「イノー」と「ユウナ」と「胞衣」(登山修「ヒジャヤグマと産屋」)
登山修が、胞衣について面白いことを書いている。
ハマボウ(アオイ科の美しい花の咲く植物)のことを沖縄ではユウナといい、瀬戸内方面ではユナギといっている。このユウナは胞衣のことを意味したものと考えられる。このユナギ(ハマボウ)は海岸の砂浜地帯にしか分布しない植物なのである。古代人たちは、このユナギは砂浜に埋めた胞衣(ヨナ)の化生と考えたのかもしれない。ちょうどそれは、オオゲツヒメの死体から穀物や蚕が生れて来た記紀神話を思わせるものである。胞衣は「霊魂の容器」であるように、このユナギの樹皮は繊維にして衣服にしたのだから、それは「赤児の身を包む容器」と考えられていたにちがいない。(中略)木綿以前は、このハマボウやフヨウが大事な繊維であったようだ。芭蕉布は加計呂麻島では多く生産されなかったようだから、そこでは殆どこのユナギが人間を包むという容器の材料になったものと思われる。
私の父方の祖母は、加計呂麻島の人だが、父が幼少の頃は芭蕉布を織り、それで仕立てた芭蕉衣(バシャギン)をもって、大島海峡を渡り、俗にヤマグン(山国)といわれる北側の阿木名方面で出かけ、芭蕉の繊維と交換して帰って来たという。加計呂麻島には芭蕉山が少ないので、ほとんど山国(ヤマグン)に頼っていたらしい。だから手近かにあるユナギ(ハマボウ)が日常生活でいかに役立っていたかがわかる。与路島では、戦後ユナギの樹皮の繊維で、釣糸をこしらえたものだと友人が語ってくれた。このことから、胞衣が「霊魂の容器」とであるようにユナギが「赤児の容器」であると考えても不思議ではない。
胞衣は霊魂の容器であるという神聖さと、それと反対にまた不浄なものであったことは否定できない。「汚い」ことを「ヤナギサ」といい、「悪口雑言」のことを「ヤナグチ」という。また、「汚物」を「ヤナギサムン」ともいっている。この「ヤナ」は「ヨナ」や「ユナ」の訛音と考えられる。それは腐敗した胞衣の状態をよく表現していると思われる。「南島雑話」や「諸鈍芝居のダットドン」を引き合いに出すまでもなく、このユナギはマナカ(便所)の傍に植えて、トイレット・ペーパーの代用にもしたという。ちなみに、柳田国男の「南島旅行見聞記」の中に、「ユーナの葉 雪隠用の木・・・ユーナは綿科? 花は木綿に似たり。」などとみえる。このあたりにもユナギの言葉の由来が感じとれる。またユウナの花は海中に散って、美しい熱帯魚になって泳ぎだすともいわれる。(「南島研究」17号)
登山の発想はこうだ。
1.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)
2.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)の化生。
3.ユナギ(ハマボウ)で赤子の衣服を織った。
4.「汚い(ヤナギサ)」は、ユナ(胞衣)の訛音。トイレット・ペーパー。
5.ユナギの花は熱帯魚に化身する。
このうち、3は確認されていない。4は、トイレット・ペーパーになることからの類推だが、それを汚いと「古代人」は感じなかっただろう。すると、確からしく残るのは、
1.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)
2.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)の化生。
5.ユナギの花は熱帯魚に化身する。
ぼくの考えを交えると、ハマボウがユナギと言われるのは、ユナ(砂州)に生える植物だからである。2は、胞衣が砂浜に埋められたら言えるかもしれないことだが、この前提にある、谷川健一が書いた「産屋に砂を敷く」という民俗の援用自体が、奄美で確認されない。
どう考えればいいだろうか。
登山は、ユナギが赤子の衣服になったから、胞衣をユナと呼ぶと考えている。そういう民俗は確かめられていないが、芭蕉に乏しい加計呂麻で、胞衣をユナと呼ぶ根拠にはなる。
まだ考えられるのは、
胞衣は、子を守り、包む。イノー(礁池)は亜熱帯魚を守り、包む。
胞衣は、イノーに似ている。だから、胞衣はイノーである。イノーはユナーの転訛と考えられるので、胞衣はユナと呼ばれる。
もうひとつあるのは、「汚さ」ではなく、
体 - 胞衣 - 子
体 - ユナギ - 便
子の排泄は、胞衣が媒介している。便の排泄は、ユナギが媒介している。ユナギと胞衣は似ている。胞衣はユナギである。そこで、胞衣はユナと呼ばれる。
こうであれば、ユナギが赤子の服でなくても、ユナギと胞衣はつながる。しかしこの場合、赤子の服に限って、ユナギが使われるのでなければ、ユナギと胞衣の結びつきは弱くなる。
また、ユナ(イノー)とユナギは、一体の同じものとして捉えられている。だから、ユナ(イノー)の子とユナギの子は、同じになる。そこで、ユナギの花は、亜熱帯魚に化身する。
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