スク・シヌグ・ウンジャミ
高阪薫は、谷川健一が安田のシヌグで、植物に身をまとった男たちが「スクナレースクスク」と唱和するのを、「スク直れ」、「スク魚寄れ」とみなし、「スクがたくさん寄ってきてほしい」という意味に解したのに疑問を投げかけている(「「海神祭の由来」への一疑問--安田のスクは魚かどうか」1992、「甲南大学紀要. 文学編」)。
高阪は、グスクのスクと同源で、スクを「聖域」と解し、「聖域に直れ」という意味に採っている。山の神の精霊に関わるものだから、少なくとも「スクナレースクスク」は、スク祭やウンジャミとは関係がないのではないか、と。
両者の見解を包含する視点は設けることができる。
まず、酒井卯作は「年折目試論-ウンジャミとシヌグについて-」(「南島研究」1)で、はっとする見解を出している。
奄美では、二月のはじめにナルコ、テルコを迎え、四月にお送りをする。もともと奄美では、三八月といって、アラシツ、シバサシ、ドンガの盛大な三つの行事が八月に行われる。
これはテルコ神ナルコ神の送迎祭とは無関係のような印象を受けるが、これらの行事はそれぞれ別個の行事ではなく、おそらく本来はひとつながりの行事であったにちがいない。
酒井は、「南島は祖先崇拝の熱烈な土地だから、島津の干渉で、なるべく盆行事の方にこれをもっていったのではないか」という柳田國男の言葉を思い出す。奄美の神の送迎の間隔が二ヵ月あるのも、当時の時間間隔からすれば当然であり、むろもっと長くても不自然ではない。「むしろシヌグで迎えた祖神を、ウンジャミに送るというのが本筋」ではないかと酒井は見なしている。
つまり、シヌグとウンジャミは、もともと一体のものだったのが、一回ずつ行なわれ、隔年になったと考えるわけだ。これはシヌグの謎を解く上で重要な視点だと思う。
こう解すればすれば、高阪の、「スクナレー」は山の神に関するシヌグで使われるはずだがないという疑問は解消される。もともとシヌグとウンジャミは一体のものと見なせば。
もうひとつは、スクは「聖域」という高阪の見解だが、魚の「スク」の語源が、「聖域」としても「スク」から来ていると見なせば、スク=魚=聖域となって、ここでも高阪の疑問は解けることになる。
もっともこれに頷くかどうかは別の問題で、ぼくもこの理解は、あまりにおあつらえ向きではないかと思える。しかし、抗しがたい魅力があるのも確かなのだ。
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