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2016/02/29

足掛かりとしての木山島 2

 木山島についての、ヨーゼフ・クライナーの記述。

 東の方で海の彼方にある極楽は加計呂麻島でネリヤカナヤまたはテルコとも呼ばれて、稲そのほかの農作物の種をはじめ、火などの文化の宝物が来た所で、毎朝太陽が出るアガルイという国と同じである。阿多地ではこういった奄美のどこにも残っている伝説のほかに、オホリ祭のとき加計呂麻島南海岸の各部落から神々の船が出発し、全部請島の東方にある無人島木山島に集まって泊まり、その翌日マツニシ(北北東)の風で東南方の海に及ぶネリヤ島に帰るという伝説が伝わっている(武名・花富と与路にも同じ伝説がある。)(「加計呂麻島ノロ信仰覚書」「奄美郷土研究会報」8号 1966)

 やっと出会ったクライナーの文章が、これまでの記述ではもっとも具体性があって信憑性がある。ので、マッピングしておこう。

 cf.「足掛かりとしての木山島」


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2016/02/28

「イノー」と「ユウナ」と「胞衣」(登山修「ヒジャヤグマと産屋」)

 登山修が、胞衣について面白いことを書いている。

 ハマボウ(アオイ科の美しい花の咲く植物)のことを沖縄ではユウナといい、瀬戸内方面ではユナギといっている。このユウナは胞衣のことを意味したものと考えられる。このユナギ(ハマボウ)は海岸の砂浜地帯にしか分布しない植物なのである。古代人たちは、このユナギは砂浜に埋めた胞衣(ヨナ)の化生と考えたのかもしれない。ちょうどそれは、オオゲツヒメの死体から穀物や蚕が生れて来た記紀神話を思わせるものである。

 胞衣は「霊魂の容器」であるように、このユナギの樹皮は繊維にして衣服にしたのだから、それは「赤児の身を包む容器」と考えられていたにちがいない。(中略)木綿以前は、このハマボウやフヨウが大事な繊維であったようだ。芭蕉布は加計呂麻島では多く生産されなかったようだから、そこでは殆どこのユナギが人間を包むという容器の材料になったものと思われる。

 私の父方の祖母は、加計呂麻島の人だが、父が幼少の頃は芭蕉布を織り、それで仕立てた芭蕉衣(バシャギン)をもって、大島海峡を渡り、俗にヤマグン(山国)といわれる北側の阿木名方面で出かけ、芭蕉の繊維と交換して帰って来たという。加計呂麻島には芭蕉山が少ないので、ほとんど山国(ヤマグン)に頼っていたらしい。だから手近かにあるユナギ(ハマボウ)が日常生活でいかに役立っていたかがわかる。与路島では、戦後ユナギの樹皮の繊維で、釣糸をこしらえたものだと友人が語ってくれた。このことから、胞衣が「霊魂の容器」とであるようにユナギが「赤児の容器」であると考えても不思議ではない。

 胞衣は霊魂の容器であるという神聖さと、それと反対にまた不浄なものであったことは否定できない。「汚い」ことを「ヤナギサ」といい、「悪口雑言」のことを「ヤナグチ」という。また、「汚物」を「ヤナギサムン」ともいっている。この「ヤナ」は「ヨナ」や「ユナ」の訛音と考えられる。それは腐敗した胞衣の状態をよく表現していると思われる。「南島雑話」や「諸鈍芝居のダットドン」を引き合いに出すまでもなく、このユナギはマナカ(便所)の傍に植えて、トイレット・ペーパーの代用にもしたという。ちなみに、柳田国男の「南島旅行見聞記」の中に、「ユーナの葉 雪隠用の木・・・ユーナは綿科? 花は木綿に似たり。」などとみえる。このあたりにもユナギの言葉の由来が感じとれる。またユウナの花は海中に散って、美しい熱帯魚になって泳ぎだすともいわれる。(「南島研究」17号)

 登山の発想はこうだ。

 1.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)
 2.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)の化生。
 3.ユナギ(ハマボウ)で赤子の衣服を織った。
 4.「汚い(ヤナギサ)」は、ユナ(胞衣)の訛音。トイレット・ペーパー。
 5.ユナギの花は熱帯魚に化身する。

 このうち、3は確認されていない。4は、トイレット・ペーパーになることからの類推だが、それを汚いと「古代人」は感じなかっただろう。すると、確からしく残るのは、

 1.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)
 2.ユナギ(ハマボウ)はユナ(胞衣)の化生。
 5.ユナギの花は熱帯魚に化身する。

 ぼくの考えを交えると、ハマボウがユナギと言われるのは、ユナ(砂州)に生える植物だからである。2は、胞衣が砂浜に埋められたら言えるかもしれないことだが、この前提にある、谷川健一が書いた「産屋に砂を敷く」という民俗の援用自体が、奄美で確認されない。

 どう考えればいいだろうか。

 登山は、ユナギが赤子の衣服になったから、胞衣をユナと呼ぶと考えている。そういう民俗は確かめられていないが、芭蕉に乏しい加計呂麻で、胞衣をユナと呼ぶ根拠にはなる。

 まだ考えられるのは、

 胞衣は、子を守り、包む。イノー(礁池)は亜熱帯魚を守り、包む。
 胞衣は、イノーに似ている。だから、胞衣はイノーである。イノーはユナーの転訛と考えられるので、胞衣はユナと呼ばれる。

 もうひとつあるのは、「汚さ」ではなく、

 体 - 胞衣  - 子
 体 - ユナギ - 便

 子の排泄は、胞衣が媒介している。便の排泄は、ユナギが媒介している。ユナギと胞衣は似ている。胞衣はユナギである。そこで、胞衣はユナと呼ばれる。

 こうであれば、ユナギが赤子の服でなくても、ユナギと胞衣はつながる。しかしこの場合、赤子の服に限って、ユナギが使われるのでなければ、ユナギと胞衣の結びつきは弱くなる。

 また、ユナ(イノー)とユナギは、一体の同じものとして捉えられている。だから、ユナ(イノー)の子とユナギの子は、同じになる。そこで、ユナギの花は、亜熱帯魚に化身する。

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2016/02/27

葬儀の「笑い」とトリックスターの神の神話

 山口昌男は、葬儀での「笑い」について書いている。

 西アフリカのコート・デイヴォワール(象牙海岸)のアグニ族の葬礼では、ある人の死後七日七晩にわたってどんちゃん騒ぎを続け、その間にトリックスターの神の神話が語られる。私はこの文化に直接接したことはないが、スリナムの内陸地帯のアフロ=アメリカ系の集団ジュカ族の毎年の死者供養の儀礼で、夜を徹して踊り、その中で三人一組で道化の茶番が演じられているのに立ち会ったことがある。(中略)道化=トリクスターが死者と生者を結びつけるという気分はかなり普遍的なものである(後略)。(『内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘』)

 これは、人類学者のハッドンが、トレス海峡のプル島について、「死者の踊り」について、書いていたことを思い出させる。そこでは、仮面は最近亡くなった死者を現わすが、感情の高ぶった近親者の興奮をほぐすため、仮面はおどけて笑わせたりもしていた。(It must be remembered that these people are highly strung, excitable and very affectionate, the mere sight of the photograph of a deceased relative will cause them immediately to begin crying, and as readily can they be made to laugh. Cambridge Anthropological Expedition to Torres Straits; Ray, Sidney Herbert, 1858-1939; Haddon, Alfred C. (Alfred Cort), 1855-1940 Vol. 5.- Sociology, magic and religion of the Western Islanders, p.256)

 ここでは道化の神の神話は語られていないようだけれど、葬儀の「笑い」での仮面の役割の断片が見えてくるようだ。しかも、この仮面たちも二人組なのだ。
 

『内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘』

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2016/02/26

『南太平洋のサンゴ島を掘る』(印東道子)

 印東道子の『南太平洋のサンゴ島を掘る』は、考古学の成果だけではなく、フィールドワークの手順や、それに伴う苦労や喜びもともに記されていて楽しかった。こういう記述があれば、考古学者を目指す人が増えるのだろうと思う。

 印東が発掘調査を行ったのは、ミクロネシアのファイス島。

 ファイス島。竹富島の約半分の広さ。ファイスは、約七つの氏族からなる母系制社会。19世紀当時は300人ほど、現在は200人ほどの人口。1800年前から居住。無人島になることなく継続的に居住されてきた。ちなみに、千年ほど前からと言われてきた歴史が、実は1800年も前からと分かったのが、印東による調査成果だ。

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 7氏族ということは、1氏族あたり、20人弱。

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 ファイス島は、サンゴ島。サンゴ島は、火山島が水没して、地表が造礁サンゴでおおわれた後に再び海面上に露出した島。地表がサンゴ石灰岩でおおわれている。

 ファイス島はヒラメのような形をしており、白い砂浜は南島岸と北西岸、つまり、ヒラメのおなかと背中にあたる部分に少しあるだけで、頭としっぽに当たる部分は海から高く隆起している。ほぼ垂直に切り立った断崖にむかって波が打ち寄せて白く砕けているのが見える。砂浜の前面には、リーフで囲まれた狭いラグーンが見えるが、リーフの外側は急激に落ち込んでいる。海の色が徐々に濃くなるのではなく、いきなり深い藍色に移行しているので、よけいに孤島という感じがする。

