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2016/03/18

おのころ島と淡路島 2

 入谷仙介は「淡路島の伝承と民間信仰」のなかで、おのころ神社について、書いている。

 自凝(おのころ)神社をその遺跡として信じている。自凝神社は、三原平野のほぼ中央に位置する小丘の上に鎮座する神社である。この丘からは、三六〇度の展望が開け、南西に南辺寺山、南方に屏風のように連なる島で最も高峻な諭鶴羽山脈、北に先山を盟主とする島中部の群山を望むことができる。これらの山々に囲まれた三原平野の景観は、小島の内部と思えない雄大さである。古代の人々がこの地を、天地のはじめのところとして崇拝したのも実感され、ここから先山を仰ぐと、このお山が国生みの最初に出現したというのも、かならずしも荒唐無稽な空想だけではないように思われる。古代には、三原平野は入海だったともいわれる。もしそうだとしたら、ここは海中の小島であった。人々は、海が干上がって陸となり、島が地続きになるのを目撃していたことになる。

 ぼくたちが注目するのは、「三原平野は入海だったともいわれる」ことで、おのころ神社が「海中の小島」であったかもしれないということだ。

 実際、どういう光景が出現していたのだろう。考古学の知見を手がかりにしてみる。高橋学は、7500yB.P.には、「三原平野では湾口部に、沿岸流で北から南へと砂嘴が延びはじめていた」と書いている。砂嘴(さし)とは、「鳥のくちばしのように延びた堤防状の砂の堆積」のことだ。

 6300y.B.P.の頃、海域は最大に達する。「この時に倭文川、成相川、三原川および大日川は、マガキ、イボウミニナ、ウラカガミなどの生息する内湾に、それぞれ独立した河川として流入していた」。

 三原川の流路沿いには砂礫が堆積し、鳥趾状をなして内海に向かって突出していた。そして、堆積から取り残された部分は、interdistributary bay状をなし、有機物に富むシルト混じり砂が堆積していた。三原川の流路は、レンズ状の断面形をとる砂礫層の分布範囲の変化から、海域の拡大期には西から北西へ向きを変え、海域の縮小期には北西から西へ方向を変化させたことが推定される。

 イメージを持つために、ミシシッピ川の鳥趾(とりあし)状三角州はこうなっている。

「ミシシッピデルタ」

Misisippi

 interdistributary bayは、「分流間湾」のこと。分流した川の河口部の両端のあいだが部分的に湾状になっていることを指しているのだと思う。

 おのころ神社は、三原川沿いにあるので、まさに鳥趾状の陸地になっていたと思われる。だから、入谷の言うように、「海中の小島」であったわけではないが、まさに海向こうに盛り上がったところとして見えたのは確かだと思える。おのころ島神社のある小丘の、この成り立ちは、「塩こをろこをろにかきなして」引き上げたところ、矛の先からしたたった塩が凝ってできたという神話の記述と見事に対応しているようにみえる。

 その後、海水準は次第に低下し、2600y.B.P.には「湾口部に砂堆の形成が進んだため、かつての内湾は潟湖の様相を示すようになった」。また、「湾口部では、(中略)潮の出入りする流路が存在し」ていた。砂州を下に湖のようになった潟湖(せきこ)。潟湖はラグーンとも呼ばれる。まるでサンゴ海だ。イザナギとイザナミがおのころ島をつくるときに立つ「天の浮橋」は、潟湖のなかの列をなした砂堆のイメージにぴったりではないだろうか。潮の香り豊かな神話の記述とこの頃の三原平野の光景は対応している。

例.北方湖
Photo


 吉本隆明は、おのころ島について、こんな連想をしていた。

 天から岩や土砂を投げて島ができるという神話は、大林太良が収集した見解ではポリネシアタイプのもので、琉球の神話はこの型とおなじものだとされている。『記』の神話は、岩や土砂を投げて島を造るのではなく、海の塩水をかきまぜて矛から滴った塩が積って島ができたことになっている。これは土砂を上から投げたり水平に投げるといった神話のヴァリエーションとみることができ、土砂のかわりに塩水の滴りが凝って塩が積って島ができたということになったとおもえる。わたしはこのヴァリエーションのところを読むたびに、海辺の砂地に海の水を繰りかえしまいては天日に晒す塩田の潮採りの作業をイメージする。瀬戸内や南の島の海辺の塩田風景のイメージが創らせたヴァリエーションのようにおもえてくる。(「起源論」)

 吉本は見事な幻視をしているということではないだろうか。小丘の成り立ちは、ここがまさにおのころ島のモデルになった場であることを示してるように見える。

 淡路の島人は、海に隔てられた、あるいは海に近いこの小丘を「あの世」との境界とし、そこをトーテムや人間の出現の地としたはずである。そして、「あの世」が発生すると、「あの世」の地となった。この地の伝承を、大和朝廷勢力は、神話の初期に組み込むことになったと思える。

 友ヶ島や沼島は「おのころ島」ではないと言う必要はない。そこも、「山頂崇拝がことに盛んでった」(入谷)淡路の、その山と同じく、「あの世」の山や島であり、同様に聖地だった。そういう意味では、「おのころ島」の面影を背負っているのだ。

 cf.「おのころ島と淡路島 1」


『瀬戸内の海人文化 (海と列島文化)』

『平野の環境考古学』

『母型論』

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