげている。(吉本隆明「起源論」)

『吉本隆明 最後の贈りもの』

『母型論』

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2016/03/02

「魚になった木の葉たち」(秋道智弥)

 ミクロネシア、サタワル島の魚の増殖儀礼が面白い(秋道智弥「魚になった木の葉たち」『季刊人類学』1989)。

 魚の増殖儀礼は、カトー・イークと呼ばれ、集団的ではなく秘儀的に行なわれる。秘儀を行なうのは呪文と知識を習得した人、サウ・ロン。酋長がコウと呼ばれる贈与(ロープ、腰布など)を行なうと、儀礼が行なわれる。カトー・イークは、特定の呪文と呪薬(サフェイ)が用いられる。

 魚を呼ぶためのサフェイは、呼ぶべき魚を何種類かの植物を用いて模倣的につくり、木の葉の袋に入れて、ココヤシ葉製のバスケットに入れる。

 サフェイの入ったバスケットは、潮流に流れないように上から重石をしてリーフの内側の浅瀬に沈められる。サフェイを沈めた場所に木の棒を一本立て目印にする。そこは聖域として、航行、水浴、排便は禁止される。

・流木のサフェイ(名称として24種類、区別されている)

 この植物の枝や根の部分が利用される。

・流木漁のサフェイ

 魚の形に応じて、類似した形の木の葉が用いられる。樹皮であることも。

・カツオとマグロのサフェイ

 筋肉、骨、眼など、11の部位に対して7種類の植物が利用される。

・魚の餌に対するサフェイ

 タカサゴ:ミズガンヒの葉を多く集めて使う。
 プランクトン:ココヤシの実の生育段階でもっとも若いものを使う。米粒より少し大きい。これを数十個。
 ハリセンボンの幼魚:アラの実を5~10個。アラの実のトゲが、ハリセンボンに似ていると見なされる。
 ウジを集める。カツオやマグロが海面上で群れをなしている状態に似ていると見なされる。


 「流木漁」は、南からやってくる。「カツオ・マグロ」はノモイ・ラタックという海域から来ると考えられている。ラタックは東にある特定の島とされている。「サンゴ礁の魚」は、海底にあるファノ・サットと呼ばれるカヌー小屋からもたらされると考えられている。それは底釣りで利用する外洋のさらに深いところにある。

 いったん、木の葉が魚に変換され、そののち島にもたらされる。この移行のあいだ、4日間、漁撈は控えられる。

 この、似ているものをつなげていく霊力思考のさまが楽しい。サンゴ礁の魚がもたらされる外洋の深いところにあるカヌー小屋は、琉球弧でいえばニライそのものだ。

 

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2016/03/01

アラ地名(外間守善)

 外間守善は、アラ地名について、いくつも検討しているが、このうち、地名の特徴がよく出ていると分かるものを挙げてみる。

 新城島の古名アラスク。池間島のサンゴ礁域は外洋に対してアラハ。安田のアラハ。本部の突端にある備瀬の御嶽、アラサケ嶽。来間島の西方海端の西アラサキ御嶽。久米島の小高い山アーラ岳。

 この他、本土のアラ地名へと言及は及ぶ。

 そしてその素性として、いくつか挙げているが、そのひとつ。

アラ地名のある周辺には、アラハ、アラバのほかアハ、アブ、アカ、さらにオー、オーハ、オーブ、オール、テラ等々、海人(海神)にかかわる地名の分布しているのが目立つ。

 外間は、これらの地名をどうしても、「遠来の海人族・渡来人と、彼らがもたらした稲作文化」に関係づけ、「九州の方から島伝いに渡ってきた人たち」と位置づけたがっている。

 しかし、可能なのは、せいぜい海人がつけた地名というほどのことだ。オー系の地名の分布も目立つのは、同様の地形のあるところだからで、結局のところ、アラ地名は、オー地名と同じ、中空あるいは地先という意味を示しているのだと思える。


『南島文学論』


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