足掛かりとしての木山島
鈴木宏昌は、「古代の難波」(『南島研究と折口学』1990)で請島について書いている。
この島には「島固め」という祭りがあって、その祭りの時には、島の東南海上にある木山島と呼ばれる島に、請島の神をはじめとして大島郡全体の神々が「ニラヤ」から集まってくるという。そして、その木山島を足掛かりとして請島や大島郡のそれぞれの土地に渡ってゆき、それぞれの土地に鎮座する。
これが本当だとしたら、木山は、ある意味で、沖縄島における久高島に近い役割を果たしたことになる。しかし、これを論じたという西村亨の出典は講演となっており、かつ、折口信夫の「胞の話」に絡めてとあるがこれも講演とあって、今のところどちらも原典も見つけられない。西村の講演はともかく、折口の講演はどこかにあるはずだから、見つけたい。
それにしても、またしても出典元の悩みだ。
これを補強すると思えることを仲松弥秀が書いている。
請島の隣り、与路島に来訪された神について、古老が少年時代に聞いた話は、
昔世、神は、島の南端のヨシドマリ埼に接した立神(突出した岩島)から来臨された。神はこの立神に上陸され、そこからヨシドマリ埼に、そして上の稜線を辿ってオボツ山に、そこから村へ・・・(『うるまの島の古層』)
この後段。
村前から出られた神舟は東南の海から東隣りの請島近くの東方の木山島に碇泊している大船に乗りかえてはるかな大洋へ行かれるという。
これは西村の講演に重なる証言になっている。
もうひとつ見つけた。加計呂麻島の武名。
テルコ神は刳船に乗ってまず請島の木山島につき、そこから各集落に分かれて行き、帰りはその逆順で木山島に集まってテルコに帰って行かれるという。(小野重朗の『南島の祭り』1994)
少なくとも、与路島と加計呂麻島においては確認できる。
ところで、与路島や加計呂麻島から木山島は目視できないから、この神の行路は木山島が、与路島や加計呂麻島にとっての他界の島であったことを意味しない。おそらく、オボツ地名に勢力を持った集団による作為だ。
もう少し、見つけられる。
奄美大島の属島の請島に隣接する無人の小島を木山島といい、昔、奄美大島のノロたちはここに集結して南下し、沖縄へ行ったと伝えている。それは島津侵攻の前から行なわれていたらしいが、その後も辞令こそもらえないけれども、神具などの入手に行ったとも伝えている。(下野敏見 『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』)
つまり、この作為は琉球王朝によるものだ。
もうひとつ。
例えば奄美南部の加計呂麻島阿多などでは四月の神送りのときは、同島南海岸の各部落から神々の船が出発し、全部の神々が請島の東方にある無人島の木山島に集まって一泊し、その翌日、真北の風で東南方の海に繋がるネリヤの島に帰るという話をヨーゼフ・クライナー氏は報告している。(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)
ここでやっと西村亨の講演内容と脈絡がついてきた。
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