 どことなく与論にも似ている。小さな与論のさらに小型版だ。

 鮫。

 ミクロネシアの他の島の人たちは一般にサメを食べない。これは、祖先がサメだったというようなトーテム信仰があるわけではなく、海に流した死者をサメが食べるからだという。

 だから、他の島の人たちは、サメを食べるファイスの人たちを、少々見下したところがある。

 ここはこう理解できる。「海に流した死者をサメが食べる」ところから、サメ・トーテムは生まれる。死者がサメになるからだ。その信仰が切れると、それ自体が食べない理由に置き換わる。

 豚。

 ブタを食べられるのは、年に1~2回。何らかの儀礼に伴う饗宴の時に限られる。

メラネシアのように男たちが情熱をかけてブタを育て、自分の威信を高めるために、ブタを大量に殺して村人に振る舞うような社会的な重要性は見当たらない。

 墓。

 現代の墓はそれぞれ家の裏に作る。ファイスの人たちは、先祖の骨に対して恐れを持っていない。発掘した埋葬人骨は頭を西に向け、膝を曲げた屈葬。

 もともと農耕技術を持って島に居住しているので、地下の他界を持った霊魂思考の強さが窺える。しかし、骨への恐怖がないところは、穢れ意識が強くないのかもしれない。小さい割に恵まれた島環境が背景にあると考えられる。

 面積が小さく、海抜も低い島では、ブタを飼育できる確率は非常に低いとされてきたが、ファイスはそうではなく、島が小さいから、あるいは島が低いからブタを飼育するのは不可能とは一概には言えないことが分かった。

 オセアニア考古学では、一般に、火山島居住の方がサンゴ島居住に比べて好まれ、火山島の人口過多によって仕方なくサンゴ島にも居住した、というイメージで捉えられてきた。

 しかし、果たしてそうだろうか、と印東は書いている。

サンゴ島に居住することを選んだ背景には、サンゴ島居住のもつ魅力が大きかったと考えざるを得ない。不意の敵の攻撃を受ける心配が少ない海に囲まれた島環境は安心感を与えてくれる。一方で、サンゴ島居住は、陸上資源に乏しい、地味が貧しい、自然災害に弱い、など多くの点で火山島居住よりも劣ると考えられがちであるが、海洋資源の豊かさや湿度の低い快適さなど、火山島に匹敵する、あるいは勝る点もある。

 これは、なぜ与論に人は住むようになったのか、についてもヒントになる。


 その他、メモ。琉球弧との共通点も多い。

・ヤップ島は、東にひろがる島々との間にサウェイと呼ばれる交易関係を結んできた。

・リーフの切れ目は、パス。

・サツマイモ。1700年代にパプア・ニューギニアにサツマイモが導入され、人口が爆発的に増えた。植え付けると、三か月後には収穫できる。

・アカロシア(クワズイモ)を食べる。えぐみを取る技術。

・流木漁。流木の下には小魚やそれを目指して大きな魚が群れをなしていることが多い。

・ファイスは、ポリネシアや東ミクロネシアで発達した階層的な社会構造はなく、チーフが統率するほぼ平等な社会。選挙は行われず、チーフの母方の家系がその地位を継ぐ。

・マチと呼ばれる織物。芭蕉布と同種で、バナナの幹やハイビスカスの樹皮から採った繊維で織る。

 
『南太平洋のサンゴ島を掘る: 女性考古学者の謎解き』


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2016/02/25

始まりの場所の転移 2

 他界の遠隔化に伴い、「あの世」の入口としてのナビンドゥは、地先の島へと転移される。もともと、地下の他界の要素が少なく、地上の他界が多く展開されたところでは、「地先の島」が他界の入口のように表象される。

 新城島で、海から来るとも、ナビンドゥから現われるともされているのは、その拮抗を示している。

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2016/02/24

足掛かりとしての木山島

 鈴木宏昌は、「古代の難波」(『南島研究と折口学』1990)で請島について書いている。

この島には「島固め」という祭りがあって、その祭りの時には、島の東南海上にある木山島と呼ばれる島に、請島の神をはじめとして大島郡全体の神々が「ニラヤ」から集まってくるという。そして、その木山島を足掛かりとして請島や大島郡のそれぞれの土地に渡ってゆき、それぞれの土地に鎮座する。

 これが本当だとしたら、木山は、ある意味で、沖縄島における久高島に近い役割を果たしたことになる。しかし、これを論じたという西村亨の出典は講演となっており、かつ、折口信夫の「胞の話」に絡めてとあるがこれも講演とあって、今のところどちらも原典も見つけられない。西村の講演はともかく、折口の講演はどこかにあるはずだから、見つけたい。

 それにしても、またしても出典元の悩みだ。

 これを補強すると思えることを仲松弥秀が書いている。

 請島の隣り、与路島に来訪された神について、古老が少年時代に聞いた話は、

昔世、神は、島の南端のヨシドマリ埼に接した立神(突出した岩島)から来臨された。神はこの立神に上陸され、そこからヨシドマリ埼に、そして上の稜線を辿ってオボツ山に、そこから村へ・・・(『うるまの島の古層』)

 この後段。

村前から出られた神舟は東南の海から東隣りの請島近くの東方の木山島に碇泊している大船に乗りかえてはるかな大洋へ行かれるという。

 これは西村の講演に重なる証言になっている。

 もうひとつ見つけた。加計呂麻島の武名。

テルコ神は刳船に乗ってまず請島の木山島につき、そこから各集落に分かれて行き、帰りはその逆順で木山島に集まってテルコに帰って行かれるという。(小野重朗の『南島の祭り』1994)

 少なくとも、与路島と加計呂麻島においては確認できる。

 ところで、与路島や加計呂麻島から木山島は目視できないから、この神の行路は木山島が、与路島や加計呂麻島にとっての他界の島であったことを意味しない。おそらく、オボツ地名に勢力を持った集団による作為だ。

 もう少し、見つけられる。

 奄美大島の属島の請島に隣接する無人の小島を木山島といい、昔、奄美大島のノロたちはここに集結して南下し、沖縄へ行ったと伝えている。それは島津侵攻の前から行なわれていたらしいが、その後も辞令こそもらえないけれども、神具などの入手に行ったとも伝えている。(下野敏見 『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』)

 つまり、この作為は琉球王朝によるものだ。

 もうひとつ。

例えば奄美南部の加計呂麻島阿多などでは四月の神送りのときは、同島南海岸の各部落から神々の船が出発し、全部の神々が請島の東方にある無人島の木山島に集まって一泊し、その翌日、真北の風で東南方の海に繋がるネリヤの島に帰るという話をヨーゼフ・クライナー氏は報告している。(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)

 ここでやっと西村亨の講演内容と脈絡がついてきた。


『うるまの島の古層―琉球弧の村と民俗』

下野敏見 『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』


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2016/02/23

『神と巫女の古代伝承論』(保坂達雄)

 保坂達雄の『神と巫女の古代伝承論』(2003)によって、神の行路を確かめてみる。

1.新城島のアカマタ・クロマタ。

・西表島の古見岳を遥拝。海の彼方のニーラシクの神を古見岳から迎える行為。一方、ニィルピトゥのアカマタ・クロマタは、ニーレイスクという手の届かない深い土の底から生れる、とも。

2.小浜島。

・出現するナビンドゥは、海に通じると同時に、島を見下ろす大岳の山頂に達するとされる。山頂ではかつて雨乞いの儀礼が行なわれた。

3.西表島古見。

・海から迎える。クロマタは、前良川の対岸にある三離御嶽の上方のムトゥから出現し、橋を渡って村中に来訪した後、元の方向に帰る。アカマタ・シロマタは、別のウムトゥの森から出現して、来訪を終えると、集落の外れを流れる流れる後良川の河口をピニシ島に船で渡った後、そこから水中を歩いて、フカリ山の山中に消えていく。

4.石垣島宮良。

・ニローカンは、東方の森から出現する。ところが、もとは海岸寄りにあったナビンドゥという洞窟だった。ここは、地下を通ってオモト岳の頂上まで通じていると信じられている。

5.裏石垣桴海。

・マユンガナシは、海岸の洞窟から出現し、於茂登岳の神への儀礼を行なった後、海へ帰っていく。

6.加計呂麻島嘉入

・海彼のネリヤから来臨し、ウボツヤマにいったん着いてから、広場に降りてくる。海岸で神送りされる。

7.加計呂麻島木茲

・オボツガミは、ウボツヤマの樹木か石の依り代に降臨した後、神道を採ってトネヤに降りてくる。

8.加計呂麻島武名

・彼方の海から水平に飛来して、村の背後にそびえるオボツ山の山頂に留まり、招請によって山の尾根を通って村へ来訪する。

9.加計呂麻島の於斉

・海から迎えられたネリヤの神は、オーホリの日まで、アシャゲに近いオボツヤマのこんもりした森に滞在する。

10.請島請阿室

・ネリヤの島から来た神は、島の東の木山島にいったん足がかりにして村へ来て、同じ経路で帰る。一方、オガミヤマに天降り、神道を通って村に来臨した後、東端のモリヤマに上ってから海岸で神送りされる。その後再度、モリヤマに上り、そこでも神送りされた。

11.古宇利島

・こんもりしたナカムイに祈願し、地面に描かれた船を七回廻る。後半は、海から迎えた他界の神を海上遥か彼方に神送りする。

12.国頭謝名城

・山の神と海(ニライ)の神へのお迎えを祈願。

13.国頭安田

・山から来訪神が降りて、海へ纏っていた草木類を流す。

14.国頭奥

・山から来訪神が降りてきて、海に送る。


 これらの神の行路を整理してみる。

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 八重山では、地下の他界は強く意識されている。それとともに山の他界も展開されている。請島には、地先の島の他界があり、同時に山を持つ。西表島古見も地先の島の一種だ(川向うの例だと言える)。奄美から国頭にかけて、山が目立つ。

 これらの地下、山、地先の島が、地下深く、あるいは海上への遠隔化した。ただ、油井岳や湯湾岳をオボツヤマとする集落の場合、遠隔化された他界は山である可能性を持つと考えられる。

 著者の保坂は書いている。

 したがって、海と山と地下の他界が円環的な構造をなしているとか構造的な連関をもっているとするこれまでの解釈は、複数の高いを前提にしている点で必ずしも正しい理解とは言えないように思えわれる。それ以上に他界観を海上他界観、山上他界観、地下他界観の三種に分けて、三者の間の前後関係を論じてきた従来の研究は大きく検討されなおされなければならないであろう。

 これに対する考え方はこうだ。

 地下、地先の島、山の他界が、地下、海上へと遠隔化した。前後関係は、行ける距離にある他界が先にあり、行けない距離にある他界が後になる。海上、山上、地下それぞれは順番が決められない。

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2016/02/22

「胞衣笑いの深層」(飯島吉晴)

 飯島吉晴は、「胞衣笑いの深層-霊魂の交通」(『比較民俗研究』1994)のなかで、「胞衣笑い」は沖縄では民族事例が見られるが、本土では文献史料にしかない、としている。

 胞衣を埋める場所は、間引いた子や死産児などを埋葬する場所と共通しており、家の内と外の境や世辻などこの世とあの世の象徴的な境界をなしていることが特徴になっている。

 木下忠は、家屋の敷居や戸口に胞衣を埋める習俗が縄文前期にまでさかのぼり、また胞衣を床下に埋める習俗や血忌み習俗は弥生文化と結びついて導入された可能性を示唆している。

胞衣はエナのほかイナやヨナとも呼ばれるが、これは米を意味するイネやヨネとも通じている。

 ここから連想するのは、イノーは、砂州ユナの音韻転訛だということだ。ヨナは波照間島のように、「 -yunee 」と長母音化することはあるから、yuna → iuna → inau → ino:という転訛はありうるだろう。

 ここで飯島は、胞衣を意味するイナやヨナと、米との関連を辿っているが、崎山理によれば、実際、ヨナは、ヨネへと転訛した。すると、

 胞衣 - 米

 とが同じであると考えられたことになる。飯島はこれを、「母の胎内で胞衣に包まれた胎児のように、外側を皮や殻で包まれているのである」としている。

 米 → 胞衣(米は胞衣に似ている)

 オーストロネシア語北上の流れからいえば、

 砂州 → 米(砂は米に似ている)

 となる。

 琉球語では、胞衣は、イヤが一般的だが、イザ(宮古島狩俣)やアト(浜比嘉島)というところもある。奄美大島瀬戸内では、ヨナとも呼ばれている。(酒井卯作『琉球列島民俗語彙』)。

 砂州を意味したヨナは、同時にサンゴ礁海であるイノーを指した。胞衣は同時に、ヨナとも呼ばれたとするなら、

 砂州 - サンゴ礁海 - 胞衣 - 米

 となる。胞衣(イヤ)という音は、大和からの言葉だとしたら、瀬戸内のヨナは古形を示しているのかもしれない。


 胞衣を食べる風習も琉球で記されている。

 林百介の書いた『立路随筆』には、「琉球国の胞衣 琉球国の婦人、産乳(子ヲ産児)すれば、必子衣(胞衣なり)を喰ふ」とある(百介の死は1743年と推定されるので、この記述は18世紀のものだと考えられる。笹森儀助の『南島探検』にも、「昔は沖縄の妊婦は、出産の時には必ず胞衣を喰い、火で温めて汗を出した」とあるという。

沖縄ではなぜ産婦が胞衣をたべたのか、はっきりとした理由はわからない。葬式で、長寿の死者を儀礼的に食う風習と関係があるのかもしれない。

 と飯島は書いている。ぼくたちの眼からみれば、これは、母親の子を産む霊力の強化だ。また、多良間島では、祖先とみなしたシャコ貝とカラムシを使って胞衣を埋めたことを考えれば、子が再びめぐってくることを意味しているのだと思える。

 ※ところで、笹森儀助の『南嶋探験』を、何度かめくっているのだが、飯島のいう記述を見つけられない。またしても、出典元不明の悩みだ。


  

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2016/02/21

「「青」と「オウ(オー)」の地名学」(貝崎茂和)

 ぼくにとっての収穫は、琉球弧で、奥武(オー)の他に同名由来の地名があるのに気づけたことだった。阿嘉島だ。

 awa → aba → aha → aka

 という転移と転訛になる。

 位置関係からいえば、座間味島の「地先の島」が「阿嘉島」はであり、「沖の島」が「慶良間島」だ。


 とにかく、「奥武」から葬地を、青を解放しなければならないと思う。

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2016/02/20

「奄美諸島の神山」(小野重朗)

 小野重朗の『南島の祭り』(1994)に挙げられている例に従って、山としての地上の他界の様相を見てみる。

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 (遠隔化された他界)→(かつての他界)→(集落)

・上記の神の行路が確かめられるのは、請島池地(#1)の例のみ。

・請島請阿室(#5)では、(オガミヤマ→ミヤ)となっていて、モリヤマも聖地として恐れられているから、オガミヤマは遠隔化された他界かもしれない。この場合、モリヤマという通過点は省略されたと見なさなくてはならない。

・奄美大島大和戸円(#6)では、タカモリヤマ→ミヤへのカミミチという名称のみが残っている。これは、(かつての他界)→(集落)の名残りかもしれない。

・加計呂麻島瀬相(#10)では、モリヤマからもオボツヤマからも行路が存在する。これは、(かつての他界)→(集落)と(遠隔化された他界)→(集落)を示す可能性がある。

・加計呂麻島嘉入(#11)では、海からのネリヤ神のウムケーとオボツヤマからのウムケーが対応しているので、ここでのオボツヤマは遠隔化された他界に対応させることができる。

・奄美大島瀬戸内油井(#12)と奄美大島宇検田検(#13)では、油井岳と湯湾岳が遠隔化された他界に対応しているように見える。

 モリヤマ、オボツヤマは地勢名、オガミヤマは機能名であり、名称から一義的に決められないが、モリヤマは、かつての他界、オボツヤマは遠隔化された他界の色合いを持っているように見える。

 これだけの判断をしておいて、小野の考察に照らしてみる。

 モリヤマの性格について、小野は書いている。

 だから、モリヤマのノロなどの古墓があることは、モリヤマが葬地、墓地だということではなくて、ノロのようなえらい、または威のある人だからモリに葬り、墓を作ったということであろう。奄美のモリヤマに限らず、九州本土をはじめ日本の森山に関わることでもあるが、「すぐれた人や祖先を葬った墓所だから森山は聖地である」のか「森山は聖地だからすぐれた人や祖先をそこに葬った例がある」のかという重大な問題がある。前者のように、先祖の墓地だから聖地であるというのは明快な解釈ではあるけれども、多くの森山、森をみてきた限りでは無理な定義づけのように思う。
 先の伝承にみられるような、山の神の来訪につながる信仰を母胎としてモリヤマの信仰はまず成立し、そこに神人などを葬る第二の伝承が付け加わったものと思われる。

 森山が聖地なのは、「すぐれた人や祖先を葬った墓所だから」ではなく、森山がかつての他界だったからである。だから、そこにノロの墓を置くのは、御嶽が置き換えられたあの世であるのと同じく、かつての他界の封印の一種だと思える。

 小野によれば、オガミヤマや、モリヤマ、オボツヤマと対応している。オガミヤマは、モリヤマに比べて少ないが、全島的に存在している。

 奄美大島竜郷嘉渡(#7)では、「オガミヤマが集落を代表する家の守護神、氏神に近いものとなり、集落の神人たちの祭場となっている。オガミヤマという名称はおそらく、神人たちが拝む山、祈願をする山という意味であろう」。

 モリヤマは集落の近くにありながら、その中で集落祭祀が行われたという伝承は聞かれない。モリヤマから神が下ってきて人々に働きかけることはあっても、集落の神人、ましてや人々がモリヤマの中に入って祭りをしたり、願いごとをしたりすることはほとんど聞かれない。モリヤマは恐ろしい所だとする伝承が強いのである。モリヤマとオガミヤマとの相違で最も重要なのはこの点であろう。

