波照間島のザン儀礼
国分直一が波照間島でのジュゴン儀礼について書いたのは、1978年が初出だと思う。
波照間では、ジュゴン狩の時には若者を船底にねかせ、若者をしてペニスをださしめ、藁でしばるという(北見俊夫氏の波照間での調査書きによる)。
『海上の道 論集』国分直一 編、大和書房、1978
以来、79年も同様で、
琉球波照間でジュゴンを猟穫する際、若者をサバニにねかせて男根を露呈させる呪術が北見俊夫によって採集されている。
「山と海をめぐる信仰」「どるめん No.15」1979
としている。ぼくが気になるのは、その北見俊夫のものになる出典情報だ。
海の動物の主が女性であることは、琉球波照間でのジュゴン狩りにおいて、若者をサバニ(小舟)の底にねかせて男根を露呈させる呪術が北見俊夫によって報告されている。西表島大原では正月に、一年中に猟穫したイノシシの下顎を海浜にならべて、竜宮の女神に送り返すという話を聞いている。
「基層的生活文化の構造」『風土と文化日本列島の位相』小学館 1986
しかし、8年後の86年においても、「報告されている」に留まり、北見がいつ、どこで報告したのかは明示されない。
北見俊夫氏は、波照間島で、ジュゴンを猟穫する際、若者をサバニにねかせて男根を露呈させる呪術があったという例を採集したという。この呪術は、山の神と男根のかかわりと同様、男根を提示することによって女性海神への手向けとし、よって豊漁を得ようとする営みにほかならない。
『熊野山海民俗考』野本寛一、人文書院、1990
90年に入り、引用する野本にいたっては、もはや伝聞情報になっている。
谷川健一の出典元不明について呆れている矢先なので、国分さんあなたまでも、と思いかけたが、北見本人の1986年の著作にようやく見つけることができた。時間をかけたので、引用しておきたい。
波照間島から沖縄本島やそれ以北へ航海するとき、石垣島の北西沖に進路をとる。観音崎を過ぎると、オモト連山が石崎で海に涯(は)てるあたり、川平部落北方の半島部に、南は仲間岳、北は獅子岳が双子丘の頭を並べ、崎枝部落の低地の彼方に、恰も乳首に似た姿をあらわす。船がこの位置にさしかかると同乗している初航海の男子に、年輩者が難題をもちかける。タマガイ(サザエに似た巻貝)に飯(ンボン)うぃ炊いて出せというのであり、これは出来ない相談なので裸にして陰茎を藁で括る。この海域には海辺聖地としてスグヂ御嶽という拝所があり、その祭神は竜宮紳を祀っている。与那国・西表・波照間などから北上する航路における一つの海域境界の間隔でとらえられている場所である。因みに、波照間島では、廻船でなくとも類似の呪いが漁撈の際行なわれる。ザンを獲るとき、一人が二人の青年を船底に寝かせ、陰茎を藁で括る。この呪いをしないと魚獲はないと信じられていた。海域境界以外にも、このような呪術的演戯が行なわれていたのである。(p.765)。
『日本海上交通史の研究 民俗文化史的考察』法政大学出版局、1986
北見は、ザン儀礼について、「筆者調査、昭和四六年」と記している。
ここでようやく本人の報告を得ることができたわけだ。少し調べてみると、1976年に同名の博士論文が出されているので、北見はそこでザン儀礼の報告をした。それを見る機会のあった国分は、「報告されている」と自分の文章で引用し、1986年の北見自身の出版まで、出典元は詳らかにしなかったことになる。で、野本は、北見本を知らないまま、国分の文章を引く形で伝聞情報化することになった。ことの経緯はこういうことになると思う。
この記録は重要だ。ザン儀礼が、成人儀礼を兼ねる形でありえたことを示唆しているからだ。国分が書いている西表島大原の、「猟穫したイノシシの下顎を海浜にならべ」る例も重要であり、国分は「聞いている」というだけではなく、詳細を書いてほしかったところだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント