カツオとサメのポジション
カツオとサメのポジションを確かめたい。
人は死ぬとアガロ(agalo)と呼ばれる霊になると考えられ、とくにカツオ釣の名手の死霊は、サメの形をし、人々の海上における安全と、海の幸カツオをもたらすとされている。(秋道智弥「カツオをめぐる習俗」『海から見た日本文化』)
棚瀬資料では、マライタ島では、アカロ('akalo)、マキラ島(サン・クリストバル)では、アダロ('adaro)とあるので、上記のアガロ(agalo)がどちらを指すのか分からなかったが、Encyclopedia of World Culturesをみると、「ancestral spirits (akalo, agalo, adalo)」とあるので、アカロ、アダロ、アガロは、音韻変化の範囲内にあるらしい。そこで、秋道の言うカツオ釣の名手の話は、両島に共通すると見なしておく。
この場合、サメがカツオを連れてくるということが、カツオ釣り名手が、カツオを釣るという行為と似ている、あるいは、サメがカツオを獲ることと、カツオ釣りがカツオを獲る行為とが同一視されていることになる。
『「物言う魚」たち』における、「彼らにとって、鰹は神そのものであるが、鮫は神の使い、ないし神と人間をつなぐ媒介者なのである」という後藤の文章が分かりにくいと前に書いた。それをほぐせるだろうか。
サメは、「祖先」であると同時に「神の使い」。
カツオは、「神」であると同時に、人間が「食べる」。そして、イニシエーションの対象。
この場合、「神」はより正確には「カミ」。「神の使い」と書くと、「神」が上位者に見えるから分かりにくいのかもしれない。
漁撈としては、カツオはサメを連れてくる。カミは、祖先を連れてくる。だから、「祖先」は、「カミ」と人間のあいだにいる。
ここで主客を逆転してみる。サメはカツオを連れてくる。祖先は、カミを連れてくる。だから、「祖先」は「カミ」と人間を媒介してくれる。カツオ釣り名人とサメが同一視されるのは、この主客逆転の方に合っている。
またここで、ダベンポートが、カツオは一般的な魚ではなく、神聖な魚であり、獲るのはとても大変と書いていたことも思い出される。
「神の使い」という意味を、神の指示に従う者ではなく、神に随伴するという意味に捉えれば、受け取りやすくなる。ここでの、カツオは、サメに対しても人間に対しても非対称性を強めていないはずだから、こういう理解で妥当なのかもしれない。サメはカミと供だっている祖先だ。
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