 小野はこの後、オガミヤマと沖永良部や与論のオガンとの相似や沖縄の御嶽との相似を指摘し、奄美のオガミヤマと国頭の山としての御嶽(オガン)を、オガン(御嶽)の古い形だと見なしている。

 この小野の考察からは、モリヤマが、「かつての他界」であることがより明確になるように思える。しかし、オガミヤマは御嶽の古形ではなく、位相同型だと思える。たとえば、与論でオガミヤマがないのは、山がないからだと言えて、そこに古い形は求めようもない。強いていえば、御嶽は場としての象徴化が進んでいることだ。

 モリヤマ(かつての他界) カミヤマ(御嶽) オボツヤマ、カミヤマ(遠隔化された他界)

 ここではのところでは、こう位置づけられる。

 オボツヤマの分布には、奄美大島南部と加計呂麻島西部という強い傾向が見られる。よく指摘されるように、オボツヤマは琉球王朝のオボツ・カグラ信仰と結びつけられる。そういう政治的な側面は持つが、オボツという地名自体は、古いものだから、むしろオガミヤマが、置き換えられたオボツヤマである可能性を持つと思える。

(前略)姿ある神として鉦を打ちながら山を下る神は、モリヤマ、オガミヤマ、オボツヤマのような古い神山に共通する民俗伝承であって、このことは、これらの神山が系譜的につながりを持っていること、基本的には山の神文化を祖型としていることを教えるものと思われる。

 モリヤマ、オガミヤマ、オボツヤマが系譜的につながるのは、それが「かつての他界」か「遠隔化された他界」かに依るものだ。

 これらオボツヤマから下ってくる姿或る神とは別に、オボツヤマにはオボツ神がいるという伝承が鮮明にある。このオボツ神は姿ある神としてではないが、オボツヤマから招かれて集落を訪れ、再びオボツヤマに帰っていく。

 一方、神女には、オボツ(イ)ガミ、テルコイガミ、モリヤマイガミという役名が、大和村や加計呂麻島で聞かれる。これは、単にオボツ神を迎えて接待するだけではなく、オボツ神となって行動することを意味している。「新しい神観念であり、神女観念である」。

 油井岳や湯湾岳は、いくつもの集落のオボツヤマになっている。

おそらく加計呂麻島の場合のような、集落ごとの、集落に近いオボツヤマが古形であり、それがだんだんと遠く高いオボツヤマに展開したものと思われる。また沖縄の古謡集『おもろさうし』に登場するオボツ嶽は天上界の嶽の名となっている。すなわち、オボツは集落に近い山上からしだいに遠く高くなって、ついには天上界にまで抽象化されたことがわかる。

 オボツが高くなっていったのではなく、他界が遠隔化されていったのだ。その山が、オボツと呼ばれていたのである。

 オボツヤマは分布図を示した奄美大島を除いては奄美の他の島々はもとより沖縄にもなく、古謡のなかにオボツタケ、オボツヤマという天上界の信仰上の山がみられるだけである。奄美のオボツヤマが南島のオボツ・カグラ信仰に由来することは明らかであるが、そのオボツの語意さえなお定かではない。オボツ信仰の発展とともに、オボツは山の頂からさらに天上界にまで及んだ。しかし、オボツの原形はやはり山であって、現実の山をオボツとする奄美大島のオボツ信仰はこの信仰の原点を示しているといえよう。

 「オボツの原形はやはり山」であって、天上ではない、というのはその通りだ。

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2016/02/19

ぶなぜー神話の位相

 多良間島の兄妹始祖神話。

 大昔、ぶなぜーという兄妹があった。ある日、畑に出て仕事をしていると、南の方から、突然、大きな波がおしよせてきた。これを見た二人は、あわててウイネーツヅという丘にかけのぼり、波にさらわれようとするところを、シュガリガギナ(チカラシバ)にしがみついて、ようやく難をのがれた。周囲を見ると、家や村も波にさらわれてしまって、たすかったのは兄妹二人だけであった。そこで、二人は夫婦のちぎりを結び、村の再建をはかった。最初に生まれたのは、ポウ(へび)とバカギサ(とかげ)であった。次にアズカリ(シャコ貝)とブー(苧麻)を産み、そのあとに人間が生まれた。
 こうして、島はしだいにもとのすがたにかえったという。
 村の西方に、ぶなぜー兄妹をまつった祠があり、住民は今もこのものがたりを語りつぎながら、島建ての神として崇拝している。『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』(1973)

 村誌では、ポウとバカギサについて、若水の伝承があることを記している。アズカリとブーについては、こうだ。

 アズカリとプーも出てくるが、この二つは出産と深いかかわりがあった。臍の緒をブーで結んで切り、胞衣はアズカリの中に入れて土中に埋めるならわしが近代まであった。二つとも、出産のときの神聖な道具だったのである。

 多良間島の神話は、植物との同一視の段階まで及んでいて興味深い。この神話ほど各段階を保存したものはないのではないだろうか。

 多良間では、シャコ貝をトーテムとし、カラムシ(苧麻)と人間を同一視した段階があった。あからこそ、胞衣埋めに使われることになったのだ。ここからは胞衣埋めの儀礼が、祖先に返ることであり、そこからの再生が祈願されていたことが窺える。

 また、シャコ貝を伴った埋葬におけるシャコ貝の意味も示唆される。

 中沢新一は、「神話の中ではしばしば「洪水」と「近親相姦」は隠喩関係でひとつに結びつけられていることが多い」と指摘している(「縄文・ミシャグチ・道祖神」「東北学 No.9」)。

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2016/02/18

埼樋川貝塚と吹出原遺跡

 2月12日、考古学調査記録の地図を頼りに天久に向かった。方向音痴のぼくには地図でさえ、役に立たない。地図が役立たないのではなく、ぼくが役立てられない。そんなとき、新城和博の『ぼくの“那覇まち”放浪記』はとても頼りになる。

 こんなところに、という感じでマンションの角を曲がると、坂道が始まり、その入り口には立神岩と名付けたい風情の御願所があった。小さな祠の壁がそのまま岩肌となっている。香炉を前にして、岩と対峙することになるのだ。その背後には切り立った崖がそびえ立ち、ここもまた波で削られたノッチ、窪みに向かって立派な碑が立てられている。あとで確かめたら、ここ天久の「崎樋川」は、かつてjは豊富な水量を誇った有名な湧泉だった。

 そしてそうその通りに、新城も紹介している写真の場所に行きつくことができた。

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 この立神は実際、貝塚時代には海際に聳えた岩だった。その岩の脇には豊かな水が流れ込んでいたのだと思う。

 わくわくしながら、ただ、ぼくの目当ては、もう少し北の方にもあった。新城が「崎樋川」と書いている貝塚跡に行きたかったのだ。それは左下の建物の向こうにある。

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 いまはもう崖の箇所だけが、使い道がないのと、貝塚が見つかったのと、たぶん二つの理由で残されている。企業の建物の向こうにあるのだが、事情を話すと、場所を案内してくれた。もちろん、下のような茂みが広がっているだけなのだが。

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 中に入ってみたかった。でも、ハブに対する勘所がまったくないぼくには、「ハブ、気をつけてくださいね」と言われただけで身のすくむ思いで、立ち入れなかった。しかし、そこは間違いなく、島田貞彦が発掘した崎樋川だ。

 ここに行きたかったのは、ここが初めて「蝶形骨器」が発掘された場所だからだった。

 13日には、読谷の座喜味城跡へ。与論人(ユンヌンチュ)も徴用されたと聞いているから、壁肌を触りつつ、島人の労をねぎらいたかった。城(グスク)は、言われている通り、たしかに流線が美しい。

Photo_5

 しかし、ぼくの目当ては、座喜味城ではなかった。実をいえば、目的地のそばにあるからという理由で立ち寄ったのだ。座喜味から20分ほど歩いたところにそれはあった。あったといっても、何人も聞いて、久米島出身の方がしばらくして思い出して教えてくれたのだった。長浜の吹出原遺跡だ。

 ぼくが一番、心動かされたのは、この珊瑚の巨岩郡だ。これは崖の上に、内側の平地との境界のようにそびえている。下の写真では小さく見えるけど、実際は、10メートルほど続く岩群れなのだ。

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 この珊瑚岩の向こうには、長浜の海が見える。これまた写真では分かりにくいが、長浜のサンゴ礁は大きく、エメラルドグリーンの色を溶かしたように沖の蒼に混じっているのがとても美しい。遺跡場所の標高は50メートルくらいはあるだろう。その崖上から、美しいサンゴ礁を見下ろす感じなのだ。

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 そして後ろには、ふたたび崖が聳えている。「崎樋川」もそうだが、崖と崖のあいだの平地は居住地に選ばれやすかったようだ。この珊瑚岩たちをみていると、与論島のハジピキパンタも相当な威容だということが分かる。ハジピキパンタは与論島では他に類のない聖地だったのだ。

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 吹出原遺跡に行きたかったのは外でもない。ここから最大の「蝶形骨器」が発掘されているからだ。下がその蝶形骨器の実物。これが目当てで歴史民俗資料館を訪ねたら、そこに座喜味城があったので立ち寄ったという、座喜味城には申し訳ない見学だった。

