高神と移動の天界
高神の観念が生まれたところでは、天の他界が発生するのは想像しやすい。棚瀬襄爾は、天界にはこの他の系列があり、それには「階層観念の存在が特色をなす(p.813『他界観念の原始形態』)と指摘した。また、ポリネシアに見られる階層の観念は、中央アジアやシベリアに分布する天の階層と同一系統であることも指摘している。
そして、「なにゆえ天の階層という観念が生れたか(p.819)」という疑問を発する。シュミットはこれを社会階級の反映とみたが、棚瀬はこれに対して、それだけでは説明できず、「そこには思弁の余地を認めなければなるまい」と書いている。
棚瀬の疑問に対する解答は、後藤明がダッドレイの考えを引く形で鮮やかに示している。人々が「近いオセアニア」を移動しつつあったときは、次の島、目標の島は見えていた。ところが、ところが「遠いオセアニア」に入るとそれは不可能になった。そのため、目標を目で見て行なう方法から、星を見て方向を推測する方法へ。つまり、見えないものをみる方法である。
人々は東からの向かい風に逆らって航海した。そのため、東ないし北へ向かって航海することを登る、逆に南および西に航海することを降りる、と表現する。だからその航海は日の出ずる場所に向かう水平移動であると同時に、天に向かう垂直移動でもあった。水平線を見れば、空と海が交わっている。しかしそこに辿り着くとまたその先に空がある。人々は大海原に時おり架かる虹を見て、世界も虹のように層をなしていると考えた。今見えている水平線まで辿り着けば、天空界の第一に辿り着く。その先には第二、第三の層があると。
一方、自分たちがやってきた西の土地は、しだいに水平線に消え、海の底に沈む。このような海底の根元がポーという概念である。所によっては、海底の岩や泥が創世神話の出発点になっているのはこのためである。それは海の生命の輪廻を目の当たりにしてきた彼らの生活観が重ねあわされているのはいうまでもない。(p.49)
つまり、島が見えない場所での海の移動だ。後藤はツアモツ諸島の世界観の図を引用している。
棚瀬の『他界観念の原始形態』を参照すると、ツアモツ諸島人の他界は、天界と地下に分かれている。そして、社会階層や善悪の行為によって分かれるとされている。いずれにしても天界があるといっても、ここに高神は存在しない。彼らがもともと原始農耕民であったとすれば、社会階層や善悪の概念の発生によって、もともと持っていた天界の階層が他界に付加されたと考えることができる。
彼らの「ポー」という概念を見れば、地下他界だからといって、暗い世界とは限らないこともよく分かる。
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