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2016/02/03

書評『珊瑚礁の思考』(「南海日日新聞」)

 1月30日の「南海日日新聞」に『珊瑚礁の思考』の書評が掲載された。奄美の地方紙だし、目に触れることのない人も多いので、ここに引用して、ぼくのコメントを付けておきたい。

 「斬新、ナイーブな南島論(須山聡)」

 本書は琉球弧に暮らす人びとのあり方と世界観(著者の言葉では「野生の精神」、レヴィ=ストロースのパクリか)を、南太平洋諸島における民族学・文化人類学・考古学の業績を参照しながら、琉球弧に残る儀礼や伝承から見いだそうとする試みである。

 文化人類学・日本民俗学の分やでは「南島論」は独自の地位を占める。しかし、研究者の過半は本土の人で、日本の原郷を南島とする構図からなかなか抜け出せないまま(柳田国男の呪縛でもある)、研究が蓄積されてきた。著者はアカデミズムからは一線を画し、琉球弧の視点に立ち、琉球弧の人びとの心象を探り出そうとしている。いわば「地元からの南島論」と本書を位置づけることができよう。

 最後まで読んで分かった。本書は前著「奄美自立論」に続く、著者の「自分さがし」の本なのだと。琉球侵攻以降400年余の奄美を、前著では「失語」という言葉で総括した著者は、後味が悪かったのだろう。本来の奄美の姿を、さらに遡った時代の心に求めたかったのだと。琉球弧とくるめた言い方をしているが、著者の視線は奄美、さらには与論に向けられている。琉球王国が支配する以前の奄美については、史料や文献がほぼ皆無である。その意味においては15世紀以前の奄美もまた、失語の霧の彼方にあるが、文字なき時代にこそ、本来の精神が息づいていたと著者は考えた。

 本書の支柱となるのは、「霊力思考」と「霊魂思考」という二つの心のあり方である。霊力思考がすがた・かたちをとらえ、ぼんやりとした類似性にとどまっているのに対し、霊魂思考はメカニズムや秩序を指向し、しくみ・しかけを見いだす。霊力思考は時代を経て霊魂思考に置き換えられるが、それは完全な入れ替えではなく、両者は地域的・じだいてきに強弱をともないつつ併存する。二つの考え方が織物のように綾をなし、それぞれの地域の精神を形作ると著者は言う。人間の世界認識一般を理解する上で、評者にはこの二つの思考形態がとても魅力的である。奄美や琉球弧という限定性を取り払っても有効な、普遍性をもつアイデアであるとい思う(ネーミングに難ありとは思うが)。

 評者は、本書を読むに当たってタイヘンな思いをした。本書の主語は、全編通じて「わたしたち」である。著者は読者の理解に寄り添って語りかける優しい人なのだと思い(実際、著者は寛容な人で、姜尚中を彷彿とさせる)、気をよくしつつ本書を読み進めた。ところがこの一人称複数形は、時として「与論島のわたしたち」「奄美群島のわたしたち」に横滑りして(そんなことを著者はイチイチ注釈しない)、「読者である私たち」を置き去りにする(多分、著者は気づいていない)。著者である「わたし」はブレないのだが、「たち」の範囲は大きく振幅する。

 「たち」の揺らぎに翻弄されることが、ナイチの人間には悔しい。シマで生まれ育った人には、いちいち腑に落ちるエピソードが満載なんだろうな、数十年前の儀礼を見たり、祖父母から昔話を聞いた人には「あるある」なネタがてんこ盛りなんだろうな、この本・・・。暗黙のうちに琉球弧や奄美が共同幻想化され、それを前提に思索が展開されているのに、評者はそれを身体感覚として理解できないし、ついて行けない。いや、文句を言いたいのではなく、琉球弧の共同幻想に自分が組み込まれていないことを寂しく思っただけえだる。斬新でナイーブな、新たな南島論の誕生を喜びたい。(駒澤大学教授・人文地理学)

 まずは、書評者には感謝したい。厚めの本であり、書評を書き起こすにも相応の労力がかかるものだと思う。

 「地元発の南島論」というのは、ぼくもそのつもりで書いた。なにしろ、ぼく自身が「地元発の南島論」を待望していたのだから。自分がその書き手になるとは思ってもみなかったが、そういう意味では、自分が読みたい本を書いたことになる。

 「自分さがし」のところでは笑ってしまった。たしかに、アイデンティティを追求しているには違いないが、それを前面に出したものではない。他人の「自分探し」を読まされるのははた迷惑なのだから、ここは本書のために断っておきたい。それに「自分さがし」というより、「わたしたち探し」と言ったほうがいい。また、アイデンティティ追求といっても、それは根本的なモチーフではない。それがとてもシンプルで、文字を持たなかった島人のように感じ、世界を見てみたい。もしその時代の島人が目の前に現われて、話し通じる奴になりたいということ。それに尽きる。

 奄美を「失語」と形容したのは後味が悪いといことはない。静かにゆるやかに克服されている面もあるが、基本的に「失語」を呼ぶ構造は変わっていないと思っている。また、「わたしたち」の振幅について、「著者が気づいていない」ということもない。気づかれるかなと思っていたら、案の定、担当編集者からも指摘されて、部分的に「わたしたち」には限定を加えたが、本当はそれをしたくなかった。空間で区切れば、「わたしたち」は琉球弧になるが、時間の深層をたどれば、本土や太平洋の諸島にも届く「わたしたち」になると考えたからだ。ぼくとしては、「おいでおいで」をしているつもりなのだ。もっとも、それがうまくいっているかどうかは別にして。日本語の書物では、しばしば自分たちのことはカウントされていないことを感じずには読むことができず、果てはカウントされていないことを前提に読むようになる経験を味わってきた立場なのだから、気づかずに書くはずはないのだ。


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