 思うに、吹出原のシャーマンは相当、大きな力を持っていたのではないだろうか。そんな気がした。

Photo_6

 ここの遺跡場所も、住宅地にできなただの空き地のように見捨てられた場所のようにある。しかし、珊瑚岩があり、地勢と地形は損なわれてはいない。そんな場所なら、貝塚時代の精神にはまだ触れることができる。そんな気がした。空地だろうが荒地だろうが、ぼくにとっては強力なパワースポットには変わりない。格別なひとときだった。


『ぼくの“那覇まち”放浪記―追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』


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2016/02/17

『サンゴの島々からの不思議な、贈り物』(@B&B)

 なんだか告知が続いて申し訳ないけれど、こんどは下北沢のB&Bで、本の装丁画像や扉の写真を提供してくれた仲程長治さんや、「momoto」の松島さん、プロデューサーの大川さんとともに、本の刊行を記念したイベントを行ないます。

 ぼくのおしゃべりだけではなく、仲程さんの優れた写真作品を交えながら、頭で目で手で、縄文・貝塚の感じ方、考え方に迫れる場にしたいと思っています。3月6日、ご都合のつく方はぜひお立ち寄りください。

 以下、大川さんが書いてくれた告知文です。

 2016/03/06 Sun

 喜山荘一×仲程長治×松島由布子×大川雅生
 「サンゴの島々からの不思議な、贈り物」
 『珊瑚礁の思考』刊行記念


 日本人の「死生観」について知りたいと思っている方は、多いのではないでしょうか。
 それは仏教から、神道と渾然となった山岳宗教まで。
 また西欧の一神教から現代のスピリュチュアリズムまで。
 もちろん、とても簡単に一望できるものではありません。
 また、「日本人」とひとくくりにしてしまっては、大切なことを見落としてしまいます。

 今回B&Bでは、『珊瑚礁の思考』刊行を記念したイベントとして、琉球の「死生観」に迫ります。

 ゲストにお迎えするのは、『珊瑚礁の思考』の著者である喜山荘一さん。沖縄で発行されている琉球文化誌『momoto』のアートディレクター、写真家であり、本書のカバー撮影もつとめた仲程長治さん。
 このお二人の島人(シマンチュ)から、琉球の生と死、生まれ変わり、つまり「死生観」の話を、島の写真もたっぷりと観せていただきながら伺っていきます。
 南の海に浮かび、珊瑚礁と白い砂浜に縁どられた八重山・沖縄・奄美・トカラの島々。
 文字を持たなかった時代、そこで生きてきた島人は何を思っていたのか。
 トーテム、あの世、生まれ変わり、洞窟、そしてサンゴ礁は、どう関係するのか。

 さらに後半では、琉球文化誌『momoto』で編集に携わる松島由布子さんと、プロデューサーの大川雅生さんも加わって、琉球からの不思議な「贈り物」を皆さんと一緒に紐解きたいと思います。

 当日、テーマに関係のある特別なものが、参加者の皆さんに会いに琉球からやって来る予定も!
どうぞ、お楽しみに!

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2016/02/16

始まりの場所の転移

 霊魂思考が駆動し始めると、トーテムや人間は「穴」から出現する。それは、始まりの場所であり、時間の起点を意味している。生と死が移行の段階にあるとき、主要な文物はそこからもたらされたと語られるようになる。トロブリアンドでいえばそれは「呪術」であり、マオリでは「入墨の技術」だった。

 他界が遠隔化されると、主要な文物は「穴」ではなく、かつての「あの世」からもたらされたと語られるようになる。琉球弧でいえば、久高島が「作物発祥の場」になる。これは、かつての「あの世」が、「穴」のように、遠隔化された「あの世」の入口と見なされるからだ。

 ぼくはサンゴ礁を、遠隔化された「あの世」と「この世」の境界と見なしたが、一方で、「あの世」の入口は、かつての「あの世」が担う側面を持つようになる。なぜ、来訪神は「地先の島」を足留りにして、やってくるのか。それは、そこが「穴」からの出現と同じだと見なされるからだ。

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2016/02/15

久高島と淡路島

 鈴木宏昌は、「古代の難波」のなかで書いている。

 沖縄では本土の常世や竜宮に該当する異郷をニライカナイと呼んでいる。第一尚氏の場合は、その本拠地が東南の方角に海をいただく佐敷にあったことから、ニライカナイは太陽の昇る東方の海の彼方にあると信じられ、ニライカナイは祖先紳の住む根所とも、太陽の生まれ出る根所であるとも考えられた。そして、そのニライカナイの方向にあるのが久高島で、ニライカナイに坐す祖先神や太陽神は久高島を足留りとして来訪すると考えられた。琉球の神話に久高島が創世神アマミキョの最初の渡来地とされ、穀物の種が漂着した農業発祥の地とされるのも、そうした信仰に基づいていよう。

 いま、久高島の位相変換を下記のように書いてみる。

 F あの世(カミの島):F 始原(ニーラスク)=F あの世(ニライカナイ):F カミの島-1(農業発祥)

 つまり、「ニライカナイは祖先紳の住む根所とも、太陽の生まれ出る根所であるとも考えられ」る前は、久高島が始原を担う「根所」であったが、ニライカナイが誕生すると、それは「太陽の生まれ出る根所」という意味を加え、久高島からは、始原の意味は後退して、「農業発祥」の地などと言われるようになる。しかし、久高島は「神の島」として、この変換にも抗っているとも言える。

 さて、本稿では、このような沖縄の信仰を念頭に置きながら、日本の古代、とりわけ難波に王朝が置かれた時代のことを考えてみたい。わたしは、琉球王朝における久高島に相当するのが日本の古代においては淡路島であったと考えている。久高島が太陽の昇る東方に位置しているのに対して、淡路島は難波の西方に位置しているというように方角の違いはあるが、淡路島も久高と同様に、太陽の霊力の宿る島、海の彼方の常世に通じる聖なる島と考えられた節がある(後略)。

 この鈴木説にしたがえば、淡路島は、かつて「あの世」の島だったのだ。そこでは、淡路島を胞衣として島々が生れたという伝承があるという。

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2016/02/14

「あの世」の島の系譜のひとつとしての「アロウ島」

 与那覇せど豊見親のニーリの一節。

 にいら島 下りてぃゆ  ニイラ島に下りていき
 あらう島 下りてぃゆ  アロウ島に下りていき
 にいら太陽 御前ん  ニイラ太陽の御前に 
 あらう太陽 御前ん  アロウ太陽の御前に

 この対句について、谷川健一は、「ニイラ島、アロウ島はあの世(後生)を指す」と指摘している。

奄美大島ではアロウ島は、瀬戸内と呼ばれる入海をへだてカケロマ島のことであると、昔、古老たちは言っていたという話を、金久正から聞いたことがある。また登山修もカケロマ島の住人は、自分たちのことをアロッチュと呼んでいると報告している。チュは南島語で人のことであるから、「アロウびと」ということになる。奄美諸島の用路島の人びとは対岸の枝手久島に死者を運んで捨てる風習のあったことが伝承されているが、奄美本島の人びとが死者を舟で運び、カケロマ島に葬った時代があったのではないか。

 八重山の新城島もアラスクと発音されているが、アロウスクに関連すると思われる。アロウスクはニールスクに対応する語であるが、ニールスクから現世に来訪するニールピトは、荒ぶる神であった。ということからして、アロウスクも祖霊とも妖怪とも神ともつかぬ荒ぶる霊の住む島であったことがうかがわれる。つまり「アロウ」は「荒び」という語と関連があると考えられるのである。

 加計呂麻島がアオロウ島と呼ばれたことは、「奄美本島の人びとが死者を舟で運び、カケロマ島に葬った時代があったのではないか」ということとは関わりなく、加計呂麻島が「あの世」の島である可能性を示している。

 この「アロウ」には、「荒び」の意味があるかどうか分からないが、少なくとも「加計呂麻」という地名には、後で付加された名称だ。だがそれは、新城島のように、島名となるまでには至らなかったと考えられる。

 昔、アラと呼ばれた国頭の安田も、この系譜に属するかもしれない。


『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1―南島文学発生論』


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2016/02/13

胞衣とイノーあるいはユナ

 胞衣とサンゴ礁は似ている。胞衣のおかげで子供は水中生活を送ることができる。サンゴ礁のおかげで、亜熱帯魚たちは外海に流されず、海中生活を送ることができる。

 子供は、無の状態から胞衣のなかに有として現れる。亜熱帯魚たちは、無を渡ってサンゴ礁のなかに忽然と現れる。

 胞衣は、「世」の霊力を出現させる母胎であり、サンゴ礁も「世」の霊力の現われである魚たちを育む母胎。

 立石半島では胞衣はヨナと呼ぶ。ヨナはもともと砂州の意味。立石半島の常宮は、「産小屋の底になぎさの砂を敷く」習俗を持っていた。(cf.「産小屋の底になぎさの砂を敷く」

