「子は「ニライ・カナイ」からの授かり」(仲松弥秀)
仲松弥秀は、「「イノー」の民俗」の「子は「ニライ・カナイ」からの授かり」の項で、「子授かり」の祈願をした場所を挙げている。
瀬長島、沖縄島南部の東海岸のヤハラヅカサ(聖地)、辺野嘉、宮古島平良市の荷加取の眞玉御嶽、下地の赤名宮やツヌヂ御嶽。伊良部島の小浜御嶽。
奄美大島北部の秋名(秋名マンカイで有名)では、子供は波打際から、または浜のアダン樹の茂みから拾って来たと。古仁屋では海から、川口からと、請島の池地では、小ツボに乗って来たのを渚でと、与路島では波打際に漂うている小舟の中からと語る。
ここで仲松は谷川健一が、「このような波打際近くに産屋が設けられたのは、そこが常世ともっとも近い場所だったからと答える外はない」と書いたのを引用している。
ぼくは前に、「古代になぎさに産屋を作った」のは、誤解ではないかと書いた(cf.「産小屋の底になぎさの砂を敷く」)。浜辺近くに家屋がない場合、無理があると思ったからだ。
改めて「南島産育資料」(酒井卯作)をみても、渚に産屋を建てた例も、産小屋の底になぎさの砂を敷く例も見当たらない。
だから、豊玉姫が海辺でウガヤフキアエズノミコトを産んだとしても、それをそのまま南島の習俗まで引き寄せるのは無理があると思える。
ただ、子は渚からという思考は確かにあっただろう。それを象徴的に儀礼化したのが、浜下りだ。海の彼方のニライカナイから子は授かったという思考を象徴的に儀礼化したものだ。
そしてそうだとしたら、浜下りの習俗は、他界の遠隔化のあとに生み出されたものであるとともに、蛇婿譚に示されるとおり、そこがトーテミズムとの別れにもなったことを示している。
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