 いわば、「魚の胞衣」が、イノーでありユナだ。

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2016/02/12

スクの予祝としての「笑い」

 嘉味田宗栄によると、久米島の儀間集落の東方アーラという霊地に向かう途中、海に面してアメーヌサチというちょっとした埼がある。

 霊地アーラへの途中、アメーヌ埼にさしかかると、神女たちの一行は立ち止まり、小石を海中に投げて、「スクドーイ」(スクという魚の神さまのおかげで寄ってきているぞ)と連呼し高笑いをつづけるという。

 これを嘉味田は予祝と解している。

神のめぐみの寄りものつきものとしてのスクという魚が、その年、きっとよってくるようにとの予祝としての呪的行為である。「笑う門には福来る」という諺はどことなく儒教的な就寝の臭みはあっても、どこかで、この古い信仰習俗と重なっている。(『琉球文学序説』1979)

 アメーヌ埼の次のティーというところには、スク石がある。(『琉球文学発想論』嘉味田宗栄、1968)

 「アメー」は「あまえ」で、「笑い」を意味する。アメーヌ埼とは、「笑いの埼」のことだ。

 ここでの高笑いは、予祝に違いなくても、「世」の霊力を現出させる呪的行為なのだと思う。ふだんは混じり合っていないものを交流させるのだ。

 一方、宮城幸吉は、稲穂祭の際、アーラ浜のヤルイに行って神祭りをした後に、儀間へ帰る途中、ティーの浜に行く。

そこには半分海水に入り、半分は砂浜に横たわる大きな黒石(安山岩)がある。この岩を「ヒシク石」(久米島ではスクをヒシクという)。この岩に向かってノロを始め全神女が、ヒシクをたくさん寄らして下さいと祈願する。神女達が祈願のウムイをうたって終ると、後に立っている男や子供達にも大きな声で、「ヒシク寄(ユ)ティクーヨー」と大きな声で叫ぶようにさせる(「スクおよびスクガラスについて(<特集>イノーの民俗)」「民俗文化」1990)。

 ここでは「高笑い」は「大声」に変わっている。場所は、「アメーヌサチ」ではなく、隣りの「ティーの浜」になり、「アーラ」へ向かう途中ではなく、「アーラ」からの帰りになっている。宮城の報告は、嘉味田の後だから、嘉味田の報告内容の方が元の姿なのかもしれない。

 ヒシク石が、砂浜に接し海水に浸っているのは気にかかる。これは、スクの化身と見られていたのではないだろうか。

 嘉味田は、久米島では、出産の日に隣り近所の子供たちを集めて高笑いさせたという習俗のことも書いている。


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2016/02/11

謎かけと胞衣笑い

 中沢新一は、「笑い」について、こんなことを書いている。

 不思議なことに、人類の社会では大昔から、笑いの芸能というものは、生と死が混在する機会や場所を選んで演じられるもの、という暗黙の決まりがあった。笑いを誘う人類最古の芸能と言えば、「謎なぞ」のかけあいにつきるが、これなどは生者と死者が同じ場所に集まる、お通夜の席でなければ、やってはいけないことになっていた。
 謎なぞでは、日常の場面では、遠くに離しておかなければならない事柄が、既知の働きでひとつに結び合い、まるで生者と死者が同じ場所にいる、お通夜と同じ状態をつくりだしてしまう。だからふだんから謎なぞをかけあうなんてもってのほか、目の前に死体がおかれているお通夜のような状況でなKれば、人類は笑いの芸能を封印しておこうとした。(『大阪アースダイバー』)

 ここで、琉球弧で「笑い」が生れる習俗を見てみる。「臍継ぎと胞衣」だ。

 臍を継ぐ事を「プスチナグン」といい、カッティ婆さんが竹のヘラ用のもので継いだ(切った)。臍は子供が七つになる迄母親が大切にして置き七つになると子供に見せて庭に埋めたという。
 その臍を埋めた場所には「ホーブン」という草を植えた。現在はやらないが、子供が物心ついて臍のそれを見せたら、子供の物覚えが良くなるといわれたという。
 「イヤー」(胞衣。胎盤)は潮の満つ頃を見計らって、カマドの後方に「ウベギー」の汁をかけて埋める。「ウベギー」とは里イモの根ごと煮た食物のことである。

 で、ここからが笑いに関わる。

 その時、カマドの方から杖を持って壁をつつき、「ウマンティ、ガッサイ、ピッサイ、スシヤ、ヌーガ」(そこでガサゴソするのは何かしら)と声をかける。
 カマドの後方、雨だれの落ちる「アマダイ」の壁際では、「ウマヌ アンシーメーが、クワナチ、イャードゥ ウスンドー」(こちらのお母様が子を産したので、胞衣を埋ずめているんだよ)と返事をする。そして皆でドーッと笑う。その笑いが上手な程生れた子が笑い上手になると言われている。
 なお「アマダイ」、雨だれの落ちる所に埋めると「ショボショボ目」になると言われ、アマダイの内側に埋めるようにする。(『おきなわ・大宜味村謝名城の民俗』新城真恵,1985)

 ここでは、「謎なぞ」の意味は失われ、ただの「問いかけ」になっているが、その余韻は持っているとみなしていいだろう。そしてここに「笑い」を現出させている。この場は、通夜ではなく、その真逆の生誕の場面だ。しかし、生とと死を移行の段階まで遡れば、そこでは生誕と死は同じ意味を持つから、ここでの「笑い」の意味も、中沢の言うことに接していると思える。ここでは、「世」の霊力を現出させるときに「笑い」の呪力が生かされているのだ。「笑いが上手な程生れた子が笑い上手になる」は、意味が不明になったところで考えられたもので、もともとは子に人間としての霊力を付与する儀礼だったと思える。

 また、胞衣を「アマダイの内側に埋める」のは、この習俗が死者と共存した段階で生み出されたことを示すのかもしれない。

 

『大阪アースダイバー』


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2016/02/10

遠隔化する以前の他界としてのニーラ系

 吉成直樹は、ニライ・カナイについて、八重山、宮古、奄美において、民俗語彙としては、カナイに相当する部分を欠く、と指摘している。

 八重山、宮古の民俗語彙であるニーロー、ニーラスク、ニーレイスク、ニッラ、ニッザなどは、すべて地下の世界を表現する言葉なのである。カナイ系の語を用いるのが沖縄島を中心とする地域であることは、やはりカナイ系の言葉、中本正智が「日の屋」と解する言葉が、琉球王国の成立の前夜以前、すなわち王権が大きな意味を持つようになった時代以降に関連づけて考えるべき言葉であることを意味しているように思う(P.18)。

 これをぼくたちの理解で言い換えれば、地下と地上の他界を示す「ニーラ」系に対して、「カナイ」系が付加されたのは、他界の遠隔化に対応したものだ。

 また吉成は、「おもろ」の「にるや」、「かなや」の出現を検討して、「にるや」がつくる対語は、必ずしも「かなや」ではないが、「かなや」がつくる対語は、つねに「みるや」「にるや」であることを突き止めている。つまり、「「かなや」という語は「みるや」「にるや」の対語をなすために、のちの時代になって創作された後付語である」。

 こうしてみると、遠隔化する以前の他界は、ニーラ系として言うことができる。
 

『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』

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2016/02/09

「グスクの頂(ちぢ)」(仲松弥秀)

 仲松弥秀は、「グスクと城」のなかで、屋我地島の古老から「ウガン(御嶽)はグシクとも言われている」と教わったことから、グスクという名称を持たないのにもかかわらず、御嶽の頂上部に「グスクの頂(ちぢ)」という名称があることを指摘している。

 いくつか例を挙げたうえで、

 このように、御嶽と呼称されるところでありながら、その頂上部に「グスクの頂」という名称がつけられていること、またグスクと言われているところのほとんどが御嶽になっていることなどからみた場合、かの屋我地島の我部の神女媼が言われているとおり、神の居所である御嶽一般が「磯城(しき)」、いわばグスクと言われていたとしても、別に不思議はないはずである。

 としている。これは、「スク」が境界域の性格を帯びることを示している。

 スクとは、境界部であり裂開部である。そこは、世の霊力が現われ出るところだ。地下のスクは、ニーラスクであり、地上のスクは、グスクとよばれたことになる。

 
 

『うるまの島の古層―琉球弧の村と民俗』


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2016/02/08

奥武島ブルー 3

 久米島沖の奥武について書かれたおもろ。

でわんおぎもしなわが節
11-608(53)

一 かさす若てだに
  御み神酒 ぬき上げ
又 真物若てだに
又 奥武の浜崎に
又 奥武のいふ崎に
又 弟松鳴響たる
又 兄のおや思い(→1426)

一 かさすわかてたに
  御みしやく ぬきあけ
又 まもんわかてたに
又 あふのはまさきに
又 あふのいふさきに
又 おとゝまちとよたる
又 せざのおやおもい

 「かさす若てだ」のいる「奥武の浜崎に」、「御みしやく」を捧げる。

 これは、奥武島が「あの世」の島であることを示している。「あの世」の島だったから聖地となった例だ。

 cf.「奥武島ブルー」「奥武島ブルー2」

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2016/02/07

『酒とシャーマン』(吉成直樹) 2

 吉成直樹の「しけ」に対する考察が、面白い。

15-1069(18)
きみがなしが節

一 伊祖の戦思い
  月の数 遊び立ち
  十百度 若てだ 栄せ
又 意地気戦思い
又 夏は しけち 盛る
又 冬は 御酒 盛る

一ゑそのいくさもい
  月のかす あすひたち
  ともゝと わかてた はやせ
又 いちへきいくさもい
又 なつは しけち もる
又 ふよは 御さけ もる

この言葉は「しけ-ち」と分けられます。みき(御酒)などの酒を意味する「き」は「ち」に変化しますから、「しけ-ち」の「ち」は「酒」を意味する「き」に違いありません。

 これは音韻の変化を見ても言いえる(sike-miki → sikeiki → siketi)。

 この「しけ」は何を意味するのか。吉成は、トカラ列島で神がかりすることを「しけがくる」と表現していることに結び付けている。

 神がかりすることは、精神状態が普通の状態から別の次元へと転移することと考えられます。酒を飲むことも同じです。酒を「しけ-ち」というのは、酒を飲むことによって、精神がそうした転移をもたらすことから、「しけ」という言葉を付したのではないでしょうか。

 これは的を射ていると思う。そして、夏の「しけち」、冬の「御酒」という区別は目を引く。意識の変性状態を生み出す季節として夏が考えられているように見える。

 「しけ」には「聖域」の意味もあるらしい。

 聖所。神の在所。対馬、穢れを嫌い、人の住むことの許されない聖地をシゲという(宮本常一・忘れられた日本人)が、これと関わるか。「しけ」は慣用化するうち「しけ~」で、「聖なる」の意が美称辞として使われるようになる。(『沖縄古語大辞典』)

 しかし、吉成は、「おもろそうし」で、「しけ」が聖地として単独で用いられることはなく、「しけうち」「しけち」「しけつ」「しけす」とあるのを明らかにしている。

「しけ」は聖地を指す言葉ではなく、「しけち」「しけつ」「しけす」が神がかりを意味する「しけ」にかかわる聖地だったのではないでしょうか。

 これもとても妥当な見解だと思う。「しけ」の意味は他にもある。

しらしよきなわが節
10-543(33)

一 聞ゑ鬼の君
  ゑ やれ しく しけ
  掛けて 漕がせ
  (後略)

一 きこゑおにのきみ
  ゑ やれ しく しけ
  かけて こかせ
  (後略)

 従来の役を退けて、「ゑ やれ」という漕ぎ手の掛け声が、「荒れた海(しく、しけ)」に対して向けられていると解している。

このおもろの「しく」も、ひょっとして「荒れた海」を指しているのではないでしょうか。そう考えますと「しけ」は今でも使用されている意味の通り、「しく」と同じく「荒れた海」ととることができます。

 しけ
 1.海が荒れること
 2.神がかること(しけがくる)
 3.「しけつ」などで、聖地
 4.「しけち」で意識の変性状態を生む酒

 この「しけ」の意味の根源は、「「世」の霊力があらわれる」ということになると思う。

 『酒とシャーマン』は、コンパクトで吉成も努めて分かりやすく書いているが、ヒントの詰まった、たまらなく魅力的な本だ。(cf.「『酒とシャーマン―「おもろさうし」を読む』とナ行音の前の撥音化」)


『酒とシャーマン―『おもろさうし』を読む』

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2016/02/06

「沖の島」の系譜

 地名における「沖の島」の系譜は、七島(cf.「沖の島」七つ)に加えて、池間島も挙げることができる。

 この八を、地名としての「沖の島」として、音韻の変化を捉えてみたい。崎山理によれば、オーストロネシア語の祖語系(PAN)の母音は、a,i,u,ə とされているので、琉球語の三母音発音でアプローチする。起点に置くのは、波照間島(パティルマ)。

1.加計呂麻島(カキルマ)

 patiruma → hatiruma → kakiruma
 [p→h, h→k]

2.鳩間島(パトゥマ)

 patiruma → patiuma → patuma
 [rの脱落, iu →u]

3.来間島(クリマ)

 patiruma → hatiruma → katiruma → kairuma → kurima
 [p→h, h→k, tの脱落, ai →u]

4.多良間島(タラマ)

 patiruma → hatiruma → atiruma →tiruma → tarama
 [p→h,語頭のhの脱落,語頭のaの脱落,i →a,u→a]

5.慶良間島(ギルマ)

 patiruma → hatiruma → atiruma → agiruma → giruma
 [p→h, 語頭のhの脱落、語頭のaの脱落,t→g,]

6.池間島(イキマ)

 patiruma → hatiruma → atiruma → agiruma → ikiuma → ikima
 [p→h, 語頭のhの脱落,t→g,g→k,rの脱落,a→i,iu→i]

7.古宇利島(フィフィ)

 patiruma → hatiruma → hairuma → haiuma → haiua → hui
 [p→h, tの脱落,mの脱落,rの脱落,語尾uaの脱落,a→u,]

 つまり、この場合、古宇利島とは、沖の、そのまた沖の島という意味だ。


変化を整理すると、

1.子音の変化

p→h(6)
h→k(2)
t→g(2)
g→k(1)

2.語頭の脱落

hの脱落(3)
aの脱落(2)

3.母音に挟まれた音の脱落

tの脱落(2)
mの脱落(1)
rの脱落(3)

4.母音の変化

a→i(1)
a→u(1)
i →a(1)
ai →u(1)
iu→i(1)
iu →u(1)
ua→u(1)

 hの脱落は、崎山も「音変化の法則」で指摘しているので、ありうるのが分かる(「日本語の混合的特徴―オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化」)。どう理解していいのか、よく分からないのは、母音の変化だ。多くは、子音の脱落にともなって多重化しているものなので、母音だけ取り出して考えるべきではないのかもしれない。それにしても、自在にもみえる三母音化の行き交いは戸惑う。

 このなかで、不明点の強弱で分類すると、

1.不明点・弱

加計呂麻島、鳩間島

2.不明点・中

来間島、慶良間島

3.不明点・強

多良間島、池間島、古宇利島

 となるだろうか。しかし、それによりも「沖の島」としての地勢が同一であるのに目が行ってしまう。島名の幅が生まれるひとつの要因は、差異化の意識だと思える。

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2016/02/05

オー(オボツ)地名・葬地・あの世

 「オー(オボツ)地名」と「葬地」、「あの世」の関係を集合で表してみる。「あの世」とは、「移行」の段階の、近くの「あの世」を指す。


Photo


a:「オー(オボツ)地名」で、「葬地」でも「あの世」でもない。

 ありうる。ex.玉城沖の奥武島。

b:「葬地」だが、「オー(オボツ)地名」でも、「あの世」でもない。

 ありうる。風葬場。

c:「あの世」だが、「オー(オボツ)地名」でも、「葬地」でもない。

 ありうる。ex.久高島

d:「オー(オボツ)地名」かつ「葬地」だが、「あの世」ではない。

 ありうる。しかし、地先の島や近くの山が葬地の場合、そこは「あの世」と見なせるのかもしれない。

e:「オー(オボツ)地名」かつ「あの世」だが、「葬地」ではない。

 ありうる。ex.阿嘉島の沖合の岩場の「奥武ノ大地御嶽」

f:「葬地」かつ「あの世」だが、「オー(オボツ)地名」ではない。

 ありうる。

g「オー(オボツ)地名」かつ「葬地」かつ「あの世」。

 ありうる。本部半島のつけ根の奥武島。


 こうしてみると、d(「オー(オボツ)地名」かつ「葬地」だが、「あの世」ではない。)は、実態としてはないかもしれないが、理論的にはありうるケースだと考えられる。

 また、上記以外に、「あの世」であったことが、「聖地」化を必然化するかどうかは、別に考えなければならない。


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2016/02/04

オボツと奥武

 崎山理は、「青」の語源は、「中空」を意味する *awang 、「アワ」であると指摘していた(「日本語の混合的特徴:オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化」2012)。「アワ(淡)」から「アヲ(青)」だ。

 今回は、意味ではなく音韻の変化に着目してみる。また、崎山は、オーストロネシア語族の祖語の母音は、(a,i,u,ə)としているので、(a,i,u)の三母音を軸に考えてみる。すると、まず、awo は、awu として展開される。

 awa → awu → abu → afu → au 奥武(オー)

 awa → awu → abu → nbu → ubu オボツ(ツは格助詞「の」として)

 奥武(オ-)について、「アワ」は、「アヲ」となった後に、「アボ」へと転訛した。私を指す、「ワ」が「バ」へと転訛することがあるように(それは琉球語に限らないようで、崎山は *awang の変化例として、サモア語の、ava「間」を挙げている)。次に、三母音化と清音化で「アフ」となり、母音に挟まれた f が脱落して au が長音化した。

 吉成直樹は、オボツは、地域によっては、「オボツ」を「ボッ」、オボツ山を「ボッヤマ」と呼んでおり、「ボツ」が語根であると考えざるを得ない」(『琉球民俗の底流』)と指摘している。それにならい、また「ツ」を「山」に続けるための格助詞「の」とみなすと、「アワ」が「アヲ」へ転訛したあとに、濁音化し、次に、語頭の母音が脱落すると、「ボ」が得られる。

 素人の音遊びみたいで気が引けるが、どうせだからもう少し続けると、abo の語頭の母音が脱落すると、mbo のように、語頭にN音を引きずる。これが、次に、o(u)を引き寄せて、「オボ」となったり、三母音化して「ウブ」となったりしたのではないだろうか。


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2016/02/03

書評『珊瑚礁の思考』(「南海日日新聞」)

 1月30日の「南海日日新聞」に『珊瑚礁の思考』の書評が掲載された。奄美の地方紙だし、目に触れることのない人も多いので、ここに引用して、ぼくのコメントを付けておきたい。

 「斬新、ナイーブな南島論(須山聡)」

 本書は琉球弧に暮らす人びとのあり方と世界観(著者の言葉では「野生の精神」、レヴィ=ストロースのパクリか)を、南太平洋諸島における民族学・文化人類学・考古学の業績を参照しながら、琉球弧に残る儀礼や伝承から見いだそうとする試みである。

 文化人類学・日本民俗学の分やでは「南島論」は独自の地位を占める。しかし、研究者の過半は本土の人で、日本の原郷を南島とする構図からなかなか抜け出せないまま(柳田国男の呪縛でもある)、研究が蓄積されてきた。著者はアカデミズムからは一線を画し、琉球弧の視点に立ち、琉球弧の人びとの心象を探り出そうとしている。いわば「地元からの南島論」と本書を位置づけることができよう。

 最後まで読んで分かった。本書は前著「奄美自立論」に続く、著者の「自分さがし」の本なのだと。琉球侵攻以降400年余の奄美を、前著では「失語」という言葉で総括した著者は、後味が悪かったのだろう。本来の奄美の姿を、さらに遡った時代の心に求めたかったのだと。琉球弧とくるめた言い方をしているが、著者の視線は奄美、さらには与論に向けられている。琉球王国が支配する以前の奄美については、史料や文献がほぼ皆無である。その意味においては15世紀以前の奄美もまた、失語の霧の彼方にあるが、文字なき時代にこそ、本来の精神が息づいていたと著者は考えた。

 本書の支柱となるのは、「霊力思考」と「霊魂思考」という二つの心のあり方である。霊力思考がすがた・かたちをとらえ、ぼんやりとした類似性にとどまっているのに対し、霊魂思考はメカニズムや秩序を指向し、しくみ・しかけを見いだす。霊力思考は時代を経て霊魂思考に置き換えられるが、それは完全な入れ替えではなく、両者は地域的・じだいてきに強弱をともないつつ併存する。二つの考え方が織物のように綾をなし、それぞれの地域の精神を形作ると著者は言う。人間の世界認識一般を理解する上で、評者にはこの二つの思考形態がとても魅力的である。奄美や琉球弧という限定性を取り払っても有効な、普遍性をもつアイデアであるとい思う(ネーミングに難ありとは思うが)。

 評者は、本書を読むに当たってタイヘンな思いをした。本書の主語は、全編通じて「わたしたち」である。著者は読者の理解に寄り添って語りかける優しい人なのだと思い(実際、著者は寛容な人で、姜尚中を彷彿とさせる)、気をよくしつつ本書を読み進めた。ところがこの一人称複数形は、時として「与論島のわたしたち」「奄美群島のわたしたち」に横滑りして(そんなことを著者はイチイチ注釈しない)、「読者である私たち」を置き去りにする(多分、著者は気づいていない)。著者である「わたし」はブレないのだが、「たち」の範囲は大きく振幅する。

 「たち」の揺らぎに翻弄されることが、ナイチの人間には悔しい。シマで生まれ育った人には、いちいち腑に落ちるエピソードが満載なんだろうな、数十年前の儀礼を見たり、祖父母から昔話を聞いた人には「あるある」なネタがてんこ盛りなんだろうな、この本・・・。暗黙のうちに琉球弧や奄美が共同幻想化され、それを前提に思索が展開されているのに、評者はそれを身体感覚として理解できないし、ついて行けない。いや、文句を言いたいのではなく、琉球弧の共同幻想に自分が組み込まれていないことを寂しく思っただけえだる。斬新でナイーブな、新たな南島論の誕生を喜びたい。(駒澤大学教授・人文地理学)

 まずは、書評者には感謝したい。厚めの本であり、書評を書き起こすにも相応の労力がかかるものだと思う。

 「地元発の南島論」というのは、ぼくもそのつもりで書いた。なにしろ、ぼく自身が「地元発の南島論」を待望していたのだから。自分がその書き手になるとは思ってもみなかったが、そういう意味では、自分が読みたい本を書いたことになる。

 「自分さがし」のところでは笑ってしまった。たしかに、アイデンティティを追求しているには違いないが、それを前面に出したものではない。他人の「自分探し」を読まされるのははた迷惑なのだから、ここは本書のために断っておきたい。それに「自分さがし」というより、「わたしたち探し」と言ったほうがいい。また、アイデンティティ追求といっても、それは根本的なモチーフではない。それがとてもシンプルで、文字を持たなかった島人のように感じ、世界を見てみたい。もしその時代の島人が目の前に現われて、話し通じる奴になりたいということ。それに尽きる。

 奄美を「失語」と形容したのは後味が悪いといことはない。静かにゆるやかに克服されている面もあるが、基本的に「失語」を呼ぶ構造は変わっていないと思っている。また、「わたしたち」の振幅について、「著者が気づいていない」ということもない。気づかれるかなと思っていたら、案の定、担当編集者からも指摘されて、部分的に「わたしたち」には限定を加えたが、本当はそれをしたくなかった。空間で区切れば、「わたしたち」は琉球弧になるが、時間の深層をたどれば、本土や太平洋の諸島にも届く「わたしたち」になると考えたからだ。ぼくとしては、「おいでおいで」をしているつもりなのだ。もっとも、それがうまくいっているかどうかは別にして。日本語の書物では、しばしば自分たちのことはカウントされていないことを感じずには読むことができず、果てはカウントされていないことを前提に読むようになる経験を味わってきた立場なのだから、気づかずに書くはずはないのだ。


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2016/02/02

2/14開催。『珊瑚礁の思考』刊行記念トークセッション

(※告知としてしばらくトップに表示します。日々の更新は、次の記事に掲載されています。) 

 2月14日、那覇ジュンク堂で、『珊瑚礁の思考』の刊行記念トークセッションを行ないます。

 トークセッションでは、ボーダーインクの新城和博さんにお相手を勤めていただきます。ぼくは、1989年の『おきなわキーワードコラムブック』以来、城さんの読者なので、そのような方の胸を借りられること、とても光栄です。

 バレンタインの午後3時。那覇にいらっしゃる方はぜひ、お立ち寄りください。

「珊瑚礁の思考とは?」

◇琉球弧の死生観◇

貝塚(縄文)時代、ニライカナイは海の彼方ではなかった。島人の信仰も祖先崇拝ではなかった。島人や沖縄に惹かれる人が、島では「この世」と「あの世」が近い気がするのには理由がある。文字を持たなかった時代の島人は、今とは違う観方で、世界を、生と死を見つめていたのだ。

[出演]
喜山荘一(『珊瑚礁の思考』著者、マーケター)
新城和博(ボーダーインク)

[日時] 2016年02月14日(日) 午後3時から

[入場] 無料

[会場] ジュンク堂書店那覇店 地下1Fイベント会場
    沖縄県那覇市牧志1-19-29 D-NAHA B1F-3F

[お問合せ] ジュンク堂書店那覇店
      TEL: 098-860-7175(代表)

[主催] ジュンク堂書店那覇店 案内ページ
[協力] 藤原書店 案内ページ

『珊瑚礁の思考 〔琉球弧から太平洋へ〕』

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2016/02/01

アマンの神話公式

 レヴィ=ストロースの神話公式の練習に、アマンが身をやつす過程を描いてみる。テキスト文字だけでは、表記に不備が出るのは仕方ないとして。

 Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)

 F トーテム(アマン):F カミ(死者)=F 神(死者):F アマン-1(神の使い)

 はじめ、「アマン」は「トーテム」という機能を持ち、「死者」は精霊としての「カミ」の機能を担っていた。しかし、「トーテム」の位置に「神」が置き換えられると、「死者」は「カミ」の機能を手に入れ、「アマン」は表舞台から消えて(アマン-1)、「神の使い」等の機能が前面にあらわれてくる。

 もうひとつ。

 F あの世(カミの島):F 始原(ニーラスク)=F あの世(ニライカナイ):F カミの島-1(作物などの始まり)

 はじめ、「カミの島」は「あの世」という機能を持ち、ニーラスクは世界の「始原」の機能を持っていたが、ニーラスクがニライカナイとして、遠隔化された「あの世」になると、「カミの島」はその機能を退かせて、「作物の始まり」などの機能が言われるようになる。

 F あの世(カミの島):F 胞衣(サンゴ礁)=F あの世との境界(サンゴ礁):F カミの島-1(胞衣)

 はじめ、「カミの島」は「あの世」という機能を持ち、サンゴ礁は「胞衣」の機能を持っていたが、ニライカナイが生れ、サンゴ礁が「あの世」との境界になると、「カミの島」はその機能を退かせて、「胞衣」の機能を持つようになる。これはちょっと苦しいかな。

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